グラフ婆様

森水

小説

3,432文字

Nミの祖母はグラフに忠実らしい。……というエラー記録

 Nミは愈々苦労を覚えていた。物心ついた時から一緒の家で、たった二人で暮らしてきたおばあちゃんは、もうNミが大人になるこの頃には、頭がボケ始めていたのである。

    Nミがいつものように洗濯物を取り入れて、「洗濯物、取り入れてきたよ」と念のために報告すると、その数十分後には「あら、今のうちに洗濯物取り入れておきな」と言われる。おばあちゃんが自らお茶を汲もうとするときに、棚の前をうろついて「コップ、どこにあったかしら」と、毎回聞いてくる。

    でも、そういうことを何度も毎日繰り返す苦労自体は、それほど辛く思わなかった。だから、Nミにとって……というより、自分以外の誰でもきっとそうではあるが、何より辛かったのは、自分の中に確かにある共有したはずの思い出を、急に無かったことのように言われるのが、悲しい、より怖いということであった。ただ幸い、それもまだ重度でない今は、深刻な悩みにはなっていない。進行すればいつか、とは思うけれど。

    でも、Nミは一つ、最近のおばあちゃんの言動だけが、あまりにも気になって仕方がなかった。というのも、おばあちゃんは最近よく迷子になっているようだった。道で、ではなく頭の中で。

    ある時はこうだった。おばあちゃんが椅子から腰を上げ、立ち上がり、どこかへ向かうのかと思いきや、そのままぼーっと立ち尽くしては、しばらく経つとこう言い始める。

「エックス70……ワイ20……ゼット……あら? エックス50……ううん、20。あら。あんどぅあんどぅあんどぅあんどぅ――」

  そうやって、ひとしきりブツブツと呟いた後、結局は元の椅子に座ってしまう。だが、その〝ひとしきり〟が毎度あまりに長くて、Nミが静かに本を読みたくても、容赦のなくそれなりに大きな声でずっと呟き続ける。はっきり言ってしまうと、Nミはそれが単純に迷惑であった。もっと酷く言ってしまうと〝うるさい〟。それに、今まで二十年近く一緒に生きてきて、気になるようで気になっていなかったことが、この件で露呈し始めているのも、この鬱陶しさに拍車をかけるようであった。

   実はNミ以前までおばあちゃんのことを、少し数学チックなことが好きな人だと思っていたのである。今でこそ、誰が見ていても分かるほどおばあちゃんは異常に見えるが、昔はそうでなかった。今思い返せば確かに、同じようなことを昔から言っていたけれど、あの時はあまり口には出していなかったからなのであろう、Nミはそこまでそれらの言動を気にとめなかったのである。

  さて……ちなみにまだおばあちゃんはブツブツ言っている。ただ、こういった時の対処法を、最近Nミは考えていた。

 「ねぇ、おばあちゃん。あの時買ってきたおせんべ、食べた?」

 「え? うーん。まだ食べてないけどね、どこにあるの」

 「ここにおいてあるから、食べてね」

 「ん。ありがとね」

  と、こういった感じで独り言を遮るようにして、会話を挟んでやると、何かがリセットされるのだろうか、ブツブツ言っていたのが一旦止まる。

 「はぁ」

  Nミはため息をついた。何度も言うが、Nミにとってこれは日常と化していた。でも、それでもふと、今一度考えたくなった。

 

  ・そもそもおばあちゃんがいつも言っている言葉はなんの意味があるの

  でもやっぱり、Nミは何となくこの問いの答えを解っているような気がしていた。おばあちゃんはよくアルファベットを言っているが、それは大抵〝X・Y・Z〟。この三つから思いつくこと、といえばあの、グラフなどでの数値に沿った立体的な動き。だからもしかすると、おばあちゃんの頭の中でもそんな立体的なグラフ構造が展開されているのではないか、と考えているのだが、少し飛躍しすぎているともまた思う。それでも、Nミは思った。

  ・異常ではある

 

  それから数日は経った。Nミは長い間整理をしていなかった押し入れを掃除していた。すると、あれやこれや懐かしいおもちゃが沢山見つかる。小学生の時に遊んでいたものから、赤ちゃんのときに遊んでいたものまで、多分全てここに今でも保管されているのである。

    Nミはそれらを物色しながら過去を懐かしんでいると、やがて一つのおもちゃが気になった。名前は後から調べたが、ルーピングというらしい、所謂何本か生えている、曲がったワイヤー状の細い棒にビーズを通して遊ぶ赤ちゃん向けの知育玩具である。まぁもし、これでも伝わらなければ各々で調べてほしい。

    では、どうしてこれが気になるのか。それも毎日おばあちゃんの所為で、頭にグラフの図を思い浮かべるからである。Nミはビーズを指でツツツと動かして、その動きを目で追った。こうやって見ると本当に真っ直ぐな直線と、何も複雑じゃない素直な曲線だけでできているものだ、とNミは思った。

     ……と言ってもNミはそれに関心したわけでなければ、楽しみを見出したわけでもない。だってそれは所詮赤ちゃん向けの玩具。だからNミもやがて思考を切り替えて、押し入れの掃除に戻ろうとしたのだが、ちょうどその時にNミは、とある妙案を思いついてしまった。

「ねぇおばあちゃん、さっきこれ、押し入れで見つけたの」

 そう言ってNミはルーピングを、テーブルの椅子に腰かけてお茶をしているおばあちゃんの目の前に置いた。すると、何も指示したわけではないのに、おばあちゃんは何と無しにであるとは思うが、それを弄り始めた。

「懐かしいよねそれ。正直私はその時の記憶なんてないけどさ」

「……」

「そういえば、私はほとんど覚えてないんだけど、丁度私があれくらいの時期に、犬飼ってたよね。さっきアルバムとかも見てたら、その子の写真もあってさ、持ってくるから後で見てよ、ね」

「……」

「……聞こえてる?」

 どうしてだろうか、ルーピングを弄り始めてから、おばあちゃんはなんと口を聞かなくなってしまった。Nミは不安になっておばあちゃんの様子を伺う。「やっぱりこんな実験のようなこと、下手にするんじゃなかったわ」と半ばNミは後悔しかけた。

    しかしその時、おばあちゃんは口を開いたかと思うと、誰に向けてでもないようなおぼつかない視線でゆっくりと直前を見て、ついにこう呟いた。

「イカン、あたし……爆発する……ア!」

 ――おばあちゃんが爆発した。それも……それも全くそれは比喩の類では無くて、本当に、文字の通りに爆発してしまった。

「え」

 それを今まさに見たNミは、ただ茫然とするばかりに立ち尽くしていた。けれど顔面に降りかかった鮮血が、頬を撫でて滴り落ち、口内に流れ込んだその時確かに感じた鉄臭い味に、嫌に意識がはっきりとしてしまったのだろう、Nミは突如奇声と呼べるほどの甲高い叫び声を上げた。そしてNミは、出せるものが無くなるまで嘔吐した。

    それからとにかく自分の心を落ち着けることを優先して、目を逸らすように方向を変えて、地面を這いながら少しずつ……少しずつ……少しずつ距離を取ろうと動いた。けれど、しばらくもしないうちにNミはその動きを止めた。Nミは思う、あれ?

「なんで私は今こんなに血だらけなの、でも何か理由があったはずで……すぐそこで私は……何に巻き込まれたの」

 Nミはまた背後へ振り返る。

「ヒッ、何このグチャグチャと血だまり。……え、本当に何、これは。どうしてこんなものがうちにあるの」

 Nミはまた嘔吐しかけたが、結局、空咳が出るのみだった。そしてNミは頭を抱えた。

「でも、確かに理由を解っている気がするのに、到底何も思い出せそうにない……どうしよう。これを何とかしてもらう時にだって、なんて人に説明すればいいのか分からないじゃない」

 そうして察しの通りではあるだろうが、Nミの脳内からは現在進行形でおばあちゃんとの記憶がだんだんと消去されていっていた。ただしその最中にも、記憶が消える不気味な感覚だけはNミも自覚していた。

やがて、その感覚にしばらく襲われてから数日が経ち、その残骸もやがて処理され、平穏が戻ったその時には、記憶の一部にもおばあちゃんは居なくなっていた。

    ――と、これが今回の報告として取り上げる、「とある家族の一例」である。とはいえこれは稀な例だけれど、少し軸がズレると、こうでもしなければ元には戻せないほどに、一人生の設計は扱いの難しい物である、ということは少なくとも覚えておく必要があるだろう。さらに細かく言えば、アルバムの写真はまだ消せていないように、完全には修正が効かないからだ。

    そしてもう誰もおばあちゃんを爆発させてはいけない。

2024年10月31日公開

© 2024 森水

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