「聞いてる?ねえ、ちょっと。ローリーてば」
返事をしようにもどうにも眠くてたまらない。レイの奴はどうしてこういつも人が眠ろうとしているのにそれを妨げてまで話をしようとするのか。布団まで被ってぐったり横になっているオレの姿を見ようとしていないのか。相手が弱っている時が狙い目だとでも思っているのか。
「ちょっと、まだ寝ていないんでしょ」そう言ってたたみかけてくる。「起きて」とは言わない。正確に言えば寝てはいるが眠ってはいない。その隙間を突かれるのが辛い。無視して眠ったふりをしても良いのかもしれないが、ふりがバレたときのレイの剣幕を想像すると危険極まりない。眠りたいのに眠れない。
「ああ」と精一杯返事をしたつもりだが「ううっ」というくぐもった声にしかならない。それでもレイのご機嫌は少しだけとれたようだった。吐くための息を大きく吸えたのがわかる。
かつては苦痛からほんの快楽へと向かえた唯一の方法もあった。その程よい苦痛の記憶が残っている。レイが身体を寄せてきて、その手をするすると毛布の中に滑り込ませてオレの股間を指先で弄り始めて覚醒させてくれたことがあった。夏の蒸せるような暑い夜には、いきなり馬乗りでオレを跨いできたこともあった。それも今では遠い記憶でしかない。
「いいかげん、もう辞めようかと思って」
まただ。何度同じ話を繰り返すのだろう。嫌だったら辞めればいいのに、とオレは何度も応えているはずだが、そういうことは忘れてしまうのだろうか。いや、違う。そうだった。彼女はただ聞いて欲しいだけなのだった。共感して欲しいという思い、それをただ聞いていてあげるだけで良いのだと忘れてしまっているのはオレの方だった。
ならば眠ったふりではなく、聞いているふりをしてさえいればいいはずだった。それくらいは大目に見てほしい。話の内容の根本は変わらないはずだ。枝葉のディテールがその時々で色合いが変わるだけだ。もちろん彼女にとってはそのディテールの色合いこそに共感を求めているのだろうが、今のこの状況では勘弁してもらいたい。眠いのに加えて、なにせセックスレスなのだから。拗ねさせてくれたっていいじゃないか。
「今度はあいつを仲間に引き入れてつるみ始めたのよ。例によって喫煙所で」
オレはもっと大事な何かを考えておかねばならないことがあったはずだった。まだ解決できていない問題。いつも眠りにつく前にそれを考える習慣のようなものがあったはずだが、レイの声が邪魔をして思い出せない。あれっ、一体オレは何者だ?
「もう最低。反吐が出る」
そうだ、思い出した。メニューだ。明日、あの美食家のキラキラ中年女子が抜き打ちで店に来るはずだ、とヨージからタレコミがあったのだった。それを知ったのが今日の夜22時過ぎ、LINEで連絡があったのだ。もちろん、ガセネタかもしれない。「慌てるな、落ち着け、大丈夫だ」とオレはその時の自分に言い聞かせたはず。通知には「トレンドは高タンパク低カロリー」とご丁寧にも注意書までもがあった。オレはコールがあった時にだけ指定された場所に出向き、腕を振るう料理人だ。明日予定していたメニューを変更すべきかどうか、それを横になってからも考えようとしていたのだった。
「ローリーに見せてあげたいわよ。女同士の裏事情がどれほど醜いものかを」
あの美食家のキラキラ中年女子は確かクサカベ、名はミナヨだったか。「アンチエイジングブーム」の筆頭でもあり、メスを使わずに針と糸だけでたるんだ皮膚を巧妙に引っ張るリフト整形を施したという噂の美顔がどんなに不自然であったとしても、今やSNSをはじめとするメディアでカリスマともてはやされて絶大なる発言力を持っている女。ネットでのこなれた情報操作もおそらくブレーンに優秀なITエンジニアを雇い入れているのだろう。
昔は「評価は気にしない、ただオレの道を突き進むだけだ」と思っていた時期もあったが、何度も痛い目にあっては転げ落ち、やっとなんとか足場を掴むようにして這い上がってきた今は違う。「評価されることは大事だ」「トレンドを知っておくことも大事だ」と思えるようになった。ただし、オレが目指そうとしているのは「トレンドを越えて評価される」ことだ。加えて忘れてはならないことがある。「有名になってはいけない」知る人ぞ知る、くらいがいい。
女の味覚は男を越えている。これは疑いようもない事実で、生物学的な真実なのだとオレは今までの経験で知ってしまっている。男は知覚したバラバラの情報をより集めて、自分の限りある枠の中でロジックを組み立て、味を理解しようとする方向に向かう。まるで言語に翻訳することがその目的だとでもいうように。オレはそれを「何様の再構築」と呼んでいる。だが、女は違う。女は身体のありとあらゆる器官から放出される分泌液の量を超感覚的に把握してしまう。味を充分に堪能し、無防備になってしまった時の女は脳と器官が直結している。そこでオレは一つの決断を下したのだった。「あらゆる女にどう評価されるかが大事なのだ、例外はない」と。
クサカベミナヨという女とオレは明日対峙する。
「来るなら来るがいい。どうぞ、いらっしゃいませだ」
メニューを変更する。メインディッシュを「脆皮鶏(チョイペイカイ)」に決定しよう。
明日の朝一番、市場で地場産の中抜きしたばかりの丸鶏を仕入れる。間に合うか?本来なら香味野菜と調味料を表面にまぶし、腹の中にもたっぷりすり込んで詰めてから一晩は寝かせたいところだ。それを水で洗い流し、手羽の付け根にフックをかけ、リングに首を通して吊るした状態で熱湯を回しかけ、鳥肌が立つまで皮をピンと張らす。水飴と酢を合わせた焼鶏水を表面全体に塗って吊るし、風干して乾かす。ここに最も時間を割きたいが、今時期は湿度が40%前後だからサーキュレーターを使えば3時間あればいけるだろう。移動中のワゴン車の中でも吊るしたままであれば4時間は確保できるはずだ。
現地に着いたらまずは窯の組み立てだ。オレが設計した持ち運び可能な特注の金属製の窯は三段組のセパレート式で、中の熱を逃さないための二重構造になっている。組み上がった時のその姿は、完璧なまでの卵の形をしている。既存の窯をアップデートすべく、熱力学、流体力学を踏まえた熱ムラのない美しい対流を求めた結果のあるべき姿なのだ。
一般には脆皮鶏はフックにかけた丸鶏を吊るした状態で鍋の上で油をまわしかけるようにして皮をパリパリに仕上げることが知られているだろうが、重要なのはその前にどの程度丸鶏に火を入れておくかで、オレの場合は160℃に熱した特製窯で胸側を熱源に向けて40分間焼く。そうすることによって余分な脂分を滴り落とせ、表面が薄い膜のようにコーティングされることによってあらかじめ肉汁を閉じ込めることができるのだ。
クサカベミナヨという女。どういう反応を示すだろうか。はたしてオレの腕は彼女を満足させられるだろうか。面白い。もはやオレの目的は、クサカベミナヨという女体の器官を悦ばすためだけにあるのだと思えてくる。乾いた喉の奥から絞り出すようにしてオレは唾を飲み込む。
「ねえ、ローリーてば」
いや、ちょっと待て。そういえばオレは窯の実物を見たことがないぞ。鉄工所のあのオヤジに発注してから、あれは完成したのか?理想を追い求めて何度か修整を頼んだような気もするが。あ、いや、細かく追い求めすぎてオヤジの逆鱗に触れたのではなかったか。いやいや、そうじゃない。これは夢か。オレはまたしても夢を見てしまっているのか。夢だとしたらそれは覚めるはずで、確かめる方法が一つだけある。腹の底から大声を出してみることだ。
「てか、ロリーだぜ。ローリーじゃないんだってば」
そう叫んで目覚めると、レイという女の姿はどこにもなかった。
長崎 朝 投稿者 | 2019-03-19 23:37
脆皮鶏がどんな料理か調べながら読んだのですが、お腹が空いてしまいました。調理法の具体的な描写に、今か今かと鶏肉を待ち受けているような心地でしたが、最後は夢が覚めたみたいにご馳走にありつけず…。レイとの関係は説明されませんが、彼女の声と、自分の思考の重奏が、終始夢と現実の境界を漂うような感覚を与えてくれるようです。
Juan.B 編集者 | 2019-03-22 15:26
夢オチなのか?それとも最後に夢に落ちたのか?
いずれにせよ、積み上げた物も夢幻に過ぎないと言うことをこの小説は教えてくれる。多分、食えば無くなってしまう料理に絡めているのもそうなんだろう。美食家なんかシェーキーズにでも連れてってジャンク責めにしちまえば良いんだ。しかしチョイペイカイは見てみたかった。
春風亭どれみ 投稿者 | 2019-03-23 12:44
クサカベミナヨとの対峙を楽しみにしていた分、ラストの淡泊な夢オチ(?)に思いっきり拍子抜けしている自分がいました。これが狙いならニクいです。
Blur Matsuo 編集者 | 2019-03-23 16:12
レイよりも、クサカベミナヨの描写がしっかりしていたので直接対決を読みたかったと思ってしまいました。調理の描写も良いと思うので、実際に食事シーンがあった方が夢オチでも楽しめたのかなと思います。
一希 零 投稿者 | 2019-03-24 10:31
小説という形をとったとき、夢や妄想として書かれたもの、現実であるかのように書かれたもの、現実だと思ったら夢だったもの、などを、すべて同じ地平で語ることができるのだなあと、改めて思いました。そもそも小説とは非現実なのだ、と思うと同時に他方では、夢であるにもかかわらず宿ってしまう妙なリアリティが浮かんできました。男女観の記述や料理に対する詳細の記述などが良かったです。やはりディテールが大事なのでしょうか。
僕は「何様の再構築」というなんだかかっこいい謎理論を語り出したとき、「オレ」さんを好きになりました。
大猫 投稿者 | 2019-03-24 00:15
料理人たる俺も脆皮鶏もレイも特注釜もすべて夢の話だったのか、どこまでが現実か夢かが分かりませんでした。それが狙いだったのかもしれませんが、やはり脆皮鶏を味わう描写が欲しかったです。
読んでいるとお腹が空いてきて困りました。横浜中華街の同發に行きたいなあ。
退会したユーザー ゲスト | 2019-03-24 18:04
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諏訪靖彦 投稿者 | 2019-03-24 21:32
現実なのか夢なのかそれを内包している現実なのか、不思議な雰囲気のある話でした。自分勝手な愛を吐き出した後の眠りを妨げる声ほどうっとおしいものはない……としたり顔で童貞が言ってるような。いや違うますね。全然違います。チョイペイカイ食べてみたいなあ。「ロリー」や「レイ」が何のメタファなのかしばらく考えましたが私の頭では理解できませんでした。
駿瀬天馬 投稿者 | 2019-03-25 00:29
チョイペイカイの調理工程が本当に美味しそうでした。これ、たぶん食べたことある料理名を出されるよりも食べたことのない料理だったからこそより想像が膨らんで食欲を刺激したのかもしれないと思いました。そういう意味でチョイペイカイというあまりメジャーではない(と少なくとも私は思うんですがどうなんでしょう?)お料理をチョイスされたのはものすごくナイスだなと思いました。
「何様の再構築」というセオリーも良かったです。無茶苦茶だけどなんかわかる。今度から使いたいです。
牧野楠葉 投稿者 | 2019-03-25 16:11
チョイペイカイの調理過程の描写がすさまじかった。凡庸な料理の過程すら描写するのがすさまじく難しいのに、流れるようだった。夢なのか現実なのかなんなのか全くわからないところが魅力でした。
Fujiki 投稿者 | 2019-03-26 01:59
料理人としてクサカベの舌を満足させることと、恋人としてレイを満足させること。どちらの場合も主人公はその方法を知っているのに、実行に移す前に相手が夢として霧散して終わる。後に残るのは独り寝の虚無感だけだ。「あらゆる女にどう評価されるかが大事なのだ、例外はない」と語る彼にとって、評価してくれる女のいない現実は自己の存在意義が揺らぐ不安な状況に他ならない。だからこそ彼は夢うつつのあわいに逃げているのかもしれない。女の期待に応えることなくして自己を確認できない男のかなしみ、そんなことを考えた。
チョイペイカイが分からなかったので検索してみたら広東料理の店で他人に注文を任せて知らずに食べていそうな感じの料理だった。美味しそう。
桃春 投稿者 | 2019-03-26 08:06
皆さま、コメントをありがとうございました。
様々な反応を読ませていただいて、あまりにも不親切な小説であったと反省しております(ごめんなさいませ、笑)。勉強になりました(感謝!)。
以下、理解されるのではなく、少しでも感じていただける手助けになればとの思いで、この小説の世界観のメモを晒しておきます。
すべては「てか、ロリーだぜ(低カロリーだぜ)」のダジャレセリフを思いついてしまったところから始まったものです(頭の中から離れず、外に出すしかなかった、笑)。
・何を持って「夢」とするのか。例えば「すべての小説は夢である」ともいえる。
・夢と現実を明確には分断できない世界。
・絵画でいうと、シュルレアリスムという言葉にカテゴライズされであろう世界。
・夢の中で夢を見ている状態でもあり、しかしそれこそが主人公にとっての現実であるのかもしれない世界。
・主人公にとっては、それが夢であろうと現実であろうと重要ではなく、その時空間にいるという動的実感がその存在のすべてであり、また「存在意義」などという言葉にとらわれていないので、意識することもない。
・いわゆる一般的に認識されている「夢」にとどまらず、強引に言語に翻訳するならば、パラレルワールドへの出入り口装置としての「夢」でもある。
・ロリーとローリーは同一人物であるが、それぞれにワールドがある。しかし、時に何の前触れもなく、越境することがある。
・外界から見れば、彼は多重人格者、精神を患った者、認知症、などという言葉にカテゴライズされてしまう存在であるのかもしれない。
・すべてにおいて、これらは主人公の内側から描かれる。
こちらからは以上です(笑)。
波野發作 投稿者 | 2019-03-26 08:45
仕事に行く前の曖昧な状態で、よいまどろみを得た