自らに派生する音――靴音と呼吸――以外、あたりは厳粛な静寂に包まれている。霧は音も遮断するのだろうか。耳鳴りすらする。男は溜め息をついた。厄介な夢を見ていると。白い呼気は一瞬だけ上へとのぼりかけたが、すぐに身体にまとわりつく霧と同化した。不可思議にも、薄手のシャツを一枚だけ羽織った状態だというのに凍えはしなかった。
夢だからか。
彼がそう考えた間際に、すぐ真後ろで答える声があった。立ち込めた霧と同様、妙にまとわりつく声だった。
「違う。あんたはすでに凍えきっているからだ」
咄嗟に腰に手をやれば馴染んだ感触が当たり前のようにそこにあった。夢のなかでも自分は銃を手放さないらしい。振り向きざまに銃口を向けたがそこには誰もおらず、ただ漠然と白で覆い尽くされた道が続いていた。舌打ちして銃をホルダーに戻したとき、道の遠く向こうで鐘の音が響いた。
からあん、からあんと、もどかしいほどゆったりとした鐘の音は、静寂をやわらかく裂いて大気に木霊する。
やがてその音に紛れるようにして、黒装束の行列がぼんやりと姿を現した。立ち尽くした男の横を鐘の音と似た、もどかしい速度で通り過ぎてゆく。女は嘆きに頬をぬらし、男は悲痛に顔をゆがめ、子どもたちは無垢な瞳を瞬かせていた。
列の中ほどまで来た時ようやく主役が姿を見せ、そのとき初めて男はこの行列が何なのか気づいた。
かつがれた黒い棺。葬列だった。
棺の前を歩く神父が厳かに神の言葉を口にした。
――たとえ死の陰の谷を歩むとも、私は災いを恐れない。主よ、あなたが共にいてくださる。
詩篇、と男は口の中で呟く。詩篇の二十三篇。
老年の神父は十字を切り、穏やかな美声で続けた。
――あなたの鞭とあなたの杖、それらがわたしの慰めです。
永遠に続くかと思われた葬列はやがて遠ざかり、鐘の音もいつのまにか途絶えていた。ひとり立ち尽くしたままだった男は再び歩を進める。最初に向かっていた方向、葬列が消えた方へ。
すると、いくらも進まないうちに背後から問いかけられた。
「そっちに行くのか?」
先ほどと同じ声だった。彼は再び銃を抜くと今度はことさらゆっくりと振りむき、そして目を見張った。
そこには己とまったく同じ顔をした男がいた。口角をあげ、歪んだ笑みを浮かべている。
残虐な顔だった。だが紛れもない自分の顔だった。
「さっきの葬列は、あんたのためじゃない」
「誰だ、お前」
「あんたに殺された人間たちのためさ」
「……質問に答えてくれないか」
「殺しも殺したりだな。挙句に自分も殺して、これで満足か?」
男は黙り、そして思い出した。
薄暗い寝室。こわばった指先の温度。最後に見つめた壁の染み。
「ここは、あの世なのか」
「すこし違う。ここは狭間。時の狂った場所」
男は訝しげに眉をひそめる。
「この世は時の流れで成り立っている。生物は老い、木々は育ち、そして世界は流転する。あちらにはそれがないのさ。全ては蓋が閉じられたまま、瞬間の永遠を約束される。その狭間であるここは時の流れが狂った場所、同時にあちらへ向かう人間が通る道だよ。まあ、わからなきゃわからないでいい」
男は足元の敷石を見つめながら、つまり死んだ事実に変わりはないらしい、とだけ考えた。黙ったままの男を置き去りに、もうひとりの己は喋り続ける。
「この世は時間で成り立っているが、では人生は何で構成されているだろう?」
「俺に限っていうなら、愉快なものじゃないことは確かだよ」
「悲観的だがそのとおり。大概の人間にとって人生は苦しみと残虐との総和で成り立っている。ひとつ、ある男の話をしようか。二十七年前、由緒ある家系の長男として産まれたときに、彼の苦難の幕は開いた」
芝居じみた物言いで、パチンと指が鳴らされた。男はひそかに息を飲む。
「母親は美しく貞淑。父親も凡庸な男だったが真面目で家族想い。裕福な家庭だった。両親ともに敬虔な信者で、」
「やめてくれ」
「そのため彼の名前も聖書に由来したものだった」
「やめろ」
「いい名前だ」
男は銃口をもう一人の己の眉間に定め、撃った。これまででもっとも速く、芸術的ですらある動きだったと確信したが、弾は頭蓋骨を砕くことなく霧の彼方に消えた。一瞬前までたしかに目の前にいたはずの人物はすでにいなかった。
「だが悲劇は訪れる」
耳元で囁かれ、男は反射的に飛びのいて再び距離を取った。呼吸が荒くなっていることを自覚する。避けられるような距離ではなかった。万が一避けられたとしても、背後に回る間などあるはずがなかった。
「十歳を迎えた日に、裕福だった家は父親の経営不備であえなく没落。神の教えに背いて無理心中を図った両親の手から奇跡的にひとり生還するも、その後入れられた孤児院ではひどい虐待を受ける。十五のときに逃げ出し路上生活、生きるために何でもやった。組織に拾われたのは十八?」
「……十七だ」
「そう。あとは運命の操り人形。組織の掃除屋におさまり十年が経過。そして今日、自分の頭をぶち抜いた。その――」
もう一人の己は男の手元を指差した。
「銃で」
男は自分が震えていることに気がついた。
今更になってここがどんなに寒い場所だったのか理解したのだ。
その日の朝、男はいつもどおりに目覚まし時計が空気を切り裂く一瞬まえに目を開いた。枕の下の拳銃を取りだし、分解して念入りに整備してから寝室を出て、顔を洗った。泥のような色をした濃いコーヒーで食パンとゆで卵を胃に流しこみ、それから準備を整えて部屋を出た。
あらかじめ受け取っていた指令どおりにターゲットを始末して、寂れたコーヒーショップに寄ってエスプレッソを飲みながら煙草を吸い、買い物を済ませて自宅へ戻った。早めの夕食を取り、テレビを見ながらビールを三本開けた。
もしその日、何かがすこしでも違っていたならば、男は自殺などしなかったかもしれない。
たとえば、綻びかけた桜が咲いていたなら。コーヒーショップの店員がやわらかく微笑んでくれたなら。テレビで好きな映画が流れていたなら。
だが、桜は処女のように固く蕾を閉ざしていたし、店員は相変わらずの仏頂面で男の顔を見もしなかったし、テレビでは自爆テロで数十人が死亡したというニュースが流れていた。
昨日と明日が入れ替わったとしても何も不都合はない日々。もしかしたら気づかなかっただけで、もうすでに何回か入れ替わっているのかもしれない。
日が沈みかけた寝室で男は一人だった。一人で、自分が世界にとって何の価値もない人間だということを絶望的に痛感していた。目を閉じれば、死者たちの呻き声が鼓膜の奥から這いだして咽喉を締めつける。
かじかんだ手で男は使い慣れた銃を握り、ゆっくりとこめかみに押し当てた。壁の染みを見つめながら。
「償いの時がきたんだ」
男と同じ顔をもつ存在はそう告げた。
「償い…」
「そう。じゃなきゃ、何のために自分の頭をホールトマトみたいにしたんだ?」
ふざけた物言いのくせ、表情はまるで太古の沼底のような静謐をたたえていた。痛みすらあった。その顔を見た刹那、男の胸に今まで押さえつけていた感情が堰をきって溢れかえった。悲しみと怒り、そして不合理な仕組みに対する疑問が。
なぜ俺だけがこんな目にあう? そんなに多くを望んだわけじゃなかった。俺はただ、
「まともな人間になりたかったんだ」
もうひとりの己は何度か首を振った。
「理由はなんにせよ、あれだけの人間を殺めたんだ。あんたの罪は重く、天に至る門はもはや閉じた。わかっているはずだ」
そうだ、と男は考えた。わかっている。何度か選択の機会はあった。だが、そのどれもを間違ってしまった。時に楽な方へ流され、時に恐怖に流された。自ら命を絶ったのも、ただ逃げたかったからだ。これ以上、重荷を背負って生きていける気がしなかったからだ。
胸に渦をまいていた感情が涙となってこみ上げ、男は嗚咽した。
楽になりたかった。もうこれ以上の苦しみには耐えられそうになかった。
「かわいそうに」
頬に温度を感じた。もう一人の己が頬を両手でつつみこんでいる。間近に見た青い瞳は驚くことに、同じ涙に濡れていた。高揚が静かに凪いでいくのを感じながら男はふと、もう随分長い間泣いていなかったことを思いだした。誰かに痛み哀しんでもらったことも同様に。
「不憫だと思う。そもそもの発端はあんたの責任じゃなかった。人に虐げられ、操られ、それでも生き抜こうとしただけだ。考えてごらんよ、自ら命を絶ったのも本当は罪悪感にかられていたんじゃないのか。人を傷つけても何とも思わない連中なんて山ほどいる。だが、あんたは苦しんだ」
そうだろうかと男は考えた。そして、そうであったらいいのにと望んだ。
そうであったら救われるのに。その儚い願望を後押しするに足るほど、頬を包みこむ手は暖かすぎる。
「不合理な話だ。なのにこれから更なる苦悶を受けにいかなきゃならないなんて。あんたは優しすぎたのさ。優しかったあまり人よりも汚れ、傷ついてきた。稀有な存在だ。あんたの魂はまだ染まりきってはいないんだ。自らの尊厳を取り戻したくはないか?」
「尊厳」
舌に馴染まないその響きはあまりに遠く、しかしこの上なく甘美に聞こえた。
「いいかい、もう少しすると少年がひとりやってくる。神を愛し、また神に愛された少年だ。穢れのない魂をもっている。あんたに償いのチャンスをやろう。その少年を今の時点で殺すことが彼の救いになる」
「まさか……そんなことが」
「会えば自ずと分かるだろう。もしそれが出来たならあんたの魂は神の歯車から解放され、
望み続けた真の自由を手に入れられる。何者にも制御されない自由と尊厳を」
そう諭す瞳を間近で見つめながら、唐突に男はこの存在が何であるか気づいた。むしろ気づくのが遅すぎたとも思った。
「悪魔なのか」
男の顔をした存在は微笑んだ。
「死の陰の谷は険しく恐ろしい。俺があんたの鞭となり杖となろう」
やがて予言された言葉どおりに、ひとりの少年が霧の向こうから姿をあらわした。白い寝間着姿にむき出しの足。そのあどけない顔を見たとき何かが記憶の遥か奥底でうごめいた。伴って沸きあがった感情は疑念と不安、そして強烈な思慕のようなもの。
男はぼんやりと少年を見て、少年もまたぼんやりと男を見た。ターコイズの色をした双眸。
「お前は誰だ?」
鋭く尋ねると、少年は少しおびえたように顎をひいた。しかし男がもう一度同じ質問をすると、躊躇いがちにこういった。
「エノクとその民が築き、良き行いのために天に取り上げられた街を知っていますか」
「……“心清き人々が住む所”」
「そう、シオンという街――僕の名前です」
その瞬間カチリと、うごめいていた記憶のピースが綺麗にはまった。と同時に背筋が冷えた。
『ここはあの世とこの世の狭間。時の狂った場所』
ようやく真実と目的を知り、男は慄いた。殺せと奴はいった。それが救いになるとも。
殺せと。悲劇の幕があがった直後、十歳の自分自身を。
この少年をここで殺せば、と男は考えた。
幼いこの子どもはこの先訪れる苦しみと残虐との総和から逃れられるだろう。近い未来に彼は自分が辿った運命の先端にぶつかる。とんとん拍子に進む歯車の中に組みこまれ、やがて疲労に身をすり減らし、悪徳を友としながら醜く生き永らえるのだ。今まで奪ってきた命が戻るとは思わない。ましてや償いになれるなどとは。だが、これから奪われることはなくなる。それに渇望し続けた自由を、苦しみからの解放を手に入れたい。
だがこの少年を殺せば、と再び男は考えた。
唯一にして絶対の愛を、永遠に失うことになるだろう。良心、もしくは純粋さといったものを。彼は遠い昔に失った善性そのものなのだから。自らの命すら絶ってしまった今、この少年だけがかつての幸せの象徴――かつては、“世界にとって何の価値もない人間”ではなかったという証。
無垢な命を奪う。これは更なる罪となるのではないのか。その証拠に自分は今、泣き出したいほどの愛しさに立ち尽くしている。
男は、人生最後の選択の時を迎えたのだと理解した。
遠く背後では太古からの存在が静かに芝居の幕引きを待っている。
舌舐めずりをしながら。あるいは、慈愛のまなざしを向けながら。
– Fin –
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