携帯と家の鍵を手に持ち、サンダルを履いて玄関のドアノブに手をかけたところで、夜分の薬を飲み忘れていたことを思い出した。
サンダルを脱ぎ捨て、冷蔵庫から飲みかけのペットボトルを取り出し部屋に戻る。薬の入っている袋からワンシート取り出す。横に二列、縦に七列、一週間分がワンシートに収まっていて、一番上の左が日曜日の朝分、一番上の右が日曜日の夜分というように上から順に毎日忘れないように飲んでいる。夜分を水と飲み込み、袋にシートを戻す。
玄関を出て、隣の部屋のインターフォンを鳴らす。いつもの「どうぞー」という返事がない。葵さんはまだ帰ってきていない。一度部屋に戻って葵さんが帰ってきてから出直そうかと思ったけれど、ここで待つことにする。
葵さんの部屋の前にしゃがみ、Twitterのタイムラインを流し見する。男女のしょうもない喧嘩ばかり流れてくる。こんなの見ても何にもならないと分かっていながら、盛り上がっているツイートの返信欄を見るのをやめられない。結論の出ない大人たちの言い争いを見ていると簡単に時間を潰せる。
階段をゆっくりと上がってくる足音が聞こえる。葵さんが帰ってきた。流石に部屋の前にしゃがみこんで待ち伏せされていたら気持ち悪いと思われるかなと思って立ち上がる。どちらにしろ待ち伏せには違いないけれど、きっと葵さんは気持ちわるいところまで可愛いと許してくれるはず。金色の丸い頭が見えてきて、その後すぐにクーリッシュを咥えた葵さんと目が合った。
「おつかれさまです」
「夏帆ちゃんこんばんは」
犬の口元によく似たふにゃんとした唇がゆっくりと動く。葵さんの声は、何度聴いても想像より柔らかく甘くのんびりとしている。金色に染められた前髪の間からきゅっと持ち上げられた涙袋が覗いた。葵さんはいつも通り、黒いタンクトップに通気性の良さそうなてろんとしたパーカーを羽織っている。今日も夜遅くまで稽古があったのだろう。伸びてきた襟足だけ後ろでひとつにちょこんと縛ってある。私は「葵さん髪の毛伸びましたね」と言いながら毛先に触れた。可愛らしい丸っこくちいさい金色の毛先を見て、昔実家で飼っていたキンクマハムスターのきなこの丸い背中を思い出す。葵さんは「ね、のびたよね」と言いながら振り向いて、食べかけのクーリッシュを私の口に咥えさせた。
「もう後少しだから全部あげる」
葵さんは、子どもみたいに笑って私の口の中に生ぬるいクーリッシュをぎゅっと押し出した。歯磨き粉のミントの匂いとほんのり甘いミルクの匂いが口内で混ざる。
「歯磨きしてきたのに」
「予備の歯ブラシあるから大丈夫」
葵さんから結露で濡れているクーリッシュを受け取り、ぬるく甘い解けかけのアイスクリームを吸う。葵さんは、背負っていたリュックを前に抱き、ごそごそと家の鍵を探している。底の方からしんなりとしたうさぎのマスコットが鍵と一緒に出てきて、葵さんは「あったあった」と呟きながら玄関の鍵を開けた。
葵さんはドアを開けて「どうぞー」と私を先に部屋へ入れた。葵さんの香水を薄めた匂いのする蒸し暑い空気の中に体ごと飛び込む。玄関には空き缶やビンを袋にまとめて置いてあり、明日が燃えないゴミの日だということを思い出す。
「あちぃー。夏帆ちゃんエアコン付けてくれる?」
葵さんは洗面所に向かいながら私に指示する。ガラスのローテーブルに置いてあるリモコンを手に取り、緑色のボタンを押すとすぐに頭上から涼しい風が流れ落ちてきた。部屋中に置いてある観葉植物がエアコンの風に吹かれてゆらゆらと揺れる。台所でクーリッシュの中身を水洗いし、ゴミ箱に捨てた。
「じゃあ私シャワー浴びてくるからちょっと待っててね」
「えー、だめですよ。私が寝てからにしてください」
洗面所から顔をのぞかせている葵さんは目を閉じて頭をのんびりと左右に振る。今にも寝てしまいそうな表情に頬が緩む。私は、嫌がる葵さんの手を引いてすのこの上に置かれたマットレスに座らせた。
「だめだめ。まだ寝ないよ。汗かいたからシャワー浴びさせて」
「私明日ゼミの日なんです。しかも発表しないといけない日。もう寝ないと……あ、もう12時だ……寝坊しちゃう……」
「じゃあここで見といてあげるから。はい、いいよ寝てください」
葵さんはマットレスをぽんぽんと叩き、私に寝転ぶよう促す。仕方なく私だけ横になり目を閉じた。薄い掛布団が掛けられ、葵さんの匂いに包まれる。
「あ、そうだ夏帆ちゃん歯磨きしなくていいの」
「忘れてたー。します」
「もう寝てるじゃん」
「寝てません」
葵さんは「よいしょ」とつぶやいて立ちあがり、洗面所に消えていった。
「戻ってきてください。寂しいよー」
「歯ブラシ持ってくるだけだよー」
布団を頭の上まで深くかぶり直し、深呼吸する。暗闇と静寂の中に一人でいる時、いつも漠然とした不安に襲われる。
今ここで大地震が起きたらどうしようとか、窓を割って殺人鬼が入ってきたらどうしようとか自分ではどうすることもできないことを想像してしまう。あとはもっと身近な小さいスケールの悩みも次から次へと生まれる。私って社会から必要とされる存在なのだろうかとか、あの子の方が私より可愛くてコミュニケーション力もあって社会人になってもああいう人が活躍できるんだろうなとか、昨日言われたあれってこういう意味なのかなとか、そもそも何で私は悩んでばかりで何もできないんだろうとか。でも、この布団の中にいる時だけはそんな心配はしなくていい。ただ、眠気に身を任せて目を閉じていられる。
葵さんの足音が近づいてくる。「よいしょ」という小さな声は、マットレスの揺れと一緒に揺れた。
布団を顎の下まで下げられ、後頭部に柔らかな手が差し込まれる。脱力して手のひらに頭を預けると、弾力のある筋肉の上に着地した。
「はーい、じゃあお口開けてください」
閉じたままの唇を歯ブラシでトントンとノックされる。唇に当たる歯ブラシの感触がくすぐったくて我慢できずに笑ってしまう。
「今なら磨いてあげるから」
目は閉じたまま、口だけ開ける。口を大きく開けた自分の姿を天井から見下ろしている映像が頭の中で再生され、あまりの無防備さにまた笑いそうになる。葵さんに歯ブラシで喉を突かれるところを想像する。葵さんになら何をされてもいい。
「夏帆ちゃんの前歯の歯並び、私と似てる。ちょっと内側に向いてるんだよね」
シャカシャカ鳴っていた歯ブラシの細かい動きが止まり、前歯2本の表面をゆっくりと意味無く歯ブラシが滑る。それがなんだかくすぐったくて、口を閉じて笑ってしまう。目を開けると、LEDライトの眩しさにぼやける視界の真ん中で左の口角だけを上げて笑う葵さんがいた。
「はい、おわり。うがいしに行こ」
葵さんは、私の頭を置いてすたすたと洗面所に歩いて行ってしまった。洗面所から私の名前を呼ばれる。重たい体を起こし、ミント味の液体を口の中に含んだまま洗面所へ向かう。葵さんに水の入ったコップを渡されて、口をゆすいだ。水を吐き出す時、歯磨き粉と唾液が混ざって糸を引いているのを見られるのが恥ずかしい。口の中を見られるのは何とも思わないのに、口から出てくるものは見られたくない。私はいつまでたっても葵さんには見せたい部分しか見せていない。見せられる部分じゃなくて、見せたい部分だけ。だから、口の中は見られてもいい、じゃなくて見せたいのなのかもしれない。
コップをフックにかけ、葵さんに口の周りを拭いてもらう。
葵さんの手を引いて布団へ戻る。私が布団の中に入ると、葵さんは部屋の電気を消した。
「隣来てください。眠れないです」
「しょうがないなあ」
葵さんの枕から壁側の自分の枕に頭を移動させ、布団を少しめくって待機する。葵さんは布団の端に腰を掛け、ゆっくりと布団の中に入ってきた。私達はいつものように自然と向き合い、私は葵さんの脇の下へ入り込み定位置につく。葵さんのやわらかい胸の真ん中で深く息を吸う。もっと近づきたくて、葵さんの背中に手をまわした。柔軟剤と汗が混ざった甘ったるくあたたかい匂いに意識が遠のいていく。いつも気づいたら朝になっている。せっかくの葵さんとの時間がもったいない。
「眠れそう?」
のんびりと引き伸ばされた声に、うなずいて返事をする。
「よかった」
葵さんは、私の頭を抱き寄せて優しく髪の毛をとかしてくれる。長く伸ばした髪は毛先が痛んでいて、葵さんの指に絡まった。葵さんは、私の固く結ばれてしまった毛先を左手で一本一本器用にほどいていく。
「あ、夏帆ちゃん夜の薬飲んできた?」
「のんだ」
「えらい」
薬を飲んだだけで褒めてもらえる。葵さんは何をしたら私のことを突き放すのだろう。去年の冬、お風呂に入れなくて外に出られなくなって、食器も洗えなくて洗濯もできなくて部屋に眠るスペースがなくなって体操座りで眠っていた時の私に早くおしえてあげたい。自分のことを許せなくても、葵さんが許してくれるなら何でもいいし、むしろ自分で自分を許すとかじゃなくて最初から誰かに許してもらいたかっただけだ。
「明日休みですか?」
「休みだよ」
「朝ごはん一緒に食べたいです」
「もちろん。おにぎりとお味噌汁つくろうね」
葵さんを見上げて、暗闇の中、喜びの表情を見せつける。すぐに葵さんの手のひらに頬を包み込まれる。
「夏帆ちゃんおやすみなさい」
葵さんの親指は、私の目頭から目尻に向かって滑った。
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