向こう三週間の予定をすべて仕事で埋めることから取りかかった。冬眠に備えて大量の食料を備蓄する、堅実なシマリスのように。
僕は考えた。ドレーとスヌープはおそらく半グレだろう。ヤクザであれば所属組織を明らかにすることが自然に思えた。
彼らはモグリ系の業者狩りを生業としているのだろうか? 客を装ってアポイントを取りつけ、あとをつけて叩きに行く。わりと効率的な生産活動かもしれない。
疑問があった。モグリ系の業者か否かを見極める必要があるということだ。見極めには一定期間の尾行が必要だが、彼らは我々と接触してからわずか数日で襲撃してきた。ずいぶん前から我々につきまとっていたのだろうか?
あるいは彼らは酔狂な武闘派で、相手がヤクザだろうが半グレだろうが、血で血を洗う殺し合いになろうがお構いなしなのだろうか? あまり現実的ではない。なにかしらの方法でターゲットを選定しているはずなのだ。
状況を整理したかったが、情報が不足していた。たしかなことは、僕は半グレと思わしき厄介な連中から目をつけられていて、骨の髄までしゃぶりつくされようとしている。そういうことだ。
今後のことを考えた。交渉の長期化を狙ったアプローチは少し時間をおいて行ったほうがいいと思った。みかじめ料の調整に時間がかかっているというストーリーで、一週間後を目途に彼らに連絡をすることにした。
そこまで決めてから、僕は十五分かけて歯を磨いてベッドに入った。
噴水から飛び上がった水が地面に落ちるまでの数秒のように、一週間はあっという間だった。その日は二十二時過ぎに待機部屋から誰もいなくなった。ドレーから渡された、電話番号だけが記載されたカードを取り出して電話をかけた。
呼び出し音が二回鳴り、電話がつながった。
「遅くにすみません。支払いの件で電話したのですが」
あえて抽象的に切り出した。相手の反応を伺うことで、彼らの対応能力や、ほかにどのような案件を抱えているのかなど、なにかしらの情報を引き出せるのではないかと考えた。
「ああ」声の主はドレーだった。「頭からビールをかけられた人?」
「そうです」目論見は失敗に終わり、僕は短く息を吸った。「手数料を提示するにあたって、もう少し時間をいただけませんでしょうか?」
「理由を聞くだけ聞こうか」
「手数料の調整に時間がかかっています。メンバーの報酬も含めて調整しているのですが、着地にもう少し時間がかかりそうでして。まずはそのことをお伝えできればと思い、連絡しました」
「いつまでに結論が出せるんだ?」
「申し訳ありませんが、今の時点ではなんとも言い難い状況です。ただ、できるだけ早く結論を出せればと思いますし、目途が立ち次第すぐに連絡します」
「なるほど。手数料の調整に時間がかかっている。結論はいつ出せるかわからない。合っているか?」
「合っています。大変恐縮ですが」
「わかった。そういうことならしかたがない」
あっさりと電話は終わった。ドレーの声は常に平板だった。フラットなトーンで話すための特別な訓練でも受けているのかもしれない。
翌日もあっという間に一日が過ぎ去った。その日最後の仕事を終えたのは二十二時をまわったころだった。日産・ウイングロードのフロントガラスから見える街は様々な色に煌めいていた。オフィスビルの白い照明、青白いネオンの看板、藤色に発光する宇宙船のようなオアシス21、夜空に立ち昇る一筋の黄光のようなテレビ塔、アウディ・TTの長く伸びるテールランプ。
日産・ウイングロードを駐車場に停めて、マンションに向かって歩いた。僕はマンションの駐車場とは別の立体駐車場を契約していた。立体駐車場の方が、車を置いておくのにセキュリティ面で安心に思えたからだ。
マンションが見えたとき、聴き覚えがある低いエンジン音が後方で唸った。僕は後ろを振り返った。黒いフォード・マスタングがそこにいた。
背筋が凍りついた。フォード・マスタングは僕を追い越しざまに、進行方向を塞ぐように鋭く斜めに切れ込んで駐車した。助手席のドアが開き、中からスヌープが出てきた。
「よう、兄弟」スヌープは笑顔で手をかざした。それから僕の肩に腕を回して言った。「乗れよ」
水を張った洗面台の栓を引き抜いたように、身体中から血の気が引いて気が遠くなった。スヌープは助手席のシートを倒し、後部座席に僕を押し込んだ。
フォード・マスタングのインテリアを見渡した。シートは黒い革張りで、各種レバーと、センターコンソール、センタークラスターのふちには真っ赤な革が張ってあった。生み出されたばかりの鮮血に見えた。運転席にはドレーが座っていた。
スヌープは後部座席に乗り込み僕の隣に座った。
「じゃあ、行こうか」スヌープは身を乗り出すようにしてドアを閉めた。衝撃が車内に伝わった。
フォード・マスタングは粘り強いトルクを感じさせながら、ゆっくりと発進した。車内に走行音と低いエンジン音だけが響いた。
栄駅と伏見駅の間に位置する、オレンジがかったベージュのマンションの前でフォード・マスタングは停車した。
「降りようか」スヌープは言った。
僕とスヌープは車外に降りた。フォード・マスタングはゆっくりと動き出し、黒い巨大な棺のような後ろ姿が遠ざかっていった。
スヌープは白いタンクトップを着て、黒いディッキーズ847を穿いていた。靴は黒いバンス・エラで、首元には大ぶりなゴールドのチェーンネックレスがぶら下がっていた。
そのとき、スヌープの左肩に刻み込まれた刺青が目についた。トライバルタトゥーだ。左胸から左肘の三センチほど上までの広範囲にかけて、呪術的な模様が敷き詰められていた。
混乱の渦に突き落とされた。僕はヨシイさんに、スヌープの身体的特徴について確認をしていた。ヨシイさんは、スヌープにはこれといった身体的特徴はなかった、と答えた。『例えば刺青は入っていなかったか?』と具体例をあげて確認したにもかかわらず。
ヨシイさんは、スヌープの相手をしたときに裸体を見ているはずだが、これだけ大がかりな刺青を見落となんてことがあり得るはずもない。混乱が僕の身体を支配した。
「行こうか」
スヌープの声で我にかえった。無味乾燥な響きだった。これからどんな目にあわされるのか想像が駆け巡った。自分の膝が不規則に、小刻みに動いているのを感じた。
大通りを往来する車のヘッドライトがぼんやり見えた。足の裏は夜気で冷めたアスファルトに張り付いたようだった。むりやり引きはがして、歩き出したスヌープに続いた。足がもつれた。
マンションのエントランスをくぐった。怪しげな店名が多数貼られた集合ポストの前を通り、無人の管理員室を通り抜けた。『管理員室』と白い字で書かれた青いプレートの端が、わずかに欠けているのが目についた。
奥にあるB棟のエレベーターホールについた。エレベーターホールの照明は薄暗く、もやがかかったようだった。エレベーターの呼び出しボタンの前に、膝くらいまでの高さのスタンド灰皿が置いてあった。四角柱のステンレススチール製で、昔ながらのタバコ屋の軒先に置いてあるようなタイプだ。
灰皿には水が張ってあり、よどんだ水の上にタバコの吸い殻が何本か浮いていた。うち捨てられた、なにかしらの死骸のように見えた。
エレベーターが到着し、乾いた音を鳴らしてドアが開いた。エレベーターの中はヤニがこびりついたように黄ばんでいた。足元のマットは不自然なくらい真っ赤で、目が痛んだ。
ほどなくしてエレベーターは五階で停止した。スヌープは五〇五号室の前で立ち止まった。部屋のドアは紫煙を吹き付けたように、くすんだ茶色をしていた。ドアスコープのまわりをトライバル柄のような模様が囲っていた。その模様は再び僕を混乱させた。
部屋は性的なサービスを提供する店舗のようだった。店舗を構えるだけの力が彼らにはあるのだ。
待機部屋のようなつくりのダイニングルームのソファに座らされた。部屋のカーテンは隙間なくぴたりと閉まっていた。暖色系の間接照明が控えめに灯っているだけで、部屋はひどく薄暗かった。部屋の隅には、アナログレコードプレーヤーと、スピーカー、それから何枚かのレコードが置いてあった。
「待とうか」スヌープは向かいのソファに腰をかけた。
部屋に沈黙が降りた。空調の音と、僕の関節が小刻みに軋む音だけがかすかに響いた。目線をあげると、奥の部屋に続くドアが見えた。そのドアは少しだけ開いたままになっていた。
十分くらい経ったころ、ドレーがやって来た。無言で部屋の隅に置いてあるレコードプレーヤーに近寄ると、一枚のレコードを取り出した。それからターンテーブルに両手でそっと乗せた。トーンアームを動かして、針をレコードにおろした。その動作は繊細で、機器に対する思いやりが感じられた。
ジャズが流れ始めた。温かな音だった。曲に聴き覚えがあった。スタン・ゲッツの『ボヤージュ』だった。『ソウル・アイズ』というライブアルバムだ。
『ソウル・アイズ』のアルバムジャケットには、ぱっとしない潰れた顔写真がなぜか使われていた。僕も叩き潰される運命にあることを悟った。
ドレーはソファまでゆっくりと歩いた。スヌープの隣に座り、僕と向き合った。
「私もジャズが好きでね」ドレーは言った。「曲を聴きながら喋らせてもらうことにするよ。たいして難しい話でもあるまいし」
ヒップホップは聴かないのか? と気になったが、そんなことを質問する権利はやはり僕にはなかった。
ドレーはその日も一目で上等だとわかる黒いシーアイランドコットンのニットを着ていた。ジョン・スメドレーのニットに思えた。禍々しく暴力的に発達した肉体により、ニットは今にもはち切れんばかりの緊張をはらんでいた。左手首には、リシャール・ミルの腕時計が鈍く光っている。
数分の沈黙があった。ドレーは流れている音楽――スタン・ゲッツ――に聴き入っているように宙の一点を見つめていた。スヌープはなにも考えていないように見えた。
「お前が考えていたことはだいたいわかる」ドレーは言った。「時間を稼いで、まとまったキャッシュをつくろうとしていたのだろう」
僕の奥歯が不規則に鳴った。
「小細工をしようとする人間は、だいたい二つのパターンにわかれる。まとまったキャッシュを用意して逃げようとするか、我々に手切れ金を渡してことから降りようとするか」
冷蔵庫のコンプレッサー音を微かに耳が捉えた。
「お前がやろうとしていたことは、どうでもいい」ドレーの右手が目の前の埃をはらうように動いた。「いずれにしても、我々の望み通りになるからだ」
ドレーは立ち上がり、ゆっくりと玄関のドアに向かって歩き出した。この前と同じ、テーパードがきいた黒いトラウザーズを穿いている。インコテックスのように見えた。
ドレーはゆっくりとドアの鍵を施錠した。不吉な音が響いた。それからチェーンロックをかけた。一連の動作を終えるとこちらを振り返り、ソファまでゆっくりと歩いて戻ってきた。
ドレーは僕の前に立った。どんな感情もなく、スプーンひと匙の感慨も感じられない、奥行きのない目で僕を見下ろした。
流れていた『ボヤージュ』が終わり、アルバムの表題曲である『ソウル・アイズ』のライブテイクが流れ始めた。部屋はメローな雰囲気に満たされた。
顎を下から硬い拳で殴打された。脳が激しく縦に揺さぶられ、ヒューズが切れるように一瞬だけ意識がはじけ飛んだ。
身体が崩れ落ちたが、髪の毛を根元から掴まれる格好で立たされた。身体の支配権のすべてを奪われた操り人形のようになった。
頬を拳が正確に撃ちぬいた。骨と骨が激突し、破砕音のようなものが耳の奥で響いた。首から上が消し飛んだように感じた。遠のく意識の中で顔を触り、首の上にまだ頭がついていることをかろうじて確認した。
再び頬を拳が殴打した。気が遠くなる激痛が走った。臭みのある鉄の味が口内に広がった。何度も何度も何度も何度も顔面を殴打された。衝撃で頬骨がくぼんだように感じたが、なにがなんだかわからなかった。
左右上下から間断なく打ちつける拳によって壁に貼り付けにされた。倒れ込むこともできなかった。身体中に拳が突き刺さった。肝臓、腎臓、心臓、胃、あらゆる内臓が悲鳴をあげた。生命の危機に瀕していることがわかった。
とうとう身体に酸素を取り込むことができなくなった。同時に拳の雨が止んだ。糸が切れた操り人形のように、くるりと半回転して僕はその場に崩れ落ちた。途切れる意識の中で、スタン・ゲッツが奏でる細く美しいワイヤーのようなテナー・サックスが聴こえた気がした。
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