蠅取蜘蛛がコマ落とし映像のような動きで木製の机の表面を横切っていた。この部屋の中で動いているものはわずかにその小さな生物ひとつであった。部屋の主であるナーゴウは執務机の前で微動だにせず香箱を作って目を閉じていた。寝ているわけではない。考え事をしているわけでもない。彼はひとつの無なのであった。
興奮のために荒い息を繰り返す白い猫――その狭い額から顎にかけての領域と尻尾だけが特徴的に黒い――が体当たりするかの勢いでドアを開け、部屋に乱入してきたときにもナーゴウは身動きひとつしなかった。白猫は荒い息のまま動きを止めることなく、ただナーゴウの机の前で行ったり来たりを繰り返した。その息の音と肉球が木の床をリズミカルに叩く音が二分ほども続いた頃、ようやくナーゴウは薄く目を開いた。その緑の瞳が右へ、左へと白猫の動きを追う。白猫はナーゴウには目をくれることもなくひたすらにその場を往復し続けた。それはあたかも、そうすることによってのみ自らの命がまだ尽きていないことを証明できると主張するかのようであった。その動きを追うナーゴウの首が次第に伸びていった。それにつれて彼の目も大きく開いてゆき、その瞳孔は縦に細長くなった。無意識のうちに彼の爪がそのビロードのような指先からわずかに先端をのぞかせた。
そうしてナーゴウの首が伸びきって、床を歩く白猫をただ見下ろすばかりになった頃、ようやく白猫はその動きを止め、ナーゴウの正面に向き合う形となった。
「ナーゴウ、頼みがある」
それはそれまでの甚だ激しい動きに反する消え入りそうなか細い声色であった。
「なんだ、カブン。俺は仕事中だぞ」
ナーゴウは首を元に戻し、肩を揺らして香箱を整えつつそう返した。自分の爪が出ていたことに気づき彼はそれを少しばかり恥じたが、それと悟られぬようにさりげなく手首を内に曲げた。
カブンと呼ばれた猫は一歩、机のほうに歩み寄った。
「これは仕事の依頼だ。正規の料金を払う」
「ほお?」
お前の言うことなどハナから信じていない、といったふうの相槌であった。
「ただし俺が明日の昼まで生きていたらだ」
ナーゴウの態度などまったく意に介さずにカブンは続けた。ナーゴウは香箱を解き、いちどその場に座ってから、後足で自分の耳の後ろを掻いた。それから欠伸をするかの如くに大きく口を開いて閉じた。
ジト目の二匹は睨み合った。そのまま時間は過ぎた。ナーゴウは再び自らが無になっているのを感じた。猫は自分が欲求を持っていないときにはごく自然に無となるものだ。
翌朝、カブンは再びナーゴウの探偵事務所兼寝ぐらを訪れた。そのときナーゴウは珍しく深い眠りに落ちていた。朝といってもまだようやく空が白み始めた頃であった。
「ナーゴウ、起きてくれ。約束の時間に遅れている」
カブンはそう言って自分の頭をナーゴウの首筋にグリグリと擦りつけた。
ナーゴウは目を覚まさなかったので、カブンはなおも頭を擦りつけ、その体を押した。結果、ナーゴウはベッドから落ちかけ、ようやく目を覚ましたのだった。
「何しにきた、カブン。こんな朝っぱらに。今、何時だと思ってる」
ナーゴウは白目を剥きつつ、そう口にした。実際のところ彼の脳はまだ寝ていた。彼はどんなときにでも他者に対してはそれ相応の態度を取ることができるのだった。
「昨日頼んだじゃないか。もう忘れたのか」
そこでようやくナーゴウの脳は半分ほど目覚めた。だが彼は昨日のカブンの依頼については覚えていなかった。カブンが話をしている間のナーゴウは無になっていたため、何も聞いてはいなかったのだ。
「覚えているとも。それでは出かけるとしよう」
ナーゴウは言った。彼はどんなときにも体面は保つことができる。
二匹は連れ立って部屋を出た。カブンの歩く後ろをナーゴウは付いていく。会話はない。
まだ薄暗い街並みを抜け、二匹はやがて郊外にある湖の近くまでやってきた。その頃には一帯は朝霧に覆われ、わずか五メートル先のものが判別できぬほどであった。
二匹は露に濡れた草むらに足を踏み入れた。ナーゴウは毛先につく水滴の不快感に顔をしかめたが口は開かなかった。
前方にうっすらと自分たちと同じような連れ立つ二匹の猫の姿が見えてきたとき、ナーゴウはこれから起きることを悟った。
決闘だ――自分はカブンにその立会人となることを依頼されたのだ。決闘の際には互いがひとりずつ立会人を連れてくることができるルールである。
相手が大柄な黒猫と貧相なサバ斑であることが見て取れるまでに双方が歩み寄った時点でナーゴウは足を止めた。先方の黒猫も立ち止まり、カブンとサバ斑だけがさらに進んだ。
二匹は同時に唸り声をあげた。間合いを詰め、互いに睨み合う形となった。
延々と唸り声の応酬が続いた。ナーゴウは前足をそろえて座り、他人事のようにそれを眺めた。そのうちに自分が無であることを感じ始めた。
ナーゴウが我に戻り薄目を開いたのは唸り合い合戦に決着のついた後だった。カブンはひたすらに身繕いを繰り返していた――なんとか自分の不甲斐なさを取り繕い、体面を保とうとするかの如く。
「じゃ、報酬はカリカリ三個。忘れるなよ」
そう告げるとナーゴウはカブンを残してその場を後にした。
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