星に願いをかければかなうというので、なんとか流星群がくるという夜に、とうとうついに、実行することに決めた。インスタントコーヒーを魔法瓶に仕込んで、マフラー、手袋、ダウンを着込んだら、準備完了、軒先へ出る。
黒猫がやってきて、死んだ人は生き返らないのだという。ぼくは、うるさいなと猫をやわらかく抱き上げて、ダウンの中にすっぽりと入れてしまった。黒猫はぬくぬくと喉を鳴らしはじめる。どうやら今夜はつきあってくれるらしい。
新月の夜は星の粒が大きくみえて、ちらちらと瞬いていた。ひとつ、星が流れた。
ぼくは、おお、と声を漏らして、久しぶりに見た流れ星にちょっとだけ胸をはずませつつも、案外速く流れるな、とか、どのくらいのスピードで願いを言えばいいのだろうか、と頭のどこかで考えて、それでも今日はたくさんの星が流れるそうだから、一回くらいはなんとかなるだろうと楽観を決めこんで、空をみていた。ふたつ、星が流れた。
黒猫も星がみたかったらしく、ジッパーを少しだけ下げろとちょいちょいお願いをしてきたので、ぼくは、さむいなあと思いながらも黒猫の頭をだしてやる。黒猫は、ぷふうと鼻を鳴らした。
「願い事をひとつも言ってないような気がするんだけど」
黒猫があくびをしながら言った。
「心の中で言うに決まってるだろ」
流れ星は速いから、口に出して唱えていたら、百年たっても追いつかないよ、と言ってやると、心の中では追いついたのかと尋ねてくる。ぼくは少しだけ言葉がつまって、まだ、と、ぶっきらぼうに答えた。
「死んだ人は生き返らないよ」
黒猫はもう一度大きなあくびをして、それから、寒気をすいこみすぎたせいなのか、くしゅん、と小さなくしゃみをした。ぼくは、わかってないなあ、と返事をして、ふたたび星に目をもどす。みっつ、星が流れた。
こんなにいっぺんに星は流れるものだったかと、ぼんやり考えながらも、流星群を見るなんて、小いさいころ、マンションのベランダから星をながめた、あいまいな記憶しか残ってないものだから、まあこんなものなのだろうと、結論づけた。今日の流れ星がいつもとおなじかどうかなんてわからない。結局、いつもなんて曖昧なものは、どこにも存在しなかったなあ、なんて、そうこう考えているうちに、よっつ、星が流れた。よっつ、いっせいに流れた。こんなにいっぺんに星が流れたら、最後には全部が流れ星になって、消えてなくなってしまうのではないか。そうしたら、ぼくの願い事もかなわなくなってしまうな。なんとか、星がなくなってしまう前に願いを唱えなくてはならない。急がなくてはいけないな、と思いながらものんびりしていると、黒猫ものんびりねむそうな声で、大丈夫、と言った。
「きみが想像できないほど星はたくさんあるんだよ、それこそ、星の数ほど」
その言葉に安心して、それなら、大丈夫だと、コーヒーをひとくち飲んだ。
それから何度も流れ星に挑戦してみたものの、何度も何度も、願い事を言い切る前に、星はあっけなく散っていった。黒猫がいうことには、速さ以上に、一番大切なのは想像力なのだそうで、なるべく具体的に願い事を思い浮かべるのが良いらしい。ぼくは努めて、もう会えなくなった人を思い出そうとした。彼女は、どんな目をしていたか、髪の長さや、声の調子、お気に入りの服なんかを、思い出してはみたものの、すべてがぼんやりと曖昧で、記憶の端からどんどん忘れていっている事実に気づいた。目をつむって見える姿は、輪郭も不鮮明で、ピントの合わない写真みたいだ。それでも、できるかぎりの記憶をふりしぼった。そうして、やっとのことで、なんとか輪郭を取り戻した彼女を見た。星はまだ流れない。
「ねえ、」
「なに?」
「死んでしまった人のことは、忘れてしまうものなのだろうか」
そうだねえ、と黒猫は言う。
「生きている人のことも忘れていくくらいだからね」
「そんなものかな」
「全部は無理だよ、大切なことだけ覚えていればいい」
「全部覚えていたかったな」
黒猫は、少しだけ首をかしげて、結局、何を叶えてほしかったの、と尋ねた。ぼくは黒猫のあごを撫でながら、ため息が白く濁って左手に流れていくのをみていた。何度も何度も流れ星になって落ちていったにもかかわらず、やっぱり夜は、大粒の星で埋めつくされている。ぼくは夜空に完全に負けた気がして、背中から地面にたおれこんだ。黒猫の重みがおなかにのしかかる。猫は体制を変えて、おなかのうえに居心地よく座り直した。
「会いたかったんだ」
さいごに、と、ため息まじりに答えた。
星が、いっせいに流れた。
流れたというよりも、落ちてきた。空にあった大きな粒がしんしんと落ちてくる。降り出した星はちらちらと発光していた。顔にぶつかったら痛いかな、と、ぼくがあわてて起き上がると、黒猫はダウンのすそからすぽっと抜けて落ちてしまった。さむいと怒られてしまったので、ごめんとふたたび抱きかかえる。星は静かに地面に降りつもっていった。ひとつひとつが白く光りながら、あっという間にひざの高さまで降り積もってしまった。
「星が降ってくるなんて、なんて、非常識な夜だ!」
と、黒猫が叫んだので、ぼくは笑ってしまって、本当に非常識な夜だねと言って、肩につもった星をさわってみる。羽根のように暖かく、かるく、そして、雪のように体温に溶けた。
地面に白くつもった星に黒猫を降ろすと、思ったよりかはさむくなかったようで、ふわふわと星にもぐって、ごきげんに走りまわった。ぼくも昔を思い出して、手のひらに星を固めて、雪だるまならぬ星だるまをつくって遊ぶことにした。地面をころがすうちに星だまはだんだんと大きくなっていく。
ふと、黒猫の言葉が頭によぎった。大切なのは想像力である。
ぼくは、二段にかさねた星だるまの顔の部分に、なんとなく手を伸ばした。
まず思い出したのは、目だった。はっきりとした二重で、目を伏せたときにまつげが影をおとしていたのをよく覚えている。笑うと目尻にしわができた。鼻はちんまりとして、そのすぐ下にはつんと大きな口唇があった。ふだんの凛々しい眉毛は笑顔で垂れ下がって、対称に薄いほっぺたがぷくっと上にあがった。星をかたどっていくうちに、記憶はだんだんと鮮明になっていく。前髪は目にかからないくらいだったような気がする。そうだ、こんな顔だ。夢中になって、かたちを整えていくと、星のかたまりはだんだんと彼女に近づいていった。こんな感じだっただろう、と、自分の記憶の限界もあり、これ以上はもう似ないな、というところで手をとめた。
細部はそんなに似ていなかったように思う。それでも、思い出に残る印象だけは、はっきりと捉えていた。ぼくは、星でできた彼女と向かい合って、うつむきながら、ごめん、とひとこと、言った。
「私って、こんな感じだったっけ?」
よく知っている声がして、顔をあげる。目の前の星のかたまりが、ふわふわと動き出していた。足元に目をやりながら、もうちょっと細く作ってよ、とか、手を握ったり開いたりたりしては、感触を確かめて、うごくうごく、と、はしゃいでいた。
なんで、と、唖然としていると、大切なのは想像力なんでしょう、と笑って、そして、少しだけ目を伏せた。白く光る肌にまつげの影が濃く落ちた。この角度をよく覚えている。
黒猫の方を見ると、星が全部落ちてしまうまで、と、やっぱりのんびりと言ってから、木にかけのぼって星をふるふる落として楽しんでいた。ぼくは彼女に向き直った。
「ごめん」
「何に対して?」
先に死んでしまって、と、消えそうな声でぼくは言った。ほんとだね、と彼女が笑う。大変だったよ、と彼女の目がぼくをまっすぐ捉えた。その目はもう笑っていなかった。こんなところも、昔のままだ。
「大変だったよ」
「そうだよなあ」
そっちは猫とのんきに遊んでただけでしょ、と言われたので、そんなだったかも、と少しは思いながらも、断じて違うと答えておいた。その顔は嘘だな、と笑われたのでどうしようもない。
「それでも会いたかったよ」
そうだね、と彼女は返して、呼んでくれてありがとう、と言った。
星はしんしんと降りつづいていた。ふわふわと次々落ちてくる星に、星の細胞でできた彼女は同化してしまって、目を離すとそのままいなくなってしまうように思われた。これがぼくの記憶の限界なのだろうか、と、頭のどこかで感じながら、目を凝らして、彼女の姿をなるべく目に焼き付けた。
今夜は非常識な夜らしい、という情報を、彼女に告げると、本当に非常識だね、と笑いながら、黒猫の方へ行き、両手で星をまぶしてやっては、ふるふると星を散らして発光する猫と楽しく遊んでいた。彼女の一挙一動、すべてが懐かしかった。
ふっと、空が暗くなって、星はとうとう降るのをやめた。ずっと星を眺めていられたらよかったのだけれど、そういうわけにはいかないらしい。
ぼくが彼女のほほに口づけると、彼女は柔らかく笑った。最期に言えなかった言葉を、告げなくてはならない。
「さようなら」
タイムリミットだね、と、彼女は静かにこたえた。ひとすじ、彼女の頬に涙が流れて、星の細胞でできた彼女は、ぽろぽろと流れる涙に溶け出していった。ありがとう、と聞こえた気がした次の瞬間、星のかたまりはすっと地面にくずれていった。
黒猫が行こうと言ったので、ぼくは、コーヒーをひとくち、飲んだ。
つんとした寒さが頬をさして、少女は目を覚ました。
昨日から降り続いた大雪で、街は白く埋め尽くされている。
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