キヨ 一 古文って何ですか?
8年ぶりに訪れたわたしの母校に響いていたのは、チャイムの音でも、生徒達がはしゃぐ声でもなかった。金属と金属のぶつかり合う音や何かを削る音。外壁修理期間中、という紙が職員玄関に貼られている。
「ごめんねえ、こんな状態で。先生、来たばっかりやとに。」
六月には工事、終わる予定やったっちゃけど。事務室のおばさんが懐かしい響きでそう言って、来客用スリッパを並べてくれる。すみません、と言って足を通すとひんやりと冷たく、足先が心地良い。一応今日だけ、と言われて書いた受付用紙を見たおばさんが意外そうな表情で言った。
「正しい子、って書いて、しょうこさん、って読むっちゃねぇ。」
「そうなんです。まさこ、ってよく間違われるんですけど。」
「いや、いい名前やわ。」
校長先生呼んでくるからそこに掛けちょって。そう言い残してどこかに行ってしまう。そう言われても、校長不在の校長室のソファーにどっかり座るなんて出来ない。
ただでさえ、自分が「先生」の身分になるなんて信じられないのに。そもそもこんなにふらついた人間が先生になってもいいのか。今日までに何度も通り過ぎた考えがまた湧き上がってくる。昔から、人に何かを教えるだとか、諭すだとか、そういうことには向いていなかった。たとえ臨時の講師という立場であっても、わたしには重すぎる。今すぐ採用通知書を破り捨てて「やっぱりお断りします」と一声叫んで逃げてしまおうという考えにまで至って、思わず首を振った。無職だけは嫌だ、どんな形でも働かなければ。呪文のように言い聞かせる。
手持ち無沙汰に、歴代の校長の写真やトロフィーを眺めていると、ノックの音がした。はいっ、思わず大きな声が出てしまい焦っていると、
「失礼します。」
真っ直ぐな声が聞こえて、一人の男の子が入ってきた。制服を着ているから、この学校の生徒だろう。
「校長先生、いますか?」
「あ、いらっしゃらないです。」
すみません、思わず謝ってしまうと、その子はにこりと笑った。
「お客さんですか?」
「はい。」
相手は中学生だと分かっているのに、つられて敬語になってしまった。すらっと手足は長いのに、真っ黒な瞳に幼さを残した、不思議な子だ。
「校長先生を待っているんですか?」
「あ、うん。」
「呼んできましょうか?」
「今、事務の方が、呼びに行って下さってて…。」
「そうですか。」
どうしようか、という表情で彼は黙ってしまった。どうやら校長に用事があるらしい。
そういえば今の時間、生徒は授業中じゃないのか。不思議に思って思わず観察してしまう。肌が物凄く白い。肌色ではなく、白。彼の着ているシャツと同じくらいの白さだ。その手には軍手がはめられ、スコップとじょうろが握られている。アンバランスなその出で立ちに首を捻っていると、彼がはっとしたような笑顔で言った。
「もしかして、新しい国語の先生ですか?」
えっ、と裏返った声が出てしまう。
「違うんですか?」
何か答えなきゃ、彼のがっかりした顔を前に思わず言葉が出る。
「そうです。」
よろしくお願いします、と付け足した時はすでに、やってしまったという気持ちになっていた。そんなわたしの心情など知らない彼は、嬉しそうに目を輝かせている。
「何を教えてくれるんですか?」
「えっと、古文とか?」
自分でもまだよく分かっていない。何となく大学で専攻していた分野を答えると、
「こぶんって何ですか?」
彼が笑顔でそう言った。
思わずまた、えっ、という声が出る。彼の身長や体つきを見る限り、中学一年生というわけではないはずだ。例え一年生であっても、古文はすでに学んでいるはず。まだろくに教科書に目を通していないわたしでもそれくらいは分かる。
「授業でやったでしょう、竹取物語。」
「たけとり物語って、何ですか?」
「何って、かぐや姫だよ。」
「かぐや姫って、誰ですか?お姫さまですか?」
はあ?思わず訝しげな声が出してしまう。馬鹿にされているのだろうか。けれど、答えをまつ彼の表情からは、そんな感じはしない。
「誰って、竹から生まれた…。」
驚くのは彼の番だった。
「えっ、竹から、人が生まれることもあるんですか?」
「いや、生まれないけど。」
「どっちなんですか?」
もう、なにが何だか分からなくなってくる。
「物語だから、うそも書いてあるんだよ。かちかち山で、タヌキやうさぎがしゃべったりするでしょう。」
「かちかち山…どこにある山ですか?」
山梨県に、かちかち山のモデルとなったと言われる山があったのを思い出す。
「確か、山梨県だよ。」
「山梨県…。ワインやほうとう、富士山の県ですね。」
社会の授業で習いました。そう付け足して満足気だ。それは知っているのに、物語は知らないという。よっぽどの国語嫌いだろうか。かぐや姫やかちかち山なんて、国語以前の知識のような気もするけれど。
「山梨県では、タヌキやうさぎがしゃべれるんですね。」
考えているうちに、彼が間違った結論に至っている。
「いや、だから、物語だから、嘘なんだよ。」
「先生は、嘘を教えてくれるんですか?」
「えっ?」
「かぐや姫を教えてくれると言いました。」
どうやら最初の「何を教えてくれるんですか?」という質問に戻ってしまったらしい。思わず絶句する。だけど相変わらず、彼の真っ黒な瞳からは、煙に巻いてやろうだとか、からかってやろうという思惑は感じ取れない。
「漢字も教えるよ。」
なんだか投げやりになって言うと、今度は納得したように頷いた。
「漢字。好きです。」
「ことわざも教えるかもね。」
「ことわざ…。」
「ほら、猿も木から落ちる、とか。」
初めて聞いたのか、よく分かっていないような顔で、かわいそうですね、と言う。
「石の上にも三年、とか。」
「三年もですか…。」
深刻な顔になってしまった彼に、他にも、色んなこと勉強するよ、と明るい声で言ってみると、わたしにつられたように明るい顔になった。
「わかりました。先生、よろしくお願いします。」
そう言って、校長室を出て行ってしまう。校長に用があった訳じゃなかったのか、心配していると足音が戻ってきた。
ガラッと扉が空き、彼は一言、
「さようなら、また明日。」
そう言ってまたにこりと笑い、去ってしまった。
今の彼は何だったのか。思わずぼんやりしていると、やっと校長が現れた。
前職の先生が突然辞職なさったので…。ご家庭のご都合だったようで…。なんせ急な話ですから…。本格的な授業は来週から…。以前はどちらで…。校長の話を聞き、質問に答えながら、頭の中ではさっきの彼のことを考える。不思議な子。あの真っ黒な瞳。さようなら、また明日。
そして思い出していた。国語の先生かと聞かれ、
「そうです、よろしくお願いします。」
思わずそう答えた自分の声を。
つづく
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