今朝はどうしても、現実に直面せざるを得なくなった。
オセアナのシリアルがもうボウルに半分もなくて、最後に残っていたチョコチップクッキーの袋を開けて、3枚渡した。
「朝ごはんにクッキーたべるの、お姫さまみたい!」
あんまり興奮してはしゃぐものだから、5歳児は牛乳に浸かったシリアルのボウルをひっくり返してしまった。それをゴミ箱に突っ込んで、仕方なくペネロープはもう3枚、クッキーを娘に追加してやった。
「ねえダーリン。戸棚と冷蔵庫が、からっぽになっちゃったんだけど…」
10時前、ソファで優雅にスマホを眺める夫に声をかけてみる。
「えー?それじゃ、買い物に行かないとね。外出許可書を忘れないで」
「私のカード、もう残額がないから使えないの。あなた行ってくれる?」
夫はペネロープをまっすぐ見つめた。
「悪いけど、僕、15分後にリモート面接が始まるんだ。君が行くしかないよ」
「じゃあ、お金を引き出すからあなたのカードを貸して…」
「ダメだよ、本人以外の人間がカードを使うなんて犯罪じゃないか。君が行くしかないよ」
「現金持ってない?」
「ないんだ。さて、そろそろ着替えようかな」
「ねえ、お金もないのに、どうやって食べ物を買ったらいいの?」
夫は小首をかしげて、ペネロープに笑いかけた。
「少しは考えようよ、ペネロープ。君も僕も失業中で、今月分の手当は使い切ってしまって、銀行口座にはもう残額がない。でも僕らは、今日のお昼を食べなくちゃいけない。こういう場合、一般的にはどうするべき?」
「おばあちゃんのところへ行こうよ!」
オセアナがきんきん声で割り込んできた。
「ダメだよ、プリンセス。外には、アジアから来た怖いウイルスがうようよしているから、おばあちゃんみたいなお年寄りの人の家には行けないんだ」
ペネロープはうつむいた。
「どうすればいいのかしら」
夫はちょっと肩をすくめた。そして、ごく軽い調子でこう言った。
「ほら、広場の南にある慈善団体のオフィス。ショッピングキャリーを持ってあそこに行けば、何かしらもらえるんじゃないの?」
・ ・ ・ ・ ・
オセアナはマスクをするのを嫌がって、くちゃくちゃにしたので仕方なくそのままにさせた。
自分だってこんな最悪なものはつけたくない。アジア人みたいに、好きでつけたい人だけすればいいのに、何だって大人にはこれが強要されるのかしら。見るからにダサいし!ペネロープはいらいらしながらエンジンを切った。
町の広場の慈善団体オフィスでは、何ももらえなかった。とてつもなくダサいセーターを着た痩せぎすのおばさんが、「登録」の話をしただけだ。
ペネロープは失業身分を証明する書類を何も持って行かなかったから、今日は何もできないと言われた。代わりに、郊外の倉庫で行われている大規模な食糧配布の事を教えてもらう。
昨今の状況を踏まえ、こちらはほぼ無登録で数日分の食料がもらえるらしいので、行ってみたらと言われてそのまま直行したのである。
大型SUVを駐車場にとめると、オセアナとショッピングキャリーを下ろし、ペネロープは周りを見渡す。ここは確か、数年前まではアウトレット家具を扱う大型テナントだったはずだ。シャッターのしまった店舗前には十数人ほどの列ができていて、それが裏の倉庫の方へ続いていた。
「あそこね」
娘の手を引き、もう片方の手で空のキャリーを引いて歩き始める。ガラガラガラガラ、車輪の回る音が耳障りに響いた。
列に並ぶ人々は、誰しもがショッピングキャリーを持って待っていた。列のいちばん後ろの方に、蛍光色のベストを着た大柄な年配男性がいて、ペネロープを手招きした。
「はい、最後尾はここね」
「あの、どのくらい待つんでしょうか?」
ペネロープは聞いてみた。
「30分くらいかなあ。もうずいぶん遅いから、配布品も少なくなってるんだ。期待しない方がいいよ」
「ええっ!せっかく来たのに、何ももらえないの?ひどい!」
「……」
男は眉を上げて、馬鹿にしたような目つきで彼女を見た。マスクから鼻が出ている、そしてその鼻からは鼻毛が出ている。ふいに背を向けると、倉庫の方へ行ってしまった。
「ママあ、ねえママ―あ、まだあ?」
数分後、オセアナがきんきん声を張り上げる。
「プリンセス、仕方がないのよ。静かに待ってましょうね」
「あっ、ママ、あの人みて。コロナだ!コロナの人が来るよ!」
ぎょっとして目を上げると、膨らんだ黒っぽいショッピングキャリーを引きずった、年配のアジア人女性が反対方向へ歩いてくるところだった。
目元までマスクで覆ってはいるけれど、白髪がくっきりと混じる黒い頭髪、フランス人とは何かが異なる独特のコーディネイトをしているから、子どもでもはっきりと判別ができる。
「コロナの人が来るよー、死んじゃうの!?」
「お、オセアナ…しいっ…!!」
慌てて顔を伏せる前、ペネロープにはその女性の表情がはっきり見えてしまった。
希望のない暗い、悲しいまなざし。敵意ではなく、彼女はペネロープに鋭い蔑みを向けていた。
「小さなお嬢さん、そんな事を言うもんじゃないのよ」
くぐもった声で、すぐ前に並んでいた肥満体の年配女性が言った。
「まだ小さいからと思わず、世の中のことをもう少し話してあげた方がいいんじゃないの?」
こちらは、批判めいた目だった。
ペネロープは顔を伏せた。何よ、偉そうにお説教しないでよ、このデブ!!
スマートフォンを取り出して、子ども用のパズルゲームのアプリで遊ばせることにした。オセアナが夢中になっている間、ペネロープは少し周囲を見回してみる。
誰もかれも、一見すれば「ごく普通」の人々だ。リタイア世代、学生ふう、色々な年代が入り混じっている。
もともとこの街にはアラブ系やアフリカ系が少ないが、この列の過半数はそういったマイノリティが占めていた。東洋系は先ほどの女性以外には見当たらない。
皆、生活保護を受けるような感じではない。防寒用の分厚いコートやジャケットを着こんで、ショッピングキャリーを引きずっているのだから、近所の市場にお買い物に来ましたという風だ。
ああ、エスプレッソが飲みたい。ペネロープは痛感した。
モールのブティックで店員をしていた頃は、同僚と入れ違いで休憩を取っている時間帯だ。隣のカフェスタンドでコーヒーを買って、誰かにメッセージを送りながらのんびりしたものだっけ…。それは夫だったり、恋人候補のパパ友だったり、元彼氏のXだったり、日によって違っていたけど。現在と未来と過去とを、自在に行き来して楽しんでいた日々。それも数か月前までだった。
ようやく自分の番が来たらしくて、ペネロープは倉庫の中へと誘導された。長テーブルが大きく並べられていて、段ボールや木箱がびっちり上に置かれている。ここを順繰りに回って、欲しい食料をもらっていくらしい。
一番はじの所で、がっしりした眼光の鋭いおばさんにリストを差し出され、氏名と連絡先を記入してサインをする。
「子どもはひとり?あとは大人が二人ね。野菜と果物がたくさんいるわね、乳製品もまだ残ってるわよ」
ええー、そんなの要らないんだけど!内心でペネロープはげんなりした。それが顔に出たのだろうか、おばさんはきびきびっとした口調で聞いてきた。
「お料理はあまりしない方?」
「それほど、得意じゃないんです…。あの、パンやパスタや、インスタント・ピューレが欲しいんですけど…」
それほどどころか、ペネロープは料理なんて大っ嫌いだ。パスタだって、本当はゆでるのが面倒で仕方ない。冷凍ピザこそ、人類の主食になるべきなのに。
「どうかしらね、その辺は皆こぞって持っていくから…」
それでもおばさんは箱をいくつもひっかき回して、ペネロープのために豆や野菜の缶詰、マカロニの大袋を探し出してくれた。
「今日は、鶏の骨付きモモ肉があるの。要る?」
うげえっ。そんなのマジ要らないし!チンするだけのカット済みローストチキンとかないの!?
食パン数袋、ツナ缶とハードビスケット、ヨーグルトに牛乳、大容量パックの野菜スープなどをもらったところで引き下がろうとすると、おばさんはバナナとリンゴも持ってくといいわ、と言う。
これは夫が食べるかもしれないし、と手を出した。
「このジャガイモはゆでるだけでおいしい種類よ。日持ちがするし、とりあえず持っていかない?」
おばさんは際限なくたたみかけてくる。5キロのジャガイモ袋なんて人生で初めて手にした気がする、こんなに重いとは。
ペネロープは、今やパンパンにふくらんだ自分のキャリーを見た。結婚した後に夫の母がくれたもので、袋部分はド派手なばら色だ。こんな趣味の悪いおばさんバッグ、あたしは一生使わない…と思ってガレージにほったらかしだったけど、まさかこんなに役に立つものだったなんて。
いやいや、こんなおばさんバッグをパンパンにして引っ張ってるあたしが超ダサいんだ。こんなことはもうこれっきりにしたい、コロナ騒ぎが終わったら速攻で就職して、前みたいに外食&冷食中心の生活に戻さなくっちゃ…。
「オセアナ、終わったよ。さあ、おうちに帰ろう」
「…ママぁ、ごめんねえ。わざとじゃ、ないよ…」
すぐ後ろに付き従いながら、ずいぶん静かにしていると思ったら、オセアナはスマホを落として、液晶画面に強烈なヒビをこさえていた。
「……!!!」
「大丈夫、たいしたことないって」
ペネロープは衝撃と怒りとで口がきけない。
「ほらあ、ママ、新しいの欲しいって言ってたし、ちょうどいいじゃん?買い替えなよ」
父親そっくりの軽妙な朗らかさで、アハアハと笑いながら娘は言う。
周りの人が、じろじろと自分たちを見ている気がする。ダメダメダメ、ペネロープ、キレちゃだめ、ぶっ叩いちゃダメ!!この…こんの…… クッッッソガキがぁぁ……!!!
駐車場へ行き、SUV車に乗り込んで荷物を積み込めたのが、奇跡のように思えた。娘は相変わらずアハアハと笑いながら、時折甲高い奇声をあげている。歌っているのは幼稚園で人気のある少女アニメの主題歌なのだけど、ペネロープはこれを断末魔の声に置き換え、娘が悪魔の手で八つ裂きにされているところを想像して、ようやく気持ちを静めることができたのだった。
・ ・ ・ ・ ・
これだけで、2時間以上もかかってしまった。
全く同じような家が立ち並ぶ新興住宅街の一画、自分の借家に帰ると、夫は留守である。リモート面接はどうなったんだろう?あたしにオセアナまで押し付けておいて…。
何となくむしゃくしゃしながら、ばら色キャリーを台所まで引きずってきて、中身をカウンターに置こうとすると、ガチャリと玄関ドアがあいた。
「あ、パパだあ。パパ、おかえりー」
オセアナがばたばたと走っていく。そういえばブーツを履き替えさせるのを忘れていた、廊下はうっすら泥の足跡だらけかもしれない。
夫はそのままキッチンへやってきた。
「やあハニー!今、ママのところへ行ってきたんだよ」
「えっ?そういうのって禁止なんじゃないの?」
「面接の後にママが電話してきてね、代わりにポリーの散歩をしてきたんだよ。食べ物もたくさんもらってきたから」
「……」
ポリーというのは、義母の飼っているポメラニアンだ。いつもは広大な敷地の中で遊ばせているから、特に外へ散歩になんて連れ出さない。つまり息子を呼び寄せる口実なのだろう、確かに外出禁止の今でもペットの散歩は許可されているから。
「ほうらプリンセス、おばあちゃんのごちそうだ!」
夫は大型手提げ袋の中から、巨大なタッパーを幾つも取り出して、キッチンの調理台にのせていく。
「特製にんじんサラダにコールスロー、タブーリもあるぞ。こっちがビーフ・ストロガノフで、仔牛のブランケットは冷凍のままとっておこう。デザートは、オセアナの大好きなヘーゼルナッツのケーキだ!」
「うわああああ!!」
オセアナは飛び跳ねて、そこいらじゅうに泥の粒をまき散らした。
「で、ハニー、君の方の首尾はどうだった?」
「見てちょうだい。けっこうもらえたわ」
ペネロープは、カウンターに戦利品を取り出してみせた。パンの大袋は、じゃがいものの重みで半分につぶれていたが、またたく間に食べ物の山が出来上がった。
「どう!」
ペネロープは誇らしかった。
夫は無料の食料の山をしげしげと見つめていたが、やがて言った。
「貧乏人が食べそうなものばかりだね。パンとパスタの山…炭水化物ばっかりじゃない。丸ごとのじゃがいもなんて、君、料理できるの?」
「…これでも、自分で何とかできそうなものを選んできたのよ!」
「まあ、今はネットと動画で何でも教えてもらえるからねえ。スマホ見ながら、がんばってみたら」
自分のスマートフォンが破壊されたことを思い出して、ペネロープは胸がつかえた。
「お腹がすいたよう!」
張本人の娘が吠えた。
「よしよしプリンセス、じゃあとりあえずお昼はおばあちゃんのごちそうを温めようか」
夫はにこにこして娘を抱き上げた。
「さあ、パパと一緒に手を洗いに行こう。ハニー、もらってきたものは全部、除菌ティッシュで拭いた方がいいよ」
「えっ?」
「コロナウイルスが表面に付着してるかもしれないって、夕べのTVニュースで言っていたよ。これからは清潔第一で行かないとね」
夫と娘が立ち去ったあとのキッチンの床には、大小の無数の靴跡が、うっすらとこびりついていた。
ペネロープはぼんやりとそれを眺め、次いでつぶれたパンの袋に目を向けた。
貧乏人が食べそうなもの…。ちょっと待ってよ、あたしたちって今「貧乏人」そのものなんじゃないの?
とりあえず、数日間の食料は確保できたけれど、その後はどうしたらいいんだろう。家の家賃と車のローン、次回分はどう工面するの?失業保険が来るまで待ってもらえるものなの?
ペネロープはぷっと噴き出して、頭を振った。
「ばかみたい。コロナウイルスだなんて、こんな非常事態が来月まで続くわけないじゃない」
ペネロープは無理やりに笑って、とりあえずいまいましいばら色のキャリーをガレージに片付ける事にした。
人の外出と移動を禁じ、経済を停止させても感染者数は減少せず、連日何千人単位の人間が死んでいき、飽和状態の病院が疲弊しきってもウイルスの展開はとどまらない。ペネロープ自身はぼさぼさになった髪を振り乱し、電気とガスが止められないよう、強制立ち退きとならないよう、半泣きで割れたままのスマートフォンにかじりつきながら支払いの先延ばしを嘆願し、隣でオセアナが服が小さいと駄々をこねている。そして新品同様のばら色キャリーは何度も何度も酷使されて退色し、古ぼけたばらの造花のようになる。
そんな近未来の想像を、ペネロープは鼻でせせり笑った。
「こんな事が、何か月も、来年までも続くなんて。そんなの、あるわけないじゃない」
【完】
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