それは、墨汁を垂らした水の中を歩いている様な、濃厚で、まるで先の見えぬ夜だった。
何時の間にか月も隠れ、雲が出ているのか、真っ暗な夜空には一欠けらの光すら無い。そんな闇夜に包まれた路地裏を一人歩いていると、自分の靴が石畳の上を擦る、あの耳障りな音だけが嫌に辺りに響き、私は、厚手の上着を羽織った身体を縮こませながら、得に何の当ても無いのに、とぼとぼと夜の徘徊を続けていた。
何時の頃からか始まったこの癖は、大体寝付けぬ夜などに起きるのだが、別段、それをしたからといって何を得られる訳でもなく、特別ぐっすりと眠れる訳ではない。しかし、なんとなく体を動かしたり、人気の無い夜道を歩く事で妙に満ち足りた気持ちになり、寝床に戻ると、案外寝付きが良くなる事が多いためか、今ではほぼ習慣的に夜道を歩く癖が付いてしまっていた。
そうして今夜も、私は夜風を求めて下宿から出ると、お決まりの順路に従い、住む者が皆死に絶えた様な、重ぐるしい静けさに包まれる住宅街を、二丁先にある煙草屋に向かって、出来るだけゆったりと散歩していた。
この辺りの通りには殆ど街燈が無く、しかも道は狭い。闇の中でも一層色濃く浮かんだ、右手を覆う石塀の黒々とした影だけが、まるで私を誘う様に、突き当たりの曲がり角まで続いている。恐らく此処は、年頃の女性なら、気味悪がって避けてしまうような道であろう。しかし、私は好んで、こういった道を通る様にしている。
深夜の散歩というものは、ある意味では、姿形のはっきりとした現世とは別の、虚ろなもう一つの世界を練歩く様なものかもしれない。
陽光照りつける昼間には、あれほどつまらない住宅地も、一たび夜の闇に染まれば、ただの塀も地獄への道しるべに変わり果て、細長い並木道は亡者の群れが立ち並ぶ列と化し、止まった自動車の陰などは、得体の知れぬ化け物が、物陰に潜んでいるかのごとく見えたりもする。そして、私はそんな冒険奇譚の世界に迷い込んだ主人公のつもりになり、この世の音という音を全て吸い込んでおきながら、あえて私の足音だけを残す、意地の悪い暗闇の中を闊歩する。この闇は、今度は何を見せてくれるのか。もしも幽霊でも飛び出したならば、いったいどんな呪いの文句を掛けられるのかと、ゾクゾクと背筋を駆け上る悪感を愉しみながら、私は塀の途切れた、通りの角を勢い良く曲がったのだった。
そこで、脚が楔を打たれた様に固まった。
靴音の響かなくなった狭い路地に、物言わぬ静寂が腰を下ろす。その中で、喉元の辺りで止まった息を吐き出せずに苦悶する私の視線は、塀の続く路地の向こうのある一点に釘付けにされていた。
夜道の向こうに、ぽつんと立った街燈──その下に、黒衣の男が立っていた。
橙色の無機質な光は、塀に沿って建つ丸太の電柱の中ほどから突き出た、鉄棒の先にぶら下がる、すすけたランプ型の電燈から溢れており、その電柱の根元には、いったい何時から其処に居るのか。黒い山高帽子を目深に被り、大きな襟を立てた漆黒のコートを纏った男が、古めかしい旅行鞄を手に、まるで置物のごとく、じっと立ち尽くしているのだ。
それは、電燈の下でなければ、まるっきり闇に溶け込んでしまいそうに思えた。頭の天辺から爪先まで鴉の様に真っ黒な男。唯一その色と違う部分といえば、袖の先にぶら下げた、男の井出達には似合わぬ飴色の旅行鞄と、帽子の襟の僅かな隙間に覗く異様に白い横顔ぐらいなものである。
私はその姿を見た時、不思議と、いつか読んだ本の挿絵にあった、死神の稚拙な版画絵が脳裏に浮かんでいた。夜道に佇み、通り過ぎる人間の命を奪っていく黄泉からの使者。そう思ったのは、見慣れぬその衣装のせいか、それとも、其処に立っているのに、まるで生気を感じない男の立ち姿のせいだろうか。とにかく、私は気味が悪くなり、その男が、こうして塀の角で棒立ちになった私に気づいているかも知れぬのに、どうしても脚を前に出せずにいた。
しかも、其処はこれから向かう道の先である。この塀に囲まれた、道の間は狭い。先をゆくならば、どうしても男の鼻先を通らねばならないのだ。
そう考えると、毛穴から溢れた冷たい汗が身体を濡らし始め、私の脚はさらに硬く凍てつき始めた。
あの様な不審な人間が待ち構えるこの路地を進むなど、とても出来はしない。私は先程の冒険者気取りの自分を棚に上げて、来た道を引き返そうかと、そっと踵を後ろに引いた。
その瞬間、不覚にも音がした。靴底が擦れる、あの嫌な音である。
視界の隅で、煤けた光の中に立つ黒尽くめの男が、ゆっくりと体を捻るのが見えた。視線が合う。帽子の鍔で影になった男の顔に光る、大きく見開かれた両目がじっと此方を見詰めていた。
驚きのあまり、私が声も出せずに居ると、旅行鞄をぶら下げた男は、帽子の鍔を指先で掴み、こくりと小さな会釈をした。
その所作はあまりにも優雅で、どこか場違いな気がした。男が顔を上げ、その口元に微笑を浮かべているのを認めた途端、背筋が寒くなる。普段ならそれは、紳士的な仕草だと褒められる代物なのだろうが、今は男の奇怪な格好と、張り詰めた静けさとが相まって、電燈に佇む死神の不気味さを一層引き立てる役目となっていた。
私は気を取り直し、出来るだけ、何事も無かったかの様に取り繕ろいながら、脚を前に出した。
一体この男は何者なのだろうかと、訝しがりなりながら、路地を進む。段々と男に近づくに連れ、男を包む街燈の橙色が薄っすらと、辺りの闇に混じり始めた。
私は出来る限り、男の居る側とは反対に進むよう心がけた。黒衣の死神は、どうやら俯いているようである。上から降り注ぐ明かりが、幅の広い真っ黒な帽子の鍔の下に影を作り、それが男の顔を満遍なく覆い尽くして、とてもその表情を伺う事など出来無い。
道を進むにつれ、手のひらに滲み始めた汗に、男が気付いて居ないか気になり、私は頭を垂れながら、出来るだけ男の姿を見ぬよう、足早にそこを通り過ぎようと急いだ。
その時、ふいに男の手にした鞄が、私の視界の隅に滑り込んできた。
旅に出るには小さいような、書類を入れるには大きいような鞄。街燈の明かりに照らされ、なめし皮の飴色が、マントの闇の中に艶やかに映えている。
それにしても、使い込まれ方が良いのか、風合いの良く出た見事な鞄である。中には何が入っているのだろう。旅の荷物だろうか、それとも、もっと別の物だろうか。
まるで気配の無い男とは反対に、その鞄にはどういう訳か、ある種の息使いが感じられる様に思え、私は、なんだか不気味な黒尽くめ男よりも、その鞄の中身が気になり、すでに横を通り過ぎたというのに、後ろ髪を引かれる思いで首を捻りながら、男の手にしていた飴色の旅行鞄から眼を離せずにいた。
その次の夜も、男は其処に居た。
いつもの塀の角を曲がると、その向こうの蜜柑色の光の下に、昨夜と同じ格好の男が、あの鞄を手にして立っていた。
待ち合わせなどでは無かったのだろう。では一体、男はどうして其処に立ち続けているのだろうか。まさか、昨日からずっと立っている訳ではあるまい。だとすればそれこそ不思議である。
とにかく、毎晩そんな所に立たれていては、気味が悪くて仕方がなかった。
その不安を押し込める様に、頭の中で、男が其処に立つ理由を彼是と捏造しながら、昨日と同じく、私は男の横を通り過ぎようと歩を早めた。
だが、やはり気になる。男の持つ鞄がだ。
何故、そんなに鞄が気になるのか、自分でも良く解らなかったが、顔を背けているのに、どうしても視線は飴色の鞄を追っている。
そして、はっと我に返ると、自然と体が男の待つ街燈の下に待つ、四角い鞄へと引き寄せられているのに気が付いた。
慌てて脚を止める。宙に浮いた右足が拍子を外し、勢い良く路面を叩いた。
そこは、すでに橙色の輪の中だった。隣を見ると、すぐそこに黒衣の男が、まるで亡霊の様に、虚ろな姿で佇んでいる。
襟に隠れたその唇が、微かに蠢めく気配がした。
「……この、中身ですか?」
冷たい水が、スーッと体の中を通り抜けた。
この男はもしや、私が鞄を気にしている事を言っているのでは──ならば、何故それを知っているのだろうか。
そう考えた途端、私は男から顔を背けると、そのまま、出来るだけ何事も無かった様に道を歩き始めた。
背中で、まだ男が何事か呟いている気がした。あの帽子の下の、ぎょろついた両目が見つめている気がする。だが、やはり気になった。踏みしめているはずの地面の感覚が、足の裏から遠ざかり始めるのを感じながらも、頭の中には、街燈に照らされ、怪しく色めく鞄がちらつき、私は、その中にしっくりと来る代物が何であろうかと、そればかりが気掛かりであった。
また次の晩も、やはり男が居た。あの旅行鞄は、いつも通り右手にぶら下って居る。
その夜は、自然と私は、あの歪んだ欲望に抗う事は無かった。
脚が急いた様に動く。まっすぐ、あの電燈の根元に向かっていた。
いつの間にか、街燈の明りが頭の上から降り注いでおり、夜の闇で染め抜いた様な、真っ黒なコートが、視界を埋め尽くす様に広がっている。
「……気に、なりますかな?」
ふいに、声が聞こえた。
何処からか判らず、私はとりあえず顔を上げずに、ただ飴色の旅行鞄を見下ろしていた。
「この鞄の中身を、お知りになりたいのでしょう?」
二言目で、それがこの鞄を持つ黒い手袋の男だと解った。馬鹿に丁寧な口調の、抑揚の無い、まるで機械の様な声である。
だが、顔が上げられない。
旅行鞄が気になる。
私が無言のままでいると、男はそのままの姿勢で言葉を続けた。
「私はね、前からずうっと、ここに立ち続けているのです」
まさか、そんな訳が無い。鼻で笑いながら、いつのまにか、私の目は大きく見開いて、鞄の細部を嘗め回す様に観察していた。
間近で見ると、取っ手の付け根の金具が緩んでいるのに気が付いたが、それが良かった。これだけ頑強そうな鞄だ。いったい作られてから何年経ってるのか見当も付かないが、その間ずっと旅人と共に風雨にさらされてきたのだろう。金具の一つでも壊れてなければ、風合いというものが出無いのだ。
「待っていたのですよ、貴方の様な方を」
角は黒ずんで、もう丸まってしまっている。色合いは、街燈のせいか、ずいぶん古めかしく見えるが、それを抜きにしても、相当な年代物であるのだろう。しかも、ずっしりと重そうである。
「この鞄に魅入られる方が通るのを、幾日も待ち焦がれておりました」
良く眼を凝らすと、取っ手の間に見える、箱の合わせ目の筋が少し歪んでいる。その細い溝の間には深い闇が湛えられており、よく目をこらせば、今にもその隙間から中身が覗けるような気がして、私は、鞄に鼻先を近づけそうになるのを必死に堪えていた。
「貴方がいなければ、ずっと私は待ち人のまま、夜に佇む黒衣の男であり続けなければなりませんでした」
まだ、何か言っている。関係ない。そんな事よりこの男は、早くこの鞄を開けてくれないのかと、私の中に、徐々に苛立ちが募り始める。
「……しかし、今この鞄の中を、貴方にお見せする事は出来無いのです」
その言葉に、私はついに顔を上げ、初めて男の顔をまともに見た。
まるで蝋を溶かして出来た、作り物の様な顔だった。鍔の下にできた影で、目元は隠れてしまっているが、整い過ぎた鼻先や、襟元の間に見える、顎の鋭利さなどが、あまりにも出来すぎていた。
男は、しばらく押し黙った後、ゆっくりと顎を引き、自分の手にぶら下っている旅行鞄を見下ろした。
「これはね、もう何年も開いていないのですよ」
男はゆらゆらと、鞄を揺する。そうすると、それはまるで生き物の様に音を立て、薄ら闇の中で怪しく蠢いた。
「どのみち、開けること無いのだと諦めていたのですが、貴方になら、これを見せてても良いでしょう。ですが、今は駄目です」
どうしてだ。何故見せてくれぬのだ。
私が苛立ちを込めて男を睨むと、黒影の下の口元が、白い歯を見せて微笑んだ。
「……この中にあるのは、貴方、煉獄なのですよ」
煉獄──あの、地獄と天国の間にあるという奴だろうか。
「死ぬことも、生きること許されない物が、ここには詰まっています。だから、そんな物を見せた所で、とても貴方が喜ぶとは思えない。だから、私は怖いのです」
何を言っているのか、私にはさっぱり解らなかった。ただ、得たいの知れない物が、この中には入っているのだろう。だが、どうでも良い。ただ私は、その鞄の中を見たいだけなのだ。
「何でも良い、覚悟はある。ただ見せてくれるだけで良い」
気が付けば、私は初めて男に向かって口を利いていた。すると男は、帽子の下にへばりついた笑みを、さらに嬉しそうに歪め、驚く事に───いや、それが普通なのだろう。今まで、まるで銅像のごとく固まっていた男の右足が動いたと思うと、それは石畳の上に、音も無く前に出た。
「貴方は、明日の晩も、此処に来なさるでしょう?」
男は私に背を向け、そのまま通りの向こうへと歩き出した。何故だか、足音がしない。
「なら、その折に、これをお見せする事にしましょう」
漆黒の背中が、光の輪から遠ざかり、闇夜に溶け込んで行く。それなのに不思議と、いつまで経っても、男の足音が聞こえず、それを私は、なんだか羨ましくなって、しばらくの間、男の消えた路地の向こうに顔を向け続けていた。
4日目の晩、私は何時もと同じ時間に寝床を抜け出し、あの紳士が待つ街燈へと歩いていた。
気が焦る。あの旅行鞄の中にある物が見られると思うと、思わず夜道を駆け出しそうになった。
しかし、走るのは嫌だった。あの、騒々しい、無粋な靴音を聞きたくない。
私は出来る限り気持ちを抑え、何時も眺めていた並木の幽霊や、車の化け物等には一切目をくれず、ただ自分の、妙なリズムの足音を嫌悪しながら、ゆっくりと夜道を急いだ。
しばらくして、目の前にあの曲がり角が見えて来る。その頃には、もう、頭の中はあの飴色の四角い箱で一杯になっていた。
一体、あれが開いたら、中には何が詰まっているのだろう。あの鞄が揺れた時の、あのガサガサという音は何だろう、もしや金──いや、そんな下賎な物が詰まっているとは思えない。ならば人形だろうか───しかし、それほど小さな物でも無い気がする。
そうやって、あの鞄の中に、一体どれ程の物があるのかと、取り留めの無い妄想に浸るうちに、気が付けば、私はとっくに通りの突き当たりに行き着いていた。
目の前に、石塀の黒い影がある。この向こうに、あの鞄があるのかと思うと身体が熱くなった。しかし同時に、あの男の言っていた『煉獄』という不吉な響きが、今更になって脳裏を掠め始める。
煉獄…そういえば、煉獄とは何なのだろうか。
死ぬことも、生きることも出来ない物とは、どういう意味だ。
そう考えると、なんだか少しだけ、眼前の曲がり角の向こうにある物が怖くなった。
だが、今更後戻りは出来ない。そう踏んで、私は息を吐き出し、塀に手を掛けながら、そうっと壁から目を出した。
遠くの方に、ぼんやりと、まるで蜃気楼の様な街燈の明かりが見えた。
だが、その下にある筈の、あの黒い影が無い。街燈が作り出した石畳の小さな舞台の上には、あの男が手にしていた旅行鞄だけが、ひっそりと寂しげに置かれていた。
けれど、男が居ない。私は、一瞬躊躇したが、再び横たわっている鞄を見たとたんに心が擽られ、これは、あの男が勝手に鞄を見ろと、そこに置いていったのだろうと思い込み、鞄に向かって歩き始めた。
期待が胸を焦がし、急いた足音が響くにつれ、どんどんと鞄が近づいてくる。
街燈の下まで、あと少しという所で、私は、その鞄の取っ手が壊れているのに気が付いた。どうやら、あの旅行鞄に間違い無かった。
履きつぶした自分の靴先が、古びた鞄のすぐ横に揃えられる。私はその場に屈みこみ、手を伸ばして、所々黒ずんだ表皮を摩ってみた。
それはまるで、人肌の様であった。おそらく、この鞄に引き寄せられた理由はこれであろうと、私は思った。滑らかな様で、ほんの少しざらついており、それでいて、何故か暖かい。染みだらけの皮の上には、指先でわかるぐらいの窪みが幾つもあり、その溝をなぞる内に、どういう訳か、ずっと前に亡くなった祖母の、ひび割れた手を思い出した私は、妙に懐かしい様な気持ちになって、しばらくの間、私は鞄を恍惚と見下ろしながら、今にも動き出しそうなその肌を丹念に愛で続けていた。
ふと、手の平に、其れとは違う冷たい感触が走った。
見れば、鞄の口を閉じている金具だった。右と左に一つずつ、両方とも、同じ様にさび付き、そこに刻まれた年月が有々と解る。
この金具さえ外せば、あと鞄を開くだけだ。
そう思うと、知らぬ間に、右手の指先が震えていた。いよいよこれが開くとなると、やはり緊張する。しかし、それにも増して、電燈の光に身を沈める私の体は熱を覚え、鞄の綴じ目の筋に湛えられた、その細い闇の向こう側を、この目で覗き見たいという陰鬱とした衝動がもがき始める。
まずは、最初に右の金具に指を掛けた。そっと力を込めると、なんの抵抗も無く、それはパチンと音を弾いて、鞄を開ける準備を整えた。
次は、左である。指に力を込めたつもりがどう間違ったのか、首の付け根に痛みを覚えた。
私は目を閉じ、息を吐きながら、何度も自分に言い聞かせる。
焦ることは無いのだ。もう少しで、なんの試練も無く、この鞄の中が見れる───ああ、なぜ自分は之ほどまでに、この旅行鞄にとりつかれてしまったのだろう。そうだ、あの男のせいだ。あの黒衣の死神が現れてからというもの、私はどうにかなってしまったのだ。ああ、だが気になる。この鞄の中が見たくてたまらない──。
───パチンと、音がした。
見れば、金具が外れている。もう、其れはすぐそこだった。
退色した映画を見ているかのごとく、まるで現実感の無い世界の中で、自然と、私の両手が鞄に掛かっていた。そして、ゆっくりと、石臼を引く様に力を込めると、次第に、鞄の蓋がせり上がり始め、その間の暗闇が、無残にも街燈の明かりの下に引きずり出されて行く。
知らぬ間に、私の胸が足踏みをして躍っていた。
まるで子供の頃、親に買ってもらった玩具の箱を開けている気分である。目の前で、錆付いた音を立てながら、のろのろと開いて行く鞄の蓋がいじらしかった。
そうやって焦らされる事を愉しんでいると、ついに、鞄が大きな口を開け、その中身が、光の中に顕になりそして、唾を飲み込みながら、それを覗き込んだ私は、その中にあった不可解な代物に驚き、思わずその場に尻餅を付いてしまったのだった。
中にあったのは、黒い帽子と、折り畳まれた黒いコート、そして、黒い皮手袋と、黒い皮靴……黒尽くめの、あの男の衣装が、そっくりそのまま入っていた。
どういう事だかさっぱり分からずに、呆然とその場に座り込んでいると、ふと、通りの向こうから小さな足音が聞こえて来た。
その、革靴の底が擦れる音は、段々と大きくなっていき、しばらくして、もうすぐ其処に音が迫っていると解った刹那、いきなり目の前の暗闇が揺れたと思うと、突然その向こうから、あの黒尽くめの紳士がぬうっと現れたのである。
「……やはり、開けてくれたのですね」
男は、帽子の鍔の下の、死人の様な青白い顔に薄ら笑いを浮かべながら、尻餅をついたままの私に歩み寄る。どういう訳か、この間は聞こえなかった、男の足音がしっかりと聞こえる。
「私もね、そうして貴方の様に地べたに座りながら、こんな気味の悪い井手達の男に、同じ話をされた事があるのですよ」
煌々と光る街燈を背にした男の影は、私の上に覆いかぶさる様にして言葉を続けた。
「その鞄を開けた者はね、貴方。そうやって誰かにもう一度開けて貰えるまで、永遠と生きながらえない体になってしまうのですよ」
その言葉を聞いたとたん、得体の知れぬ身震いが、爪先から這い上がって来るのを覚えた。
一体、何の話であろうか。訳がわからず、私は男から目を離し、もう一度トランクの中を見た。すると、不思議な事に、トランクの中を見ようとしただけが、いつのまにか伸びた手が、勝手にその中のコートを手にしている。次に、残った手が動き、地面を付いて、体を起こしはじめた。
そうして何者かに立ち上がらされ、混乱している内に、操られた私の両腕はまるで別の生き物の様に動き、手にしたコートを私に羽織らせ、帽子を被らせ、靴を履かせられ……そうして、いつのまにか最後の皮の手袋を嵌めた頃には、私の体は隅々まで黒く塗りつぶされ、今目の前に立つこの男と寸部違わぬ、漆黒の井手達にさせられたのだと気が付いたのだった。
「ああ、着替え終わりましたね」
そう言って、呆然と立ち竦む私を見ながら、男は懐に手を入れ、もったいぶった仕草で何かを取り出した。鈍い光を放つ、筒の様な物である。男はそれを頭の横に持ち上げ、なんの躊躇いも無く、その先端をこめかみの部分にぴたりと押し当てた。
「私は、もう疲れてしまいました。いつからこの黒装束を纏って、旅人と、待ち人の両方を演じ続けていたのか忘れてしまいましたが、それでも、ゆうに自分の一生を2回分ぐらい味わった気がします。さて……あと何年、貴方はその旅行鞄を手に、街燈の下に佇まなくてはならないのでしょうね」
影で覆われたその顔に、表情はまるで見えなかったが、何故かその時、私は、男が笑った様な気がしていた。
次の瞬間、目の前で閃光が瞬き、割れる様な轟音が耳を貫く。
漆黒の帽子が宙に舞い、男の体が、支えを無くして崩れ落ちていく。
そうして、少しの間、呆然とその場に立ち尽くしていた私が、我に帰って足元を見下ろすと、そこには、小さな拳銃と、閉ざされた旅行鞄。そして、電燈の下で、うつ伏せに倒れた黒衣の紳士が、頭に真っ赤な血の花を咲かせて倒れている。
やはり、男は笑っていた。うつぶせになった男の白い横顔には、満足そうな微笑みが漏れており、それを覆うように、頭から流れ出したねっとりとした血筋が垂れ始めている。
私はそれを見て、言い知れぬ戦慄に体を強張らせていたが、どういう訳か、その場から逃げようという気などにはならず、ただ、これからやるべき事だけが、まるで湧き水のごとく、はっきりと頭の中に溢れ出していた。
だから、私は手を伸ばし、旅行鞄を手にした。
ずしりと、重たい鞄だった。やはり、取っ手が緩んでいるので持ちにくい。
だが、この方が良い。この方が、ずっとこの鞄に合っている気がする。そう思い、私は靴に血が付かぬ様、男の死体を跨ぎ、街燈の明かりを背にして、ゆっくりと夜道を歩き始めた。
気が付けば、あの耳障りの靴音は、もう聞こえなくなっていた。
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