画狂老人卍

破滅派21号「ノワール」応募作品

山本雨季

小説

5,168文字

画に狂える老人――その名は卍。天保から嘉永にかけて、卍と名乗る一人の天才絵師がいた。
――かつての葛飾北斎である。卍と応為は逃げていた。もう何度目になるだろうか。〔引っ越し〕という建前の所謂夜逃げだ。上弦の月が幽かに雲の中からその姿を覗かせる。明るすぎる夜――十一屋の放った破落戸どもが卍たちを襲う。

上弦の月が薄い雲から幽かにその姿を顕わにした。深夜にも拘らず、こんな日に限って夜が仄かに明るい。

――せめてもう少し闇が濃ければ。

応為おういは駆けながら思った。無論、ただ意味も無く夜道を駆けているわけではない。大八車を曳いて走っている。車には質素この上ない家財道具一式が積み込まれていた。商売道具である絵筆や絵の具もちゃんと忍ばせている。所謂夜逃げだ。借金取りに追われて首が廻らなくなり、逃亡せざるを得なくなった。

初めてのことではない。もう何度目の〔引っ越し〕になるのだろう。

大八車が矢鱈と重い。後ろから、応為の父親であるまんじが車を押して走っているはずなのだが、どうにも気配が怪しい。応為は後ろを振り向いた。

「おとっつぁんッ」

卍は車を押していなかった。そればかりか大八車の端にちょこんと座り、煙管を咥えて一服煙草を吸おうとしていたのである。

「すまねぇ。一寸ちょいと疲れちまったもんで」

「草臥れてンのは、おとっつぁんだけじゃアないんだからねッ」

応為は駆けるのを止め、卍から煙管を奪い取った。一服したいのはこちらだって同じだ。すぱすぱと卍の代わりに紫煙を燻らす。息が上がっていたところに煙を吸い込んだのが悪かったのか、うっかり大いに噎せ込んでしまった。それを見た卍が嗤う。応為は、ばつが悪くなって卍の尻をぺしりと叩いた。

「さあ、早いとこ行くよ」

「待て待て。儂にもちゃんと吸わせろや」

改めて新しい煙草を煙管に詰め込み、飽く迄も卍は一服しようとする。

卍は今年八十になった老爺である。もとより頑固で神経質な性格ではあったのだが、ともすれば歳を経て呑気になってしまったのか、それとも今回の件に関してのみ危機感が全く欠如してしまっているのか。兎に角、応為は気ばかりが急く。このままでは追っ手に追いつかれてしまう。

「いたぞ――じじいと応為だッ」

「逃すなッ。捕らえろ」

 

応為はどきりとした。咄嗟に辺りを見渡す。夜気を切り裂くが如く響き渡る無数のあしおとと男たちの喚き声。案の定、数多き追っ手たちの中でも大層具合の悪い連中に見つかってしまった。十一屋とっぴんや破落戸ごろつきどもに、大八車のぐるりを囲まれてしまったのである。

十一屋は江戸の版元であるのだが、まともな稼業をしているとは言い難い。こうして破落戸たちを飼っていることからも能く判る通り、ひとつ間違えばやくざ紛いの仕事にも手を染める限りなく灰色な版元である。しかしながら、単に気が乗らないなどといった個人的な問題であちらこちらの版元との約束を一方的に反故にし、仕事の踏み倒しを繰り返して来た卍にとっては、最早こうしたきな臭い相手との取引しか糊口を凌ぐ手立てがなかった。

にも拘らず、その十一屋との仕事にしても前金だけを借金同様に受け取ったまま、まだ卍は一切筆を執っていないという状態にあった。一向やる気が起こらぬらしいのだ。痺れを切らした十一屋側がこうして怒るのも無理はない。

「よくもとんずらしようとしてくれたな、この盗人爺ッ」

「うちの元締がお怒りになっている」

「しっかりと落とし前だけはつけさせてもらうぜ」

破落戸どもが口々に喚き散らし、匕首を抜いた。

よせば善いのに卍がこの状況下にあって、やれるもンならやってみやがれと啖呵を切った。

応為の背筋に冷たいものがはしる。大事おおごとになる故、流石にられはしないにしても、絵師の生命である腕の筋の一本や二本はお釈迦にされてしまうやも知れぬ。

「待っておくれな、十一屋さん」

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2024年5月11日公開

© 2024 山本雨季

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