躑躅は八重桜が盛りを過ぎたころ里山や都会の公園をその淡い色で人々にしばしの憩いを与えてくれる代表的な初夏の花だ。次々に連なって花が咲く様子をつづき咲というが、その言葉が語源になっているとも言われている。花色も豊富で朱紅色、白、淡紅、紅紫とあり、初夏の陽光の中で人々の目を愉しませてくれる。これは躑躅にまつわるひとつの話である。
一九九二年初夏、三十一歳の私は室生古道をカメラを片手に歩いていた。室生寺を出て唐戸峠に至り仏隆寺を経て伊勢本街道に至る古道のハイキングである。初夏の澄み切った青空の下で陽光をきらきらと照り返す新緑がまぶしい。室生古道は適度に整備されているためであろうかハイキングの人たちと何度もすれ違った。一人で歩いている若い女性、がやがやと飽くことなくしゃべりながら歩いている昔の若者たちのグループ、外人のグループなど多種多様だ。室生古道ではそういう人たちの喜びが行き交っていた。
私は当時大阪の会社に勤めていた。社会人になった当初はテニスクラブに入って週末は殆どテニスをやっていたのだが、ボーナスで一眼レフカメラ、ニコンのF801を購入した。生まれて初めての一眼レフカメラである。プロの写真家になったような気がして写真を撮りまくっていた。ニコン製のカメラのその質感とシャッターを押した際のカシャリという作動音、その後にウィーンと続くフィルムの巻き上げ音といった、手に程よい重さが伝わる機能的なメカにたちまち魅了されてしまった。購入当初は会社仲間や友人たち、当時付き合っていた彼女などの人物写真ばかり撮っていた。当時住んでいたのは上本町である。一九九〇年の初夏だったと思う、私は友人たちと近鉄に乗って奈良まで出かけたことがあった。三十前だった私にとってそれまでは神社仏閣というものは全くと言っていいほど興味の対象ではなく人生の中で一度くらい奈良の大仏を見るのもいいかな、といった軽い気持ちでの奈良行であった。近鉄奈良駅の改札を出て地上に上がると噴水の中で静かに佇む行基像が迎えてくれる。そこからバブル前の昭和の匂いを色濃く残している東向商店街を抜けると猿沢の池に出る。初夏の澄み切った青空の中で池の畔から眺める興福寺の五重塔はその重層な佇まいでもって私をたちまちのうちに打ちのめしてしまった。時が止まったかのようなその情景は私を魅了するには十分すぎるほどであったのである。興福寺を抜けて奈良公園の中に入ると鹿たちが観光客を気にすることなく泰然として歩き回っている。古より守られてきたその情景に私は言葉を忘れて夢中になってシャッターを切ったのであった。春日大社の表参道から東大寺の参道へと折れて進んでいくと南大門があり鉄網で囲われた阿吽の像がある。南大門を抜けると目の前に壮観な姿で聳える大仏殿があった。五月の陽光を浴びた巨大な大仏殿、その屋根には澄み切った青空に浮かぶ黄金の鴟(し)尾(び)がきらきらと輝き都会では味わえない歴史の重層な空間を作り出していた。大仏殿の中に入ると大仏がそこにあること自体に圧倒されてしまう。そして脇を固める如意輪菩薩像と広目天像の巨大さも圧巻だった。その時は歴史について高校で学んだこと以上には知識がなかったので、何故に自分が感動しているのか理解していなかった。ただその巨大さのみに圧倒されていたのだが、それ以上の何か言葉に表せないものがあることは感じ取っていた。
その夜、私は上本町の近鉄デパートにある本屋さんで奈良の写真集を購入した。日帰りの奈良観光は私自身のそれまでの考え方を覆すほどに私に対して深く影響を及ぼしたのである。購入したものは入江泰吉の奈良大和路という写真集だった。買った当初は入江泰吉が誰かもわからず単に奈良のガイドブックとして、そして風景写真をどのように撮るのかの参考書として使用していた。入江が撮る奈良の景色は曇りや雨の日の物が多く彼の大和路の写真にはそれほど魅せられていなかったのが正直なところであった。今思えば彼の美学というものを理解できるには私自身の準備ができていなかったのであろう。しかしその時以来、私は魅せられたように週末に奈良へ通うようになった。奈良だけでなく佐保路、西の京、山の辺の道、飛鳥、吉野、長谷・室生、斑鳩など私の訪問地は着実に増えていった。特に山の辺の道を歩いているときの、どこまでも優しくそしてどことなく懐かしい風景に出会った時の体験は私の中に深く染み渡っていった。それにつれて私は入江が愛した奈良というものが伝えてくる世界にはまり込んでしまったのである。今、その当時を振り返ると私が感動し圧倒された奈良というものは時が幾層にも積み重なり、その隙間からしみだしてくる人々のいろんな思いというものが具現化した情景であったのであろう。若かった私にはそれが何なのかわからなかったが歳を重ねた後で見る入江の写真にはその情景が写されているのだと思えてくる。当時の私は入江泰吉という偉大な写真家の作品から知らず知らずのうちに大きな影響を受けて奈良に魅了され通い詰めていたのであった。
そのような経緯(いきさつ)があり私は一九九二年のゴールデンウィークも奈良にいた。室生寺から出発する室生古道を歩いてみようとしたのである。
室生寺は石(しゃく)楠(な)花(げ)の季節であり境内の中で咲き競うようにその薄桃色の淡い輝きを放っていた。五重塔を望む石段の周りでも同様で剥げかけた朱色の塔に誘うかの如く柔らかい彩を放ち訪れるものを迎えていた。
室生寺を出て西光寺を過ぎ古道を進む。山道から眺める室生の里の景色が昔話の山里の様で郷愁を誘ってくる。カトラ新池の青い池面を眺めながら暫し休憩した。さざなみ一つない静寂な池の面に向こう岸の緑が映り込んでいるといった美しい初夏の情景を満喫できるためであろうか、多くのハイキンググループが軽食を取りながら歓談していた。私は再び古道へと戻り唐戸峠へと歩を進めた。峠を過ぎて山道に入る。杉林が心地よい陽だまりを作り出す中ひたすら曲がりくねった山道を下りて行った。時折水を張った棚田が斜面に沿ってなだらかに段差を形作っている光景に出くわした。古より人が作り守り続けてきたその情景は眩しすぎるほどに眼(まなこ)を通して体中に染み渡ってくる。日本の原風景としてこの景観はいつまでも私の中に残っていくのだろうかとふと思った。歩いているうちに山躑躅がところどころ山肌を覆いだしそして仏隆寺へと続く石段に到着した。有名な千年桜はすでに葉桜となっていたのが残念だが躑躅に彩られた山寺も心地よい憩いを与えていた。仏隆寺にて参拝し暫しその山寺の作り出す情景を満喫した。青空と若葉の透き通った緑が織りなす彩の競演は時折聞こえてくる時鳥のさえずりを加えて、鄙びた山里の佇まいが醸し出すどこかしら懐かしくて暖い空間を私の目の前に作り出していた。
仏隆寺にて十分に休息をとった後で再び室生古道を下って行った。いくつもの曲がり角を通り過ぎたところで女の人の声が聞こえた。
「カメラマンさん、カメラマンさん」
私がその声のする方向に顔を向けると一人のおばあさんが手招きしていた。
おばあさんは小柄で人懐っこい笑顔で私に近づいてきた。手ぬぐいを姉さん被りで頭に巻き付け木綿のシャツにエプロンを纏い泥だらけの青いズボンにゴム長靴といった姿である。
「カメラマンさん、うちのツツジ、真っ赤できれいなんよ。写真に撮ってくれへん?」
おばあさんはそう言って私を強引に脇道へと先導した。私は戸惑いながらもついていくことにした。少しばかり歩いていると古民家が見えてきてそこには深紅の見事な山躑躅が栗の木の下に咲いていた。
「これはうちが大切に育ててん。きれいに咲いてるとこよおうさん撮ってって」
何とも無邪気なおばあさんに促されて私は数枚、その躑躅を写真に収めた。栗の木が丁度良い影を山躑躅に作っていたので、その深紅の花弁を美しくとることが出来た。農家の横にあったもう一つの山躑躅と一緒にそのおばあさんも写真に収めた。おばあさんは大変満足したようだ。
「カメラマンさん、冷たい麦茶うちで飲んでかへん?さあさ、あっち行こ」
私は積極的なおばあさんの態度に抗うのも申し訳なくて誘われるままにおばあさんのうちにお邪魔することになった。母屋に入ると土間がありその横に居間があった。私は土間の玄関の横の居間に続く板床に腰かけておばあさん自家製の柏餅と冷たい麦茶を頂くことになった。
おばあさんの名前はハルという。苗字も教えてもらったが忘れてしまった。ハルさんは大正九年に山向こうの室生村で生まれたそうだ。十六の年にこの榛原の地へ嫁いできたとのことである。二男三女をもうけたが長男と次女を幼い頃病気で亡くし今は長女と次男が大阪で暮らしているようである。三男は名古屋に住んでいるとのことであった。おばあさんの夫は十年前に他界して今ではこの榛原でハルさんは一人で住んでいるそうである。それでも近所のじいさんばあさん連中が毎日のようにハルさんを訪れるし、長女も月に一度は泊りがけで家の掃除などしてくれるということでハルさんは独り暮らしに不自由は感じていない様であった。私がハルさんの話に合わせて相づちを打ちながら聞き入ったせいだろうか、ハルさんは適当な話し相手が見つかって喜んだのか彼女の話は一向に止む気配がなかった。躑躅は彼女がここに嫁いだ時にお舅さんが記念に植えてくれたものであるそうだ。そのうちに戦争がはじまると大掛かりなものではなかったが榛原でも米軍機による空襲がたびたびあったようだ。空襲のたびにサイレンが町中に響き渡りハルさんは幼い長男と長女を抱きかかえて山の中腹の防空壕へ駆け込んだ。米軍機からのババババッという機銃掃射の音は今でも強く彼女の耳の奥に残っている。私はどなたか榛原の人間で犠牲になった人がいたのかと尋ねたが数人の犠牲者が出たようであるがハルさんの知人は無事であったとのことである。ただおじさんにあたる舅の末の弟が戦後シベリアに抑留されたまま帰ることはなかったとハルさんは陽気に話してくれた。ハルさんの話で一番私の記憶に残ったのは大阪大空襲の話である。昭和二十年の春ごろから大阪は何度か空襲されそのたびに山向こうの北西の空が赤く燃え上がっていたというものでその場面が心に浮かんできそうな話だった。その時のハルさんの顔は怒りでもなく恐怖でもなくただ遠くの一点を見つめて諦観したような表情だった。その表情はその時から三年ほど前に亡くなっていた私の祖母が戦時中の話をするときと全く同じ表情であったので、なぜかハルさんに対して親近感を持ってしまったのである。私の祖母は武家出身であったので普段は凛として背筋がすっと伸びたような人であった。笑顔を始終絶やさないハルさんとは全く違い普段はあまり笑わない人であった。その祖母が時折話してくれたのが長崎への原爆投下時の被害の様子であった。その時の祖母の表情は今のハルさんと同じものでありどこかさみし気に一点を見つめたまま淡々と話していたのである。幼かった私にはその皮膚が焼けただれて豊満であっただろうおっぱいが干からびてしまった女の様子、体は動かないのだがまだ死んでなくて目だけが動いていたという話が特に胸の深いところへと突き刺さっていた。トラウマというものではないが人が作り出したこの世の地獄の光景とはそういったものであろうかという観念といった方がいいであろうか、そのような印象が深く刻み込まれたのである。ハルさんが紅蓮に燃え盛る大阪の話をしたときに私が思い起こしたのはそのことである。人が作りしこの世の地獄の光景だ。そして人がこの世の地獄を語るときのある種共通した感情から表出されている諦観の表情である。
私は静かにハルさんの話を聞いていた。あたかも時が止まってしまったかのような静寂さの中で時折聞こえてくる時鳥のさえずりが今ここにいるという認識を私に与えていた。戦後ハルさんは舅や夫と一緒に農作業をする傍ら町の役場で事務員として働き家計を助けたのである。それにより長女は大阪の短大に行き、次男は大阪の大学を出たそうである。三男は頭の出来が良くなかったのかもしれないが地元の高校を出たあとで名古屋の自動車工場へ集団就職をしたとのことだ。この二十年の間に優しかった舅が亡くなり、その八年後に姑が亡くなった。そのすぐ後に肺を患っていたハルさんの夫もなくなったそうだ。あんなにたくましかった身体も亡くなる直前にはやせ衰えて看るのがつらかったとうっすらと滲んだ瞳でハルさんは話してくれた。
気づいたらハルさんの家にお邪魔してから二時間以上経過していた。私はハルさんにご焼香させてくださいと断って仏壇の前で慣れない正座でぎこちなく座ってハルさんの家族に感謝の意をささげた。仏壇の壁に掲げられているハルさんの旦那さんの遺影がとても柔和で暖かな気持ちに自然となった。その後で柏餅と冷たい麦茶そしてお話の礼を述べてハルさんの家を出た。出たとたんに初夏の眩しい日差しが急激に襲ってきて私を現実の世界へと引き戻したのであった。
私はその年の冬に大阪を離れて東京の会社に勤めることになりハルさんの躑躅を再び訪れることはなかった。別れ際に深紅の山躑躅の横でしきりに手を振っていた小さなハルさんのその笑顔が今でも時折思い出される。そのことが現実にあったことなのかある初夏の幻であったのか判らないがハルさんは深紅の山躑躅と一緒に今でも私にその無邪気な笑顔を写真の中で見せてくれている。
東日本大震災の翌年の初夏、私は室生古道を歩いていた。二十年の年月が過ぎていた。私には家族ができた。若いころはどちらかといえば口数の少ない方であったが、仕事を通じて私は饒舌になっていた。大阪にいるころにあれほど夢中になっていた風景写真を撮ることも奈良という被写体がなくなったせいであろうか、殆ど興味を失ってしまっていた。休日は専らテニスをやって過ごしていた。そのような私に再び写真撮影の興味を抱かせたものがデジタル一眼レフカメラの登場である。コンパクトデジカメと比較してそれは本格的な写真撮影を再び始めるには十分な動機となった。私はニコンのD700を片手に室生寺を訪問したのである。二十年ぶりの室生寺は金堂へと昇る石段に竹製の手摺が設けられている以外はさほど変わっていないようである。室生古道は昔より整備されているようだ。ハイキングを楽しむ人たちも増えたようである。外国人の姿も昔より目立っている。それでもカトラ新池は昔と変わらずにその青い池面を青空の下で輝かせており仏隆寺は変わらずにその時を重ねた姿で佇んでいた。所々変わったものはあるのだが二十年の年月が過ぎ去ったことが忘れられるほど、その鄙びた山里の情景は昔と同じように日本人の故郷として旅人を温かく包み込んでいた。仏隆寺を出て道沿いに下っていくとハルさんに声を掛けられた曲がり角に至った。なぜか胸が高まってくるのが感じられる。ハルさんの家へと向かう小道に入り暫く歩いた。すると目の前に昔より太く高くなった栗の木が佇んでいた。その木が作り出す陽だまりの中に手入れが行き届いた深紅の山躑躅が昔と変わらぬ素朴な美しさを放ちながら五月の涼やかな風にその花弁を揺らせていた。私はその前で、時が固まってしまったかのように動くのも忘れて立ち尽くしていた。
「こんにちは、ええ天気やね」
女の人の声に我に返り振り向いた。
そこには小柄だが背筋が伸びた姿勢で薄茶色に染めた髪をバンダナで包み込み、赤地に格子柄の長そでシャツを着てオーバーオールのジーンズにゴム長を履いたおばあさんが立っていた。その容姿は違うのだが顔つきは二十年前にここで出会ったハルさんを思わせるものである。私は何か違和感のようなものを感じていた。
「こ、こんにちは、は、ハルさんですか?」
おばあさんは少し驚いた顔をして、私をじっと見つめた。
「ちゃうよ。ハルは私の母親やねんけど、あんたはん母の知りあいやろか」
私はこの言葉にほっとするのだが先ほど感じた違和感は未だに引きずったままである。
「そうですよね。ハルさんとは二十年前にここでお会いしたんですけど」
おばあさんはハルさんの娘で静江さんというそうだ。ハルさんは四年前に亡くなったらしい。亡くなる直前まで元気で畑仕事をしていたのだが、三月のまだ寒い中に畑の中で倒れているところを静江さんが見つけて救急車で病院に運び込んだのだが既に心肺停止状態でそのまま目覚めることなく永眠したとのことだった。ハルさん八十八歳の大往生だったそうだ。その話を聞きながら私の中で違和感がさらに膨らんでいるような気がした。
「そうですか、残念ですね。私は二十年前にそこの道でハルさんにお声かけていただいてこの山躑躅の写真を撮ったんですよ。その際にハルさんのお話も聞かせていただきました。それ以来、奈良に来ることがなかったんですけどね。ちょっと時間ができたんで懐かしく思って室生古道を歩いてきたんですけど。そうですか、残念ですね。でもハルさんのことが分かってよかったです」
静江さんは何か思い当たることがあったようだ。
「あんたはん、お母ちゃんの写真撮ってくれはった人やろか」
私の中で違和感はさらに強くなってきている。
「ええ、ちょうどその母屋の横の山躑躅とハルさんを一緒に撮りました」
「ほんまにありがとね、ちょっと母に会うてくれへんやろか」
静江さんはそういいながら私を母屋へと招いた。私の中では違和感に加えて何か不愉快な感情が膨れ上がってきている。私は手招きに応じて二十年前にハルさんに招かれた母屋へと向かった。
所々補強はされているのだが基本的には二十年前と変わっていないようだ。部屋の中はむしろ小ぎれいになっている。私は土間から居間へと上がり右手にある仏壇が置かれた部屋へと入った。部屋の中には仏壇の上の壁に昔と同じようにハルさんのご先祖様の遺影が並べられている。優しい顔をしたハルさんの旦那さんの写真がある。そしてその横にはハルさんの遺影があった。その遺影は多少の加工はされているが間違いなく私が二十年前に写したハルさんの写真であった。
私の中で違和感が最高潮に達していた。私はこの写真をハルさんに届けたのだろうかと自身に問いかけてみる。私の記憶ではその時はハルさんの住所も分からずにいつか榛原に行くときに届けようと思っていたはずである。しかしその年の冬、私は東京に移ったのでハルさんに写真を渡せなかったのではないか。そのことが心の片隅に沈殿していて時折自責の念に駆られたのではなかったか。それなのになぜハルさんの写真がここにあるのだろうか。それにそもそも私はあの日以来榛原に戻ったことなどなかったのではないか。静江さんとの出会いは私の体験にはないはずだ。これは誰の記憶なんだろうか。
このような疑問が私の頭の中を駆け巡っていたのだが、その意識もだんだんと薄れていくようだった。
白衣を着た男はベッドに横たわる老人の右手を静かに持ち上げて脈を測り、その後で老人の右目を開いて懐中電灯を当てて瞳孔の確認を行った。その後ろには数名の看護師が並び、その対面には老人の家族だろうか、静かに白衣を着た男の所作を眺めていた。
二〇四五年政府は社会的な強い要求により国民の死去に際して安楽な終結にするために対象者の記憶を走査し一番安らかな気持ちにさせるイメージを送り込むといった、国民終末法案を賛否両論ある中で通過させた。これはAIの飛躍的な進歩による脳の働きと精神作用の解析が進んだことにより可能となったものであった。この法案の導入にあたり臨床試験をボランティアに対して慎重に行い、いかなる副反応や被験者からの問題提起もなかったことを踏まえて法案通過二年後に本格的な導入が展開された。
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