世界は様々な価値観であふれている。
友情。 愛情。 与えられた仕事を誠実に確実にこなし、三十年ローンで購入したマイホームで愛妻と子供に迎えられ夕飯につく。
大分廃れてきたとはいえ、これが体現できている人間はこの国でもっとも理想に近い生き方だろう。
……まあ、俺達の年代にはもはや幻想と同義だがな。
量販店で買った安物の絨毯に横たわり、流行のなんちゃって低反発の枕に頭を預ける。
薄ぼんやりとした視界の向こうではヤニと何かによってコーティングされたかつては白かった天井が見える。
くそっ、窓を開けるのを忘れていたな。
室内に充満するケミカル臭い煙によって自分自身が燻されているのを感じる。
だが今更動く気は無い。 というよりも動けない……いや動きたくないというのが正解だから最初の言葉でおおよそ間違っていないだろう。
億劫そうに視線を横に向ければ茶色い絨毯の上には青い外装に涙を流したような目が印刷されたパッケージが転がり、寄り添うようにライターと灰皿が置いてある。
その灰皿の上には薄紫の煙が消えかけた狼煙のように一筋立ち昇り、天井で燻った雲のようなそれをつなぎとめるように繋がっていた。
誰かが言った。 『人生は生きるには長すぎる』と。
キザでいかにも繊細なその言葉には未だ頭の固かった十代の頃には反発を覚えたものだ。
実を言うと今でもその言葉自体は好きじゃない。
俺から言わせてもらえば、あー…なんだろうな? そうだな、『この国でシラフで生きていくには俺達はまとも過ぎる』と言ったところだろう。
まるで映画の台詞のようだった先程の言葉よりも一般大衆っぽくて素敵だなと自賛して薄暗い部屋の中で一人噴き出しちまった。
「お~、やってるかい」
急に部屋の扉が開いた。 途端に部屋の中に新鮮な空気が流れ込む。
排気ガスと息がつまっちそうなクソくだらなくて、思考停止した国民の吐息に満ちた空気が。
「早く閉めてくれ…酸欠になっちまうよ」
「俺から言わせればこっちがラリっちまうよ」
短髪に眼鏡、そしてスーツを着た染谷ははにかみながら俺の隣にどかっと腰を降ろした。
「残業お疲れ様…企業戦士殿」
「いやいや今日も自己啓発だよ、何しろこちとらしがない底辺ソルジャーですから」
おどけた言い方をするが、俺は笑わない。 染谷も笑ってなどいない。
まるで泣き笑いのような、何かを諦めたような曖昧な表情をしている。
「ほら…まあ一服しろよ」
横になったまま、すでに消えちまった紙に巻いた『それ』を手渡すと、染谷は首を横に振ってそれを断る。
「今日はマイ道具を持ってきているから要らないよ、ヤニ臭いハゲ上司から毒ガスを間接キスされてきたんだから、もう男とのキスはしたくない」
そう言いながらビニール袋の中から彼自ら自作したご自慢の水パイプ(ソメヤンスペシャル)を取り出す。
「それはご愁傷様だな…とはいっても少し前までは俺と散々間接キスしてきたってのにツレないわ…ダーリン」
いつもよりも柔らかくなった感性と気持ちで冗談を言うと、
「それには触れんといて~!」
ダミ声で返してくれる。
そこではじめて俺達は笑いあった。
大いに。 心から。 まるで子供の頃のように。 愛想笑いじゃなく純粋にだ。
「少し貰うよ」
床に置いたパッケージから一つまみ掴むと、それを水パイプの火皿に置いてライターで火をつける。
ボコボコという音が薄もやの部屋の中に心地よく響くので目を瞑ってその演奏を楽しむ。
ひとしきり吸い、一分間ほどの沈黙の後にフ~と言う風の音を聞く。
そして少しはおさまったと思ったあの化学物質のような香りが鼻腔を刺激する。
「窓、開けるぞ」
いまだ瞼の裏を覗いている俺をどうやら跨いで染谷が窓を開ける音が聞こえ、それすらも何か素晴らしい音楽のように思えたので俺は感嘆のため息を漏らすのだった。
「今日は泊まっていくんだろう?」
「よくわかったな」
「わかるさ、わざわざミニコンポなんて持ってきてるんだからな」
薄い絨毯シートの上、メタリックに光るミニコンポが鎮座している。
「今日もテクノかヒップホップか?」
瞳を開き、窓際に立つ染谷を見上げると、真面目でややオタ臭い印象を他人から受けるであろう彼は、
「もちろん両方さ…」
こちらが嬉しくなるほどの眩しい笑顔で答えてくれた。
俺達が物心ついた時にはこの国は不景気で、しょぼくれた大人達がいつも暗い顔で街中を闊歩していた。
どこかが倒産しました。 破綻しました。
ニュースではまるで定期連絡のようにそれを流されていて、親達はそれを見ながら不安そうにため息をつく。
学校に行けば仲の良かった友達が急に転勤して行方不明になったり、小学校の時にはいつも小奇麗な格好をしていた近所のおばさんはボロボロになったそれを着ながら近所のスーパーにパートに出かけていく。
その中でも親達は毎日真面目にコツコツと努力しなさい。
先生の言うことを聞きなさい。
将来困ったことになるわよ。
ほら、大人になってあんなふうな仕事をすることになるわよと工事現場のオッサンを横目で見ながらありがたい忠告をしてくれた。
だが大人になって俺達は知った。
親達が見下していた当時のおっさんよりも俺達は遥かに安い給料で、もしくはなんだかんだと理由をつけて金も貰わずに仕事をさせられて使い潰されていくのを。
中学の時には気づかなかった。 高校生になっても気づかなかった。 大学生になって少しだけ気づくことが出来たくらいだ。
いま思えば学生の頃に自由に振る舞っていた不良たちの方が俺達よりも未来をわかっていたのかもしれない。
大人しくしていたところで将来は大差ないのだと。
真面目にしてきた俺達が社会に出る頃には正社員ですら高嶺の花で、せいぜいが派遣やバイトしか働き口が無かった。
それですら、努力したところで安い給料で一人暮らしなんてしようものならろくに使うことすら出来ない。
そんな俺達を親やそれより上の世代は甘えてる。 自己責任だ、あるいは若者の○○離れだと自分達の世代の失敗を棚に上げて批判してくる。
たまたま景気が良かった時代や暴れまわっていても就職出来た運が良いだけの世代が偉そうに見下していやがる。
若者はけしからんと言うのならそれを育てたあんた達の責任は一体どこにあるっていうんだ?
俺達は食っていく為に働く。 よりよい仕事を、よりよい未来に進むために、それは先達の方々となんら変わりはないはずだ。
だが仕事は無い。
不景気の為により安い仕事をいまだ発言権の無い俺達に押し付けてくる。
それでも生きていくために俺達は働かなければならない。
足元を見られ、さらに足元をみられ、さらにさらにと数十年続けていくうちに俺達はもはや奴隷と一緒だ。
だから俺達は少しだけでもマシな奴隷になる為に毎日こびへつらって努力を強要され、人生を潰していく。
耐え切れない奴は自殺していき、それを逃げたと評価され、ほらああいう奴になってはいけないぞとまた批判される。
そうされてきた俺や俺達の実感や現実を見れば『人生は生きるには長すぎる』なんてのは甘っちょろく恵まれたお坊ちゃまの戯言にしか思えない。
そうさ耐え切れなくなる前に、思考を停止させないため、人間であることを止めないためにも、俺は真面目に『ハーブ』に溺れる。
そう法律の想定外である合法的なドラッグに。
ハーブとの出会いはたまたま出かけた繁華街の路上販売だった。
噂自体は聞いてはいたが、当時はまだ社会という物を信頼していた俺にとってはひどく危なく、また危険な代物に思えた。
購入したきっかけはなんだったろうか?
思い出した。 怒りだ。 その時、俺は怒っていたのだ。
日本人特有の『空気』という名の強制力によって無賃労働を二時間させられ、感謝の言葉も無いバイト先の店長に我慢しきれず文句を言った。
その結果としてクビになった直後だった。
私見だが人間が馬鹿なことをするときには決まって怒りが原因だ。
樹木の海の中で首をくくる時も馬鹿騒ぎをするようにビルを飛び降りる時も一足早く死を迎えようとした人間が身体をそれに追いつかせるために電車に飛び込む際も全て怒りが根底にある。
自分自身の不甲斐なさと国民性であるお上には逆らえない負け犬根性のハイミックスにより、その怒りを抑えきれず死を自ら選ぶ。
強すぎる怒りは大量のエネルギーを使用する。
怒りを内面にだけ向けていればやがてそれは枯渇してしまい、生きるために必要な最低限の気力さえ使い果たしてしまう。
およそほとんどの自殺の根本は怒りなのだ。
それが外に向かえばどうなるか? 簡単だ。 暴力や暴走へと向かう。
それもまた前者よりも動物として健全ではあるが、この美しい国では身の破滅を招くだろう。
つまりは俺達、奴隷世代には三つの選択肢しか与えられていないんだ。
怒りを自分に向けてくたばるか、外に向けて犯罪者になるか、あとはそれに耐えて素直に奴隷として生きていくか。
だから俺はその前記二つの間を生きることにした。
「合法だから大丈夫ですよ」
初夏の夜にしてはやや蒸し暑い街角の一角で路上販売者の男は少しリリーフランキーに似ていた。
にこやかに接しているようでその実、少しも笑っていない目で、合法だから逮捕されないのだと説明していた。
名前は『スモーク』
安っぽいビニールの小袋に入ったそれはウッドチップをみじん切りにしたような細かさでみっちりと詰まっている。
「香炉の中に入れて焚けば良い香りで癒してくれるよ…ああ、でも気をつけてねうっかり吸っちゃうと良くないよ?たとえばパイプとかでね」
ハーブは建前上はお香として売られていた。 なのでその建前を崩さないように男は本来の使用方法をこういった湾曲な方法で説明してくれたのだ。
「へえ、そうなんですか…うっかり吸っちゃうとどうなっちゃんですか?」
そのような建前など、この国で生きていればすぐに察することが出来る。
なぜなら街中では違法賭博であるはずのパチンコ屋が堂々と軒を連ね、無賃労働を『気遣い』という言葉で誤魔化している国なのだから。
そんな建前を男は正確に受け取って客商売で慣れた曖昧な笑みで答えを教えてくれる。
「う~ん、そうだね…これは外ではお勧めしないかな?しばらく『戻ってこれなく』なるからね、あとはこれなんかは少しマイルドで音が楽しく聞けるようになると思うよ」
まるで猿芝居。 あるいはハリウッド映画に出てくる日本人がヘンテコリンな格好や言葉で真面目に演技しているのを見ているような気分になる。
お互いに半笑いで三文芝居のような会話をしたあとに俺は財布の中から五千円札を取り出して『スモーク』を購入した。
帰り際に店主が、
「常連さんには色々とオマケできるから気に入ったらまた来てね」と商魂逞しい言葉を背中で聞きながら帰路へとついた。
さて、早速自宅であるアパートへと帰り着いて早速『スモーク』を取り出してみる。
見た目はやはりウッドチップを細かく砕いたようにしか見えない。
匂いを嗅いでみると、やはり樹木系の香りがする。 これは本当にお香としても良いかもしれないなとも思ったが、俺としては本来の…いやいや間違った方の使い方で使用するのだ。
だがそこではたと気づいてしまった。
どうやって吸えばよいのか?
店主は『たとえばパイプとか』言っていたが、そもそもこの日本でパイプを使用している人間がどれほどいるだろう?
せいぜいが時代劇で煙管というものを使用しているのをみたことがあるくらいだ。
テーブルの上に『スモーク』を広げたまま少し考え込んで数分ほど考えた後にひらめいた。
そうだ煙草だ。 煙草の中味を少し出して先に詰めればいいんじゃないか?
だが俺は吸わないので煙草が家にない。 よくよく考えてみれば火をつけるためのライターだって持っていないのだ。
どうやら勢いもあったとはいえ『スモーク』を買ったことで緊張していたのかそれとも舞い上がっていたのか?
そんな当たり前のことすら思いつかなかったのだ。
途中でコンビニに寄れば良かったな。
自分の馬鹿さ加減に苦笑いを浮かべながら近所のコンビニで煙草とライター、ついでに就職情報誌を購入する。
帰り道にやたらと足取りが軽いことに気づいた。
こんな風になったのはいつ以来だろうか?
おもちゃ屋でゲームソフトを買ってもらうとき? 遊園地に連れていってもらったとき?
それとも初めて出来た彼女との初デートに向かっているくらいか?
……止めよう。 不毛だし、気分が落ちてくる。
思い出そうとすればするほど、この状態がずいぶん久しぶりだったということを思い出してしまう。
せっかくの初体験なのだ。 楽しい気持ちを忘れずにいなければ。
その頃にはバイトをクビになったこともクソ店長の顔も頭の中から抜けきっていた。
それだけで『スモーク』を買った甲斐があるな。
いま思えばなんて可愛らしいことを思っていたのだろう。 このあとに来る人生最大の衝撃と幸福を知った後に比べれば…。
さっそく包みを破り、指先で煙草の先を揉みしだきながら中味を出していく。
そしてその先に『スモーク』を詰めておっかなびっくり火をつけ、ライターを置いて吸い込む。
あれ? 煙が出てこない。 まるでドン詰まりしているかのように煙が出てこないのだ。
なんだ? どうしてだ? ああ、そうか火をつけながら吸えばいいのか。
「ゲホッ、ゲホッ、喉が痛え…っ、クソッ」
人工的なパッションフルーツのような香りと喉に辛いものを詰め込んだような痛いようなヒリヒリするような不快感に耐えながら数回吸ってみたが、何も起こらない。
なんだ、なにも起こらないじゃない……か?
それは突如としてやってきた。
グラリとした感覚とともに世界が不思議にゆっくりと見える。 まるで神の啓示とやらを聞いたように視界がキラキラとした光で照らされている。
どうやら後ろに倒れていたようで光の正体は部屋の電灯のようだ。
それにしてもこんなにも世界は綺麗だったのか。 いままで生きてきてこの美しさに気がつかなかったとは俺はなんて愚かだったのだろう。
しばらくの間、世界の美しさに魅入られながら、身体の中の『スモーク』が薄れていくのを確認してから起き上がる。
吸いさしの煙草の火を消して、また煙草の中味を押し出していくのだが、今度は先程よりも多く、というよりも全て出して代わりに『スモーク』を詰めなおす。
こうして一本丸々の『スモーク』煙草が完成した。
「いえ~!世界にここだけの煙草が完成だ!」
本当に久方ぶりのハイテンションのあまり部屋で叫んでしまうが、そのはしゃぎっぷりでさえ愛らしく思えるほどに俺はゴキゲンだった。
モヤモヤと残る『スモーク』の残滓を楽しみながら最初の頃よりもやや深く吸い込む。
先端のオレンジ色の光、それ自体が太陽のように見え、それがまた楽しい気持ちに火をつける。
「…ふ~、ゲホッ、ゴホッ」
咳き込むことすら嬉しく思える。 先程よりも色が濃くなった煙を見送れば、まるで良質な映画を見た後のように心が軽い。
ふと目を閉じてみる。 視界を遮断した結果、余計にそれ以外の感覚が鋭敏になるのだろうか?
俺の身体に入った『スモーク』が肺から血管に侵食し、そしてそれがゆっくりと血と混ざって足元へと進んでいく。 やがて足の裏まで到達した『それ』が駆け上がって太ももから腹へ、そして胸へ、頭に到達した瞬間ぶっ飛んだ。
それは比喩というものではなく、文字通り飛んでしまったのだ。
俺の意識は脳内の『スモーク』と同化し、当然の帰結のように空気と混ざり部屋に広がっていく。 そしてそれらは壁の隙間から外へと漏れ、夜空へ昇り、成層圏を越えて宇宙へとたどり着いた。
俺は見たのだ。 無数の星々に囲まれながら青く美しく燃える地球を。
だがそれはひどく儚くて、目を開いてしまえばそこは狭い自室なのだが、それはそれで自分とあの大きく綺麗な地球と自分が繋がっているように思え、妙な感動さえ覚えた。
そうだ! 感動だ。 ここ数年湧き上がることなど無かったそれをいま俺は感じている。
まるで新しい発見をしたように。 見たこともない絶景を見たように。
その日、俺は人生でそう何度も無い幸福な出会いをしたのだった。
部屋の中の空気を揺らすように携帯が鳴った。
時刻はPM10:20。 ぼやけた頭を揺らしながら一言漏らした。
「ああ、またか」
かけてきた相手はすぐにわかった。 別段、相手によって着メロを変えているわけじゃない。
この時間で俺にかけてくる奴なんて一人だけだ。 ああ今日もこの時間だったんだなと同情しながら電話に出ると、疲労がベットリとへばりついた声で着信相手の声が聞こえる。
「…いま、暇かい?」
暇ではあるが忙しい。 俺一人だけが感じている粘性の高い空間にもっと酔いしれていたというのが本音だが、親友の誘いを断るほど自分勝手じゃない。
だから俺の言葉はいつもと同じ。
「暇だからとりあえず寄れよ」
「ああ、ありがとう」
礼の言葉さえ重苦しく響く。 今日も今日とて俺の親友は哀れなことに奴隷のままだった。
やってきた染谷は新しいスーツと反比例するように気持ち悪いくらい青かった。
食事はちゃんと取っているらしいから人間は疲れてくれば血も薄くなるようだ。
あるいはすでに半分死んでるのかもしれない。
また知りたくもない知識をしっちまったな。
「いつも悪いな…このまま真っ直ぐ帰るのは…あれなんだよ」
まだ二十台前半というのにまるで疲れたオッサンのようなことをいう。
というよりも就職して半年足らずというのにその数十倍は年月を重ねているように見えた。
「まあ…ゆっくりしろよ」
染谷の到着前にコンビニで買ってきた一口チョコを差し出す。
染谷曰く、最近甘いものが猛烈に食べたくなるらしい。
疲労を回復するために無意識に身体が欲してるんだろうな。
老人のようなゆっくりとした動きでチョコレートを口に運ぶ染谷の為に缶コーヒーを一本渡す。
これもまた染谷曰く、学生の時には大して好きでもなかったコーヒーをやたらと飲むようになった。 しかもブラックを。
「カフェインで無理やり覚醒しないともはやどうにもならないんだろうな」
自嘲気味に笑う染谷の無理やりな笑顔に心が痛む。
「しかし窓全快にするほど今日は暑いか?」
「ああ…換気だよ、換気」
染谷には『ハーブ』のことは何日か前にさらっと話したことはあるが、その時には特に興味も無さそうだったので、ここは誤魔化しておいた。
あれから俺自身も『スモーク』のことを調べてみた結果、すでに色々な種類のスモーク(と同じような効果を持つハーブ)があることを知った。
この時ほどインターネットの有難さを思い知ったことは無い。 先人の不の遺産を一心に受け止めた自分たちの世代でこれだけはあって良かったと思えるコンテンツだ。
いまだグデングデンになっていたが、会話には困らなかった。
大概は染谷の仕事の愚痴と最近あったどうでも良いことをグダグダと話しているだけなのだから。
とりとめのない話ではあるが、仕事で心と身体を疲れ果てている会話でさえ、染谷にとっては唯一と言っていいほどに癒しなのだろう。
ふとお互いに学生だった頃を思い出した。
あの頃もいまと同じような会話だったが、それでもお互いに屈託無く笑いあっていたものだ。
なのに今では泣きそうな顔で弱音を吐く染谷の話を黙って聞き、「それは大変だな」とか「ありえないだろ、それ」という返事を返すだけで十分満足できてしまうほどになっている。
俺たちはどうしてこうなってしまったのだろうか? いや俺は俺でしょうがない。
問題を起こさないと言うだけで基本的には不真面目であった俺と違い、真面目に勉強をし、仕事場でも努力をし続けている染谷の現状は『もっとどうにかならないのだろうか』と友人であることを差し引いても同情に値する状況だった。
何かが間違っている。 いや間違っているのは俺達なんだろうか? それにしても…。
雲を掴むような疑問をボンヤリと頭に浮かべながら染谷の話を俺は黙って聞いていた。
それから半年の間、染谷は同じ状態だった。
俺は俺でやっと就職をすることが出来た。
あの『スモーク』を初体験した日に買った求人誌で見つけたバイト先で正社員が突然数人辞めたので、職場で唯一の二十代だった俺が何とか正社員としてもぐりこむことが出来たのだ。
俺としてもいつまでも非正規でいるわけにはいかなかったのでその誘いは渡りに船だった。
それに毎月買う『ハーブ代』も馬鹿に出来ない金だったので更に好都合だ。
「就職おめでとう、これでお前も立派な社畜だな」
と長い付き合いの友人でなければキツすぎる冗談を言いながら染谷は就職祝いだと言って酒を奢ってくれた。
その頃には染谷の精神状態は随分と悪化していて、時々会話の中に「死にたい」という言葉がチラホラと出てくるようになってきていた。
そんな染谷に俺は色々と『酔った』勢いもあってか「親友のお前が居なくなったら寂しいからやめてくれよ」と半笑いで止めていた。
それは真面目な顔で言えばそれがある意味染谷を追い詰めると本能的に察していたからだ。
それを聞くと染谷は照れくさそうに、でも少し困ったように「そうだな、もう少し頑張ってみるよ」とだけ答えてくれた。
だが確実に染谷は悪化しつづけていく。
ある時は「最近、時計の秒針の音がうるさ過ぎて寝れないんだ」と告白し、またあるときは俺との電話の最中に「お前の後ろから女の声が聞こえるんだけど、誰なんだ?」と質問してくる。
当然、そのときの俺は一人だった。 テレビさえつけていない。 そのあまりにも真剣な物言いに俺のほうがうすら寒い感覚を覚え、ゾッとしてしまった。
そしてついに染谷は決意した。 俺から言わせれば少し遅かったと思うところだが、この就職難の時代にそれを決めることは本当に勇気が言ったことだろう。
「仕事をもうやめることにしたよ」
あるとき、青いのを通り越して白くなった顔で俺の家にやってきた染谷は苦渋の顔で宣言した。
俺は驚かなかった。 その少し前からメンタルクリニックに通い、鬱病と診断されていたのを知っていたし、正直な話、近いうちに自殺してしまうだろうと予測していたからだ。
だが手放しに喜ぶほどに無責任でもなかった俺は、
「そうか、少し休んだほうがいいんだよ、お前は…」
素っ気無く言った後に飯でも食べに行こうと誘い、お互いにとことん飲み明かしたのだった。
それにしても肉体の傷と違い、心の傷というものは時間が立てば癒えるということは無いようだ。
非人道的な仕事を辞め、バイトとはいえ常識的な労働時間の仕事を始めてはみたが、染谷の容態は一向に良くならない。
良くならないどころか時期によっては悪くなることもある。
まさに引く波と寄せる波のように良い方に向かい、すると悪い方にも傾く。
一日で数日で一週間で会うたびにコロコロと心のバランスが代わっていく染谷を見てみると、殴りつけるよりも罵倒する方が時には人の人生を破壊できるようだ。
何の疑問を抱かず誰もが当たり前のように一片の罪悪も無くそうしている。
この年齢になって人の世の恐ろしさというものを垣間見た気がする。
それでも俺には『ハーブ』がある。
身体には決して喜ばしいものではなく、犯罪と悪辣のギリギリの分水嶺にあるものだが、合法である酒よりかは良いものだ。
まず第一にやりすぎて死ぬことは無い。 もちろん加減を間違えてパニックになることもあるが、落ち着いて深呼吸をしていけば数十分で戻る。
第二に重篤な中毒になることもない。
もちろん良いものならば嵌りきってしまい中毒にならないものなど無いだろう。
だが酒に溺れ、溺れ続けて沈み込んだ先、その行き着く果ての中毒と比べれば『ハーブ』中毒とはもちろん天国と地獄くらい違う。
俺の父親はアル中だった。
社会の不条理を飲み込み続けるにはいささか器が足りなかったようで、毎日酒を飲み、倒れても呑み続けついには肝臓を破壊してもなお呑み続けた。
その結果どうなったか?
壊れた肝臓が処理することの出来ない悪物は脳に回り、最後は自分が誰であったかすらわからず、病院のベッドで一個の人間としてすら終われず、ただの生き物として生涯を終えた。
だからこそ俺は酒を呑まない。
あまりにも見てきたものがひどすぎて一時の酔いに合法的に身を任せ続けることに魅力を持たないのだ。
だがこの社会で生きていくにはシラフでいつづけることは難しい。
だからこそ俺は『ハーブ』をやり続ける。
たとえこの先に破滅が待ちうけようとも。 それは明日死ぬ命を一年後に延ばすことだと同義かもしれないが、それでもはるかにマシだろう。
人間、いずれは死ぬのだから無駄だとも思えるかもしれないが生きてさえいれば笑い、楽しみ、もしかしたら何かを為すかもしれないのだから。
……詭弁だ。 それでもただただ何も考えず、何もせず、唯々諾々と死んでいくよりかは良いだろう。
俺はそう確信する。
だからこそ俺は一つの決断をしてみようと思う。
もしかしたらそれは悪辣な行いであり、親友に決定的な止めを刺すことになるかもしれない。
それでも…。 それでも何かが変わるのなら……。
蒼白な顔でぎこちなく笑う染谷を見ながらそう決心した。
「やってみるか? ハーブ」
妙な緊張感で唇を干からびせながら慎重に言葉を紡ぐと、染谷は少し驚いたようだった。
すでに俺がハーブをしていることは染谷に言っていた。
『酔い』の影響もあっただろう。 でなければ言えるはずが無い。
たとえ『ハーブ』がどれほど素晴らしかろうと、またそれゆえに甘い毒薬だとしても堕ちていくのは俺自身だ。
そう、決めた俺自身なのだ。
たとえこの先にどうなろうが俺が俺自身が決めたことだ。 俺だけの決断だ。
だがこの場合はどうなのだろう?
たとえ悪心が無かろうと、親友を堕落させることは果たして許されることなのだろうか?
逡巡は唐突に途切れた。
俺の提案を染谷は笑顔のような泣いてるかのような顔でポツリと一言、
「ああ、やってみようかな」
それは誰にとっての救いだろうか?
だがその言葉と表情がかすかに残っていた罪悪感を一蹴し、染谷の笑う声と共に静かに霧散していった。
「お~、これは凄い…凄いな~!」
俺が拵えた中味を詰め替えた『タバコ』を口にした染谷の反応はまさに少し前までとは雲泥の差だった。
まるで学生の時のように『酔い』はしゃいで久しぶりに見た心からの笑顔だった。
その模様を見ていながら俺はいつの間にかしみじみとした笑みを浮かべていることに気づく。
それは安堵だろうかそれとも後ろめたさ故だろうか?
それを一度頭から追い出して大笑いする染谷を俺は見つめていたのだった。
「お~、着いたな」
雲ひとつ無い夜。 墨のような夜空には砂を撒いたように星空が光り、丸く切り取られた薄黄色の月がポッカリと綺麗に浮かんでいる。
それと同じくらい綺麗な笑顔で染谷は彼自身の家の前に立っていた。
男に綺麗ということは普段なら抵抗があるのだが、それでもかつての染谷の表情と比べればそう評価することしか出来ない。
「待たせたか?」
と声をかける。
「い~や、待ちどおしくて俺が勝手に出てたんだよ」
染谷はおどけながら軽やかに助手席へと乗り込んでくる。
それが何だか嬉しくなってしまって車の扉が閉まったことを確認したあとに出た
「それじゃ出発しますか~!」
言葉は思っていた以上に明るかった。
週末の夜。 共に明日は休みな土曜日。
吐く息は白いが心はほのかに温かい。
俺にとっては何度目か、染谷にとっては初めてハーブを買いに行く日だ。
県外の繁華街に最近出来たハーブショップはかなり質が良いらしい。
SNSで仕入れた同好者のコミュニティでそれを知った俺は早速そこに行ってみることにした。
だがいかんせんガソリン代等を考えると、手放しにというわけにはいかないので、先週、俺の部屋でハーブを楽しんでいた染谷にそのことを話すとすぐに俺も行くと言ってくれた。
いままで買っていたところは路上販売なのであまりにも人目が多すぎる。 別段気にしなければいいことなのだが、どうも繊細な俺にとってはやはり抵抗があった。
なによりその店以外にも素晴らしいハーブがあるかもしれないのだ。
本来出不精である俺だが、ことハーブを知ってからは大分アクティブになった。
もっともそれはハーブに関することだけだが……。
「さすがに首都圏に向かうだけあって車の往来が多いな」
運転する俺の横でそんなことを呟く染谷は言葉とは裏腹にワクワクしていることが見て取れた。
「まあな…それでもその分駐車場は無駄にあるだろうから、車を止められないってことはないだろう」
俺も上機嫌で答える。
車内はBGMとして少し前のJPOPが流れていて、懐かしき青春時代に流行した歌ばかりだ。
俺も染谷もカラオケには行かない人種だが、今日ばかりはお互いにこれからのことを考えて上機嫌だったようで思い思いに歌詞を口ずさんでいる。
思えば染谷と仲良くなったのは音楽の趣味があったからだろう。
同じクラスになったのは一年間だけで、最初はお互いに口すら聞かないくらい疎遠だった。
あるときにたまたま俺が聞いていたCDを見て、
「それ、俺も好きなんだ」
と話しかけてきたのが仲良くなるきっかけだった。 それを言われるのはクラスが分かれる一ヶ月前だったが…。
若ければ若いほどに仲良くなるのは容易い。
いま思えば年齢を重ねるほどに親友を見つけることは難しいものだ。
孤独で無口だった俺にとっては染谷と出会えたことは少なからず人生にプラスになった。
多少は社交的にはなったもんな。
横目で見る親友は窓の外を見ながら流れてくる曲の一節を歌い上げていた。
『誰かが残していった退屈にあくびが出ちゃう。 人生ってのはそういうもんかな?』
その問いかけじみた歌詞を親友は口ずさみながら、俺は心の中でひそやかに歌い上げていた。
ふと見上げると首都高の入り口を示す緑色の看板が俺たちの頭上を通り過ぎたところだった。
「いらっしゃい」
深夜二時を過ぎた通りにはいまだ信じられないくらいの人々が行き来していた。
さすがは眠らない街とか言われているだけあって、終電が過ぎてもにぎやかな街角は華やかにみえ、歩いているだけでも楽しく思える。
その店は驚くことにその街の中心部にあった。
ビルとビルの間にある路地、風俗店の横にあったその店の名前を確認して俺達は階段を駆け上がる。
店に入るとハーブ店特有のお香の香りがひしめきあい、疲れた顔の店員が件の言葉をかけて俺たちを出迎えてくれる。
ここの店員は無口なようで、カウンターのガラスに入っているハーブを品定めする俺たちに声をかけたりすることはせず、隣に備え付けられていたテレビをじっと見ている。
「すいません、最近売れているのはどれですかね?」
染谷よりかは幾分慣れている俺が声をかけると、店員はややぶっきらぼうに一つのハーブを指し示す。
「それじゃそれを一つください…それと」
機嫌が良いときほど財布のヒモが緩むのは当たり前なことだが、普段からあまり金を使わない俺たちにとってはかなりの散財をしてしまった。
しめて二人分で数万円。 買いすぎたかとも思ったが、店員にとってはこの程度は普通のようで何の反応も無くレジを叩き、金を受け取って釣りを渡してくれた。
買ってしまえばあとはもう用は無い。 そそくさと店を出ようとする俺たちとすれ違うように数人の若者たちが店に入っていった。
どうやら人気があるのは間違いないようだ。
俺と染谷は互いにニンマリと笑いながら、群がるポン引き達を無視して帰路へと着く。
飯も食わずに寄り道もせず真っ直ぐに。
国道は土曜の夜だとはいえ午前3時ともなれば走る車はまだらだ。
スカスカとした灰色の道の上、開けた窓からは紫色の煙が立ち昇る。
「おい!あまりやるなよ!俺の分まで無くなるだろ」
運転しながら横に居る『酔いどれ男』に声をかけると、
「ケチケチするなって…まだまだいっぱいあるんだからさ」
やや上ずった声とノリの良いテクノでリズムを刻みながら袋の中味をこちらに見せる。
レゲエパンチ。 アゲハ。 ブラフマー等々。 数々の『ハーブ』達が開封されるのを待ちかねている。
いま染谷が試しているのはラッシュトリップ。
先程のショップで店員が一番売れていると言っていた品物だ。
クッキークリームのような香りが車内に充満し、芳香剤の匂いすらかき消している。
もう我慢が出来ない。 ボンヤリと窓に頭を傾けている同行者の手を叩いて、その後にその手を口元に向ける。
それだけで察してくれた染谷がそっと吸いかけのタバコを俺の口に運んでくれる。
よかった。 そこまでぶっ飛んでいるわけではないようだ。
ただ視界の隅でゆらゆらと揺れているライターの火が少し危なっかしいが、それでも何度かの失敗のあとにやっとタバコに火がついた。
軽く一吸いし、染谷に返す。
運転席側の窓をあけて煙を吐き捨てると、置いてけぼりを食らうようにそれは車外へと飛び出していく。
「気分はどうだ~?」
薄ぼんやりとした口調の染谷に俺は前を見据えながら、
「やっぱりハーブは最高だな」
ニカリと笑い返した。
日曜の昼間。 布団に横たわりながらカーテン越しに空を見る。
仕事の休み。 こうやって一人でハーブを燻らすのがここ最近の俺の癒しになった。
染谷も今日は仕事休み…のはずだが、不思議なことに出勤しているらしい。
当然仕事ではないから給料は出ない。 狭い個室の中で客が来て何かわからないことがあった時にだけ出ていくそうだ。
正社員ですらないのにまったくご苦労な話だな。
そう毒づく俺に「もうこういうことは前の仕事で慣れてるからな」となんでもないように答えていた顔が思い浮かぶ。
仕事ではないはずなのに携帯をロッカーに置き、ただただ椅子に座って客の質問を自動販売機のように待つ。
そんな親友の姿を想像しながらアンニュイになる気持ちをハーブの煙で心から押しだす。
染谷の病気は変わらず。 俺の生活も相変わらず。
毎日毎日仕事をこなし、理不尽な物言いに曖昧に笑い、頭を下げてやり過ごし、そして家に帰ってハーブをやってそのまま眠る。
俺も染谷も同じだ。
生きているのか死んでいるのかもわからない。
現状を変えようとも思っても何をしたらいいのかわからない。 いや何をしようと何も変わらないのだから、そう思うことこそ不毛以外の何者でもない。
俺や染谷もある意味社会不適合者だろう。
周りの人間が当たり前に思うことが思えないのだから。 仕事にのめりこめばそれを忘れることが出来るのだろうか?
いや、結局は社畜という名の奴隷になることなのだから問題外だな。
ハーブを休憩し、ヘッドホンを取りだして音楽をかける。
音楽だけが最大の癒しだ。 小説もマンガも映画も好きだが、もっとも好きなのは音楽だ。
そしてその音楽を最大限楽しませてくれるのがハーブだ。
だが時折、何かが蠢く。 心の中でそれは確実に在るのだが、それが何なのかわからない。
イラつく気持ちを押し殺すように休憩しようとしたハーブをまた一口吸った。
それは大分落ち着いたが、それでもやはり消えずに存在していて妙に焦らせる。
「……ハーブ買いに行くか」
やることも無い。 ダラダラとハーブをしているのもいいが、それだけではやはり退屈だ。
車のキーを掴み、玄関のところで一口吸ってから外に出た。
ギラギラとまぶしい太陽がとても素晴らしいものに思えるくらい快晴だった。
都内には月に一回だけ行く。
電車代やその他を考えると俺の安月給だけではそれが精一杯なのだ。
ハーブで億劫になった身体を無理やり動かして電車に乗りこむとラッキーなことに座ることが出来た。 これは本当に嬉しい。
ハーブをやって身体を動かすことはお勧めできない。
力が入らないというのもそうだが、やはり椅子に座って目を瞑り、音に身を任せていることに向いている。
それはミュージックでなくても音であるというだけで良いのだ。
つけていたイヤホンをはずし、瞳を閉じる。
すると電車内の会話や規則正しい電車の走る音がまるで極上のオーケストラに思えるのだ。
その中で壁に頭を預けながら目的地に着くのをゆったりと待つ。
幸いなことに俺の住む地域は乗り換えなしで目的地につくので余計なことを考えなくていい。
ただただ流れに身を任せるように到着するのを待っていることが楽しいと思えさせてくれるハーブはやはり素晴らしいな。
やがて目的の液の数駅前までたどり着いた。
ハーブの効能は大分薄れて、身体に力が入ってくる。
よかった、このまま効いている状態で階段を下りるのは少し危なっかしい。
前に一度だけ足を踏み外して階段から転げ落ちたことがある。 その時には幸いに大怪我はしなかったが、しばらくの間、強く打った肩が疼いたものだ。
晴れ始めた思考の中で携帯を取りだしてサイトを取り出す。
検索画面で『合法ハーブ 東京』と打つと数秒のタイムラグの後に沢山のサイトが表示された。
俺はその中で一つを選択して開く。
今日はこの店に行くとしよう。
合法ハーブの店は日に日に増えていく。
その中でも一部の店ではオリジナル商品をそろえるところもチラホラと出てきていた。
今日向かうところはその中の一つ。 ちょうど前に言った店から少し離れてはいるが大きな公園の近くにあるのでわかりやすい。
その店のサイトに表示されたオリジナル商品を買いに行くのだ。
そのついでにいつもの店でも購入する。
商品は『ラッシュトリップ』。 前に『間違って吸ってしまった』ときに一番良く酔えた商品だ。
件の店はあくまでそのついで。 情報収集もかねて知ってる店は増やしておかないと……。
店の場所を確認したところでちょうど目的の駅に着いた。
ヨイショと立ち上がりプラットフォームへと降りる。 ハーブは大分切れてきたようだ。
好都合だな。 新しい商品を試すにはシラフであることが第一条件。
より良い商品を、店を見つけることは賢い消費者にとっては必須なのだから。
降りた先の屋根から見える太陽は俺の街と同じ。
まるで追いかけられているかのように同じ空の下で輝いていた。
気がつくとすでに時刻は明日になっていた。
家に帰り着いたのが18時。 途中で買ってきた夕食を軽く食べ、少し休んでからハーブで一服してひと心地ついて時計を確認した時は20時だった。
そこからいつもと違う一工程をやったら気がつけばこの時間だ。
時計のデジタル表示は一日が始まってから二時間ほど立っている。
いつの間にこんなにたっていたんだ?
ハーブとは違う新しい感覚の凄さに圧倒されて暗い部屋の中でボウッと座り込んでいる。
今日、新しく開拓した店で買ったのはハーブを一つ。 そしてこれだ。
目線を向けるテーブルの上には小瓶が二つ転がっている。
一つは薄黄色の液体に半分満たされ、もう一瓶には透明で少しだけドロッとした液体が入っていた。
「ブースター無しでこれか…はは、ヤバイなこれは…」
極度の興奮が過ぎた後の自然(ナチュラル)な喜びに酔いしれる。
閉め忘れたカーテンの向こう側の月を見上げながら暗い部屋で一人呟く。
今日、俺が新しく開拓した店で購入した『リキッド』はその名の通り、ハーブではなく液体だ。
いままでのショップにはハーブしか置いていなかった。
オススメというポップを張られたこれを手にとって見ていると目敏い店員が声をかけてきたのだ。
「これはハーブとはまた違うもんですけど、いいもんですよ…うっかり飲み込まないように注意だけはしてくださいね」
「へ~、そうなんですか」
ああ、なるほどね、これはハーブのように燃やして焚くものではなく直接飲むものなのか。
言葉の裏を正確に認識し、やや顔色の悪い長髪の店員に向き直る。
「それで、うっかり飲んじゃったらどうなるんですか?」
俺がちゃんと理解していることに気づいた店員はニヤリと笑う。 だが不健康そうに痩せた男は慎重で、
「どうかな?飲んだことはわからないけどアゲアゲになっちゃうんじゃないのかな?」
とだけ答えた。
アゲアゲ? ハーブとはまた違うということか。 値段はハーブよりはやや高い。
それでも土砂の中に混じった金粒を探索するような物言いで質問を続けてみた結果、どうやら一瓶で二回分しかないらしい。
それを聞いて少し悩む。 ハーブ代やらここまで来るだけでも決して安くはない浪費をしているというのに効くのか効かないのかわからない代物を購入することに対して内心で逡巡する。
しかし次の店員の言葉を聞き、決心した。
「一緒にこのブースターも買えば相乗効果でより強い香りになりますよ」
香りというのはこの場合は効果だ。
店側としてはあくまでお香として売っているという建前なので間違って吸った場合や飲み込んでしまった際の効果をこういった方法で表現している。
そして大抵のハーブに手を出した結果、ややマンネリに陥っていた俺にリキッドという新しい『モノ』と『ブースター』による相乗効果という宣伝文句はまさしく期待を高ませてくれる魔法の言葉だった。
「それじゃこれとブースターも買います」
「毎度あり~」
元気よく答えた店員が俺に釣銭を渡そうとする時に思い出したように付け加えた。
「ああ、単体なら問題ないけどブースターも使うなら次の日が休みの時にしておいたほうがいいですよ」
経験上この手のアドバイスは聞いた方がいい。
今まで行ったショップの店員は直接的な説明が出来ないので購入した後にこうしたアドバイスを付け加えてくれることが多い。
いくら店側としてはお香を売っているだけなので『間違った使い方』をして文句やトラブルになってもうちは悪くないと言い張る為のアリバイ作りだとしてもそういったことが起こらないに越したことはないのだから、雑談の中にひょいとこういったことを言ってくれる。
ハーブの効果が唯一無二である以上は当然取り扱いも慎重にならなければならいことは当たり前なので俺も『教えてくれてありがとうございます』という意味を込めて、
「ああそうなんですか」
と素っ気無く返して店を出た。
それだけで十分だ。 ただの店員と客の間柄でしかないが、ある種の共犯関係にも近い間柄にはそれくらいで十分なのだから。
そういうわけで少し買いすぎたなと反省する思いすらぶっ飛ぶ程のリキッドの素晴らしさを十分味わい、やがて無事に着陸することが出来た俺は部屋の灯りをつけることなく布団にもぐりこむのだった。
本当はブースターとの相乗効果を楽しみたいところだったが、店員の忠告(いやいや雑談)を受け入れてもう寝るとしよう。
明日も仕事だ。 生きているとも死んでいるとも言えない苦役に邁進するために身体をゆっくりと休むのもまた奴隷として大切なスキルだろう。
おっとその前にあと一口だけハーブを吸っておこう。
快適な睡眠をするための努力も惜しまないことも哀れな奴隷には必要な常識なのだから。
「さて、準備は出来たな」
六畳間の自室に座り込み、誰にともなく呟いた。
明日は休みで、残業の命令を用事があると強弁してそれを振りきって仕事を終えた金曜日。
窓の外から濃橙色の夕日が部屋の中をその色に染め上げたその中で、胡坐で座り込んだ俺の目の先には例のリキッドとそのブースターの二つが置いてある。
少しドロリとした粘性の高い液体を入れた小瓶は室内の色を濃縮されたような色合いをしていて、それを掴んで一口で飲み干す。
瞬間、口内ではエグイ味と化学物質の塊のようなケミカルの臭いが充満する。
生物としての本能としての吐き気が胃の辺りから口までわきあがってくるがそれら全てを傍らに置いたオレンジジュースで無理やり流し込む。
異物としてのそれは喉元を流れ、体内に入ってしまえば強烈な吐き気はひとまずおさまった。
そこで少し間を置く。
前回誤飲したときには効果が現れるまで小一時間ほど掛かったので、一度立ち上がってゆっくりと腕を回してみた。
ストレス過多の仕事により凝り固まった筋肉がゴキリという音を発するのを感じながら大きく息を吐いてまた座りなおす。
そういえば今日は染谷は来ないそうだ。
十年来の友人付き合いの気安さから来る時には連絡はほとんどない。 あるとすればいつかのように仕事終わりの夜中くらいだ。
今日は用事があるそうで、『今日は休みだな』と昨日電話で少し残念そうな声が頭にリフレインする。
なので今日は心置きなく新しい体験を楽しめるのだ。
「それじゃボチボチ行こうかな?」
また独り言を呟くと、ブースター側の小瓶の蓋を開けて先程と同じように全て体内に放り込む。
もちろんオレンジジュースで押し流すことも忘れずに。
味は最初のリキッドよりかはケミカル臭はしないが、やはり普通ならば吐き出すような強烈なエグ味を感じるが、覚悟を決めた俺には吐き出すという選択肢は残されていない。
まるで服毒自殺を強行するように決死の覚悟で服用した。
「さてと…これで三十分から一時間だっけ?」
使い込んですっかりと瞑れてしまった座布団に乗って、出発するまでの待ち時間を動画を身ながら待つことにする。
いまも流行っているゲームに出てくる言葉じゃないが、今の状態を表すなら『おっと!効果は絶大だ!』と言ったところだな。
数本の動画を見ているうちに旅立ったことがすぐにわかった。
それはまるでジェットコースターのようにカタカタと全身を震わせながら胃袋から放射状に広がっていく幸福感で始まり、やがて溺れてしまったかのように世界を包み込む。
心臓は当社比2倍速で高鳴り、あふれ出た喜びが汗となって全身をずぶぬれにする。
かつて感じたことの無い幸福感が尾てい骨の辺りからズンズンと放射状に全身に広がっていく。
「これはハーブとは確かに違うにゃ~」
あまりの快感にろれつが回らなくて語尾がふにゃりとしてしまったが、それを笑う余裕も無い。
津波のようなエクスタシーが俺自身を流していく。
自分の歴史に新しい1ページが書き込まれた。
タイトルは…そう、最高に幸せな一時だ。
良いものを見つけてしまった時、人間はどういう行動をとるだろうか?
ただ自分だけの秘密にして孤高に楽しむ?
それも良いだろう。 俺ももしかしたら少し前まではそうやって世界の一部の人間しか知らない最高の幸福に酔いしていただろうから。
だが今はそうじゃない。
共に青春時代を過ごした男。 秘密を共有している親友。 そして同じ趣味を持った同志が俺には今居るのだ。
「ちゃんと夕飯は抜いてきたか?」
週末、俺の家にやってきた染谷に俺はたずねた。
「もちろんだ、今日は最高の日になるんだろ?」
染谷の言葉に『フフン』と得意げに応える。 もちろん肯定という意味で。
染谷は待ちきれない様子で数日前に俺が新たに購入したリキッドを覗き込んでいる。
テーブルの上に並べられた四本のガラス瓶がトロリと水面を揺らす。
あらかじめ染谷には夕食を抜いておくことを言っておいた。
リキッドは胃の中に流し込まなければならないので腹の中に何か入ってると効果が弱まってしまうのだ。
「腹ペコじゃないと楽しめない可能性があるからな」
リキッド自体の味の悪さによって吐き気がこみ上げることも考えられるので、それこそが最高の一時を楽しむためには必要不可欠な儀式であることも説明しておいた。
久しく見ることの無かったわずか数時間先の未来を予想して染谷は子供の頃のようにワクワクとした顔を見せている。
それを見れただけで、リキッドを買ってきた甲斐があるというもんだ。
かく言う俺も数回体験しても尚、その素晴らしさの底に辿り着けていない。
いったい気の置けない人間とどんなに楽しめるのだろう?
新たなる体験に顔がにやけるのを耐えられない。
「さあ、一緒に間違って飲もうじゃないか」
まるで役者のような口上でパーティの始まりを宣言した。
染谷も同じように、まるで十代の頃に戻ったように、
「お~!イエ~!」
ややダサい表現で全身全霊で表現してくれた。
さあ楽しくて幸せでちょっとだけ罪悪感を抱かせる宴の始まりだ!
「俺が思うにだな人間ってのは真面目すぎてはいけないと思うんだ。確かに美点ではあるだろうけど、無理して我慢して一体何になるっていうんだ?俺達の周りには世間の奴らが言うほどには良いことなんかないじゃないか」
「ああそうだよ、そうだよな。最近はすっかりインポ気味でAVだってみなくなったよ、本当に凄い物ってのは中々無いよな」
お互いに熱弁しているというのに全く噛み合わない、愚痴にも独り言にも似た演説を交わしている。
そのチグハグな青年の主張を俺たちは一昼夜つづけていた。
時には俺と染谷の友情を人生唯一の宝にしようと熱く抱擁したりもしたがこれは忘れよう。
なぜならそのあとに親愛のキスをした記憶があるから。
最高の体験を二人で体験した結果、どうやら俺たちのタガは完全に外れてしまったようだ。
歓喜の宴からは俺も染谷も出来るだけ休日をあわせ、車に乗り込んではあちらこちらへと旅に出た。
もちろん新たなるハーブとリキッドの開拓だ。
それは何の保証も無い、あるとすればSNSで仕入れた噂に近く、幻にも似たあてども無い旅だが、俺たちは存分にそれを楽しんだ。
東京、埼玉、群馬、栃木、茨城に神奈川は完全に制覇した。
もっとも遠いところでは仙台まで行ったことさえある。
片道数時間をかけ、目的の店を探し、時には空振りに終わりながらもうまく見つけられればその店で散々散財をしまくった。
そして共に家に帰り友と存分に語らい、楽しむのだ。
地方の店は首都圏と比べれば微妙な品ぞろいと品質ではあったが、それでも良品店はあるところにはある。
俺達はそれを楽しみ、時には不満を言いながら、一晩中語り明かした。
楽しくて、嬉しくて、初めて生きている意味というものを実感した日々だ。
ハーブでグダグダになって床に転がり、リキッドで速度超過を楽しむ毎日。
充実していた。 そのおかげで仕事にも精がでるようにもなった。
なぜなら深遠なるハーブとリキッドの世界を旅するためには何よりも金が必要だ。
げんなりするような残業を生き甲斐の為に貴重な時間を消費しながらも、それすら必要な出費だと割り切りながら賢明に働いた。
時には片方がバッチリ効いている方がやっていない片方に電話をかけて、一方的に語り続けることもしたし、一人はハーブ、もう一人はリキッドと全く違うテンションでよくわからない話をし続けていたことさえある。
その一つ一つが自分たちにとってもっとも大切なモノだと確信しながら日々は過ぎていく。
お互いに相乗化するように俺たちはハーブとリキッドのことを研究していった。
ネットに薬学的な書物を持ち寄り、どうすればこの素晴らしさを更なる次元へと向かうかを熱く語り合った。
そしてもっとも効く方法を開発したのだ。
それを見つけたのは俺だった。
やはり一日の長というものは貴重で、それを見つけたのはハーブでぼやけながら除いていたSNSの書き込みだった。
『直腸接種法』
書き込み者はそう書いていた。
意味は文字通り、リキッドを尻の穴から直接注入するという方法だ。
そうすることによってダイレクトに身体に吸収され、効果は倍増される。
もちろん危険もかなり上がる。
調べたところによると直腸吸収は胃からの吸収と比べて胃を通らないので約3倍の効果があるそうだ。
それはつまり危険度も三倍に上がり、負担も同じだけ掛かる。
だがそれがどうしたっていうんだ?
俺たちはすでに死んでいるのと同じだ。
かろうじて最近は生きる意味を見出してきてはいたが、社会的にみれば俺たちはただの食い詰め物で、ホームレスよりも少しだけマシな状況にあるだけだ。
ただ意志を殺して、奴隷の身分を少しでも守るために戦々恐々しているだけの存在なのだ。
それが嫌ならば死ぬしか道は無い。 破滅以外に。
ならばいま死ぬよりも無職に転がり落ちて破滅することも大差は無い。 いやむしろそうなる直前まではこの世で一番の幸福を甘受することが出来るのだ。
迷う意味など無い。
きっと染谷もそう言うだろう。 いや擦り切れてボロボロになった心を引きずっているあいつなら俺以上にそれを肯定するはずだ。
早速俺はそれを試してみた。
入れるための道具を探すのは正直手間取った。
最初は墨汁を入れるためのスポイトで試してみたが、いかんせん先が短いため、放出してもすぐに尻の穴から垂れてきてしまう。
まるで漏らしたみたいでそれはひどく惨めに思えるので、一回で止めた。
そして次はペットショップに狙いを定めてみた。
動物の子供に流動系の餌を食べされるために注射器にも似たシリンダーがあったのだ。
長さも十分、スポイトよりも二倍はある。
これならば俺の頑なな肛門(イエローゲート)を突破することが出来るだろう。
近所のショッピングモールにあったペットショップに開店と同時になだれ込み、それを購入する。
待ちきれてたまらないのを耐えて家まで帰るとさっそく試してみた。
本来は出口である肛門に何かを入れるのは、背徳的な気持ちにもなったが構わずにそれを我が門(ゲート)に差し込む。
かつて感じたことのない異物感に耐えながら水に溶かしたリキッドとブーストをやや四つんばいでゆっくりとシリンジを押し込んでいく。
腹の中で冷たい何かが入ってくるのを感じながら、効果があらわれるまで必死で肛門を締め付け続ける。
こんなに肛門に注目したのは小学校の帰り道にウンコを我慢した時くらいだ。
グルグルと異音を発する腹をやさしく撫でながらそれが来るのをひたすら待ち続ける。
そしてそれは思ったよりもゆっくりと来た。
ふと身体が重くなり、まるで床面に沈みこんでいくような感覚を覚えた。
キタキタ! と嬉しくなってくるのを耐えながらもまだ肛門の異物感は続いていた。
まだまだ完全に吸収しきれていないのを理解してなおも肛門を閉め続けていくと、ついに効果が顕著に現れてきた。
症状はやはり飲んだときと同じで、気のせいかそれよりもゆっくりとでも普段よりも気持ちよく感じられる。
身体は動かない。
かつて感じたことの無い安堵感と幸福感に捕らわれて身体が動かない。
どちらかといえば誤飲したときよりも幸福感は強く感じられる。 そして全体的な効果もやはり上のようだ。
ただただ幸せだった。 頭の中はかつてあった楽しいことを思い浮かべ、その時の気持ちを数倍に増幅して幸せだった子供の頃に戻ることが出来る。
効果はブースター付きなら24時間は聞いているのだが、果たして直腸からならばどれくらいなのだろう?
ああ……、願わくばこのままずっと時間が止まればいいのに。
そんな夢みたいなことを俺は考えていた。
効果が完全に消えるまでには三十時間程だった。
思っていたよりも長くは効かないものなんだなというのが最初の感想だった。
その間は一睡もせず、ただただ幸せに塗れ、音楽ばかり聞いていた。
充電切れを起こしていた携帯にケーブルを繋げてスイッチを入れるとどうやら途中で染谷にメールを送っていたようだが、その半分は記憶に無かった。
でも内容を読んでみると『凄い』『ヤバイ』『とんでもない』と言う単語が八割をしめているところを考えるとやはり最高の時間だったようだ。
笑ってしまうほどに文章は単調で、これ以上ないくらい直接的で俺もとことん語彙が無いなと携帯の送信済みメール画面を覗き込んでいると唐突に画面が切り替わり『染谷』の文字が現れる。
着信だ。
台風が通り過ぎた後の空のように清々しい気持ちで、電話に出ると、
「おお、生きてたか」
やっていたことを考えると冗談に聞こえない冗談を言う。
「ああ、ちょっと天国に行ってたけど生きてるよ」
俺はある意味冗談ではなく本気で返す。
「それで門(ゲート)から入れる方法はどうなんだい?」
俺たちは人なら誰しもが持っているモノにあえて門(ゲート)という他称を使って表現していた。
それはもちろん尻穴という字面や肛門という小学生の時以外に興味持つことの無い(あるならばやはり特殊な趣味と言わざるを得ないだろう)それをはっきりと口にすることに抵抗があったからだ。
ある意味反則めいた禁断を楽しんでいるというのにその徹底できないところが俺たちらしいと赤目と満月のような瞳孔で大いに笑ったものだ。
そして門(ゲート)という単語にはもう一つの意味があるからというのが実際のところだろう。
そう、門(ゲート)とはこの辛く厳しい世界から、幸福で満ち足りた天国(ヘブン)へと入り込むために必要なところという意味で俺のやや毛の生えたソコはやはり門(ゲート)なのだ。
「ああ、俺も早く門(ゲート)から天国へ行きたいよ)
「今週は仕事なのか?」
本当に残念そうに呟く染谷に問いかけると、
「いや休みが一日だけなんだ、そして次の日は朝一番で行かないとだからさ」
「ああ…それは少し時間が足りないかもな」
俺の言葉もトーンダウンしてしまう。
ブースターとリキッドで天元突破してしまうと、丸一日は地上へと着地できなくなってしまう。
そしてその後は飯も食わず、寝ないで騒いだうえにまた肝臓が『幸福の異物』を分解するのを助けるためにその後の一日は大人しく過ごさなくてはいけない。
たまにやたら時間が長く効きすぎてしまってさらに半日は宇宙と地上の中間点をフワフワ浮き続けてしまうこともある。
その状態で仕事をするのは内面的にはともかく外面的にははっきりと異常なのでそれは避けるべきだ。
「それと変にスイッチが入ったらやばいしな」
「ああ、それもそうだな」
また納得する。
スイッチとは染谷がたまに入ってしまう被害妄想染みた思い込みだ。
不思議と俺はまだそれを味わったことは無いのだが、一度か二度、お互いに心を飛び上がらせて高速トークを繰り返している最中にふと染谷が『誰かがそこに居る!襲われる!』と言い始めて台所にあった包丁を持ち出したことがある。
まあそういう状態になっても俺が『そんなわけないだろう、ほらモクモクしましょうね』と言ってハーブのたっぷり詰まったタバコをハーブによって慈愛に満ちた瞳で差し出すと素直にそれを吸ってまた楽しい旅へと旅立つ。
後日にそれを聞くと、どうやらハーブをしてるときにはそういう状態になったことないようだからリキッドの副作用のようだ。
まあ心を病んでいる以上はリキッドで変な方向に飛びすぎてしまうこともあるのだろう。
いわゆる勘繰りというものらしく、疲れているときにリキッドをやるとそうなるらしいので身体的と精神的なケアを重視するようにお互いに気をつけている。
「それじゃ連休がある来週まで待つことにしようかね、俺も控えてその日はハーブだけにしておくわ」
「う~ん…でもな~…あ~、どうしようかな…」
電話の向こうで悩み続ける染谷に『仕事だからしょうがないだろう?』と言うと、一瞬黙り込んだ後に染谷はこう言った。
「お前も社畜根性が出てきたな~」
その言葉に俺は大笑いする。
だがその笑いの一部に何か苦味のような違和感があるのは確かに感じていた。
「駄目だよ~!俺、出来ないよ~」
染谷が泣き言を言っている。
「びびってちゃ駄目だぞ?ゆっくり息を吸って~、はい、ゆっくり吐いて~、そしたら力を抜きな、そのままあてがうんだぞ」
俺の口調は優しい。 それはハーブによって気持ちが優しくなっていたのもあるが、目の前の光景のおかしさに可笑しくなっているのを楽しんでいるからだった。
「駄目だよ~、やっぱり出来ないよ~」
なおも染谷は泣き言を言い続けている。
俺の前で。 ズボンを脱いで。 ジャングルに満ちたゲートをパクパクさせながら。
週末の夜中に染谷はやってくると、開口一番、
「今日はリキッドやるぞ!」
と宣言した。
「月曜の仕事はどうしたんだ?」
「うん?理由をつけて強引に休んだ」
眩しいくらいの笑顔で答える染谷にこちらの方が驚いてしまったほどだ。
「一体なんて言ったんだ?」
「叔父さんが死んだってことにした」
「お前の叔父さんは三年前に死んだだろう?まさか甥っ子に二度死んだと言われるなんて思わなかっただろうな」
「『叔父は二度死ぬ』」
ドヤ顔で映画のキャッチプレーズのようなことを言うので噴きだしてしまった。
「面白いね~、それじゃ早速一服していくかい?それとハーブはちゃんと肺の中に貯めておかないとハイにならないぞ?」
ゲームの道具屋のようなことを言ってハーブを差し出した。
それが一時間くらい前だ。
ハーブで一度マッタリしたあとに俺は門(ゲート)からブースターリキッドの施主方法をまるでインストラクターのようにレクチャーしていた。
「わかったやってみるわ」
緊張した面持ちで奴はズボンを脱いだ。 ご丁寧にズボンから脱ぎ、猫の顔が散りばめられたトランクスを脱ぎ始める。
そして俺の目の前で四つんばいになりながら、
「こんな感じかい?」
と尻をクイっと突き出してきた。
「ブハハハハハハッハッハハハ!」
ちょうど水パイプでたっぷりと煙を吸っていたところだったというのにろくに肺にたまらないうちに全部吐き出してしまった。
「わ、笑うなよ…俺だって恥ずかしいんだぜ?」
「お、お前…毛だらけじゃねえか!も、門が…門(ゲート)がジャングルの奥深くにあって見えねえ!」
「や、やめろ~!ちょっとけ、毛深いだけなんだ…」
恥ずかしいのか緑地地帯のような尻がフリフリ横に揺れる。
「毛深すぎるだろ!熱帯雨林みたいになってるじゃねえか!これ完全に未開発地帯だな」
「う、うるさい…当たり前だろ! と、とにかく姿勢はこれでいいんだろ?」
顔隠して尻全開の染谷の問いかけに『そうだ』と言って注射器のようなシリンダーを手渡す。
「よし、行くぞ」
最初にそう言ったのは三十分前だった。
「いい加減にしろよ、いい加減ハーブが醒めちまったよ」
いまだに出口としか使用したことの無い門(ゲート)の前で覚悟が出来ずモジモジと立ち往生している染谷にさすがの俺も苛立ちが隠せなくなってきた。
「でもさ~、やっぱり怖いし、恥ずかしいよ~」
成人式などとっくに過ぎた成人男性が尻をプリプリ揺らしながら泣き言を言っている姿は中々に痛々しいな。
そしてそれを見ている俺というこのシュールな状況にもいい加減笑えなくなってきた。
このままでは染谷はいつまでたっても飛び立つことは出来ないだろう。
そしてそれは俺も同じことだ。
俺のほうは何度かしているので慣れているということもあるが、染谷は今日が初めてだ。
入れすぎないようにと異常があったときに対応出来ないとマズイので、染谷が無事にこのクソッタれな世界から飛び立つまでは俺はリキッドはしないとあらかじめ決めておいた。
しかしここまで時間が掛かるのは予想外だ。 というよりもまったく考えていなかった。
確かに本来なら出口であるそこに挿入するには抵抗があるだろうが…。
いったいどうしたらいいんだろうか?
「な、なあ…」
我が友人は尻丸出しで涙目で振り返ると、本来なら気の置けない関係なはずの染谷は言いにくそうに口を開いた。
「お、お前がやってくれないか?」
「はあ?嫌だよ!」
久しぶりにハーブ以外で心底からの声を挙げたが、それでも染谷は挫けないで、
「なあ頼むよ…本当に頼むよ…」
意識してかしらずか剥き出しの尻を突き出しながら迫ってくる。
ジリジリと確実に距離を狭めてくるそれに気圧されていく。
そして俺もまた我慢が出来ないのでその要求を受け入れざるを得なかった。
「それじゃ行くぞ…」
「うん、優しくね……痛っ!」
その乙女チックな言い方にイラっとしてしまい思わずビシャリとケツを叩いてしまった。
「気持ち悪いことを言うな!」
「ご、ごめん…」
何が悲しくて中学時代からの友人の門(ゲート)をガン見しなければならないんだ。
だがこれを終えれば…。 俺も……。
遠くない未来に先走る喜びが背中を走った。
武者震いにも似た歓喜に耐えながら門(ゲート)の周りにある縮れたジャングルを掻き分けながらやっと探し当てた。
ゆっくりと根元までスポイトを差し込んで、慎重に、でも指先に力を込めてシリンジを押し込んでいく。
「ふぅっう、ふあ~~」
「だから気持ち悪い声をだすな!」
中身が全て入ったことを確認するとゆっくりとスポイトを引き抜いた。 その間にさえ吐息のようなため息を漏らす。
「そのまま力を抜くなよ、中身漏らすとか勿体無いからな」
スポイトの先をアルコールティッシュで念入りに吹きながら声をかけると、ハイハイした状態のまま眉間にシワを寄せながら門(ゲート)を締めている。
それを見ているとニヤケてしまうので、もっと見ていたい衝動に駆られたが、それ以上に強い衝動に突き動かされて俺もズボンを脱ぐ。
あらかじめビンのキャップに混ぜておいたブースター+リキッドをスポイトで吸い上げて門(ゲート)にあてがう。
入り込んだヒヤリとした液体が直腸内に溜まっているのを感じる。
あとはこれが吸収されるのを待つだけだ。
横を見ると染谷はまだ四つんばいだが、慣れた俺は心臓側を下に胎児のように膝を抱えて丸まる。
何回かしているうちにこれがもっともリラックスできる体勢であるのだ。
いまだ「まだか~?まだか~?」とうなっている染谷を見ながら俺は近く共に来るであろう友との幸せを予感していた。
「お~い…生きてるか~」
「ああ、幸せだよ」
散らかった俺の部屋の床で二人は部屋の広さに足りなかった絨毯から外れたフローリングにベッタリと顔をつけながらお互いを見ていた。
偶然なのかそれとも必然だろうか?
すっかりとリキッドを吸収し終えた俺たちの体勢は向かい合うように…つまり…その…左右対称でまったく同じだった。
ふと想像すると俺と渋谷を中心に木目長のフローリング。 無造作に散らばった小物とゴミが非対称でありながら何か深い考えを施したように彩りを与えている。
ああ芸術とはこんなにも近いところにあるのだな。
フニャリとした声と蕩けているような身体で、わずか1メートル先にいる同胞を繋がっているようにも思えるくらいに身近に感じる。
「なあ…凄い…だろ~」
「あ~最高だ…な~」
冷たいフローリングの上で軟体動物のように俺たちの身体は弛緩し、そして緩慢に動いている。
全てが幸福に繋がるとはこういうことなのだろう。
自らが発した声の振動で全身の性感帯がダイレクトに揺らされているような感覚に俺と染谷は酔いしれている。
だがパーティはいまだ始まらない。 それはこれからわかるだろう。
やがてそこからニ時間程たった。 全身にそれが充満して飽和するようになってはじめて動けるようになる。
ようやくパーティ会場の扉(ゲート)は開いた。
さあパーティはここからだ!
無造作に立ち上がる。 参加者の一人はまだまどろみの中で、でも目線だけはこちらを向いている。
こいつももうすぐだな。
横目で奴を見ながらコンポのスイッチを入れ…ようとして辞めた。
「点けないのかい?」
「駄目だ…近所迷惑だ。 通報されたら厄介だろ?」
フワリとした声が心地よく背中を撫ぜる。 普段ならば決して思うはずのないのにどうして他人の声はこんなに美しく思えるのか?
それならばプロの歌手ならば?
コンポの前から移動して棚からある者を取り出す。 そしていまだ朦朧とする染谷の前に置く。
「CDウオークマンか…いいねぇ」
ポツリと漏らした一言ですら美しい。
まだズシリと思い身体を投げ出す。 着いていたイヤホンジャックには双タイプのアタッチメントが点けられていた。
それにイヤホンを二つ点けて無言で染谷に差し出す。
その意図を察して染谷は両耳につける。 俺も同じように。
ウルウルと潤んだ瞳を見ながら俺はスイッチを入れた。
「ああ~~!スゴイ!スゴイ!」
選んだジャンルはハードロック。 普段とは違う選曲だ。
せっかくの初めてなんだ。 今日はとことん飛びたいだろう。 俺も染谷も。
余分な思考をカットし、瞳を瞑る。 そうすれば俺もまた飛び立とう。
音の宴へと。
ザラザラとしたギターの音色に削られていく。 穿つようなドラム音に打ちのめされる。 そして倒れこむ俺をベースの低音ラインが優しく受け止めてくれる。
ヴォーカルの歌声は音色に色をつけてくれた。
情熱の赤に高音はジグザグと伸びやかなラインで低音は燃え盛るように心を燃やし尽くす。
それらすべてが綯い交ぜになり、グシャグシャと心の底をかき乱していく。
硬く干からびていた精神に魂が宿る。
閉じていた瞳を開けば電灯の光がキラキラと輝いていて、生きていることの喜びが次から次へと湧いてくる。
ああ、これで今日も明日も俺たちは生き続けていける。
だがこれが…リキッドが無ければ俺は、俺たちは幸せに生きていけるだろうか?
いかん…。 思考に雑念が混じる。 途端に足場が抜けるような感覚が迫ってくる。
駄目だ! 駄目だ! 早くこの音から抜け出さないと!
俺は…。 俺は。 俺は。
「…………あれ?」
音が止まった。
起き上がってCDプレイヤーの液晶を確認する。 画面にはアルバムの視聴時間だけが表示されている。
どうやらリピート再生するのを忘れていたようだ。
失敗だな。 だがおかげで助かった。
最近リキッドブースターの効果に僅かながらの変化が出ているようだ。 しかしまあ、そういうこともあるからこその逸脱行為なのだからこういう日もあるだろう。
ふと横を見ると、もう一人の逸脱者は白目を向きながら恍惚の表情でビクビクと喘いでいた。
とりあえずムカつくから、軽く蹴りを入れておこう。
手荒い激励だと後で言っておけばいい。
季節は巡り、すっかり寒くなり、朝に家を出れば吐く息は白く立ち上る時期になった。
大きく吐いたため息には同時に魂のようなものが含められているかのように全身が気だるい。
慣れてきたのを待ちかねていたように仕事の量は日々増えていった。
それは残業を使っても追いつかず、不思議なことに就業時間を終えても尚、居ないはずの俺は仕事場に存在してそれをこなしていく。
帰りはどんどん遅くなり、ひどい時には日付すら変わっていたことさえある。
そんな中では当然疲労も溜まる。
だがこの気だるさはそれだけが原因ではなかった。
「くそっ…あのハーブはハズレだったな、あれじゃまるで毒だぞ」
登校する学生がチラリと俺を見るのを感じた。
ここ最近のハーブの質の低下はひどいものだった。
もともとは法の想定外をすり抜けるような成分が含まれていたそれは日々のニュースに乗るようになり、それがきっかけで法改正がされていく。
業者の方もそれを考慮して成分を変えていくのだが、最初に最高の品質で造られたハーブは新しい法改正がされるたびに二線級、三戦級と質は低下していき、今では初期のような飛びを持つ製品は皆無だ。
いや効果が弱いのならばそれでもいい。 だが特に最近のハーブの品質は飛ぶどころかグズグズと沈み込みそのまま腐り果てていくような代物ばかりだ。
先日に間違って吸引してしまった製品もそれだった。
SNSでも『ハーブはもう限界』『これ以下になるならもう辞める』『最近友人が救急車に運び込まれた』と悲惨そのものである。
俺もまた同じ感想だ。 新製品を買っては失望し、ひどければトイレで反吐を嘔く。
それでも俺はハーブを辞めない。 品質低下が著しいとはいえ、それでもまだ良品(現行の中ではという縛りだが)も僅かにあるのだから。
「くそっ、寒いな…あの上司、死ねばいいのに…いやいっそ殺してやろうか」
またすれ違ったサラリーマンがこちらを見た。
最近独り言が増えてきたように思う。 それも出てくる言葉がとても物騒だ。
日々重くなっていく身体と心に金が入ることのない労働と嫌味な上司と無機質にただ仕事をこなす同僚。
その苛立ちがとうとう身体からあふれ出してきたのだろう。
だがそんなことはどうだっていい。 いまは今週末の連休を如何に死守するかの方が問題だ。
仕事の総量が増え続けてきたことにより休日も減っている。 とくに連休は激減し、一日でて休み、二日でて休み等の単発の休日ばかりだ。
これではゆっくりとハーブに耽溺する時間もない。
そういえばリキッドも最近していないな。 最後にしたのはいつだろう?
一日だけの休日ではリキッドなど絶対的に時間が足りない。 抜け切れていない状態で仕事に赴けば悪影響は間違いない。
最初の頃は身体を休めないとなとか言っていたが、いい加減我慢の限界だ。
それならば普通に過ごせばいいと思われるかもしれないが、ハーブやリキッド無しでは面白みが無い。
なまじ最高の状態で見られることを知ってしまってはもはやそれも意味がない。
それでは友人と馬鹿話でもして騒ぐか?
それもまた駄目だ。 ここ最近の染谷は完全に鬱のスパイラルに陥っており、たまに電話でもしてみれば「ああ…」とか「うん…」とかしか言わない。
仕事は何とか行けているようだが、それ以外は家でひたすら寝ているそうだ。
俺としてもその辛気臭い面を見ていると気が滅入ってくるので最近はあまり会っていない。
つまりは八方ふさがりだ。
「クソッ、どいつもこいつもよ~!」
またまた通行者に見られた。
いい加減にしろよ、見世物じゃねえんだよ!
とうとう苛立ちが爆発して、そいつを睨みつけるとぎょっとしたそいつは足早に去っていった。
独り言が増えたと同時に怒りやすくもなってきたようだ。
これもあれも全てハーブが悪いせいだ。
もうやってられるか! 誰になんと言われようと今週の連休は絶対に取る!
ギチリと歯を噛み締めながら昇る朝日にそう誓いを立てた。
結論から言えば連休は取れた。 だが代わりに上司と罵り合い、同僚たちには空気が読めねえなと嫌味を言われたが、そんなこと知るかってんだ!
当然の権利を行使すれば皆から文句を言われるこの世の中の方が間違っているのだ。
俺は立場は社畜という名の奴隷だが、心まではそこまで落ちてはいない。
俺は人間なのだ。 人間が人間同士で決められた約束事を果たしてくれと頼めば罵倒されるのなら、それは人ではない。 それ以下だ。
あの会社の奴らは全員が獣だ。 畜生だ。 だが俺は違う。
ゆえに俺は人であることを証明するため、また実感するために、車に乗りこみ、リキッドを購入に向かっている。
「ああ仕事以外で外に出るのは久しぶりだな」
車窓から見える景色をやや濁った瞳で見ながらそんなことを言う染谷は疲れきっているように思えた。
俺がリキッドを買いに行くことを染谷に話すと、やや悩みながらも搾り出すように言った。
「俺も行ってもいいかな?」
わざわざ聞くなよ。 いまさら何の遠慮があるってんだ? 中学からの付き合いで、共にハーブとリキッドで騒ぎまくった仲だろうに。
気恥ずかしくて口には出せないが親友といってもいいくらいの間柄だろ? 俺たちはさ…。
だがそれは言えなかった。 親友とも言える仲の俺にさえ、オズオズと怯えるように聞いてくる染谷の心を見れば、あいつがどんなに追い詰められているかは如実にわかる。
「ああ、いいぞ…」
素っ気無く答えた言葉の裏に込めた悲しみは届いただろうか、届いていないだろうか?
まあそんなことはリキッドを入れればきっとわかるだろう。
唯一の親友に思った気持ちもリキッドがもうすぐ手に入ると思えば半減されていくことが嬉しいのか悲しいのかわからなくなったが。
俺たちが購入するリキッドは茨城の水戸市にある。 駅から西に2km離れた繁華街とオフィス街の間にあり、駐車場は無い。
だから俺たちはいつも近くのコインパーキングに車を止めている。 別にすぐ前にあるファーストフード店の駐車場にでも止めればいいのだろうが、生来の小心と無意味な真面目さによって百円の代金を払って駐車している。
幹線道路沿い、お茶屋とスナックの間にその店は存在していた。
売ってる物を隠すように、店先にはドレスとスカートが吊るされていた。
時刻は午後6時。 この店は午後4時から始まる。 本来なら開店と同時に来店する予定だったが、思いのほか道が混んでいて時間が掛かったのだ。
だがそれが災いした。 それを知らされた時の衝撃はここ数年で一番だ。
「えっ?売り切れ?本当ですか?」
顔に無数のピアスを仕込んだ店員はその厳つい見た目とは裏腹に申し訳無さそうに頭を下げてくる。
「あと言い辛いんですけど…次の法改正でこれ販売できなくなったんで、次の入荷はありません」
俺たちは何も言えなかった。 ただ呆然とレジ前で呆然と立ち尽くしていた。
「もっと早くに出ればよかったんだよ!」
「そんなこと言ったってしょうがねえだろうが!」
「いや!お前が時間を決めたんだぞ!お前が悪い!」
「うるせえな!毎回人に運転させておいてふざけたことと抜かすな!」
止めたコインパーキング上で俺たちは互いを罵りあった。 こんなに怒鳴ったのは出会ってから初めてだ。
怒りだ。 怒りきっていた。 あのリキッドを味わえないという絶望と失望が後も無いほどに感情を猛らせていた。
最初の一発はどちらからともなく始まった。
互いに応戦し、鼻血が噴出し、ジンジンとした痛みが走っても俺たちは殴りあった。
その騒ぎをみた通行人が発した「警察を!」という言葉で正気に戻り、俺達はまるで最初からきめられていたかのようにスピーディに料金を自動機に払って慌てて車を走り出す。
帰りの車内は最悪の雰囲気だった。
信号で止まるたびに互いを罵る。 ときには殴りつける、殴りあう。 だが信号が青になればまた走り出し、止まればまた同じことをする。
家に帰り着いて鏡を見れば、ひどい状況だ。
瞼は張れあがり、頬には青アザ、口元からは歯で切ったのか血が流れている。
染谷は奴の家の途中で降ろした。
俺も奴もいい加減限界だったから。
俺が「降りろ」という前に奴は自ら「降ろせ」と言った。 だから降ろした。
声はかけなかった。 いやかけたかもしれない。 どうしようもない罵倒を。
家に帰り、落ち着いてみればどうしてあんなに感情的になったのだろうという疑問が浮かんだが、深く考える前にいやになった俺は自室でハーブの袋をあけてパイプに詰める。
これは現行でもまだマシの方の部類に入る。
痛みが増していく辛さを誤魔化すため、大きく吸い上げると吸い込み口のそれは火球のように燃え上がり、すぐに灰になった。
濃い紫の煙が部屋に広がっていく。 効果はすぐに現れたが、それでも痛みは完全に消えることなくいつまでも染み込むようにズキズキと疼くのだった。
ジリリリリリ。 ジリッリリリリ。
けたたましく鳴る目覚ましを力いっぱい殴りつけながら止めると乱暴に玄関の扉を閉めて仕事場へと向かう。
状況はあれから一度も良好に向かうことなく悪化し続けている。
毎日朝から晩まで一日中イラだってしまい、それはハーブをやっても変わらない。
むしろハーブをすることによって怒りが増幅してストレスになっているというのに相変わらず俺はハーブをやり続けていた。
少し前まで楽しんでいたハーブは軒並み販売禁止となり、新作のハーブももはや初期のようなマッタリとした快感では無く、妙に心をソワソワとした気持ちへと変えていく。
現行のハーブはもはや初期のものとは全く違うものへと変わっているというのに俺はいまだにハーブを諦めきれずにいた。
その苛立ちがさらに精神状態を悪化させていく。
いつになったら奴隷身分である俺はまたあの世界にもどれるんだろうか?
毎日毎日とくだらない仕事をこなし、貴重な時間を食いつぶしていく日々にどんどん心がひび割れていくのを感じていた。
苛立つといえばもう一つあった。
染谷とはあの後、どちらともなく仲直りをした。
お互いにあの時は気が立っていたんだなと曖昧に誤魔化して、どうしてそうなってしまったのかは語り合うことは無かった。
そんなことはどうだってよかったからだ。
いまは俺も染谷も消えていくハーブの残量だけを気にし、また品質の良いそれを求め続けていた。
これほど素晴らしいものが消えるはずが無い。 かならずバイヤーがまた良品を見つけてくれるのだと、まるで当ての無い未来を語り合っている周りの人間たちのように思えるが仕方の無いことだ。
だが、やがてそれを先に諦めたのは染谷だった。
「いい加減、もう身体に悪いから辞めるわ」
一人でいると悪いことばかり考えてしまうので、誘った電話口の向こうで後ろめたそうに奴は言った。
「まあもう少し待てよ、そのうち良いのがでてくるからさ」
ピキリとこめかみに走る怒りをかみ殺しながら言う俺に、
「いずれっていつ来るんだよ?ハーブはもう終わりだ、それに最近ますます欝がひどくなってきたんだ…頭だって痛いし」
「わかったよ…また良いのが入ったら教えるわ」
「お前もそろそろ辞めておけよ」
切り際の言葉にも怒声を耐えて、切った後に携帯電話を乱暴に投げつける。
いずれ? そんなの知るか! だが今更諦めることなどできるわけがない。
くだらない仕事、くだらない同僚、くだらない日々、くだらない人生。
そのどれもが俺達の心を、人生を破壊していく。
ハーブを諦めてしまえば、どっぷりとそのくだらない物に塗れていくんだ。
だから足掻くしかない。 それまで毎日を歯を噛み締めて耐え続けていくしかないのだ。
だから早く! お願いだから一日でも早く! 俺をこの世界から救い出してほしい。
誰にも聞かれないように心の中で強く叫ぶ。
最近はテレビをつければハーブのニュースがよく流れるようになった。
それは一日どころか朝のニュースでも夜のニュースでも毎日どこかしらの地方でのハーブ販売店がモザイクで映し出され、その弊害の一つを声高に放映している。
コメンテーターの一人がうそ臭い深刻そうな顔で「問題だ」といえばいうほどに俺は鼻白んでいく。
こいつらはわかっているのだろうか?
なぜ沢山の人々が、それも主婦、学生、会社員の区別無く様々な人間がハーブを買っていくこの状況を。
それこそがこの国の病巣を照らしていることを。
誰もがこの国の在り方に疲弊し、酒に逃げることも出来ないで彼らの言うところの『ドラッグ』を求めているのだ。
だがそれを言ったところで愚か者の戯言としかとられないだろう。
ゆえに俺は沈黙する。 そしてさすがの俺でも最悪の未来を嫌でも確実視するようになった。
ハーブはもう終わりなのだと。
そう思えるほどにハーブの質は異質で違うものへと変化していった。
やればやるほどに心を人間性を壊していく感覚を頭のどこか冷静な部分で俺自身がそう確信してしまったのだ。
だが諦めきれない。 諦めることが出来ない。 諦めてしまえば俺はどうやってこの社会で折り合いをつけて生きていけるのだろう?
だからこそ諦観にも似た執着で俺は様々なハーブを試しつづけることを辞められないでいた。
その時分には染谷との親交は途切れつつあり、俺からのメールも電話も返さず、たまに話せば言外にこちらへの哀れみと侮蔑がチラホラと見え隠れするようになった。
お前だって楽しんでいたじゃないか。
怒りと悲しみとともに吐き出したかった言葉を飲み込んで、あえて他の話題を出すが、かつてのハーブほどには盛り上がることは無い。
飲めば飲むほどに渇く塩水のような会話を繰り返すことにお互いに疲れ果てた。
もう連絡はすることは無いだろう。
最後のわずか十分ほどの通話での切りぎわにそう確信した。
孤独になったことには何の感慨も無い。 いずれは来ることはわかりきっていた。
きっと染谷の方が正しいだろう。
もはやドップリとそれ以外に楽しみの無い俺の方が諦めが悪いのだ。
まるで中毒者のようにハーブを求める姿はあいつにはどう見えていたのだろう?
それも今となってはどうでもいい。 もはやあいつと俺は道を隔ててしまったのだから。
そして俺はハーブにすがり続けている。
これでやめよう。 これが最後だ。 諦めよう。
思いながら購入したハーブに当たり前のように裏切られて、ヘドを吐きながら、
こんどこそ。 今度こそは…と別の店でハーブを求める。
だがそうしているうちに販売店は姿を消していく。
まるで首を真綿で絞められるように一つまた一つと供給場所を失いつつも休日の度に遠くまでそれを買いに行く。
だがその日々もとうとう終わりを告げる日が来た。
まるで性質の悪い男に貢いでいた女がある日、突然目覚めるように…いや当然とも言えるきっかけによって。
その日はいつも以上にだるい身体を引きずって向かった都内。
向かった店のことごとくが潰れているのを確認しながらやっとのごとく営業を続けていた店を見つけて新製品を購入できてホッとしていた。
外はすっかりと暗くなり、ハーブを求めて歩き続けたことで重くなった足を引きずりながらどうにか駅前まで辿り着いた。
今では珍しくなった公衆電話の横で、歩行者保護用の柵に座り込んだ俺はボウッとこれからのことを考えていた。
家に帰ってやろうか? それともどこか適当な個室を借りてやろうか?
すぐ左にあるカラオケボックスの看板を見ながら悩んでいた。
時間にして20分。 悶々と悩む馬鹿らしさと痛む足を休ませることを天秤にかけながら俺は帰ることを決断した。
このハーブが大外れだった場合を想定して安全な自宅を選んだのだ。 ここ最近の経験を考えれば当然とも言えるのだが、それでも歩き出した俺はいまだ決めかねていた。
やはり少しだけやっていこう。 そうだ、少しだけなら問題ないじゃないか。
振り返ろうとした矢先、ドゴッ!という鈍い音と高音の悲鳴と怒号が耳に入った。
最初はそれが何なのかわからなかった。 だが集まる人々の切れ際と黒く大きなボディーとエンジンルームから立ち上る白い煙によって車が突っ込んでいたことにやっと気づいた。
事故だ! 思うと同時に野次馬も騒ぎ出している。
とっさに弾かれたように人々を掻き分けていく。
グシャリと潰れた公衆電話と巻き込まれたであろう人の足が見える。
いったい何キロで突っ込んだ? この場所は駅前で人通りも多く、道も狭いのでそんなに速度を出すはずが無い。
だがひしゃげた公衆電話と柵はとうてい常識的な速度だったとは思えない。
まるでブレーキとアクセルを踏み間違えたような…だが運転席でうつろな目をした運転者は自分と同じくらいの年齢に見えた。
何かの発作か? いやそれよりもあの姿はかつて見たことのあるような…。
「おい、大丈夫か!」
誰かが助手席から駆け寄る。 俺も同じように無意識に続いた。
窓は割れていなかったが、車の中はよく見えた。
車内には一人しか居ない。 声をかけても男の反応は無い。 気絶しているのだろうか?
そのわりには男の顔は恍惚としている。 だがダラリと口元から垂れたよだれが薄気味悪い。
「おい!様子が変だぞ!」
隣にいた会社員が叫ぶ。 そうだ、発作だったならもっと苦悶に満ちた顔をしているはず、気絶もしていない。
ならばいったい…! これは…。
窓越しに助手席に置かれた物に釘付けになった。
見慣れた形。 少し開いた窓の隙間から香る化学物質臭い香りが鼻につく。
これは先程俺が買ったばかりのハーブだ。 こいつも俺と同じハーブ愛好者だったのか。
「誰か、救急車!」
ショックのあまりにほうけていた俺の耳に誰かの声が木霊する。
正気に戻った俺は慎重に後ずさりしながらその場を走り出した。
風俗街を抜け、ホテル街を抜け、走って走って…走り続けて、息が続かなくなったときになってやっと止まった時は隣の駅近くまで走っていた。
何度吸おうとも酸素は体内に吸収され、すぐに消費されて枯渇する。
呼吸が追いつかない。
何度もすることによってやっと落ち着いたところでビルの壁によりかかって、そのまま力尽きるように座りこんだ。
こんなことが…。 ああそう考えれば…。 なんで走りながらなんて…。
様々な思いが頭蓋に湧いてくる。 しかし混乱が収まったところで一つのことに気づいた。
もう少しあそこで考え込んでいたら、あるいはほんの一秒早く戻っていたら……。
轢かれていたのは俺だったのだ。 いやもしかしたら死んでいたかも。
除きこんだ運転席の向こう側に広がっていた血だまりを思い出す。
あの人は助かったんだろうか?
あんなに血が出ていて…もしかしたら…いや…。
久しく見ていなかった大量の血液と最悪の想像に頭がクラクラしてくる。
へたり込んだ俺の耳に遠くから救急車のサイレンが聞こえていた。
それから数ヵ月たった。
俺の生活は相変わらずだ。 朝に起きて仕事をして、疲れ果てた身体を布団に投げ出して寝て、また仕事に行く。
変わったことといえばハーブはもうやっていない。 もちろんリキッドもだ。
あの事故は報道され、緩やかであったハーブ規制は嘘のように対策が施されていき、それに伴って全国に僅かながらに残っていた販売店を根こそぎ消していった。
もはやハーブを手に入れる手段は無い。 あるとすれば胡散臭いサイトでの手渡しか通販くらいだろうが、それもすぐに無くなっていくだろう。
いま考えれば、あのときこそが俺にとっての最後の機会だったのだろう。
ハーブをやめるか続けて人生を転げ落ちていくか。
あの時に持っていたハーブはすぐにその場に捨てて、家に残っていた物も全てトイレに流した。
その後は一口たりとも吸っていない。
心配していた禁断症状は無く、イラだつのも最近になっておさまってきた。
ときたま強烈に吸いたくなる日もあるが、もはや手に入らないのだから酒を少し飲んで寝てしまえば収まってしまう。
何のことはない。 昔に戻っただけだ。
この辛く苦しい社会の中の底辺で蠢きいずれは押しつぶされるか死んでいくただ一人の奴隷予備軍に戻っただけ。
その中でも人間は順応していく。 あるいは代わりを見つけていく。
無ければ無いなりの楽しみとして映画を見て、音楽を聴き、あとは泥のように寝る。
染谷との関係は戻っていない。 だが死んだという話を聞かないところを考えるとあいつもまた俺と同じように生きているのだろう。
いずれこちらから『久しぶり』とメールでも送るとしよう。
「おつかれさまです」
死んだ瞳で同僚達に終業を言って帰る帰宅途上で俺はドラッグストアによる。
慎重に店内を歩き、風邪薬コーナーを探す。
そして目的のものを見つけて二瓶レジに持っていく。 そしてわざとらしく咳をする振りをしながら順番を待つ。
だがレジ係の店員が、
「もうしわけありません。これは二本以上お売りできないんです」
申し訳そうに謝ってくる。
ちっ、ここはなかなかちゃんとしているな。
内心の舌打ちを隠して、なんでもないように、
「ああ、そうですか…それじゃ一本でもいいですよ」
なんでもないようにそう答えて俺は店を出た。
そして待ちきれないように包みを開けて、リキッドを飲むときのように一緒に買ったジュースでビンの中身を流し込んだ。
そしてそのまま俺はやがてくるであろうトロンとした幸福感を想像しながら車を走らせて帰途に着く。
そうなのだ。 何も変わらない。 人は順応していく、何かを代わりにして。
世界は様々な価値観で溢れているのだ。
だから俺の価値観もまた様々な一つだ。
この国で生きるにはまとも過ぎる俺は奴隷に成り下がることにいまだ抵抗をし続けている。
たとえそれが破滅に向かおうとも。
腐ったまま死んでいくより、やはりはるかにマシだからだ。
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