たまに殺人衝動に駆られる。彼女はいつも平然としているから、自分の器の小ささを思い知らされるようで、彼女の白く細い首筋に手の甲を沿わせて、撫でるふりをして締めてしまいたくなる。
苦悶の表情をするだろうか、暴力の悔しさに顔をしかめるのであろうか。でもそれは想像で、現実の彼女は笑うかもしれない。
想像は想像でしかない。
横目でちらりと見た彼女は僕を愚かだと嘲笑うように楽し気に、にやりと笑う気さえするんだ。きっとそう思わせてしまうほどに、彼女は憎らしいほどに強い人であった。
大学二年の春に、遅れて絵画部に入ってきた彼女は、能弁で驚くほどに人の機微に敏感な人であった。誰もが可愛いと思うあざとい表情を恥ずかしげもなく作り、心の隙間を縫うように誰かの内側に入っては、誰とでも心を通じ合わせる。傍から見たら菩薩のような人で、そしてとても破滅的に優しい人だった。
例えば誰かが人間関係に躓いて部室で泣いてしまっているのを見てしまったら、まるでそれを自分の事のように考えて、その誰かの悩みを聞いた上で、一緒に悩み解決に導いたりする。そんな他人の面倒事を一緒に抱えて支えてあげる、そんな偽善的で自己犠牲の化身のようで、ひだまりのような温かさを持ちながら、自分の内面をけっして人に打ち明けない人だった。
部室のクーラーに冷やされながら、机に頬を付けて彼女に話しかけたのが、彼女に僕自身の心に付け入られたきっかけだ。
「青井さんって、人を好きになったこととかあるの?」
何気ないそんな言葉に彼女は一瞬、動揺して視線を泳がせる。けれど、すぐそんな自分を塗りつぶして誤魔化しだとすら悟られない演技でこういうのだ。
「なに? 急に恋バナ?」
「んーん。違う。青井さんって、人間を好きなようで本当は興味ないのかな? ってたまに思ったりするんだ。……なんでだろう。わかんないけど」
彼女は笑顔をぺったりと張り付けたまま、少しだけ困ったようなため息を吐いた。
「くーくんは? 人を好きになったことはある?」
僕の名前は工藤景義だから、くーくんと部活で呼ばれている。不名誉極まりないそんなあだ名ではあるが、大学生活でのコミュニケーション不足は、情報とコミュニティーがなければ休校の知らせも得られないこの大学生活において致命傷になりかねない。
そのためには多少の印象の柔和化が必要だと、頬をひきつらせながら容認したあだ名である。
「あるよ、人並みに」
僕がそういうと彼女は少し苦笑した。その表情はいつもの子供騙しの花のように健全な笑顔ではなく、苦しさを誤魔化すようなそんな歪んだもの。
「人並み……、か。すごい汎用的な言葉だよね」
僕はその言葉に棘を感じ、眉をひそめた。
「君は使わないの? 人並みに人を好きになったことがあるってさ」
僕はふざけているようにさらっと嫌味を言ったけれど、彼女は笑わずに無表情で僕を見て考えたように呻いて、少しだけため息をついた。
「くーくんさ。結構頭いいでしょ? 他人の事をよく見てるし、だいたいの反応でその人の真意みたいなものを瞬時に理解してしまう感じ。きっとくーくんって人並みじゃなく、かなり人間好きでしょ?」
この時、僕は瞬時に、腹の探り合いをしていると理解した。僕らはこの瞬間、お互いを敵か味方かという臆病な探り合いをして、敵であれば威嚇し、味方であっても距離感を詰めることはしないで、今まで以上の距離とよそよそしさを持って接するであろうことを考えていたと思う。お互い、本音で人と話ができるタイプではないからこその対応だった。
「うーん、どうだろう? 少なくとも青井さんは測りかねているかな?」
こうなっては会話らしい会話にならず、言葉の裏の読み合いにしかならないと察した僕はわりと正直に今の彼女の印象を話すことにした。
「君はなんていうんだろうね。人を羨ましいと思っているんじゃないか?」
静まり返ったクーラーの起動する機会音と送風の音しか聞こえない部室の中で、彼女は難しそうな顔をして僕をじっとみた。
「……かも、しれないね。だから、面倒事に首を突っ込んで誰かと何かを共有したがるのかも。何にも感じないの、私。心が、麻痺してるの」
僕は笑わずに聞いて、彼女のことを見つめた。僕らは時折、絵画部で勉強を兼ねて美術館にいくことがある。
今の彼女はその飾られた絵画に似ていた。絵画たちにはいつも普遍的な憂鬱さがにじみ出ている。絵から出ることができずに、永遠に一つの感情にしか表現できることができない、そんな決定された侘しさ。そして圧倒的な美を持ちながら、自分では何一つ美しいものに触れることができないという自己完結する哀しみ。
彼女はきっと絵画のような人だった。
憂いで染まるこげ茶の瞳の中には、羨望がじわじわと染み出て鮮やかな色の感情に日々、揺さぶられて何かを感じながら生きてみたいという欲がある。そして、それが叶わないから誰かの気持ちを自分にあてはめている。まるで芝居を見ている観客だ。そんな現実から隔離された孤独のようなものを感じずにはいられなかった。
他人と自分の間には明確な壁があり、それを壊そうとするも強固で壊せず、指をくわえて外を見つめている。
彼女の言葉からは、そんな幼稚で寂しがり屋な気持ちが見えるようだった。
「……寂しい?」
そういうと彼女は少し目を潤ませて空っぽに笑う。
「寂しいよ」
壊れてしまいそうに笑うその表情に僕は彼女に対して、憐みと同情からくる殺意のようなものが芽生えた。
息をするのも苦痛な彼女の生を早く止めてあげたい、そうして早く楽にしてあげたいと思うほどに、僕の見知った感情すら知らない彼女を救ってあげたかった。
遮断された一人の世界を、彼女のそばにいると垣間見る。寂しいと蝉が鳴くように騒がしく劈くほどうるさい。孤独が鼓膜に響いて神経を逆なでする。
こちらが見ていて痛いほどに、必死にもがいてみる彼女は必死に生きているはずなのに、静止していて悲しい。
僕は初めて彼女を不憫だと思った。凍り付いた湖の魚のような彼女を憐れんで、それを見ているのが痛々しいから初めて人を殺したいと思った。
それから僕は彼女のそばを離れなくなった。そしてうざったくも問いかけるようになった。
「青井さんの目から見える世界は、どんな色をしているの?」
彼女は少し疲れ切った眼をして、僕を眺めて言う。
「くーくんと変わらないよ。色はちゃんと見える。形も、それこそ他の人と同じようにちゃんと見えてる。それでも、何にもないの。空っぽなの」
脳裏で何度も想像した。彼女の細く白い首を絞めるこの手の感触を、生々しく、ぬるい体温、肌の柔らかさ、眉をひそめる表情までも鮮明に想像した。悲しいほどに、それは独りよがりで自分勝手に作り上げた僕ができる彼女への救いの物語だった。
「青井さん、僕ね。君を脳内で何度も殺してる」
それを打ち明けるのも躊躇わないほどに、僕は彼女を同情していた。思わず抱きしめて、一緒に泣いてあげたいと思うほどに、不憫でたまらなかった。
バツが悪くなって、視線をそらした僕はしばらく黙り込んでいたけれど、黙ったままの彼女の様子が気になって横目で彼女を見ると、彼女は初めて破顔していた。
それがあまりにも、壊れてしまいそうなほど喜びに満ちた優しい笑顔だったのが、寂しかった。悲しかった。それ以上に、痛々しかった。
「青井さん、僕はね。君が望むなら犯罪者になったっていいんだよ」
リアルな感情だった。嘘一つない真実だったはずだった。それなのに、僕の瞳からは涙がこぼれていた。
本音の鱗片が剥がれ落ちていくように、言葉が出た。痛みと悲しさが連動する。ぽつり、ぽつりとあふれた言葉は偽善者みたいな、耳障りが悪い言葉。それなのに、本音でしかなかった。
「どうして……? 君は何も悪くないのに、こんなの……」
彼女はハッと目が覚めた時のような驚いた眼をして、僕の頬から伝う涙を拭う。
「……くーくんは優しいね」
彼女が初めて僕を痛ましいものを見る目で見た。僕に同情する必要はないのに、また人に優しくする。何にも感じないくせに、感動も共感もしないくせに。ふわりと香る優しい匂いが彼女の長い黒髪から香る。シャンプーだろうか、とても柔い甘い匂いが鼻孔をくすぐり、麻酔のように脳の端をじんと痺れさせた。
「優しい人は……、幸せにならなくちゃいけないんだよ」
僕は縋るように言った。そうだ、だってそうでなければ、誰かを救う彼女があまりにも報われないじゃないか。そんな世界は嫌だ。そんな人生を何のために生きるのだろう。
彼女はなんのために生まれたんだろう?
問いかけ続けて僕は彼女に縋りついた。彼女は優しく僕を抱きしめ小さく何度も「ありがとう」と呟いた。
「一緒に生きて欲しい。幸せにするから、僕と一緒に生きて欲しい」
彼女は僕を見て優しく言った。
「嫌だよ」
彼女は躊躇う仕草すらせず言った。
それでも初めて彼女は僕の言葉で泣いた。透明な雫が音もなく彼女の服にシミを作る。それがどういう感情かなどわからない。僕には彼女がわからなかった。けれど確かにわかったのは、彼女にも感情というものが存在しているということ。
ただそれだけだった。
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