やたらと喉が渇く夜だった。
今何時だ、とおれは思った。
おれは目を閉じたままその辺にあるスマホを手で探った。あった。画面の光で頭が覚醒しないようにおれは目を細めた。五時二二分だった。起きるには早すぎるし、かといって二度寝するには微妙な時間だった。
おれは高齢者向けの配達専門の弁当屋で仕事をしていて、配達だけでなくパートのおばちゃんたちに混じって弁当の用意もしなければならなかった。だからいつもアラームは六時にセットしていた。
最初は配達だけのはずだった。しかし、パートのおばちゃんの一人の母親の体調が急に悪くなって、親の面倒をみるために辞めてしまった。よくあることだった。その度にオーナーの元橋さんは頭を抱えた。小さい弁当屋だったから一人抜けると全員に影響した。求人を出してはいるが、当然すぐに集まるわけではない。そこで元橋さんはおれに声をかけた。弁当屋で働きはじめてもうすぐ三年目になる。もう新人とはいえないが、かといってベテランってほどでもない。でもここではおれがいちばんの古株だった。
この仕事は人の入れ替わりが激しく、どいつもこいつも自分はここにいるべき人間じゃないんだと誰もが思っていた。この仕事を腰掛け程度にしか考えていなかったしそのうち辞めるだろうとも思っていたから、お互い親睦を深めるなんてこともなかった。でも話してみると気さくでいいやつばかりのように思えた。おれも彼らとたいして違わなかった。ただひとつ違うのは彼らはみな目標やら夢やら差し迫った事情があった。生きる理由があった。ただ生きているのはおれだけだった。
おれは言われたことをとくに不満も言わず(不満がないわけではない)黙々と続けていたから、オーナーの元橋さんも頼みやすかったのかもしれない。おれは人にお願いされると断れない質だった。でも元橋さんはそこに漬け込むような男ではないことは知っていた。彼はなるべくおれたちのわがままも聞き入れてくれたし、おれが今まで散々みてきたようなでかい声で喚きながらあれこれと指図する抑圧的な人間ではなかった。彼は定年間際でいきなり退職し、フランチャイズではあるが店を立ち上げたエネルギッシュな男だった。おれは元橋さんが気に入っていた。ボスを気に入るというのはおれにとってはかなりめずらしかった。大抵のやつは冷酷なサディストだったから。彼はおれが働きはじめたころの面影はほとんど残っていない。週一日しか休みがなく(ときにはその休みもなくなる)、一八時間ぶっ通しで働き続けたせいで彼はどんどんやつれていった。頭は真っ白になり、目は窪み、白髪の混じった無精髭はそのままで、頬は転けていた。弁当の配達先の老人の方がよっぽど元気ではないかと思える日も少なくなかった。
「悪いんだけど、次の人が来るまでさ、頼むよ」オーナーは言った。声には張りがなかった。木のうろみたいな顔をしていた。
そんなわけでおれは彼の頼みを引き受けることにした。八時間の配達時間に二時間の労働時間がプラスされる。おれはすぐに後悔したがそんなのは後の祭りだ。オーナーは一週間ぐらいの辛抱だからと言ってたが、すでに三週間を過ぎようとしていた。
おれは時間を確かめるために再びスマホの画面を見た。五時四五分だった。うそだろ、もう二十分近く経っているぞ。もう二度寝をするには遅すぎる。おれは布団から出ることにした。
眠い。眠いし喉が渇いている。おれは台所に向かった。それから流しの中にあるコップを少し水ですすいでから、水を飲んだ。あっという間に空になった。さらにもう一杯飲んだ。
こんな生活をいつまで続けていくのだろう、とおれは思った。女もなく、希望もなく、あるのは雑用同然のきつい仕事だけ。おれは笑った。絶望の笑いだ。おれと同年代の連中はみんなちゃんと仕事についていて、結婚し、こどもぼちぼちいることだろう。家を買ってるやつもいるかもしれないし、車だって持っているだろう。おれはまだみぬ伴侶とささやかな家庭を築いている光景を想像してみた。うまくできなかった。おれの望みが家庭にあるとは思えなかった。
おれはタバコに火をつけた。たっぷりと時間をかけて一本吸ったり吐いたりした。煙がおれの頭上を漂った。二本目に火をつけた。
タバコの煙の匂いを嗅ぐと、おれはいつもある女のことを思い出した。その女は小学生の頃の友達のユースケの母親である。 おれは学校が終わるとコージと一緒に彼の家によく遊びに行っていた。
ユースケの母親はいつも酔っ払っていた。そしていつも哀しそうだった。彼女はおれの母親とはまったく違っていた。何が違っているのはわからないが、とにかく違うということだけはわかった。おれはそこに何かミステリアスなものを感じずにはいられなかった。おれは表面的なことには満足せず、いつも裏側のことばかり気になってしまうこどもだった。道端ででかめの石を見つけるとそれをひっくり返さずにはいられなかった。石の下で静かに息を潜めていた虫たちが慌てて逃げ惑う様子をじっとみるのが好きだった。
そんな性格が災いしたのか、ある日、おれはユースケの家でとても恐ろしい体験をしてしまった。
その日、学校が終わってからおれがいつものようにユースケの家に遊びに行った。コージは家の用事を片付けてから来ることになっていた。彼の母親はリビングのソファの端っこに腰を下ろしていた。彼女はいつもそこに座っていた。彼女の髪の毛は気が触れたようにぴんぴんとあっちこっちに跳ね上がっていた。昼間だというのにシャッターが閉まっていて、部屋の中は薄暗かった。酒の匂いとタバコの匂いと彼女から発するなんとも言えないすえた匂いで満たされていた。テーブルの上は安物のワインや缶ビール、吸い殻でいっぱいになった灰皿がいつも置いてあった。
「ゴローがきたよ」ユースケが言った。
反応はなかった。彼の母親はこちらに背を向ける形で座っていて、おれの場所からだと背もたれの上でゆらゆらと揺れている彼女の後頭部しかみえなかった。眠っているのかもしれなかった。
「ゴローが来たよ」
ユースケは、今度は少し声のボリュームを上げて言った。彼の母親の頭が一瞬ビクッとしてから、ゆっくりと振り返った。目はとろんとしていた。それからすごく気だるそうに背もたれに肘を掛けて、おれたちを視界に捉えるために姿勢を変えた。ソファーの横からは彼女の高く組んだすらりとした脚が飛び出していた。ぴっちりとしたジーンズを履いていた。
「あらあ、お帰りなさぁい」
声を出すのさえ面倒くさそうな間延びした声だった。歌うような調子と言えなくもない。それから彼女はユースケの横に立つおれの姿に気がついた。
「ゴローちゃんもいるのねえ」
「おじゃましてます」
「いらっしゃぁい。ゴローちゃんはいっつも礼儀正しいのねぇ」
ユースケは母親に近づいて、彼女の手から短くなったタバコをそっと奪って、テーブルの表面で火を揉み消してから灰皿に捨てた。それからソファの肘掛けにかかった彼女の両足を持って正面に向かせた。献身的な姿だった。おれはその姿を見るたびに胸が痛んだ。
「母さん、寝るんだったらベッドで寝なよ」
「いちいち母親に指図するんじゃないよ。まるでお父さんみたいな口ぶりね。あいつがいないときぐらい好きにさしてよ」
「わかったから、絡むなよ」
「私はこんなところに閉じ込めて、面倒なこと全部押し付けて、自分は好き勝手やってるんだから。いい? あんたは絶対結婚なんかするんじゃないよ」
「わかったよ、母さん。おれは結婚しないよ」
「あんたの父親はどうしようもないクズ野郎だ。そんな男と結婚した私はもっともっとどうしようもないバカ女だけどね」
「そんなことないよ、母さん」
すると、母親は今度は急に泣き始めた。
「わかったからベッドに行こうよ。ゴローがいるんだよ」
「ごめんね、ゴローちゃん。ダメな母親で」
「そんなことないですよ」
おれは心にもないことを言った。ユースケのためだった。このうんざりするようなやり取りをおれは何度も見てきた。ユースケが他のこどもたちより大人びてみえるの当然だった。彼は大人にならざるをえなかったのだ。当時のおれは何もわかっていなかった。今も何もわかっていない。
ユースケの母親は彼の手を借りて、よろよろと立ち上がった。足元は覚束なかった。ユースケに支えられた彼女がこちらにやってきた。おれは道をあけた。
「ゴローちゃん、あなたの作文、とってもよかったわ」と言ってにっこり笑った。素敵な笑顔だった。「たいしたものよ、あなたの年であんなにいい文章を書けるなんて」
おれはあんまり褒められることに慣れていなかったから面食らって何も言えなかった。何を書いたか今となっては全く思い出せなかった。ただものすごく嬉しかったことだけは覚えている。それと笑ったときにみえた彼女のヤニで黄色くなった歯。彼女の歯は前にせり出していた。彼女はきれいな顔立ちをしていたが、その隙間のおかげでどこか間の抜けた印象を周囲に与えた。おれは彼女のせりだした歯が好きだった。というのもおれの歯も前にせりだしていたから。彼女と何かしらの共通点があるようでうれしかった。おれは彼女に嫌悪感を感じてはいたが、同時にその退廃的でやけっぱちな雰囲気に惹かれてもいた。
「ゴロー、悪いけどちょっと待っててくれ。母さんを寝室に連れていくから」
そう言ってユースケと母親は廊下を進んで、寝室に入っていった。
おれはリビングの窓を全て開けて、シャッターも開けた。換気をするためだ。ユースケはおれと遊ぶ前にまず換気をした。それを真似たのだ。
外から爽やかな風が部屋に入ってきて、酒やタバコの匂いを押し流していった。燃費の悪そうな原付を走らせる音がどこからともなく聞こえてきた。おれは彼女が座っていたところに座ってみた。彼女の重みで少しへこんでいた。まだ彼女の尻で温められた熱が残っていた。ここで彼女は何を思い何を考えていたのだろうか、とおれは思った。
自分の母親を寝かしつけたユースケとおれははリビングにあるテレビにミンテンドー64を繋げて『スターフロッグ64』というゲームで対戦プレイをして遊んでいた。
「よかったな」とユースケが言った。
「何が?」
「母さんに作文を褒められただろ?」
「うん」
「母さんは滅多に人を褒めないんだ」
「そうなんだ」
「おれは褒められたことがない」
おれはこのときなんと答えればよかったのだろう。何か言うべきだと思ったが何も思いつかなかった。おれは彼に悟られないように彼の顔を盗み見した。端正な顔立ちがそこにはあった。目は切長でつり上がっていた。どことなく爬虫類を連想させるような目だった。彼は滅多に感情を表に出さなかった。いつも張り詰めたような表情をしていた。少しでも触れると破裂してしまいそうだった。彼は学校でいつもひとりだった。いじめっ子も彼には手を出さなかった。彼は人を寄せ付けない雰囲気があった。誰かに話しかけることも滅多になかったから、それが周囲に畏怖の念を抱かせていた。そんな彼とおれがどうしてしょっちゅう遊ぶ関係になったのかはわからない。おれは彼とちがって友達は大勢いた。でも孤独だった。そんなことをぼんやりと考えていると、おれが操作する機体が彼に撃墜されてしまった。
インターホンが鳴った。
「コージがきたかな」おれは言った。
「たぶんな」
ユースケが玄関の方に行った。
「お邪魔しまーす!」
コージのでかい声がここまで聞こえてきた。バカみたいな声だった。ユースケのお母さんが起きるじゃないか、とおれは思った。
ユースケの後ろからコージがドタドタと足音を立てながらリビングに入ってきた。ユースケの大人びた雰囲気と対照的にコージはこどもみたいだった。実際こどもなわけだが、おれはユースケといるとちょっと背伸びした気分になっていたから余計にコージがこどもっぽく見えた。
「もうちょっと静かに入ってこいよ」おれは言った。「ユースケのお母さんが起きちゃうじゃないか」
「え? ユースケの母ちゃん、もう寝ちゃったのかい?」
「そうだよ」
コージはあからさまに残念な顔をした
「別に平気だ」とユースケが割って入った。「母さんは一度寝たら滅多なことじゃ起きないから」
ほらな、という感じでコージがおれに目配せした。腹立つ顔だった。おれはコージの肩にパンチを入れた。
「いてっ」
コージはわざとらしく痛がったふりをしてみせた。
「ロクヨンのコントローラーは持ってきたか?」ユースケが訊いた。
「もちよ」
コージは背中に背負ったリュックを床に下ろしてコントローラーを取り出した。おれは彼のコントローラーを引ったくるように奪った。
「なんでお前のコントローラーはいつもヌルヌルしてるんだよ!」
「兄貴がオナニーした手で触るからだよ!」
「気持ちわりーなー」
おれはロクヨンの本体にコージのヌルヌルしたコントローラーを差し込んだ。それから服で手を拭いた。
「これ、お前専用のコントローラーな」
「当たり前だろ。おれん家から持ってきたんだから」
コージはリュックからリンゴを三個
取り出した。
「これ、母ちゃんが持ってけって」
「ありがとう、コージ」
ユースケはコージからリンゴを受け取った。リンゴの甘い香りがぷんと漂った。
「先に始めててくれ。リンゴを切ってくる」
ユースケは台所の方に行った。それから果物ナイフを使って器用にリンゴの皮を剥き始めた。
おれとコージはテレビの前に座ったが、まだ対戦ははじめなかった。ユースケに悪いと思ったのだ。おれたちは彼が来るまで待つことにした。するとコージが声を潜めて話しかけてきた。
「なあ、ユースケの母ちゃん、どうだった?」
「どうって何がだよ」
「相変わらずエロかったか?」
たしかにエロかった。ユースケと彼の母親は親子というよりむしろ姉弟にみえた。
「キモいよ、お前」
「だってさ、ユースケの母ちゃん、どう見たっておれたちの母ちゃんとは違うだろ? あれを見て何も感じないなんて男じゃないぜ」
「うるせーな、ちょっと黙れよ」
「カッコつけてんじゃねえよ」
「うるさい」
「あーあ、つまんねえなー」
コージは不満気だ。おれも少し残念ではあった。ときどきユースケの母親はおれたちがゲームで盛り上がっている姿を後ろのソファに座って眺めていることがあった。当然酔っ払っていた。そんなときおれは後ろを振り返って彼女を見たい衝動に絶えず襲われた。当時のおれは極度の恥ずかしがり屋だったから何のきっかけもなしに振り返ることができなかった。だからゲームに勝利したときなどに、大人が望んでいると思われるこどもの無邪気さを装いながら後ろを振りかって彼女を見た。最初に目に飛び込んできたのは高く組まれた彼女の脚だ。彼女はときどき膝が隠れるくらいのスカートを履いているときがあった。捲り上がったスカートの裾からすらりと伸びる彼女の脚は文句のつけようがないないほどきれいだった。おれの脚に対する執着はここから始まったのかもしれない。それからおれは彼女の顔をみた。彼女いつも物憂げに微笑んでいた。その目は何も見ていなかった。彼女の精神は頭の上のあたりに漂っていた。一度だけ、彼女の目から涙がすうっと流れ落ちるのを見たことがある。それを見ておれはぎょっとした。直感的に彼女が苦しんでいることがわかった。彼女が何に苦しんでいるのかまではわからなかった。彼女は、なんていうか、丸ごとそこにいた。大抵の人間は一割ぐらいしか、多くて二割ぐらいしかそこにはいないが、彼女はいつも丸ごとそこにいるのだ。
ユースケが切り分けたリンゴを無造作に皿に乗せてやってきた。見事なものだった。
「うまいなあ。うちの母ちゃんより切るのがうまいぜ」
コージはさっそくリンゴのひとつを手でつまもうとしたが、それをユースケが制した。
「爪楊枝を使って食え」
「わかったよ」
コージは爪楊枝をリンゴに指してかじった。おれもひとつ頂いた。ユースケはリンゴには手をつけなかった。
三人でしばらくゲームをして遊んでいた。少し飽きてきて対戦にも身が入らなくなってきた。だらけた空気がおれたちを支配し、口数も少なくなってきた。コージは敏感にその空気を察して盛り上げ役を買って出た。でもうまくいかなかった。しだいにコージも黙りがちになった。ユースケは相変わらず静かだった。おれは欠伸を噛み殺した。
「この前さ、親父にお前は橋の下で拾ったんだって言われたんだ」
突然コージが何の脈絡もなく言い出した。
「何だよ、急に」とおれは思ったままを口にした。ただ黙ってゲームをするのも退屈だったから付き合うことにした。「おれも言われたことがあるよ」とおれは言った。本当だった。
コージはおれの目をじっと見つめた。それから顔を伏せた。ユースケは何も言わなかった。
「ウソだっていうのはわかってるんだけどさ」コージは言った。「親ってどうしてそんなひどいことを言うのかな。おれ、傷ついちゃったよ」
おれは何て答えればいいのかわからなかった。すると意外にもユースケの口が開いた。
「おれは本当に橋の下で拾われたぜ」
おれとコージはまったく同じ顔をしてユースケを見た。
「そんなわけないだろ」
おれは言った。自分がとんでもなく間抜けになったような気がした。
「本当さ」ユースケは言った。「おれは橋の下で拾われたんだ。母さんが言ってた。父さんにも言われた」
「からかってるだけだよ」
コージは自分に言い聞かせるように言った。
「おれは橋の下で拾われた」ユースケは無視して続けた。「どうもあの親から生まれた気がしねえ。きっとその辺の野良犬に育てられたんだ。両親は何かの気まぐれでおれを拾ったんだ」
ユースケは抑揚をつけずにしゃべるから彼が冗談を言っているのか本気で言っているのかわからなかった。おれは彼の表情から判断しようと思った。目には暗い光が宿っていた。彼は本気で言っているような気がした。おれは話題を変えたかった。
「ちょっとトイレに行ってくる」
おれは立ち上がった。
ユースケは何も言わなかった。
コージは泣きそうな顔をしていた。
おれはむかついていた。
おれはリビングを出て、それから玄関に続く廊下を歩いた。トイレの場所は知っていた。ユースケの母親が眠る寝室の向かい側にトイレはあった。
おれがトイレのドアノブに手をかけると、背後から小ちゃな豚みたいないびきが聞こえてきた。後ろを振り返ると寝室のドアがすこし開いていた。
おれは寝室のドアを閉めてやろうと思った。寝室のドアノブに手をかけたとき、おれは暗い好奇心が疼くのを感じた。石をひっくり返すときの感覚に似ていた。ほんの一瞬だけ逡巡したが、おれの心はすでに決まっていた。ちらりとリビングの方を盗み見た。ユースケとコージはこちらに背を向け、別のゲームをしようとソフトを物色していた。
おれはごくりと唾を飲みこんでから、静かにゆっくりとドアを開けて、部屋の中に身体を滑り込ませた。
部屋の中は彼女の息による酒の匂いで満たされていた。そこにいるだけで酔っ払ってしまいそうだった。すごく暗かった。閉め切ったカーテンの淵からわずかに漏れる光のおかげで、ぼんやりとだが部屋全体が見渡せた。部屋のほとんどはベッドで占領されていた。
ユースケの母親は眠っていた。ベッドの足元の方に腰かけてそのまま後ろの方に倒れたような格好だった。おれの場所からは彼女の脚と、規則的に隆起する腹しかみえなかった。
おれは足音を立てないように爪先立ちで彼女に忍び寄った。おれは彼女の開かれた脚の間に立って、彼女を見下ろした。なんてことなかった。酔っ払った女がいびきをかいて眠っているだけだった。
おれは立ち去ろうと思って踵を返した。すると、「あなたなの?」という声がしておれは心臓が飛び出そうになった。バっとおれは振り返った。
彼女は頭だけ少し起こしてこちらを見ていた。部屋は暗かったから彼女の表情はよくみえなかった。向こうもおれの顔が見えないはずだ、とおれは思った。たぶん。
「あなたなの?」と彼女は頭を起こしたままもう一度言った。おれは何も言わずにバカみたいにそこに突っ立っていた。それから彼女の頭は支えを失ったようにぼすんとベッドの上に落ちた。
「お腹が苦しいの。ジーンズを脱がしてよ」
彼女が誰と勘違いしているのかおれにはわからなかったが(おそらく夫だろう、つまりユースケの父親だ)、少なくともおれだということはバレていないようだった。しかし今思うと背丈の違いでバレそうなものだが。
おれは彼女の言う通りにした。ジーンズの腰の辺りに手をかけて、ジーンズの生地と彼女の肌の間に指を差し込んだ。おれは自分の下腹部に痺れるような感覚が広がるのを感じた。何か指に引っかかるような感触があった。それは彼女のパンツだった。おれはパンツまで脱がさないように、指を入れ直した。指の甲のあたりに彼女の柔らかくて暖かい肌を感じた。それからボタンを外し、チャックを下ろした。彼女は少し腰を上げて、ジーンズを脱ぐのを手伝った。おれは桃の皮を剥くようにゆっくりとジーンズを脱がせてやった。今まで嗅いだことがない匂いがむあっと立ち上って、塊となっておれの顔にぶつかった。おれは彼女の匂いで一瞬頭がくらくらした。するといきなり何かに絡みとられた。それは彼女の脚だった。おれの身体に彼女の脚が巻きついていた。
おれは頭がパニックになった。彼女は脚の力が強まって逃げ出すことができなかった。何が起きているのかわからなかった。おれの腰が彼女の股間の辺りに押し付けられていた。おれは窮屈さを感じていた。おれは信じられないくらいに勃起していた。おれのチンポがズボンの生地と彼女のパンツ越しに、彼女の柔らかな割れ目を突いていた。すぐに何かが込み上げてきた!
漏れる、とおれは思った。
おれは自分のパンツの中でドバっと何かが吐き出された。それがおしっこでないことは間違いなかった。
おれは怖くなってその場から逃げ出した。その後のことはあまり覚えていない。どうやって帰ったのかもわからなかった。濡れたパンツの感触が気持ち悪かったことだけは覚えていた。
その後ユースケとは何となく気まずい関係になってしまい、段々と疎遠になってしまった。別に彼から何か言われたというわけではなかった。おれから離れていったのだ。コージとは相変わらずつるんでいたが、三人で遊ぶといったこともなくなった。そのうちユースケの両親は離婚して、転校することになった。彼は何も言わずに学校から去ってしまった。
タバコの灰が膝に落ちて、おれは現実に引き戻された。二本目のタバコはすっかり短くなっていた。
そろそろ仕事に行く準備をしなくちゃな、とおれは思った。
おれはタバコを揉み消してから、ユニットバスの中に入って、便座に座った。おれはゆっくりとクソをした。無理やりひりだすということは流儀に反した。それからしっかりと紙で拭き取って、チェックして、流した。かぐわしい香りがユニットバスの中に広がったが、たちまち換気扇の奥に吸い込まれていった。換気口には埃がびっしりとこびりついていた。そろそろ掃除をしなければならなかった。
おれは洗面台の前に立った。指で目ヤニを取ってから歯を磨きはじめた。丹念に歯を磨きながら腹をぼりぼりと掻いた。口を濯いで女性用洗顔フォームで顔を洗った。肌が弱いのだ。泡は落とさず、そのままT字剃刀で髭を剃った。そしてようやく水で顔の泡を落とした。生まれたばかりというわけにはいかないが、そこそこ見られるようにはなった。
洗面台の鏡に映る自分の姿をおれはみた。それから鏡の中の自分に向かってにっこりと笑ってみせた。不気味な笑顔だった。
「いいか、男前」とおれは鏡の中の自分に言った。「ヤケを起こすんじゃないぞ。お前はだいぶくたびれてはきているが、まだまだ捨てたもんじゃない。誰が何と言おうと、おれはそう思う。だからヤケは起こすなよ。
今はまだ運が向いてないだけだ。そのうち運が向いてくる。また女だってできるさ。あの女のことは忘れろ。いいな。別れて正解だ。お前を変えようとしてきたんだからな。
さあ、そろそろ仕事に行く時間だ。シャキッとしろよ」
おれはくだらない儀式を終えて鏡から離れた。それからボロ切れみたいな仕事着に着替えた。シャツには穴が空いていた。くそっ。そろそろ新しい服を調達しなくちゃならない。おれには何かが必要だ。それが何かはわからないが。少なくとも服ではないことは確かだ。
おれは財布とスマホとタバコをポケットに突っ込んで、仕事に出かけた。
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