学校

幸せになんて、ならないで

黒澤伊織

小説

14,481文字

不登校をテーマにした短編小説です。学校が嫌で自殺を企てたユッコ。命は助かったものの、彼女は「学校」というものの記憶を、すっかり忘れてしまっていた。学校を知らない者から見た学校を描いた短編小説です。

 幸せになんて、ならないで

    👧

 そうしてユッコが目覚めたとき、胸には温かな光が満ちていて、そのおかげで周りの大人たちのドタバタ劇にまったく気が回らなかったのだった。

 どんなに大きな台風でも、そのは静けさに満ちている。ユッコは生まれたての赤ん坊のように、静寂の中、ぼんやりとその光を眺めていた。そして、そうするうち雨も風も過ぎ去って、ようやく自宅へ戻ったユッコは、それから自分の身に起きた奇妙な現象に気づいたのだった。

 それはある日、ママと買い物へ行ったときのことだった。

「あら、学校は今日、お休み?」

 買い物かごを手に取ると、おばあさんに話しかけられた。

「えっと――」

 ユッコは反射的に口を開いたが、先に答えたのはママだった。ママはユッコをかばうように前へ出て、

「ええ、そうなんです」

 強張った笑顔でそう言った。と思うと、ぎゅっとユッコの手を握り、すたすたと店の中へ入っていった。いままでそんなことがあっただろうか。ユッコは首を傾げ、それからこう思ったのだ。

 あれ、学校って何だっけ?

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「ねえ、学校って何だっけ? わたし、知っていたような気がするけれど、忘れちゃったみたいなの」

学校のこと、覚えてないの?」

 すると、聞いたユッコが驚くほど、ママはとても驚いた。それから、いまにも泣き出しそうな顔をしたものだから、ユッコは聞いてはいけないことを聞いてしまったような気分になった。ユッコが首をすくめると、胸の光もきゅっとすぼんだ。

 一体全体、ママはどうしてそんな顔をするんだろう? 学校のことを聞くのって、そんなに変なことかしら?

 ユッコはママ思いだったから、ママが悲しむ顔は見たくなかった。でも、学校。それを知らずにいて、また今度スーパーに行ってあのおばあさんに会って「学校はお休みかい」って聞かれたら、ユッコは返事に困ってしまう。ママに強張った笑顔をさせてしまう。

「あのね、ママが本当に嫌だったらいいんだけど……」

 だから、ユッコは慎重に言った。

学校って何なのか、聞いてもいい?」

学校が……か?」

 するとどうしたことだろう、ママはキツネにつままれたような顔をした。

学校が何かって、どういうこと?」

「どういうこと、って、どういうこと?」

 今度は、ユッコが混乱した。わたし、何か変なことを言ったかしら。それは例えば「アボカドってなぁに?」とか、「ベネズエラってどこ?」という質問と、どこが違うっていうんだろう?

 ユッコは慎重に、問い直した。

「えっとだから……学校って何? 人の名前? それともお店の名前? あのおばあさんはお休みかって聞いてきたけど、それっていつまでお休みなの?」

「……ユッコはいつまでだと思う?」

「え? 分からないよ。だからママに聞いてるんだよ」

 険しくなっていくママの顔に怯えながらも、ユッコは正直に答えた。すると、

「ねえ、ユッコ」

 突然、ママの手がユッコの腕をギュっと掴んだ。

「ママ、ふざけてるんじゃなくて、本当の本当に聞いてるんだけど……ユッコは学校に行ってたでしょ? 覚えてないの?」

 真剣な眼差しに、ユッコはたじろいだ。学校。がっこう。ガッコウ。ユッコは一生懸命に学校を思い出そうとしたけれど、できなかった。こんなにも思い出せないなんて、誰かがユッコの記憶のその部分を捨ててしまったとしか思えないくらい。

 そんなユッコの様子に、ママの行動は早かった。つまり、お出かけのハンドバックを引っ掴み、ユッコを車に乗せると、勢いよくエンジンをかけたのだ。

「ママ? どこに行くの?」

 慌てたユッコが尋ねると、

「病院よ。病院に行かなくちゃ」

「どうして?」

「どうしてって、だってあなた……」

 ハンドルを握り、前をしっかり見ながらも、ママは肩で涙を拭った。ママが泣いてる! ユッコは驚いて、息を止めた。

 学校が思い出せないのって、それって何か怖い病気なの?!

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 けれど結論から言ってしまえば、ユッコには何の異常もなかった。大きな病院中のあちこち連れ回され、変な機械に入れられたり、今度は出されたり、たくさんの質問に答えたりしたのに、だ。挙げ句の果てに精神科を勧められたママは怒っていたけれど、ユッコがその間考えていたのは、やっぱり学校のことだった。

「じゃ、学校勉強をするところなの?」

「そうよ。子供はみんな学校に行くの」

 家へ帰り着いてからも、ママはとても不機嫌だった。

子供って、誰のこと?」

「ユッコみたいに小さい、大人じゃない人間のことよ」

「わたしは子供で、ママやパパは大人?」

「そうよ」

「どうして子供勉強するの?」

「ちゃんとした大人になるためかな」

「ママとパパはちゃんとした大人?」

「まあ、そういうことになると思うけど」

「なら、ママたちは学校行ったの?」

「そうよ」

「じゃあ、わたしはいつ学校へ行くの?」

「それは――」

「じゃ、もしこのまま学校へ行かなかったらどうなるの? 子供子供のまま、大人になれなくなっちゃうの?」

「ユッコ、質問は一つずつに――」

「でもさ、大人になれなかったら、どうなるの? それに、なぜ大人にならなきゃいけないの? 子供のままがいいからって、ずっと子供でいたらいけないの?」

「ずっと子供でいられるわけないでしょ」

 ユッコから溢れ出したたくさんの疑問に、ママは悲鳴を上げるように言った。

「それに、そんなにたくさん、ママも答え切れないわ」

 ママが降参した後、ユッコの質問を引き継いだのはパパだった。

「そうだね、子供はみんな学校へ行くんだ。学校で勉強しないと、いい仕事に就けないからな」

仕事?」

「そうだよ」

 パパは頷いた。

「パパも、ママも、それに大人はみんな仕事に行くだろう? そうやってお金を稼いでいるから、ユッコは毎日ごはんを食べて、洋服を着て、お家に住んで、人並みの暮らしができる――そう、生きていくことができるんだよ」

「でも、ママはちゃんとした大人になるために勉強するんだって言ってたよ」

 ユッコが聞くと、

「うん、だから、ちゃんとした大人のほうがちゃんとした仕事に就けるんだよ」

「じゃ、学校に行って勉強してちゃんとした大人になったらいい仕事に就いて、ちゃんと生きていけるってこと?」

「必ずってわけじゃないけど」

 パパは苦笑いした。真剣さに欠けるパパの態度に、ユッコはむっとした。

「どうしてなの? 学校に行っても駄目なことがあるってこと?」

「それは……個人じゃどうしようもないこともあるからさ」

「どうしようもないことって、なぁに? 例えば、すごく勉強しても無駄になる人もいるってこと? それに、仕事に就けなかった人はどうなるの? 生きていけなくなっちゃうの?」

「大丈夫だよ、学校に行かなくても、家でちゃんと勉強してればそんなことにはならないから」

「でも、どうしようもないこともあるって」

「たまにだよ、たまに」

 パパは急に及び腰になった。

「ほとんどの人はそうならないから。だから大丈夫だよ、ユッコ」

 分かったような、分からないような答えだった――つまり、ユッコには何一つ分からなかった。それはパパにも伝わったのか、次の日の夜、珍しく早く帰ってきたパパは、小さな箱をユッコに手渡した。

「ユッコ、プレゼントだ。ケータイだよ」

 そして、にっこり笑って言った。

「分からないことがあったら、これで何でも検索すればいいからね」

    👧

 どうしてユッコはパパやママに直接質問してはいけないのかといえば、それはパパはいつも仕事で家にいないし、加えて、明日からはママも仕事に戻るからだということだった。

『それに、ケータイのほうがパパやママの言うことよりも正確で早いしね』

 そうして二人は次の朝、さっそく仕事へ出かけてしまった。ユッコとケータイをママのママ、邦ばぁばの家に預けて。

「じゃ、ママは七時には迎えに来るから」

 置き去りにされたユッコは、邦ばぁばの家の家を探検した。とはいっても、そこは小さなアパートで、キッチンお風呂トイレの他は一部屋しかなく、そこに邦ばぁばが布団を敷いて眠ってしまえば、ユッコのいる場所なんてどこにもなかった――そう、朝の八時だというのに、邦ばぁばはごうごういびきをかいて、眠っていたのだ。

 遮光カーテンまで閉められた暗い部屋の中では、「ちゃんと勉強するのよ」、ママに持たされた本も読めず、ユッコは台所に座り込んだ。カビ臭くて、ほこりっぽい。膝を抱えてぼんやりしていると、いつかの胸の光が一回りほど小さくなっているように思えた。あのときは胸いっぱいにキラキラ光っていたのに、いまは元気がないみたいだ。

 するとそのとき、外から賑やかな声が聞こえた。

 何だろう? そっと玄関のドアを開けて、外を窺うと、色とりどりのカバンを背負った子たちが楽しそうに歩いている。その後ろからは、お揃いの紺色の服を着た子たちがおしゃべりしながらどこかへ向かっている。

 あの子たち、学校へ行くんだ。しばらくして、ユッコは気がついた。どきん、心臓が音を立てた。胸の光もざわりと揺れた。あの子たちについて行ってみようか。そう、例えばこんな風に声をかけて――「おはよう、わたし、学校へ行きたいんだけど、一緒に行ってもいい?」。

 けれど、言うべき言葉はすぐに思いついたというのに、結局その子たちがみんな行ってしまうまで、ユッコの足は動かなくて、心臓はどきどきしたままだった。そんな自分の様子に、さすがのユッコも理解せずにはいられなかった。わたし、学校へ行かないんじゃなくて、行けないんだ――ってことを。

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「どうしよう、どうしよう、ねえママ、わたし、どうしたらいいの?」

 その日、約束より一時間も遅れた午後八時、ようやく迎えに来たママに、ユッコは赤ちゃんみたいに泣きついた。

「ユッコ、ユッコ、どうしたの?」

 ママはとても驚いて「ちょっと、お母さん!」、邦ばぁばを呼んだ。

「ばぁばは、仕事に出かけちゃったよ」

 ユッコは泣きじゃくりながら、そう言った。

「夜勤だって。ばぁばは夜、働くんだって」

「ああ……」

 ママは深いため息をついた。

「ごめん、そうだった。ママ、忘れてた」

 けれど邦ばぁばが出かけてしまおうと、ママが約束を破ろうと、いまのユッコにとって、そんなことはどうでもいいことだった。それよりもユッコには大きな疑問があって、その答えを聞くことが何より大事だった。

「ねえ、ママ」

 けれど、この期に及んでユッコはためらった。子供はみんな学校へ行く。パパもママもそう言ったし、そのあと、ケータイで調べた答えも同じだった。子供学校に行くもので、行かない子は不登校と呼ばれ、社会的に大きな問題となっている、と。

 つまり、ユッコはその大きな問題の一部だった。不登校で、問題のある子供。それがユッコだ。そんな子供が自分の子だなんて、誰だって嫌だろう。だから、ユッコはためらったのだ。けれど、そのとき反発するように胸の光がぐうっと大きくなって、気がつくとユッコはその言葉を口にしていた。

「ママ、どうしよう。わたし、学校行けないみたいなの。行かないんじゃなくて、行けないの。行ってみようと思っても、どうしても足が動かないの。ねえ、ママ、わたしどうしたらいい? だって学校に行けなかったら、ちゃんとした大人になれないし、仕事にも就けないし、生きていけない。生きていけないってことは、わたし、もしかしてこのままじゃ死んじゃうってこと――」

「死ぬなんて言わないで!」

 耳をふさぐようにママは言って――ユッコの光はきゅっとすぼんだ。違うよ、ママ。わたし、死ぬだなんて言ってないよ。生きていたいから、だから助けて欲しいんだよ。

「……学校へ行かなくても、大丈夫だから」

 ママはもう一度ため息をつき、疲れたように眉間を揉んだ。

「ママが何とかするから。だから、そんなこと心配しないで」

「でも……本当?」

 少し小さくなってしまった光を抱きしめるように、ユッコは聞いた。

「本当よ」

 ママは言った。

「だから、とりあえず家に帰りましょう。ごはん、まだ食べてないでしょ」

 ママは手を伸ばすと、玄関の電気を消した。それは本も読めないくらい、小さな明かりだったけれど、消えてしまうとまるで世界から太陽がなくなってしまったようだった。

 その闇に浮かぶ、ユッコはママの白い横顔をそっと見上げた。でも、それはまるでユッコのママじゃない、誰か別人みたいな横顔だった。

   👧

 学校へ行かなくても、生きていける

 それは本当なのか、はたまたそれはユッコを安心させるための嘘なのか――ユッコはママの言葉を疑ったことなんてなかったけれど――そこに芽生えた疑いは胸の光を押しのけて、しっかりとそこに陣取った。それが嫌だったユッコは、ママともっと話したかったけれど、ママは明日も仕事があって、その次の日も次の日も、ずっと仕事に行くのだった。

 だから、翌日もユッコは邦ばぁばのアパートの前で車を降りた。仕事に遅れちゃいそうだから、とママが言うので、ユッコは一人で階段を上がって、少し考えてから、木目プリントのドアを叩いた。「邦ばぁば、おはよう。入ってもいい?」。しばらく待っても出てこないので、もう一度叩こうとした瞬間、恐ろしい勢いでドアは開いた。

「人が寝てることくらい、知ってるだろう!」

 出てきたのは、とても不機嫌な邦ばぁばだった。邦ばぁばはギロリとユッコを睨みつけた。

「ごめんなさいの一言も言えないのか、この子は。まったく、迷惑な上に礼儀も知らない馬鹿だね」

 言えないんじゃなくて驚いてただけだし、黙って部屋に入るのは失礼だと思ったからドアを叩いたのだ。それでも、ごめんなさい、ユッコは慌てて言ったけれど、そのときにはもう邦ばぁばは背中を向けていた。

「ドアはちゃんと閉めておくれよ!」

 言われた通りにドアを閉めながら、ユッコはとても悲しくなった。やっぱり、わたしって問題がある子供なんだ。学校へ行けないから礼儀知らずで、おまけに馬鹿迷惑なんだ。

 もちろん、悲しくなった理由は他にもあった。ユッコのことを、迷惑礼儀知らずでおまけに馬鹿だと思っている人のところへ、ママはユッコを預けたということだから。

 一度は閉めたドアを、ユッコはそっと開くと、肩を落として外へ出た。昨日と同じ、子供たちが通り過ぎるのを待ってから、子供たちとは逆の方向に歩き出した。

 知らない町を歩くユッコに、目的地なんてものはなかった。けれど、行く場所はわからなくても、行きたい場所はしっかりあった。

 それは、不登校子供がいる場所。ユッコみたいな子供が集まるところ。そんな場所があるのかどうかは分からないけど、邦ばぁばのいびきを聞きながら過ごすよりは絶対にいい。

 小さくなった胸の光の代わりに、ユッコの手はポケットのケータイを握りしめた。日本には不登校児十四万人以上もいるって、ケータイは昨日、教えてくれた。十四万人! そんなにたくさんの子供学校へ行けないんだ。ユッコは気持ちが楽になった。

 だって、きっとその子たちもこんなに悲しい気持ちでいるんだ。辛い気持ちでいるんだ。このまま学校に行けなかったらどうなっちゃうんだろうって、とっても不安でいるんだ。そう考えると、何だか力が湧いてくる気がしたし、それにそんなにたくさんの仲間がいるなら、学校へ行かなくても生きていける方法を、知ってる誰かに会えるかもしれない。

 ユッコは歩いた。仲間を探して一生懸命に歩いた。だけど、声をかけてきたのは、ユッコの探している仲間じゃなかった。

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「あれ、こんな時間じゃ、学校遅刻するよ」

 声をかけてきたのは、立ち話をしていたおばさんだった。

「歩いてないで、走らなきゃ!」

 笑われ、恥ずかしくなったユッコは、言われるままに駆け出した。走るユッコを、道ゆく人たちは微笑ましく見守っていたが、時間が経つにつれ、その表情は険しくなった。

「あの子、どこの子かしら? もうとっくに学校は始まってる時間なのに、どうしてこんなところにいるの?」

「それどころか、あの子、手ぶらじゃない。ランドセルも何も持ってない。おかしいわ」

「今日って祝日? そんなはずないだろ。それなのに、どうして子供がこんなところにいるんだ?」

学校ってこの辺にあったっけ?」

 ひそひそ、こそこそ、内緒話は大きくなった。みんながみんな、わたしを見てる。わたしを見て、おかしいって言ってる。だって思ってる。たくさんの視線に晒されて、ユッコは走った。走ったというより、全力で逃げた。でも、それほどたくさんの視線から、ユッコが逃げきれるわけもなかった。

「おいおい、君か。走り回ってる子供っていうのは」

 ユッコを捕まえたのは、何と自転車に乗ったお巡りさんだった。お巡りさんはユッコの前に回り込み、通せんぼするように手を広げた。

「こんなところで何してるんだ? 学校は? 家はどこ?」

 また学校だ。ユッコは泣き出しそうになった。どうして、みんな学校学校って言ってくるの? そんなに学校に行かないのは駄目なことなの? お巡りさんを呼ばれるほど?

「わたし、わたし……」

 息ができなくなりそうな錯覚に、ユッコは焦った。まるで手負いの獣を追い詰めたとでもいうように、お巡りさんはじりじりとユッコに近づいた。

「この辺りを見慣れない子供がうろうろしてるって、近所の人から通報があったんだよ。話を聞きたいだけだから、ちょっと交番まで来てくれるかな?」

「わたし、何かいけないことをしてるんですか?」

 ユッコは言った。自分でもびっくりするほどきつい口調だった。けれど、そうやって気を張り詰めないと涙がこぼれてしまいそうだった。

法律違反という意味ではそうじゃないけど」

 すると、お巡りさんの目がぴかりと光った。

普通の子は学校に行ってる時間だ。それなのに、外でふらふらしているのはおかしいだろう」

子供は外に出ちゃいけないんですか?」

「だから、いけないってことはないけど……あのねえ、年上の人にそういう生意気な口を聞くなって、ご両親に習わなかったかい? 学校はそういうことを学ぶ場でもあるんだから、学校に行かないなんて非常識と言われても仕方がないと思うよ」

 非常識。ユッコは普通子供とは違う。非常識な子だ。だから、みんなユッコを見る。学校に行ってないの? と問いかける。お巡りさんを呼ぶ。すいません、あの子、学校にも行かないで遊んでるみたいなんですけど

 じゃり、お巡りさんの靴の下で小石が鳴った。反射的にユッコは踵を返し――生垣の向こうに飛び込んだ。「おい、待て!」。急にどすの利いた声で、お巡りさんが叫んだけれど、無我夢中でユッコは逃げた。初めての場所で、道なんかまるで分からなかったけれど、気がつけばユッコは邦ばぁばのいびきを聞きながら、玄関の内側に座り込んでいた。

 十四万人もいるはずの仲間に、ユッコは会うことができなかった。それもそうだ。だって、外に出たらあんな恐ろしい目に遭うんだ。だとしたら、誰も外へなんか出るものか。誰も来ない、安全な場所にいるしかない。家に引きこもっているしかない。買い物に行ってもいけない。散歩しててもいけない。仲間を探してもいけない学校以外の場所に、子供はいるべきじゃないんだから

    👧

 その日、元気のないユッコに、ママは全然気づかなかった。ううん、気づいているのかもしれないけれど、気づかないふりをしているのかもしれない。疑いを覚えたユッコは思った。それを、ママも仕事で疲れてるんだから――いままでの思いやりのあるユッコが庇った。ただでさえ、わたしには問題があるんだから、これ以上、ママに求めちゃいけない。

 ユッコは、ユッコの問題が同時にママの問題であることを知っていた。これも、ケータイが教えてくれたのだ。

 「子供には教育を受ける権利があり、その親には子供教育を受けさせる義務がある」。教育というのはつまりは学校に行くということで、ユッコが学校に行っていないということは、ママが学校に行かせる義務を怠っているということになってしまうらしいのだ。

 もちろん、それで刑務所に入れられるなんてことはないだろう。でも――法律違反じゃないけど――あのお巡りさんだってそう言ってたみたいに、法律違反じゃないけれどしてはいけないことが、世の中にはあるのだ。そうしないと非常識おかしくて、だからたくさんの人からジロジロ見られても仕方がなくて、時には通報されなくちゃならなくて、誰に迷惑をかけているわけでもないのに、まるで刑務所に入ってるみたいに自由を奪われてしまうことが。

 だから、学校へ行かなくてもいいなんて、本当はなのだ。だって、ユッコは学校に行かないから、他の子供たちが学校にいる間――もしかしたらそうではない時間も――外に出る自由を奪われている学校へ行けない子が、外で遊ぶなんておかしいから。それはとても非常識なことだから。

 一方、ママはそんな問題のある子供を持って、おまけに義務を怠っているなんて言われてしまう。「お子さん、学校へ行ってないの?」。ユッコが「学校は?」と聞かれるよりも、きっとママは何回も何回もそう聞かれたことだろう。とっても嫌な思いをしただろう。だから、あのスーパーであのおばあさんに、強張った笑顔を浮かべたのだ。

 でも、それはママのせいじゃない。ユッコに問題があるだけだ。ママの隣で、ママの寝息を聞きながら、ユッコは声を殺して泣いた。

 これ以上、ユッコはママに迷惑をかけるわけにいかなかった。だから黙って、何も話さないようにしようと決めた。

 でもそうしたからって、一体これからどうしたらいいのかなんて、ユッコに分かるはずもなかった。

    👧

 いつしかユッコに宿っていた光は、見る影もなく小さくなり、その輝きも失いつつあった。

 外へ出ることができなくなったユッコは、邦ばぁばのアパートのベランダで、毎日勉強をして過ごした。寝ている邦ばぁばを邪魔せずにいられる場所はそこしかなかったし、勉強するのに十分な光があるのもそこだけだったし、それに勉強の他にその狭い場所でできることなんて、ユッコには思いつかなかった。

 毎日、邦ばぁばは昼に起き出し、ユッコにカップラーメンを選ばせて、自分も同じものを食べながらテレビを見た。テレビでは道ゆく大人たちが、小学校レベルの問題を出され、「難しい難しい」と言いながら解いていた。「授業中なんて、寝てたからなあ」「俺も俺も」。ユッコでも分かる問題を、間違える人もたくさんいた。漢字が読めない人もたくさんいた。

「この人たち、学校に行かなかったの?」

 小さく呟くと、邦ばぁばは嫌な目つきでユッコを見た。

「学校に行かなくても頭がいいって、それは自慢かい?」

 そうじゃない、ユッコは俯いた。だってこの人たち、学校へ行ったって何も覚えてないじゃない。授業中はよく寝てたって、勉強してもないじゃない。ユッコのほうがずっと漢字も読めるし、計算もできる。それなのに学校に行っていない、それだけで、ユッコはこの人たちより劣ってしまう。この人たちみたいに、自由には生きられない。

 それほど学校へ行くっていうのは、誰でもできて当たり前のことだった。普通のことだった。常識だった。例えば、足のない人に「足を生やせ」という人はいないけれど、学校に行けない人に「行け」という人はたくさんいる。それほどに学校は誰でも行けるところ。もし、行けないという人がいるのなら、それはその人の方がおかしいんだ。

 ユッコはときどき空を見て、十四万人の仲間たちに思いを馳せた。そんなにたくさんの悲しみがあるなんて思えないほど、空はとてもとても青い。その青を見てると、少しだけれど心は安らぐ。

 けれどそんなある日のこと、いつものようにユッコがベランダに出ようとすると、邦ばぁばがそれを止めた。

「ベランダになんて出ないでおくれ。近所の噂になってるから」

 って、どんな? ユッコはそう聞きもせず、黙ってそれに従った。部屋の中は、とても暗い。ケータイの画面がとても眩しい。

    👧

 その日は、十四万人のうちの一人が、家族全員を刺し殺したというニュースがテレビで流れた一日だった。ユッコはそれをケータイで見た。子供だから名前も顔も出なかったけれど、それがどんなにおかしくな人間だったのか、みんな知りたがってるみたいだった。

「あんたは大丈夫だろうね。この歳になって、孫に殺されたなんて洒落にならないよ」

 邦ばぁばはユッコを睨んだ。まるでそうすることで、ユッコを牽制しようとしてるみたいに。

 けれど、そんなひどいことを言われても、ユッコは不思議と悲しくなかった。その代わりに、わたしも誰かを殺せるのかな、そんなことを考えた。邦ばぁばの目に、それからたくさんの普通の人の目に、その子はモンスターに見えているってことが分かっていたから。突然、何の前触れもなく、理由さえなく、人々に襲いかかる凶悪なモンスター

 大人になれなかったらどうなるの――いつかの答えのうちの一つを、ユッコは知った。学校に行かなくて大人になれなくても、ユッコたちは子供のままでいられるわけじゃない。そうじゃなくて、こうなるんだ。いつ人を殺してもおかしくない、モンスターになっちゃうんだ。

 その夜、ユッコはそのモンスターになって暴れる夢を見た。ユッコだったモンスターは、お巡りさんの銃に撃たれて死んでいた。その恐ろしい死体を見て、みんなは口々に言っていた。「あの子、学校へ行ってなかったんですよ」「お巡りさんのお世話になりかけて」「いつもベランダにいて、な感じでした」「それからは見かけることもなかったんですけどね」。

    👧

「ユッコ? そろそろ行かないと、ママ、仕事に遅れちゃうんだけど」

 ママが忙しそうな足音が近づいてくる。午前七時三十分過ぎ。もう出かけなきゃいけない時間だってことは分かってる。でも、それでもユッコは暗い寝室で、小指の先ほどになってしまった光をぎゅっと守るように抱きしめていた。消えてしまいそうな光。いまにも、闇に閉ざされてしまいそうな胸の中。

「ねえ、ママ」

 けれど、その光を頼りにユッコは口を開く。

「ママ。わたし、今日、邦ばぁばのところに行きたくない」

「行きたくないって、じゃあどうするの」

 すぐ後ろでママの声。ユッコの弱い光に、その言葉は強すぎる。でも、ママの言葉にも理由がある。光が消えていくにつれ、ユッコはその記憶を取り戻している。闇の色をした記憶。

「一人で家に置いとくわけにいかないでしょ。ごはんだって、いまから用意できないし」

「適当に食べるからいい」

「適当にって……火傷でもしたら困るでしょ」

「レンジでチンのごはんにする」

「でも――」

 ママの声はだんだん小さく弱くなり、ユッコの声は大きくなった。でも、だからといって胸の光が輝きを取り戻したわけじゃなかった。

「いいから、さっさと仕事に行けばいいでしょ!」

 それどころかその一言で、光はとうとう消えてしまった。弾けるように、散ってしまった。

「ママはわたしよりも、仕事の方が大事なんだから! わたしを置いていけばいい!」

 破れかぶれの言葉が飛び出し、ユッコの胸は張り裂けた。鋭い爪がそこから覗いた。わたしがわたしじゃなくなっちゃう。ユッコは断末魔の悲鳴をあげた。

「そんなことないに決まってるでしょ!」

 すると、ママは急に声を大きくした。声を大きくすれば、その気持ちの大きさを表現できるとでも思ってるみたいだった。そして、そんなことなんか一度もしたことないのに、大げさにユッコを胸に抱き寄せた。

「ママはね、ユッコのことがこの世で一番大事なんだよ。学校へ行ってなくても、何ができなくても、ママはユッコのことを愛してる。ねえ、あのときもそう言ったでしょう? 何があっても、それだけは絶対だから、だからママを信じてちょうだい」

 あのとき。ユッコの記憶はそのとき完全に蘇った。次の瞬間、絶望が襲った。そうだ、あのときもママはそう言った。だとしたら、わたし、同じことを繰り返してるだけじゃないか。

「本当よ、ユッコ。あんなことになるくらいなら、もう学校になんか行かなくていいから……」

 ママはそう繰り返した。強くユッコを抱きしめた。

つき!」

 けれど、思い切り、ユッコはママを突き飛ばした。よろけて尻餅をついたママは、呆然としてユッコを見た。まるでそこにいるのはユッコじゃなくて、突然ママに襲い掛かった、危険なモンスターだとでもいうように。

「う、嘘じゃないわよ、ほら……」

 ママはモンスターを鎮めるためのおふだを取り出した。もしくは悪を退ける十字架か、ニンニクや唐辛子を差し出した。

「ここに書いてあるでしょう? 学校が合わない子たちが行く、フリースクールってところがあるのよ。パパとも話してたんだけど、そこに行ったらどうかって。そういうところに通えば、学校卒業の資格をもらえるかもしれないし、フリースクールに通ううちに、普通の学校に戻れるようになった子もたくさんいるって――」

 しかし、お札の効果はなかった。

「結局、学校、学校じゃない!」

 ママの眼に映ったモンスターは雄叫びを上げた。この期に及んで、ママはそんなことを言うんだ。パパは学校へ戻れって言うんだ。モンスターの目は血走って、その喉からは恐ろしいほどの絶叫が放たれた。

学校って、一体何なの? どうしても行かなくちゃいけないものなの? どうしてそこに押し込もうとするの? 行けない子供を排除しようとするの? わたしたちだって普通の人間で、ただ学校に行けないだけなのに、どうしてそんな扱いを受けなくちゃいけないの!」

「ユッコ、ユッコ、やめて、どうしてそんなことをするの――!」

 ママの表情が恐怖に変わった。

    👧

 子供教育を受ける権利があり、親は教育を受けさせる義務がある――これが法律に書かれていること。そして、こっちが十四万人を家の中に閉じ込めている常識﹅﹅――すべての子供は義務教育を受ける、つまり学校に行かなければならず、親は何とかして子供を学校に行かせなければならない

 テストの点が悪くたって、授業を聞いていなくたって、義務教育で習ったことなんか綺麗さっぱり忘れてたって、学校に行ったというそれだけで、その全ては許される。

 反対に、どれだけ真面目に勉強しても、テストで良い点を取ることができても、学校に行っていないというそれだけで、ユッコはモンスター予備軍になる。

 学校は勉強だけじゃない。集団行動ができるようにならなければと、社会性を育てなければと、人はもっともらしく言うけど、学校へ行った子供たちにみんな、社会性が育っているのか。どんな人とも付き合うことができるのか、時間をきちんと守れるのか、礼儀正しいのか、規則を守る人間になるのか。もしもそうでないのなら、学校へ行けない子供を責めることにどんな意味があるというのか。

 教育って何だろう? それは問うまでもなく、現在その意味はただ一つ、学校へ行くことだけだ。忙しいすぎる大人たちは子供たちを学校へただ放り込み、教育を受けさせたことにしているだけだ。そうやって安心しているだけだ。

 だから、ふとつまずいた誰かが道を外れてしまったそのとき、その学校に行かないという道の先に立っているのは、怠惰な大人たちの立てた大きな看板がひとつきり――この先、行き止まり。新しく人生を始めるには、つまずいてしまったところに戻り、もう一度学校へ行く道を歩かなければならない。それが子供たちにとってどんなに辛くても苦しいものであっても、予算と人手不足につき、ほかの道はつくられない。

 光をすっかり失ったユッコは、モンスターが荒らした部屋の真ん中で惚けていた。いまはそこにママはいない。行き止まりの道でもがいて暴れて、ユッコは疲れ果ててしまった。

 そうだ、あのときもそうだったんだ。ユッコは記憶の一つ一つを、撫でるように手で触れた。学校のこと、友達のこと、先生のこと、常識のこと、普通のこと、そこから外れてしまうことがどんなに辛いことかということ。

 だから、あのときユッコはそうしたのだ。行き止まりの道に留まることも、つまずいた場所へ戻ることもせず――。

「このままでいたら、わたし、自分がどうなるか知ってるよ」

 ぼんやりとした声で、ユッコは呟く。

学校に行けるようになるまで、わたしは家でじっとしてる。じっと部屋にこもり続ける。そうだよね。いまは休んで、好きなことをゆっくりして、気が向いたら勉強をして、そうしていればいいよって、みんな言うんだよね。ママもパパも、先生も、そのほかの人たちも。疲れたんでしょう、だから休んでね――学校に行けるようになるまで

 ふらり、ユッコは立ち上がる。足音もなく外へ出る。

学校に行けない子の目標は、いつか学校へ行くことなの。学校へ行くためなら何かしてもいいけれど、学校へ行けないのなら、何もしちゃいけないの。自由はないの。学校へ行けるまで、そこで立ち止まらなきゃいけないの。決して前へは進めないの。変だよね。学校へ行けないわたしがしなきゃいけないことが、学校に行けるようになることだけだなんて。それ以外のことはしちゃいけないだなんて。行かなくてもいいよ、だなんて、誰も本気で言ってくれない。誰も助けてなんてくれない。学校に行かなきゃ、何にも許してもらえない。わたしはいま、生きてるけど、本当は死んでるみたい」

 ふらり、ふらり階段を上る。

学校へ行かないでどうするの、なんて、どうして大人は聞くんだろう。そんなの、わたしが知りたいのに。学校へ行かないのなら、どこにどんな道があるのか、誰もそれを知らないし、誰もそれを教えてくれない。わたしは怠けてるわけじゃないのに。学校に行けないだけなのに。それなのに、何もしなくていいよだなんて、学校へ行かなくていいよって、みんな無責任にそう言うだけ。どうしたらいいのか、誰でもいいから教えてよ」

 ユッコの涙が、高い場所から地上に落ちた。それを追いかけるように呆気なく、ユッコの体も落ちていった。あのときと同じ道を、結局ユッコは選んだのだった。それしか選べなかったのだった。

 ――幸せになるために、生まれたのに

 悲しそうに、誰かが言った。それは光の声だった。ユッコを地上へ送り出した光。それは真白くユッコを覆い、ユッコは光そのものになった。まるでそれが胸に満ちていたときのように、ユッコは幸せな気持ちになった。わたしは死んでしまったけれど、さっきまでよりもずっと、生きてるみたい

「ユッコ、戻ってきて、ユッコ」

 そのとき、ママの声が聞こえた。

「どうしてなんだ、ユッコ……」

 パパの声も聞こえていた。二人とも泣いていた。ユッコを失って泣いていた。その声があんまり悲しそうだったから、あのときユッコは地上に引き返したのだった。今度こそ幸せになるために、胸には光を抱きしめて、つまづいた記憶は捨ててしまって、病院のベッドの上で、もう一度生まれ変わるように息を吹き返したのだった。

 ――でも、あそこじゃわたし、幸せになれないみたい。

 ユッコとしての意識が消えていく中、光は思った。

 ――あそこで幸せになるには、みんなと同じように、普通でいなくちゃいけなかった。普通学校に行けなきゃならなかった。普通学校が好きで、普通に友達が好きで、先生が好きで、初めからそんな人間に生まれなきゃならなかった。そうしたらきっと幸せになれた。生きていることができた。でも、わたしにはそれができなかった。幸せにはなれなかった。

 遠ざかっていく地上には、十四万人以上の仲間たちの光が見えた。いまにも消えてしまいそうな光。明滅を繰り返し、震え、惑い続ける命。

 頑張って。ユッコだった光は最後に願った。

 どんなに辛くても学校には絶対に行って。何を言われても我慢して嫌な人とも付き合って。人と違うことをやめて、普通になって。息を潜めて自分を殺して、そしてわたしが地上で掴めなかった幸せをその手で掴み取って欲しい。

 ママとパパの泣き声は、雑音に紛れて消えていく。今度こそ振り返ることもなく、きらきらと輝く大きな光は高く高く昇っていった。ユッコが好きだった青い空へ。自由に命を生きるために。

2021年6月3日公開

© 2021 黒澤伊織

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