「地下鉄で、ザジを見たの」
町子がそう言ったのは、十月も終わりかけた、やけに陽射しの強い日の午後のことだった。
「ザジって、フランスの?」
「うん」と町子がうなずくと、子供じみて短く切り揃えた前髪がかすかに動く。そうしてすぐに、額に占める元の位置へ戻る。こんなに短くしたのは十五以来だと、町子は言っていたが、わたしが会ったときにはすでにその前髪だったから、それ以外の町子をわたしは知らない。
「日比谷線で、人形町から乗ってきたの」町子はそう言ってソファに身を埋めた。「ザジ、アイフォン持ってた」
「ジーンズは?」
「はいてた」
わたしはコーヒーをいれるために、テーブルに本を伏せて立ち上がった。
「なに読んでたの?」
そう町子が言い、膝立ちになってテーブルの上を覗き込んでいる頃には、わたしはもう台所に立って、ガスレンジのつまみを回している。またがるしあまるけす、と町子が口ごもりに小さく呟いているのが聴こえる。
「ねえ、杏ちゃんさあ」町子は呆れたように言う。「ずーっと同じ本ばっかり読んでて、飽きないわけ?」
「飽きない」とわたしは答える。じきに、口のほっそりしたやかんが、ぷすぷすと間抜けた感じに、お湯が沸いたことを知らせた。
「コーヒーでいいの?」
「うん? 甘酒がいい」
「お正月じゃないんだから」
「お正月じゃなくても、甘酒はあるよ」町子はばかにしたように、鼻で笑いながら言う。町子には、こういうところがある。
「普段の甘酒は、ただ人目につかないだけなの。秋じゃないときのさんまとかと一緒で」
「砂糖は?」
「いらない。牛乳入れて」
コーヒーを入れた、町子の赤いマグカップに牛乳を垂らすと、とっぷりした白は暗闇に吸い込まれるように、ぼんやりと底へ消えていった。かき混ぜると、白が濃くなり、混じり合う。その様子に見蕩れていると、
「始めに混沌があった。それから光がきた」
と、カップの中を見もせずに想像がつくように、町子は言うのだった。
「杏ちゃん、ペットミルク入れたでしょ」
「入れないわよ」
町子はソファに埋まってへらへら笑いながら、マグカップを受け取る。こぼすよ、と言うと、急にまじめな顔つきになって体を起き上がらせる。そうしてわたしのことをじっと見詰めるので、わたしはテーブルに向かった椅子に腰を下ろし、カップには口をつけずに町子を見詰め返す。町子の目は、どこか京風にみえる。
「ヨーロッパに乾杯」
町子は言い、ミルクコーヒーに口をつけた。わたしもそうする。
「今日はもうどこにも行かないの?」
ひとくち口をつけたカップを置いて、伏せた本を持ち上げながらわたしは訊いた。
町子は「うん」と言って、それからすぐに、「あ、やっぱり」と、「日が暮れたら、図書館に行くかも」
「日が暮れたら、図書館は閉まっちゃうよ」
わたしは本の冒頭、その年に入ってから十二三度目になる、マコンドの村のおこりを辿っていた。
「そっちのが都合いいの」
「どうして?」
「だって、返す期限、過ぎてるから。二週間くらいも。閉まってるときにポストに入れてくれば、返すとき『今度から期限を守ってください』って怒られないでしょ」
「いいじゃないの、それくらい」
「ヤなの」と町子は駄々をこねるふうで、「あ、でも」と、それからすぐに思いついたように口にした。「図書館に、ザジのビデオあると思う?」
「地下鉄のザジ?」
「Zazie dans le métro」と町子は気取って発音してみせる。町子は妙に言葉に強い。いつだか、図書館でアイスランド語の教則本を見つけたと喜んで、それからいつの間に身につけたのか、ときどきアイスランド人相手に観光案内の仕事をしているのだった。ふつうに働くより、よっぽどラクでお金になるの、と町子は言っていた。でも問題は、日本に来るアイスランド人ってそんなにいないの。アメリカとか、そういうとこに比べて。あとアイスランド人はだいたい英語喋れるの。だから仕事も、そんなにないの。
「どうかなあ、あるの、見たことないよ」
「やっぱり」と町子は知ったふうな溜め息をつく。「じゃあ、図書館行くのは、閉まってからにする」
わたしはページをめくった。ジプシーたちが、新しい発明品を持って、マコンドの村へ舞い戻ってきていた。
「杏ちゃん、あしたは?」
「ん?」
「仕事?」と町子が訊く。
「仕事」
「そっかあ」
町子はそう言って、ソファの背もたれに深くもたれた。
「ザジ、どこ行ったのかなあ……」
澄ましたように上を向き、白々しいふうで町子はひとりごちた。
灯油売りの車が、へんなメロディを流しながら、近所をのろのろ走りすぎていくのが聴こえる。ふやけた午後だった。
「やっぱり仕事じゃない」わたしは言った。言った瞬間、見えるものに限らず、辺りの色彩が増したような気がした。「休む」
「そうこなくっちゃ」
町子が嬉しそうに、勢いよく体を起こす。手に持ったカップの、ミルクコーヒーが大きく揺れてこぼれた。その、こもったようなやわらかい匂いまでが、広がってこぼれた。
扉は閉ざしたままにしておかないと、とわたしは思うのだった。
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