一
京子はよく泣く。夜のあらしが怖いといっては泣き、遠くでサイレンの音が聴こえたといっては泣く。ようやく泣き止んだかと思うと、今度は、僕がみんなから嫌われてしまうといって泣く。明かりの届かない部屋の隅で、京子はひとりでいるように、しくしくと孤独な泣き方をする。
「今にひとりぼっちになってしまうわ」
京子は鼻をすすり、しゃくり上げながら僕に言うが、それは別段、忠告をするというふうではない。壁に向かって告白するように、京子はそう言う。
七月の夜で、早い夏の颱風がきていた。午過ぎから、雨は降っては止んでを繰り返していた。皮膚に纏りつくような湿気に昼間のうち、京子ははしゃいでいた。彼女は台所の折畳式の椅子に腰掛け、扇風機が左右に首を振るのを、そのちょうど正面に座って見ていた。
「だって、水の中で生きてるみたい」
京子は扇風機の前でそう言い、そこには鳴っていない何かにリズムを合わせるように、からだを揺らした。その台詞と仕草とは、梅雨に入りはじめの頃によく見たものだった。京子は機嫌が良かった。
それが泣き出したのは、日が落ちてしまったからだった。
暗くなってから降る雨は、浴室のように温かく湿っていた空気を冷やし、寡黙で不躾な風を呼び寄せた。それで、素肌にTシャツを着ただけの京子は、「なんだか、寒い」と言って、ぐずぐずと泣きはじめたのだった。
颱風の近づいてくるのは、不気味な様子をしていた。風が雨を降らせているように、網戸越しに雨粒がとび込んできた。夜のあらしの気配は押し黙ったように静かで、絶対的だった。僕と、京子とのいる台所は、他のあらゆる場所から切り離されてしまったようだった。
その台所で、京子は泣き止んだり、かと思えばまたすぐに泣き出し、時折その合間に冷蔵庫から麦茶を出して飲んだ。僕は京子がぽつり、ぽつりと口にすることにただ頷いていた。どちらかでも、少し体を動かすと、各々の椅子がミィと啼いた。ふたりきりの台所の雰囲気は、継ぎ目なく、気がつくと変わっていた。風が音を立てたり、吹き止んだりし、その度に京子は泣いたり、泣き止んだりした。
夜が更けていくと、雨は止んでいるより降っている時間の方が長くなった。風は体温を失くし、入れてくれというように窓を鳴らした。窓を閉め切って、扇風機を止めてしまっても、汗をかかない七月の夜だった。
狭い台所で、流しの上の短い蛍光灯だけを点けていた。その、夜を湛えた白い光の下では、部屋の掃除の行き届いていないのがよくわかった。
「さみしい?」と京子は訊いた。胸のあたりで、下ろした髪をいじった。
「さみしい」と僕は言った。
裸足で触れる台所の床は、ひんやりと冷たかった。
京子は麦茶を一口、飲んだ。そうして、洗われ、籠の中に伏せられた食器を見詰める。見詰めたまま、氷のない、麦茶を入れた透明なグラスをこつこつと、つめの先でたたいた。脈の打つように、気まぐれな正確さで、硬い硝子は鳴る。京子は本を読むように、僕の心を読む。
「さみしい心臓の鳴る音」
京子は言い、口許だけで、見せるように笑った。その間も乱すことなく、こつこつという硝子を打つ音は台所に鳴っていた。それが止んでしまうのは、その後に、京子がふたたび泣き出したときだった。水の中に落ちた薄紙のように泣きはじめた京子の声が台所にひろがり、さみしい心臓はその鼓動を止めた。
「外に出たら、月が綺麗な気がするよ」
しばらく京子の泣くのを聴いたあとで、僕は言った。京子はゆっくりと泣き止んだ。
「ばかね」と京子は言った。「今日は颱風よ」
そうしてはしゃいだように笑ったが、すぐに止めて、
「でも」と、言葉を継いだ。
言ったまま、何分も、どこでもない一点をじっと見詰めた。京子は耳を澄ませていたのだった。そして確信めいて、囁いた。
「月が綺麗な音がする」
二
僕たちはサンダル履きで外へ出た。風は強いが、雨はおおむね降っていない。時折、気まぐれのように、風が雨の束を運んでくる。
電柱についた街灯が孤独の色で光り、その下に、明くる朝に収集されるのだろう、不燃ごみが小山をつくっていた。
「月、みえないね」
京子はしゃがみ込み、不燃ごみをひとつずつあらためながら言った。錆びた鍋も、ビデオデッキも、子犬のように、しゃがんだ京子のもとへ集まり寄ってくる。
「なついてしまう前に、行くよ」
「ばいばい」
京子は電動鉛筆削りの頭を撫でて立ち上がった。
ちょうどそのときに、ピィ、と手笛の鳴るのが聴こえてきたので、僕たちは音のする方へ歩いて向かった。冷たい夜闇とあらしの気配が、手笛の音に何か特別な意味をつけ加えているように思えた。
信号のある小さな交差点には、僕たちと同じく手笛の音に引き寄せられた人たちが集まっていた。パトカーの赤色灯が、何か探しでもするように、くるくると、あたりを照らしていた。
制服の巡査がひとり、これも赤く光る誘導棒を持って、僕たちが聴いた手笛を吹いていた。交差点へ車が通りかかるたびに、彼はそれを追い返した。
交差点の中央に、色の違ったタクシーが二台、同じ方を向いたまま、ぶつかり合って止まっていた。歩道で口論しているその運転手同士は、数秒おきに赤色灯が染めるせいで、緩慢に、それに手笛と風音が人の声を拭うために、無声映画のように見える。
「事故だ」
僕は言った。ならんで、隣に立った京子の指先が、僕の手を触れるともなしにはじいた。
「誰か死んだ?」
僕は、抱き合うようにぶつかり合っている二台を見る。
「いいや、死なない」
力任せに吹きつける風に、僕たちの体は冷やされていた。
「颱風、くるのにね」
京子が言った。
また少し、雨が降りはじめていた。僕たちは歩いて部屋に戻った。
三
押し入れから京子は、先々月に仕舞った毛布を引きずり出してきた。
けれども京子は畳の寝室に敷いた蒲団の上には寝ようとはせずに、動かしていない扇風機と一緒に、寝室の隅の窓際へ、ちいさくなって坐り込んだ。
僕は蒲団の上から京子を呼んだ。昨日まで掛けていたタオルケットでは、心持ち寒い。京子は膝を抱いて坐り、毛布に包まったまま動こうとはしない。
「そこで寝るの?」
京子はいたって真面目な様子で頷く。どうして、と僕は訊く。
「だって、蒲団で寝たら、あらしがきたときに逃げられない」
僕は蒲団に仰向けになった。それからまた体を起こし、電灯の紐を引っ張った。闇が落ち、静けさの音量が増したように思えた。
「あらしがきたら、起こして」
まだ新しい枕に頭を沈めると、にじみ出てくるように、脂っぽい羽毛のにおいがした。
「わかった」と、暗闇の中、衣擦れの音で京子が頷いた。「でも、蒲団で寝てたら、逃げ遅れるかも」
「逃げ遅れたら、どうなるの」
「たぶん、死ぬ。水がくるから」
「僕が死んだら、かなしい?」
京子は暗闇に答えをはぐらかすように、何も言わない。何も音のしていないのを録ったテープを聴いているかのように、静けさの向こう側が鳴っているようだった。
「お葬式をすると思う」
京子は言った。
四
あらしは、夜のうちに僕たちの屋根の上を吹き過ぎていったらしかった。
翌朝に目を覚ましたときには、空が余計な皮を剥いだように澄んで晴れ渡っているのが、閉ざしたカーテン越しでも分かった。
ふたりで寝癖をつけたまま、サンダルを履いて外へ出た。玄関の鍵を回すとき、京子が「ごはん」と呟いた。
朝方の道には車は少なかった。アスファルトは乾いていたが、日の光を避けたところに、雨の湿り気は姿を隠していた。
昨夜の交差点を通り、横断歩道を渡る。京子は白いところだけを踏んだ。白いワイシャツの勤め人とすれ違った。
「あらし、いっちゃったね」
僕たちは川の見えるところまで歩いた。
土手沿いの夏の草は、泣き腫らしたあとのようだった。疲れからくる穏やかさの内に、それらは眠っていた。
長い、ざらざらした階段を上ると空がひらけた。川は、あらしを忘れて流れていた。淡い緑色の鉄橋を、列車が渡り過ぎていた。いくらか遠い鉄橋から、列車の走る音だけが妙に近く響いていた。
「さいきょうせん」
去っていく列車を指差して僕を振り返り、京子は言った。
遠目に見る列車は、のんびりと見えなくなる。朝の風が京子の肩を吹き過ぎていった。暑い一日になりそうだった。対岸は薄く靄がかかっていた。人の姿はなかった。対岸でも、こちらと同じように朝が始まっているのかもわからない。
「おなか空かないの」
京子はいつの間にかしゃがみ込み、夏の草を見詰めていた。つながれない、首輪をした犬が近づいてきて、京子の背中に鼻先を寄せた。犬は後ろからきた飼主に叱られて、土手沿いの道をまた、進んでいく。飼主は僕たちに、ひょこりと頭を下げる。離れたあとに犬は一度、振り返る。
「少し空いた」
「だから言ったのに」
京子はパジャマの濡れるのも構わずに、雨水を滴らせている草の中へ坐り込む。僕も隣へ腰を下ろす。京子は鼻歌を歌った。よく晴れた空に、その鼻歌は透明な尾をひきながら消えていった。風が草を鳴らした。
「ここでゆで卵を食べたら、おいしいと思う」
鼻歌をやめ、京子は妙なことを口にする。
「ゆで卵」
「ううん、別に朝ごはんでもいい」
僕たちは起き上がり、来た道を戻って部屋に帰った。
雨水で湿ったパジャマのまま、ふたりで台所に立つ。僕が冷蔵庫を開ける。京子がレタスをちぎる。僕はトマトを切る。京子はまた冷蔵庫を開ける。
「ハムないね」
京子は言う。
僕たちは作れるだけのサンドイッチをつくると、それをバスケットに入れた。それを持って土手へ行こうと玄関を出ると、日はさきほどよりもだいぶ高く昇っていた。
僕たちは黙ったままで、見詰め合った。そして、台所でサンドイッチを食べはじめた。
暑い一日がもう、はじまっていた。
日が暮れる頃に、京子はまた泣き出すだろう。
〈了〉
"あらし"へのコメント 0件