「おかしいな。変だな」
ある日の深夜、俺がタクシーに乗っていると、ふいに運転手が呟いた。
もうすぐ目的地に着こうかというこのタイミングで道を間違えたのか。舐めやがってころすぞ。
「ううう。ううう。ううう」
とその刹那、女のうめき声が車内に響きはじめた。俺が隣を見ると、そこには「いるはずのない」女が座っていた。真っ黒な長い髪のせいでその顔は判別できないので、俺のタイプかどうかは分からない。
ただ、急に他人のタクシーに乗り込んできて、こんな深夜にヒステリックな声を上げる慇懃無礼な女は、俺の方から願い下げだ!!!
それはそうと、女のか細い両肩は、ぶるぶると震えていた。確実にナーバスな感じ。俺は暗い雰囲気が大嫌いな性格(たち)だ。何か面白いことを考えて、この雰囲気から逃れようとしたが、その暗澹とした車内では一切のユーモアも生成されてこない。
「なんでそんなに変な声を上げているんですか? 生きていればきっと良いことがあるでしょうや」
俺は仕方なくそんな前向きなことを言った。女の心配など塵ともしていなかったが、とりあえずそのうめき声は止めたかった。
「私は…あいつに殺された…あんなに愛していたのに…う、ううう!!!」
それから20分ほど女はわめき続けていたが、急にその声が途切れ、肩の震えもおさまり、死んだように動かなくなった。
「彼女は正真正銘、死んでいるんです。たまにあるんです、無念の死を遂げた人間が車内に入り込んでくることが」
今まで高倉健並みに無言だった運転手がバックミラー越しの俺に言う。
「『えんこん』の力は凄いですよね」
続けざま運転手が言う。
「え、え、『え、ん、こ、ん』?」
俺は訊ねた。
「怨恨」
運転手はわざわざ車を停め、誰にも分かり易いように、メモ帳にその漢字をしたためた。俺はそれを確かめると、「ああ」と呟く。
俺は「怨恨」という言葉を見たことはあった。ただ、その読みを「おんこん」だとずっと思っていた。
そう、俺は「くろいわゆうり」の小説を読んでおけば良かった。だいたいの作品に「怨恨」という言葉があり、親切に「ルビ」まで振ってあるのだから。
あれだけ学びのある小説ばかりを書いている人間を知らないなんて、人生の損に違いない。(了)
"稲川淳二に憧れていたあの夏は…"へのコメント 0件