生ぬるい朝に目覚めた時、水野辻は横に恋人である初河安西が居ないことに、いつものように気づく。シーツに刻まれた不穏な波紋、黴のような陰と赤子の肌に浮かぶような光が混ざりあう場所を、辻はおもむろに撫でる。朝の生ぬるさとは致命的に異なる、生々しい肉の温もりがそこにある。幾度も撫でる、老いたオーストリアの軍人が小さな愛銃を撫でるように。安西がどこに居るかは分かっていた。辻が立ちあがろうとすると、腰に鈍い、悪辣な痛みを感じる。虹色の氷塊から生まれる焔で以て、細胞や肉を焼き尽くされる、そんな凍てついた痛みだ。腰痛とは28歳の辻にとって未だ遠い、例えば生きていれば40歳を迎えたはずの兄や会社の無能な上司が味わう類の苦痛だと思っていたが、それは見当違いだと彼自身の肉体が無慈悲に告げる。老いたな、辻は思う、深く深く老いた。
寝室を出て、密やかに廊下を歩く。床から一切軋みが響かないよう、足の裏でゆっくりと木材を抱きしめるように、しかし歩くよりも、泥が這いずるよりも更にゆっくりと、崇高に歩く、リビングのドアにまで辿り着いた時、もう既に朝が昼に変貌を遂げたように思えるほど。そして更に慎重にドアを微かに開き、その隙間から内部を覗き見る。そこでは安西が全裸でヨガをしている。これが、コロナ禍の蔓延より少し後から始まった彼の朝の執拗な習慣だった。安西の肉体は美しい、ボディービルダーたちの諧謔に満ちた爆発的な修辞よりも、書物に綴られる哲学者たちの不可解な修辞、特にドイツ人哲学者たちが弄ぶ、引き抜くなら他者の頸動脈すら切断できるほどに尖鋭な肩甲骨のような修辞の数々を以て、その美しさを形容したい。だがそう思うたび、通り一遍の単語しか出てこない自分の無知に忸怩たる思いを抱く。
だが安西の肉体への恍惚は、すぐに吐き気へと変わる。彼は床へ四つん這いになると、ゆくりゆくりと腰部を窓へと突きだしていく。カーテンは完全に開け放たれ、眩暈のような暁の陽射しが部屋に雪崩こんでいる。それに向けて自身の肉体を、腰部を、臀部を突きあげている、描写をそこで止められれば良いと辻は願いながら、これは事実ではない。安西は純粋に、明確に自身のケツの穴をあの暁に晒している。
「アメリカでアナル日光浴っていうのが流行ってるんだってさ、馬鹿じゃねえの」
辻は何気なく見つけたニュース記事を読みながらそう恋人に言った。太陽に肛門を30秒間向けるのは1日中光を全身に浴びるのと同じくらい健康的、さらに肛門を日に当てるという非日常的な動きは脳の曲差覚という部分が刺激を受ける、これ脳内にドーパミンを分泌させ快感や幸福感を体感することができる。辻はテレビに出演する3流芸人の口振りでこれを話した。
「そうなんだ、ははは」
辻は軽薄に笑った。その後、朝に安西が肛門日光浴を実践しているのを目撃し、骨の髄まで驚かされる。それでも最初は驚愕を抑えたうえで愛おしさすら感じることもできたが、ケツ穴を暁に向ける時の深刻なまでの姿勢の美しさ、その負担大きい姿勢を保ち続ける執拗さには荒唐無稽を越えて、戦慄すら覚えてしまう。そして安西はこの朝の日光浴を延々と、永遠と続けた。辻はそれをドアの隙間から窃視することができない。明らかに彼は洗脳されていた、肛門日光浴という滑稽な陰謀論に、コロナ禍のいつまで続くと分からない不条理に。
午後、辻は心療内科へと赴く。安西の行為に戦慄しながら馬鹿げた狂気と嗤えないのは、彼自身も心を患う感覚の条理なき悍ましさを分かっているからだった。ソファーに座り、水野辻という名前が呼ばれる時を待つ。潔癖的な白の色彩に呑まれた壁、無機物としての艶めかしさを放つ人口の観葉植物。来院者の心を落ち着けるための意匠とは思われながら、むしろ心の無数の襞が強制的に開かれ、極小の隙間に不穏が満ちる余地が生まれるような感覚がある、何度目かの来院でも慣れることがない。辻はスマートフォンを眺め、大量の下らないニュースを脳髄へと流しこむ。
心療内科へ1人の若い女性が来院する。大学生らしき彼女は、今にも折れそうな瘦身を揺らしながら受付の女性と会話をする。そのかぼそい声は、響いた瞬間には静謐に抹殺される。彼女は財布を漁るが、何かが見つからないようだ。診察券か健康保険証か、辻は暇潰しに考えるが、徐々に焦りようが酷くなっていくのを見ると保険証に思えた。女性は突然に鞄を床へ投げだし、中を壮絶な勢いで荒らし始める。そこからは大量の本と大量の紙屑が、亀頭から射出される精液さながらデロデロと現れていき、否応なく不愉快な気分にさせられる。だが保険証はないようだった。途方に暮れたように膝をついたかと思うと、彼女は号泣しだすので辻もさすがに驚く。
「保険証何でないんだよ、財布とか入れたはずなのに、絶対あるんだよ何でないんだよ、何でだよ、保険証落とすとか有り得ないだろ、馬鹿野郎、何で私はいつもこうなんだよクソ、いつもこんなんだろ、こんなんだ」
誰に言い訳してるんだよ、クソアマ、マジで勘弁してくれ。
支離滅裂な言葉を喚き散らす青年に、遂には拳を握り締めるほどの暴力衝動を覚える。短く切ったばかりの爪が皮膚に喰いこんでいく感覚が、その衝動を煽りたてる。彼女は受付の女性に慰められ、保険証の紛失届を出して再発行してからまた来るべきと助言する。背中を撫でられ気持ちが落ち着きだすと、女性の言葉に対し彼女は素直に頷きだす。ふと、彼女の顔から粘液が糸を引きながら床へ落ちていくのがハッキリ見えた。垂れ流される鼻水の激越な哀れさに、暴力衝動が束の間に反転を遂げる。
いや診てやるくらいしろよ、心療内科に来るのってかなり勇気ある行為だって分かんないのか。その勇気が出なくてもう1回来れなくて、それが自殺とかに繋がったらどうするんだよ。
これを実際に言う勇気はなかった。
水野辻という名前が呼ばれ、彼は診察室へ入っていく。皆上允美という医師へ丁寧にお辞儀をし、椅子に座る。くすんだメタルフレームの眼鏡をかけた、この小太りの中年女性を辻は信用していない。ここに通院してしばらく経ちながら、允美は辻の病名を確定させることなく、可能性をうやむやにさせたままで投薬治療を行っているのだ。彼としては今すぐに不安障害だとか双極性障害だとか症状を確定させてほしい。このまま治療を進められても煮え切らない、信用するには余りに足りない。この日もいつものように近況と症状の推移について語らされる、もちろん恋人の肛門日光浴に関しては話さない。允美は当り触りのないコメントや助言を彼の言葉に加え、それが脳髄に不快な数億の針を突き刺す。辻は俯き、右手を見る。人差し指、その爪と皮膚の接合部の左側面からささくれが現れているのに気づいた。触れると小さくも鮮烈な痛みが爆ぜる。無意味な言葉を紡ぎながら、わざとそのささくれを弄り続ける。痛みが彼を癒してくれた。だがひときわ鮮やかな痛みに襲われたかと思うと、血の滴が現れる。俺は救われない。
「いや、いい加減ハッキリしてくれませんか?」
「……何をでしょう?」
「もちろん私の病名ですよ。あなた、明らかに病名を診断するの避けてますよね。その状態で治療されても何も説得力がないんですよ、自分が一体何を治療しているかって指針が”心の病”っていうクソみたいにぼやけた概念しかなくて何をやってるのか全然分からない。あなた精神科医なのに、私の病名分からないんですか。このままだったら来るの止めたいんですが、私は」
不覚にも憤懣を吐瀉物さながらブチ撒けてしまい、辻は自分に驚いてしまう。だが言葉は止まらない、辻は血を舐める。
「意味が分からないんですよ。取り敢えずここで1発、病名を宣告してくれませんか?」
允美は困惑の表情を浮かべながら、余裕すらも感じさせる。こうして激昂する患者の対応には慣れているのだと思うと、いっそう苛つきは増幅する。
「分かりました、私の考えを言いましょう。まずあなたは鬱病の疑いがあります。そしてその根底には自閉症スペクトラム障害があるのではと考えます」
血が止まった。
診断の後に街を歩きながら、下痢便を顔に塗りつけられるような最低の不快感を味わい続ける。
自閉症スペクトラム障害って何だよ、いったい自閉症と何が違うんだよそれ。
自閉症と頭に思い浮かべると、顔面のパーツに中央に寄った子供たちの顔が、湿った岩の下で冬眠する天道虫の群れさながらに浮かびあがる。”ガイジ”の顔、辻はそう思う。
いや、あれはダウン症か、自閉症じゃなくて。いやでも、自閉症とダウン症だって何が違うのか全然分かんねえ。顔面がああいう”ガイジ”顔になるかそうならないかの違いか?
両の手で自身の顔を、マスクごと包みこむ。
だがハッキリしたのは、俺も生まれながらの精神障害者だってことだ。
通り道に建っていたセブンイレブンに入りMOW PRIME バタークッキー&クリームチーズというアイスを探す。Twitterでこれを発見し、その甘みの豪奢な風貌と”厳選した北海道クリームチーズで作ったコクのあるクリームチーズのアイスに、ほどよい塩味とバター風味が香ばしいクッキーをトッピングしました”という説明文に心惹かれたのだ。安西のためにも買おうと思う。だがアイスブースに来た時、水色の髪を持った白人女性が2つのMOW PRIMEを持ってレジへ向かうのを見つけた。ブースのなかを覗くと、もうMOW PRIMEはなかった。元々無かったのか、いやあの白人マンコが持ってたアイスは確かにMOW PRIMEだったと辻は怒りを抱く。代わりにセブンイレブン限定の韓国のり味のポテトチップスを2袋買う。外国人の女性店員――今度は濃厚な茶色い肌からインド人だと思える――がお釣りを間違えるので、先の白人女性と一緒にその脳髄をハンマーで破壊してやりたくなる。店員が32円の釣りを手から落とす。
家では安西が料理を作ってくれている。現実離れしたような屈強な肉体と隆起した筋骨、それが些細な生の深くに根づきながら日常の所作を丁寧にこなす様、そのあまりの官能性に辻は幾度となく驚かされる。後ろから抱擁したくなりながらも、料理の邪魔になるのは明白ゆえにこの欲望を抑える。今日彼が作ったのはベトナム料理、最近彼が凝っているのだ。インターネットで見かけた情報を頼りに、浅草の小さなベトナム料理店へ行き、その料理を口にした時、安西の表情を恋へ墜落した少女のようだった。辻の首筋を愛おしそうに撫でる時ですら、そんな甘やかな表情を浮かべることはなかった。そこから在宅ワークの時間を利用し、様々なベトナム料理を試し、辻に振舞っている。今日の料理は小振りながら具のみっちり入った揚げ春巻き、爽やかな味わいのパパイヤの甘酢漬け、コムヘンと呼ばれるアサリとシジミの汁かけご飯。どれも時間を懸け、試行錯誤を経たうえで作っている料理ゆえに、とても芳醇で、食しているだけで心が豊かになるのを感じる。
「おいしい、おいしいよ」
辻がそう言うと、安西は柔らかな笑みを浮かべる。
「ねえ、病院のことだけど……」
だが安西がそう切り出すので、辻の機嫌は一瞬にして曇らされる。
「いや……だからさ、病院でのこととか症状についてはまだあまり喋りたくないんだよ。こういうことは親にも、恋人にすら言いたくない。心療内科行くことすら勇気がスゲー要るんだよ、そこで話したことについて親しい誰かに話すのも、やっぱりキツいんだよ」
「分かってる、分かってるけどそれを何度も聞かされて、もうそろそろ話して欲しいって気分も分かってほしいんだよ。医師とした話とか症状とか共有してくれれば、サポートや寄り沿い方だって少し分かってくる。僕は辻のこと支えたいんだよ、本当に」
彼の優しさが今は煩わしい。辻は自閉症スペクトラム障害という症名を一切告白しないまま、不味くなった夕食を速攻で平らげ、洗面所へと逃げる。鏡を見つめながら、思う。
これがガイジの顔か、ははは。
その自虐的な思考は、特に鼻の横にある黒々しいホクロを見ると加速する。この白痴、いや黒痴のような貌が彼の生への憎しみをより純粋なものへと高めていく。そして自分が生まれながらの精神障害者だと知った今、改めて思い浮かぶのは涌井希という少年の顔だ。縦に異様に長い、典型的なまでに間抜けなロバの面。更には顎が異様に前へ突き出ている様は、食欲に支配された未知の深海魚めいた印象をも与える。2本脚で深海を歩く知恵遅れのロバ、それが涌井希という小学生だった。彼には何らかの知的障害があり、同級生たちにとってはそれが身振りや拙い言葉から明らかに思えたゆえ、当然のごとく彼を虐めの対象とした。だが希はどんなに馬鹿にされ罵倒されようと、全てを満面の笑みで受けとめ、そもそも罵倒の意味を微塵も理解していないようだった。そして更に馬鹿にされる。希が”ガイジ”と罵られる時、その雑言の集団に紛れて辻も”ガイジ”と叫びまくっていた。後に振り返ると、それはサラリーマンがバッティングセンターに赴き、射出される弾に向かってバットを振るのと同じように思える。小学生の気軽なストレス解消法だった。
「おい、ガイジ」
鏡に映る自分に辻は言う。もしかするなら自分もあの罵声の被害者になっていたかもしれないと微かに戦慄を覚える一方で、ニヤつきを抑えることができない。
「ガイジ、おいガイジ、ガイジ!」
夕食以降、安西とは喋らなかった。寝室で一緒に眠ることになっても2人は不穏な静謐に包まれていた、少なくとも辻にとってそれは無音の敵愾心だった。
「もし共有してくれたら嬉しいよ」
そしてその敵愾心に、安西は不用意に触れた。
「何度もまだ心の準備ができてないって言ったろ、聞いてないのかよ、お前は!」
激昂のままに、安西の左頬を平手打ちする。薄氷は爆ぜるような響きが鼓膜を揺らした瞬間、深く後悔する。安西は悲しげな表情を浮かべた。虫唾が走り、もう1発左頬を平手打ちする。安西は抵抗しない、その態度が辻の脳髄を沸騰させる。もういっそその屈強な拳で俺を殴って、頬骨でも何でも破壊してくれよ。辻はそう願う、彼の拳が自分の頬にめり込むことを願う。緊迫し硬化した皮膚と骨と筋と肉、その凝集体が隕石さながら頬に衝突する、酷薄な衝撃と激痛が炸裂しその波紋が顔面を駆けぬけ、頬骨に蜘蛛の巣のような亀裂が走る。だが更に拳がめりこむ、肉と骨を圧し潰す、そうして頬骨が砕け散り、内部より破片がその頬を突き抜ける。だがその願いは叶わない、ただ辻の薄い手が安西の頬を叩き続ける。
夢を見る。オランダ、首都アムステルダムからエンスヘーデへ向かう列車に、辻は安西と乗っている。2人だけの空間でぬるく親密な時間を楽しんでいる。途中からオランダの真平らな、雄大な大地が窓から見えてきて、心が開けてくるような感覚がある。
「ゴッホもこういう自然に触れながら、ひまわりとか変な自画像みたいな絵を描いたのかあ」
感嘆しながら、辻は言った。
「いや、ああいう有名な絵画はフランス居た時に描いたやつだよ、オランダじゃあない」
安西が笑った。辻も笑った。
いつしか疎らに牛が見えてくるのだが、加速度的に数を増やし、殆ど群れのようになる。移動している訳ではない、皆が安穏に草を食んでいる。だが異様なのは皆が一様に同じ方向を向きながら、その行為を行っていることだ。彼らの背中は一様に、輝ける黄昏の橙に向けられていた。心がざわつく、途方もない牛の群れ全てが明らかに自身のケツの穴を夕の陽射しに向けていた。不安で外の風景から視線を外し、安西の横顔を見る。それは本当に微かに震えていた。この震えが恍惚から来るものだと辻は直感した。彼の鼻の横にはホクロがあった。ないはずだった、あるのは辻の顔の上なはずだ。思わず顔を触るが確かにホクロはあった。そして安西の顔にもホクロがあった。粘りきった唾が込みあげてくるなかで、安西のホクロから目を離せずにいる。それはどんどん大きくなっていく、這いずるような速さで闇より暗い黒が大きくなっていく、大きくなっていく、大きくなって、大きく、大きくなっていく。
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