何かのきっかけで植物状態から回復した患者の話を同僚から聞くことがある。家族が患者の名前を呼びながら手を握ったときや、思い出話を語りかけたときに意識を取り戻すといった内容だ。そのきっかけは患者の家族に限ったことではなく、看護師が病室のカーテンを開けて日の光を取り入れたときや、窓を開けて外気を取り込みながら「木々が色付き始めましたよ」とか「今日は冷えますね」といった患者に対して成るべく声を掛けるように書かれた看護師向けマニュアルに沿って、自分は何のためにこの人間を生かしているのか考えずにいられるよう発した言葉で植物状態の患者が意識を取り戻すことがあるらしい。
しかし、私はその機会に巡り合ったことがない。噂話をする同僚達も実際には経験していない。あたりまだ。確かに植物状態から意識を取り戻す患者はいるのだろう。だがそれは、数百人数千人の内の一人の奇跡が患者の家族に希望を与えるために誇張流布されただけであり、脳を損傷し赤黒く変色した前腕肘窩の静脈から栄養を取り込み、呼吸と排泄だけの生命活動を行う患者がそう簡単に意識を取り戻すはずがない。だから私はこの脳外科病棟の遷延性意識障害患者が意識を取り戻すことに期待して看護してはいない。
ベッドわきに備え付けられた尿の溜まったビニルパックを取り換える私の横で寝ている女は、排泄と医療モニタにバイタルサインを送ることだけで生きていることを示している。この十四歳の女は思春期特有の自分が特別な人間ではないからといった理由で生じた希死念慮によって、自分だけでなく思春期女特有のエンパシーで友人を取り込み、抱き合いながら四階建ての校舎屋上から飛び降りた。友人は校舎庭の花壇を囲うコンクリートブロックに頭から激突し、飛び散った血と脳漿でホワイトガーデンを色鮮やかに染めたが、この女は土に上に落ちたためにここにいる。脳挫傷により前頭葉を損傷するも、脳幹の健全性が保たれ、自立呼吸が可能で内臓に損傷がなかったためにここにいる。友人が死に自分だけが生き残ったことも知らずに、いや、意識を失う前に原形をとどめないほど損壊した友人の顔を見たかもしれないが、それが記憶に残ることなく私の前でだらしなく口を開いてベッドに横たわっている。
自立呼吸出来なければ家族も諦めがついただろう。しかし、家族は医師から意識が回復する可能性が低いと伝えられても、呼吸している娘を見て生かす選択をした。植物状態から回復した話を信じて、娘の生命維持装置を外す選択をした親と言われるのを嫌って、高額医療費制度を知って、この女の家族は娘を生かす選択をした。
娘の回復を願った家族は入院当初こそ毎日見舞いに来ていたが、ひと月を過ぎた頃から隔日になり、半年後には月に二度か三度、今ではいつ病室に訪れたか思い出せないほど来なくなった。それはこの女の家族に限ったことではない。多くの患者家族は時間が経つにつれ病室から足が遠のく。いくら懸命に話しかけても何の反応もない人間のもとに、自分の生活を犠牲にして通い続ける意味などないと気付くのだ。生かすか殺すか選択を求められたときには気づけなかったことを時間の流れと共に気がつくのである。悲しいときも辛いときも、その時間を共有することこそが家族のあるべき姿だと信じようとした努力もむなしく、病室で排泄するだけの人間を家族から物へと思うようになってしまう。
それは家族といったごく小さなコミュニティに限った問題ではない。この国の社会保障制度はこういった人間を生かすために多くの税金をつぎ込んでいる。この女を生かしている家族の負担は収入によって変わってくるが、高額医療制度によって月に数万円から多くて十万円程度だ。この女が十八歳になれば障害年金一級を取得できるため、月に十万円弱の非課税所得が家族に入ってくる。この人間ではなくなった、何も生み出さずにただ糞尿を垂れ流す物を所有するだけで金が入ってくるのだ。私はそんな遷延性意識障害患者を生かすために、床ずれが起きないように身体を移動させ、身体を洗い、糞尿の処理をして月々十数万円の賃金をもらう。そのことにいったい何の意味があるのだろうか。私が行っていることは国の金を無駄に浪費している患者や家族を助けているだけではないか。そんな考えが頭をもたげるようになった。
いっそ入院患者を殺してしまえばいいと思ったこともある。しかし、この国が抱える遷延性意識障害患者は一万人を超える。たとえ私がこの病院に入院している患者全てを殺しても、社会保障費に及ぼす影響は微々たるものだろうし、年々減り続けるこの国の人間が負担する費用は増え続ける一方だろう。殺人を犯した動機を唱えたところで社会保障制度自体が変わることはない。
私は新しいビニルパックをベッドわきに取り付けてから、家族の希望によりストーマをつけていない女の紙おむつ外し、尿道カテーテルを引き抜かないように注意して両足を持ち上げ、尻の周りに付いた汚物を拭き取り新しい紙おむつを履かせる。紙おむつが隠れるようにローブの端を膝まで下げて布団を掛ける。屎尿ケアを一通り終えた私は病室の窓際まで歩いて行き、カーテンを引いて窓を開けた。朝の空気が病室に入ってくる。私は振り返りベッドに寝ている女に向かって言った。
「匂うからね」
マニュアル通りに声を掛ける。そして空気が入れ替わるのを待っている間、窓枠に寄りかかり女を見つめていると、病室のスライドドアがゆっくりと開いた。病室に入って来たのはこの女の担当医師だ。医師はちらりと私を見て「おはよう」と言ってから女の寝ているベッドに向かって歩いて行く。私は医師の後ろ姿に挨拶を返したあと、窓を閉めて入口に向かって歩いて行く。すると医師はバイタルサインをカルテに書き込みながら「そういえば」と言って声を掛けてきた。
「今日も来ていなかったか?」
ここ数週間、医師と鉢合わせると必ず聞かれる質問だ。そして私の答えはいつも同じだ。
「今日も月経の兆候は見られませんでした」
「そうか、もう三か月来ていないな」
私に意見を求めた言葉ではない。私は「では失礼します」と言って病室の外に出る。低賃金重労働の看護士はいつまでたっても増えない。そのため男の看護士が女の患者を担当することが多くなった。その環境が私になすべきものを教えてくれた。次の患者の紙おむつにも経血が付いていないことを願いながら私は廊下を歩いて病室に向かう。
――了
A.anji 投稿者 | 2024-01-21 17:29
結局は読者の知的レベルの問題なのかもしれませんが、これが日常茶飯事に見えます。こんなことが日常茶飯事のわけがないと思いながらも、普段通りだなあという感じになります。作者の意図通り?狙い通り??小説の芸術性を垣間見た気がします。
曾根崎十三 投稿者 | 2024-01-26 10:40
胸くそ悪いという前振りがあったのでめちゃくちゃ覚悟して読みましたが、私はまだいけます。
こういう仕事をしていると、ある程度冷めた視点を持たねば身が保たないと思うので、リアルでどんよりとしていて、迫るものがありました。ただ、サイコパスなんだろうか?とは思いました。
河野沢雉 投稿者 | 2024-01-26 14:03
相模原障害者施設の事件を連想しました。確かに胸糞案件ですが、現実に似たような考えをもって似たような事件が起きているというのがもっと胸糞ですね。
ただ曾根崎さんと同じく、サイコパスなのかどうかはよくわかりませんでした。
松尾模糊 編集者 | 2024-01-26 19:46
生産性というやつですね。河野さんと同じく、相模原の事件を想起しました。病院の描写が手馴れてきた感がありますね。
眞山大知 投稿者 | 2024-01-27 07:48
タイトルが皮肉めいて好きです。
どうしても医療関係者は人間の命をこのような醒めた目線で見がちになってしまうのかなと思いました。
大猫 投稿者 | 2024-01-27 19:52
カラマーゾフの兄弟の4番目の弟は、知的障害のある娘が、強姦されたことも妊娠したことも何も知らずに産んだ子でした。
別にポリコレを主張するわけではないが、若い女性であるがゆえ、知らないうちに「生産性」を発揮することになったことに、すごい皮肉を感じます。
語り口は滑らかで分かりやすくて、もっと読んでいたい気分になります。作品の発展形として、この寝たきりの女の子が産んだ子供が天才児で、出産依頼が相次ぐ事態になるとかいいな。続きを書きませんか?
ヨゴロウザ 投稿者 | 2024-01-28 01:27
サイコパスというお題とは違う気がしましたが、面白かったです。諏訪さんのこの系統の作品いいですね。ちょっと前に辺見庸の『月』を読んだところだったのでそれを思い出しました。これをパイロット版として、あの事件の孕んでいた問題をテーマに据えた長編を書いてみてはいかがでしょう。
小林TKG 投稿者 | 2024-01-28 03:02
素晴らしい空気感。肌感。灰色の病院の壁とか床とか、照明も若干暗めの感じとか、そういう感じの想像をしました。まあ、実際は明るいし、灰色じゃないかもしれないけども。でもそれでも好き。
春風亭どれみ 投稿者 | 2024-01-28 15:24
医療によって、出来ることが増えた、でも不老不死なんて万能なものとは程遠い。今まで考える必要がなかった葛藤と選択を人々は迫られ、中には心にかさぶたをはるようになるものも、その機会が多い人ほど起こりうるものなのかもしれないなと感じました。
能田 麟太郎 投稿者 | 2024-01-28 23:28
いやあ、本当嫌な感じ。この短さで、この空気感と、ずしりとくるものがとても心地いい。
退会したユーザー ゲスト | 2024-01-29 00:38
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今野和人 投稿者 | 2024-01-29 15:27
文体の冷ややかさと主人公の行動がマッチしてると思いました。ケアという行為から遠い存在がそれを担うのにも社会の病理を感じます。また、トーク・トゥ・ハーという映画も思い出しました。