海野竜也は高校二年生である。彼は退屈な授業中をどう乗り越えようかと、そればかり考えていた。教師に見付からないようにこっそり引き出しから科学雑誌を取り出すと、机の上に広げた。フルカラーの天体写真やら、宇宙空間の画像を眺めて溜め息をつく。全く、宇宙はこんなにも壮大で美しいというのに、この俺の退屈な日常ときたら、いっそ宇宙の塵になって吹き飛んでしまえ、と思うほど緩慢である。一体、何が悲しくてこんなつまらない毎日を送らなければならないのであろうか? 竜也はフーッと溜め息を付いた。
竜也の母親は熱心なクリスチャンだ。日曜には教会へ行き、祈りを捧げて、恵まれない人々の為のボランティア活動をしていた。竜也も幼い頃に洗礼を受け、日曜日には教会に行って神父の話を聞いて育った。竜也は宗教には興味が無かったが、一つだけ気になる事があった。それは、何時だったか神父が話してくれた、エデンの園の話である。人間はかつて、神の治める楽園に居た――そこで暮らすアダムとイブは性の汚濁にまみれる事も無く、労働の苦しみも無く、楽しく清らかに暮らしていた――この世界観の煌めきは竜也を捉えて放さなかった。
アダムとイブとはどんな人間だったのか? アダムについては良く分からないが、イブについてならイメージ出来た。同じクラスの横嶺明里――彼女こそ、エデンのイブに相応しい。透き通るような色白の肌に艶やかな焦げ茶色の長い髪。明るい茶色の瞳が聡明さと可憐さを湛えていた。桜色の小さな唇が愛らしい。彼女とエデンで暮らせれば――竜也は想像してみた。まてよ、エデンの園ではアダムとイブは裸なんだっけか。明里が裸だったら――駄目だ。目のやり場に困る。竜也だって健康な年頃の男子だ、性欲が無い訳では無い。だが、竜也は明里を性の対象として見る事にいささか躊躇いがあった。まるで天使の様な風貌の明里を、自分の欲望の炎で汚すなど、してはならない事の様に思っていたのである。それは恋とも、慕情とも付かない思いだった。明里を我が物としたいが、それは違うのではないかと心の何処かが反発する。そんな葛藤故に、竜也は明里に素直に気持ちを伝えられないでいた。だが、竜也は明里ともっと親しくなりたかった。
放課後、竜也を隣のクラスの淳が迎えに来た。
「竜也~、帰るんなら、一緒に行こうぜ」
「ああ、そうだな……」
二人は自転車に乗り、並走して走った。
「なあ、お前はクラブ活動とかしないのか?」
淳がおもむろに訊く。
「今のところはな。何せ、俺はスポーツとかは苦手だし、かといって他に興味のあるクラブも無いしな。淳は?」
「俺は最初野球部に行こうかと思ったんだよ。けど……」
「けど?」
「あそこの部長は性格悪いし、それに丸坊主にされるのが嫌でな」
「……そうか」
そう言って竜也は笑った。淳はいかにも丈夫そうな、健康優良児である。きっと丸坊主も似合うに違いない。
「でも、お前なら坊主頭も似合いそうだけどな」
「だから嫌なんだ。俺が坊主頭にしたら、バッチリ決まり過ぎるだろ。まるで、他の髪型の選択肢はありません、て位に。それが嫌なんだよ」
「そういうもんかね?」
「ああ、そういうものさ」
竜也の家の前まで来ると、二人は自転車を停めた。
「なあ、竜也。やっぱり俺達も何かクラブ活動しようぜ。授業が終わってはい、サヨナラ~、じゃつまらんよ。お前は頭良いんだから、何か考えといてくれ」
「……分かったよ。考えとく」
「じゃあな!」
淳は竜也の背中を叩くと、独りで自宅へ向かって力強く自転車を漕いで行った。
夜、竜也はベッドへ横になって、クラブ活動について思いを巡らせていた。何が良いだろう……? 竜也は昼間見ていた雑誌を取り出すと、パラパラ捲った。昼間頭に思い描いていた、エデンの園の事を思い出す。
「そうだ! エデンクラブってのはどうだ?」
竜也は叫んだ。淳の他に、明里も誘ってエデンクラブを始めるのだ。クラブの目的は、失われた楽園を再現する事。裸にはなれないが、ささやかな楽園を作って、楽しく過ごすのだ。
竜也は珍しくウキウキして、ノートパソコンでエデンの園を検索した。多くの絵画がヒットする。かつてヨーロッパで宗教が盛んだった時代に描かれた物だ。竜也は色彩豊かな楽園の絵を観て、イメージを固めていった。
その夜、竜也は夢を見た。何処か遠い地球に良く似た惑星に竜也は居た。真っ青な空の下、見渡す限りの大草原が広がって、瑞々しい果物の実った木々があちこちに生えている。草原にはライオンやらインパラやら動物達が彷徨いて賑やかだ。林檎の木の下に、裸の男女が座り込んで、何やら語らっている。見るからに平和な自然の王国――と、次の瞬間、大地震が起きて突如大地が裂け、裂け目からにょきにょきと高層ビル群が立ち現れた。みるみるうちに辺りは大都市に変貌する。そしてあっという間にビル群は廃墟となって廃れ、崩れ落ちて砂になっていった。辺りには広大な砂漠が広がった――
最早、生命の気配はなかった。
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