窓のおもてでは雨の雫が斜めの線をいくつも描いている。その水滴が道玄坂の明かりをきらきらと乱反射させている。ビルの最上階をまるまる使ったコワーキングスペースでは照明が落とされ、天井に据え付けられたメインプロジェクターが照らすスクリーンだけがしらじらと明るい。
壇上に並べられた椅子に腰掛けた砂田は目を細めて、スクリーンを、マイクを握っている女を、他の登壇者を、壇上を見ている聴衆を、ゆっくりと、順繰りに、眺めていった。
スクリーンに映し出されているのはタイムテーブルであった。六本木の高級ビルで働く彼女の働きざまを描いたものだ。「ランチョンミーティング」「空き時間に論文を」拡声された言葉が空中を滑っていくのを見て、砂田は(地獄絵図だな)と内心ひとりごちた。
パッションピンクと黒を基調としたリーフレットには『女性エンジニアのための働き方2.0』というロゴが恥ずかしげもなく印刷されており、パネラーの中に「フリーランス・砂田しをり」の名前が並んでいた。女が主催し、女が基調講演を打ち、女がパネルディスカッションを行う、この始まったばかりのイベントに砂田はとっくに失望していた。
女性エンジニアの交流会としてオンライン上で産声を上げたこのコミュニティの、最初のオフラインイベントである。そのパネラーに名乗りをあげて、実際に採用されたことを砂田は本当に喜んでいた。フリーランスの女でも、ぎりぎりの論戦を繰り広げられる場所が生まれたのだと、そう思っていた。
しかし、実際のところ、このコミュニティとは某人材派遣会社の一部署を預かる女が、一個の「成果」として社内に発表するものであったことを、先ほど知らされた。そうであるならば、成程、「ネガティブな意見は無しで」という発言も頷ける。コミュニティを束ね、このイベントを発起した恩田という女はエンジニアではなかった。
一体、ネガティブな意見を語らずに、女の手によって女を牽引することなどできるものだろうか。
美容室で読むファッション誌の紙面に踊る「キラキラ」「ふわふわ」の文字、そうしたものを砂田は憎んでいたが、まだそれらの方がこの、広いのに息苦しい空間よりよほど現実的であるように思われた。
女は劣化しない?嘘だ!肌も内臓も確実に劣化していく!劣化しないかのように見える女たちは劣化しない努力を積んでいる!
女は成長できる?嘘だ!成長に女も男もあるものか!女性性の差別をきらったからお前たちはここにいるのではなかったか!
これからは理想の女へ?ならばその理想とやらを言ってみろ!
照明が点き、眩しさに砂田は目を眇めた。基調講演は終わっていた。
「それではパネラーの皆さんから潮見さんへ、質問や感想をお願いします」
司会がそう言うと、砂田の座っている並びにいる女たちが順番に質問や感想を述べていった。当たり障りのない質問、あるいは「憧れます」という感想。
「砂田さんはどうですか?」
スピーカーで拡声された言葉に、隣に座っていた女が砂田にマイクを手渡した。これから自分がすることを、砂田は恐怖した。同時に、昂奮もした。歯の根が合わず、がちがちと鳴った。「砂田さん?」訝しげな声に、彼女は鳴る歯を一度噛み締めてから立ち上がった。
「今ここにお集まりの皆さま、日々仕事に励む皆さま、皆さまの中でこの、」
そう言ってピンク色のリーフレットを高く掲げる。
「このリーフレットに書かれている、潮見さんや、私たちパネラーの、技術記事や論文を、読んでからここにいらっしゃった方は挙手をお願いします」
遠くで主宰が「しまった」という顔をしたのが見えた。もう遅い、叛逆者は既に火のついた松明を手にしている。聴衆の中で手を挙げたのは、実に数人というところだった。4、50人も集まって、ただの数人。
「ありがとうございます。……さて、潮見さんが休憩中に『論文を読む』とおっしゃった、その論文というものがどういうものか、皆さまは思い浮かべて潮見さんのお話を聞かれたでしょうか。ランチの時間をミーティングにあてることを、優雅なことと思われた方はいらっしゃいますでしょうか」
聴衆が困惑、あるいは厄介者を見るような目をこちらに向けても、砂田は話をやめなかった。
「論文を読む、ということは鋭い自己研鑽の努力です。エラーメッセージで検索して引っかかったStackOverflowやQiitaの記事を読むのとは違うのです。ランチの時間をミーティングにあてるのはそれほどまでに彼女が、そして彼女のビジネスの相手が忙しく、かつ両者がタフだからです」
この答弁の後、自分はコミュニティから外されるだろう。無名で、目立った功績もないフリーランスのエンジニアなど、オンライン上の人間関係では簡単に消すことができる。
だから、傷跡を残す。渾身の力で、この醜い主張が、ひとりでも多くの脳裏に刻まれるように。
「実際に彼女が送る生活を、彼女が携わっている技術、プロダクト、研究、いずれにも触れずに想像できるでしょうか。自分の肉になるように、身につけていけるでしょうか。データーベースのインストールされていないマシンにSQLコマンドを打ってリザルトは返ってくるでしょうか?」
外が大雨になるといい、そう思いながら砂田は笑った。
「この場に集った、誉れ高い女性たちが、このコミュニティを通して、自分の仕事に誇りを持てることを祈ります。潮見さん、大変有意義な発表をありがとうございました」
最後に砂田が潮見に会釈すると、彼女は眼鏡をかけた顔をふわりと緩めた。
終わった後の懇親会を砂田は自ら辞した。恩田の笑顔はひきつり、今にも飛びかかってきそうだったし、自ら空気をぶち壊した場に居座るほど厚顔でもなかった。
「砂田さん」
出口で呼び止められ、砂田は物憂げに振り返った。
「面白かったです、あなたの言葉が、いちばん」
黒い、シンプルな、しかし体型に合ったスーツを着た女性だった。ゴールド系のメイクがよく似合っていた。
「コミュニティ、辞めないでください」
「どうでしょうね、私が辞めなくても、上はわかりませんよ」
女性は微笑んで言った。きっと、どこかの会社の上役だろう。自分よりもずっと社会的地位の高い、収入もある相手に対して、砂田は生来の卑屈さが息を吹き返してくるのを感じていた。
「いえ、恩田さんは砂田さんをKickできませんよ」
それは、このコミュニティが馴れ合いであることを認めることに他ならないんですから。
砂田はそれを聞いて安心した。少なくとも、自分の投げた火は誰かの心に届いたらしい。
がらんとしたエレベーターホールでエレベーターが上ってくるのを待った。トイレに行く女性たちがちらちらと自分を見るのがわかった。随分数えてやっと来たエレベーターに乗り、ひとり道玄坂に飛び出した。雨は大雨どころか止んでいた。
ぼろぼろと溢れる涙でファンデーションが溶ける。砂田は道玄坂を電機屋の前まで駆け下りて、運動不足のために吐きそうになった。渋谷駅の向こう、ヒカリエにたくさんの明かりが灯っている。残業の明かりだ、あれは。ハチ公前口から見たマークシティも、セルリアンタワーにも、明かり、明かり、明かり!
女性の言った通り、そして砂田自身が失望していた通り、砂田がコミュニティから外されるということはなかった。しかし、主要なメンバーからは距離を置かれるようになった。
それでいい、と思った。火を放つ機会は、まだまだいくらでもあるらしい。
光鶴 読者 | 2017-03-03 19:55
表向き大変行儀の良い話だと思いました。
含有される破滅性のベクトルは主催者に向かっていると思いますが、
心象風景のせいで語り部に向かって見えるのは狙った効果でしょうか。
吉野雪緒 投稿者 | 2017-03-07 06:24
コメントありがとうございます。
「砂田」の物語はコミュニティへの叛逆の物語ですが、同時に功績のない者は破滅するしかないということが主題でした。
「砂田」はまだまだ動かせる存在なので是非今後も彼女の話を書いてみたいと思います。