「普通って、なんだろう」
さあ、と僕は首をひねった。
「なんだよ、つまらないなあ」
僕はフォークの刺さったケーキから目を上げて、叶多のことを見た。叶多はつまらないな、とぼやいたけれど、頬杖をついて僕のことを見ている。その視線は楽しそうだし、口惜しそうだった。
スズメの寿命は一年だと、僕は最近知った。そのせいで、通学中にスズメを見ると、かわいいな、と思いつつも、その行く末を案ずるようになってしまった。
僕は叶多のことを同じように見ているかもしれない。
「俺たち、周りにはどう見えてるんだろう」
そう言って叶多は頬杖をついたまま、《シオン》の中を見回す。僕も見回してみる。店内には、女性店員と、二組の男女のカップル、女子三人のグループと、パソコンに何か打ち込む会社員。誰も僕らを意に介さず、それぞれ自分のことに夢中だった。
「ただの友達同士にしか見えてないだろ」
「だよね」
叶多は僕を上目遣いで見ながら、紅茶をひとくち飲んだ。コップをおくと、叶多は僕に聞こえないようにため息をついた。
たしかに、僕らはただの友達にしか見えないだろう。むしろ、そう見えた方がいい。そう思った。
* * *
中学一年から高校二年の今までずっと、僕は合唱部にいる。テノールだ。といっても、そこまで大した部活ではない。強豪は部員が百人はくだらないらしいけれど、向丘の合唱部は中高合わせても、三十人弱だ。地区予選の突破もままならない、言ってしまえば、弱小合唱部なのだ。
ほんとうのところ、僕はあまり面倒くさくない部活に入ろうと思って、合唱部に入ったのだった。どうせ中学・高校のうちは「青春謳歌組」の一員にはなれないだろうと思っていたから。ならば、中学・高校はそこまで面倒なことのなさそうな合唱部でいいだろう、と(向丘では、必ず部活には所属しなければならなかった)。
「田中叶多です。みんなと一緒に合唱を頑張ります。よろしくお願いします!」
中高一貫校の向丘では、高校からの入学者も受け入れてはいた。そして叶多はいわゆる「高入組」。だから、中学までの合唱部の状況を何も知らなかった。それゆえ、やる気のある叶多は最初、厄介者にしか見えなかった。
叶多は童顔だし華奢なものだから、見た感じは、か弱い男の子だ。でも、叶多には人一倍の情熱やエネルギーがあった。
「先輩、その音、違います」
「もっと軽やかな方が、ここはあってると思うんですけど……」
「守、もっとピアニッシモを意識した方がいいよ」
率直に言って、入部してきてから叶多は頑張っていた。僕は僕で中学の頃からテノールのパートリーダーを務めたから、面倒くさいと言いながらも、やる気のある部員だったとは思う。
けれども、高校合唱部からは、叶多がテノールのパートリーダーになった。どう考えても、叶多が適任だったからだ。
「守、そこの音、違うよ」
テノール全員で歌を合わせる練習をしていると、叶多は指摘してきた。
「俺はあっているつもりだけれど」
「あってないってば」と叶多は笑っている。「キーボード鳴らすから、守もその音を出して」と叶多は鍵盤を押す。僕はその音を出す。
……たしかに、僕は間違えていた。
「ほらね」と無垢な笑顔を見せる。
「……」
少し馴れ馴れしいな、と僕は高一の頃は思っていた。それに、叶多よりも合唱歴の長い自分が間違いを指摘されるのが恥ずかしかった。
「自分がある音を出しているつもりでも、他の人が聞いている音は違うことがあるんだよね」
わかるわかる、がんばれ、とかわいらしく僕を励ましてくれる。気に食わないことがあっても、健気に頑張っている叶多のことを邪険に扱えるはずもなかった。
「一緒に帰らない?」
たまたま僕は叶多と帰るときがあった。高校一年生の五月のことだった。
「ああ……別にいいけど」
五月病シーズンになると、きまって学校の周辺で不審者の目撃情報が増える。実際、何年か前に切りつけられる事件が発生したこともあったらしかった。
通学路の住宅地から出るところで、後ろからスタスタスタ、と急いた足音が聞こえる。
「電車に乗り遅れたくない会社員かな」、冗談めかして叶多は言う。
さあ、と僕は首をかしげた。僕の頭のなかでは、通り魔だったりするのかな、と面白半分で思っていた。
叶多がうしろを向いた。僕もうしろを向いた。そして、僕は固まった。
僕は黒フードの男と目が合っていた。男は大体十メートル離れている。叶多の横顔を覗いてみると、叶多は貫くような視線を男に向けている。再び男を見てみると、街灯の光が手元で反射している。
僕は察した。反射しているあれは包丁だった。どの家庭にもあるような包丁だ。僕は後ずさろうとする。スニーカーが路面とこすれて音を立てる。小石が靴裏にひっかかる。血のような包丁の鉄の臭いがする気がした。動転して、身体が硬直する。
男とにらみ合う時間は、三十分にも、一分にも、十秒にも感じられた。
男はこちらに向かって歩き始める。
やばい。
でも僕の足はそのままだ。男に握られた包丁の光が迫りくる。
「守、逃げて」、と離れていく叶多の声が聞こえる。
でも、僕は動けない。
「守!」
叶多に怒鳴られて、身体の硬直がとれた。逃げなきゃ――。
そう思った時には、包丁男は僕から二メートルのところにいた。男は腕を上げる。
すると、僕の横からすばやい影が包丁男に向かっていった。
叶多だった。
男が包丁を振り下ろす前に、叶多は空中の手首を取って引っぱった。
包丁を持った手は地面に向けられる。叶多は包丁をはたきおとす。からん、と無骨な音が鳴る。そして叶多は男の腕を引くと、男は地面に倒れ込んだ。
華奢な叶多からは想像できないくらい、力強い動きだった。
「守、逃げよ」
そう言って僕らは急いで駅に向かった。電車に乗るまで、僕らは走り続けた。通報はどうするべきか、と思っていたが、もうすでに電車の中にいた。
「あの技、何?」と僕は聞いてみた。
「昔、合気道を習ってたんだ。役に立つとは思わなかった」
叶多は照れくさく笑っていた。
合唱以外でも、頼りがいがあるじゃん、と僕は思った。
「ケガはない?」、と聞かれたので、大丈夫、とうなずいた。
それ以降、今まで一人で行っていた《シオン》に、叶多を連れて行くようになった。
* * *
「どうして守は、そんなにバニラ・ティーが好きなの?」
叶多と《シオン》でお茶をしていたときに、聞いてきた。
「観察してるんだな」と苦笑した。
「え、まあ……」と叶多はたじろいだ。「だって前も、前の前もバニラ・ティーを飲んでたし」
叶多とお茶をするのは三度目だった。
「前、タイ旅行で飲んだんだ」
「へー、タイ旅行ねえ」
「それで、ホテルの近くの喫茶店でたまたま飲んだらうまかったから」
* * *
「どうして音程ってずれるんだろうね」
「わからない」
「自分の身体が音を出すのに、自分で音を管理できないなんて変な話だと思わない?」
「たしかに、そうかもしれない」
最初の相槌が無愛想だったので、もう少し愛想をよくしてみた。
「楽器は外にあるものなのに、きちんとした手順を踏めば、出したい音を出せる」
「そう、そう」と叶多はうなずいている。
「自分で自分を変えることは、すごく難しい。場合によっては、危ない。それを俺らの身体はわかってるのかもしれない」と僕はしめくくった。
僕はそれっぽいことを言って終わらせたつもりだったが、叶多は前のめりになって、僕が言葉を継ぐのを待っていた。でも、僕が外の通行人を見ていると、叶多はあきらめたように居直った。僕は通行人を観察しながら、叶多をからかえたことに対してニヤニヤしていたことに気づいた。
《シオン》でとりとめのない話をしながら、一年間は過ぎ去っていった。
* * *
僕らが高校二年生になって、合唱部は代替わりした。
すると驚くべきことに、われらが向丘合唱部は全国合唱コンクールの地区予選を突破した。高校二年の二学期終盤のことだ。
あの少人数の弱小合唱部が、多少は戦えるようになっていた。それは、叶多のおかげだった。
「A地区予選を突破したのは……」
小さなホールはいったん静まり返って、司会者の沈黙を反芻した。僕は席の端っこに座って、沈黙が破られるのを待っていた。
となりの叶多も前のめりになって、僕の右手を固く握りしめていた。たぶん、叶多は無意識に握っていた。その握りしめている手は温かくて、期待と決意に満ちていた。
「向丘高校、おめでとうございます!」
わっと僕と叶多と、他の部員は立ち上がって、互いの喜びをたしかめ合った。いまさらわからないことだけれど、叶多がいなければ、結果に対してあれほどの思い入れは持てなかったと思う。
叶多は僕のことを抱きしめた。特に僕は疑問をもたなかった。ただ叶多にも腕を回して、喜びを共有した。
今振り返れば、通り魔から僕を守ったのも、合唱部ではりきっていたのも、僕の気を引きたいというところが叶多にはあったのかもしれない。
会場から出ても、後輩・同級生はみんな興奮していた。
「お疲れ様でしたー!」
「お疲れー!」
しぜん、打ち上げをしようという話になった。部員のほとんどが駅とは反対方向のカラオケ屋に向かおうとしていた。ところが、叶多(と僕)は駅に向かおうとしていた。僕は叶多に腕を引っ張られて、連れられる形になっていた。
「俺らは先に帰っちゃうから、バイバイ!」
「先輩は打ち上げに行かないんですか?」
え、なんで、と僕が抗議をしようとすると、叶多は声を低くして他の部員に聞こえないように、
「大事な話があるから、《シオン》に行こう」
と耳打ちしてきた。
僕は不審がった。けれども、叶多は真剣なまなざしをしていたから、何も言わなかった。相当大事な話なんだろう、と。
「で、大事な話って何?」
ケーキのてっぺんのいちごを食べてから、僕は切り出した。
「それは……」
《シオン》に着いて席に座っても、叶多は「注文してから」と延ばし、店員が注文をとってからも、叶多は「ケーキが来てから」とさらに先延ばしした。
僕は打ち上げに行きたかったわけではない。むしろ、《シオン》でお茶をしている方が、落ち着けてよかった。だから、叶多に怒っているわけではなかった。ただ、その「大事な話」が気になっていた。
「それは……?」
叶多は顔をあげて、
「普通ってなんだと思う?」と聞いてきた。
「何、いきなり」
「普通って何かな?」
「さ、さあ」
「普通じゃないってどう思う?」
「どう思うって……」
「あれ」
叶多は僕のうしろのほうを顎で示した。
そっと振り向いてみると、大学生くらいの二人の男性が座っておしゃべりをしている。
「あの人たちがどうかした?」僕は叶多に向き直って聞いた。
「あの二人が友達同士じゃなくて」といったんためてから、「恋人同士だったらどうする?」
「どうもしないけど」と僕は答えた。
「いやじゃない?」
「あの二人は友達同士でしょ」
「たとえば、恋人同士だったらの話」
「いいと思うよ」
叶多は疑り深い視線を僕に向けていた。
「そうしたらさ」
しばしの間。
僕はひとりでたじろぐ叶多を見つめていた。
「俺、守のことが好きです」
僕はじっと叶多を見つづけた。自分のなかで状況を整理しているところだった。
すると叶多は立ち上がった。「ごめん」
叶多は飲みかけのコップの横に代金を投げ置いて、そのまま《シオン》を出て行ってしまった。それは一瞬の出来事だった。
一体いきなり、叶多はどうしたのか。
明らかに友達としての『好き』では、あれほどあわてるわけもない。だから、叶多の言葉の意味は一応、理解していた。
でも、僕はどうするべきなのか、ついていくべきなのか、何か言葉をかけてあげるべきなのか。逡巡しているうちに叶多はすっかりいなくなってしまった。
テーブルの上には、いちごだけ食べられた僕のケーキと、まだ湯気を上げるバニラ・ティー。叶多のケーキとバニラ・ティーもあった。
いつから叶多はバニラ・ティーを頼むようになったのだっけ。残された僕は、ひとりでそう考えていた。
その翌日から、叶多は合唱部の練習に来なくなった。
「水森先輩」
合唱部の後輩部員が二人、部活が終わった後に、僕に詰め寄ってきた。
「どうして最近、叶多先輩は来ないんですか?」「何か事情を知りませんか?」「せっかく地区予選を突破したのに」
「僕は知らないけれど……どうして?」と嘘をついた。
「水森先輩と叶多先輩は仲が良かったので、何か知ってるかと思ってました、すみません」
そう言ってその二人は帰って行った。僕は叶多の心配をしていた後輩に感謝した。というのも、後輩のおかげで叶多に話しかけてもいい、表向きの理由ができたから。
その後も、叶多は練習に来なかった。普段の叶多ならすれ違えば笑って手を振ってくれるし、寄ってきて何か話すこともあった。でも、告白してきてからは、下駄箱や廊下で僕と目が合っても、すぐに目をそらしていた。
告白から四日経ったところで、下駄箱で下ばきに履き替えている叶多を見つけた。
「叶多」
僕の声に驚いて、叶多の華奢な体はさらに心細くなった。もうすっかり下ばきに履き替えた叶多は、つま先を地面にとんとんとしながら僕に向かって、
「何?」
と冷たく言ってきた。目は怒っているようにも見えたし、怒っている自分自身に怒っているようにも見えた。それを見て、僕は悲しくなってしまった。
「話そう」
そう持ちかけてみた。
叶多は玄関のほうを眺めた。わずかにうなずいて、先に行ってるから、と小さくつぶやいて早足でいなくなってしまった。僕からは、叶多の顔は見えなかった。うつむいていたのはわかった。
暗い叶多を見るのは嫌だった。叶多が暗くなっている原因が自分だということも嫌だった。
もちろん、叶多は《シオン》にいた。
僕は席に着いた。よ、と手であいさつする。叶多の目はすこし腫れていた。
「何?」と叶多は目を隠すようにうつむく。
「注文してからにしよう」と僕は提案した。
店員さんを呼んで、僕と叶多はショートケーキとバニラ・ティーを注文した。僕はなるべくいつものように振る舞おうとした。
でも、「いつものように」は意外と難しいものだった。普通とは何か、ということと同じくらい難しいと思った。ふだんは全く意識していないのに、そちらに意識を向けた途端、その「意味」は、散乱してしまう。それに、僕のいつものような振る舞いは、あまりにも無愛想に見えると思った(一応、自分にすこし無愛想なところがあるのは自覚していた)。
「叶多が来ないから、合唱部のみんなが心配してる」
叶多は肩を落として、うつむいたままうなずく。
「はやく来て、みんなを安心させな」
叶多はなじるように、僕に目を向ける。
「こちらショートケーキとバニラ・ティーになります」
僕と叶多が気まずくなりそうなタイミングで店員が来てくれたので、僕は胸をなでおろした。
「それで」
と店員がいなくなってから、叶多はフォークを持って聞く。
「守はどう思ってるの?」
「合唱部に来るべきだと思う」と額面通り答えてみた。
叶多は苦笑してケーキの切れ端をひとつ口に入れる。
「とぼけないでよ」
叶多の目は悲痛だった。たぶん、何日も僕のせいで悩み続けていたのだと思う。今度は僕がうつむいて、ごめん、とうなずいた。
「それで、守はどう思ってるの?」、俺のことをどう思ってるの?
「俺は――よくわからない」
叶多は僕とケーキを交互に見ながら、ケーキを口に運ぶ。
「叶多のことは好きだ」と言ってみた。
叶多は手を止めずに、ケーキを食べる。
「でも、叶多の『好き』と俺の『好き』とが一緒かはわからない」
「じゃあ、試しにつきあってみて」と叶多は自嘲的に言う。
「……別にいいけど」
「ホントに?」
僕は顔を上げてうなずいた。
すると、叶多の表情は一気に明るくなった。
「ありがとう、守」
そう言って、叶多は両手を握ってきた。
僕はうなずいた。嬉しかった。
僕には恋愛感情というものがよくわからなかった。
僕はたしかに女性を性的に見る。男子高校生としてしかるべきことはしてきた。
いっぽう、叶多に対しても、好意は感じていた。ケーキを食べながら、生クリームを唇の端につけている叶多を見ると、他に何も必要がない気がした。合唱コンクールの地区予選でのように、叶多に手を握られたり、だきつかれたりしても、温かい気持ちは、僕の中にあった。
この気持ちは、恋愛感情なのか、友情なのか。「好意」というあいまいな線引きの感情だったのか。
考え始めると、その「意味」は雲のように拡散していってしまう。「好意とは何なのか」。普通とは何なのか、いつもどおりとは何なのか、そんなことと同じ性質の質問だった。
でも、意味という大それたものは必要ないのかもしれない。もっと本能的なことが答えなのかもしれない。
僕はイスから乗り出して、叶多の額にそっと、一瞬だけ、口づけをした。叶多の喜ぶ顔を見て、思わずそうしたくなってしまったのだった。ほんとうにわずかな瞬間だったから、店内の誰も見ていなかったと思う。
僕はすぐに座り直した。あらためて自分のしたことを反芻してみたが、僕の中には気持ち悪いという感情はなかった。
叶多は固まっていた。
「男同士なんて、気持ち悪いよ……」
叶多は唇をとがらせて言った。でも、赤面していた。
そう言われて、僕は驚いた。そして少し悲しくなった。
でも、何も言わずに僕らはケーキを食べ、バニラ・ティーを飲んで、一緒に《シオン》をあとにした。
まもなく高校二年の二学期は終わりを告げた。
二学期の終業式の日、学校が終わると僕は叶多の部屋にいた。
「守?」
「何?」
「冬休み、二人でどこか行かない?」
「いいけど」
「そしたら、ここに行こう!」と叶多は自分の机に向かった。
戻ってくると、手にはガイドブックがあった。「北海道」と紫の文字で書いてあり、のどかな牧場の風景が表紙になっていた。一匹の牛はのんびりした目でこちらを見ている。
「北海道?」
「そう、北海道」
「なんで?」
「だって守、バニラ・ティーが好きじゃん」
そう言って、付箋の貼ってあるページを僕の目の前に開いて見せた。
「近くて見えない」
「あ、ごめん」
二人でガイドブックを覗き込む。その見開きページには「名店・隠れ名店特集」という見出しがついていた。
「これ、これ」と叶多が指をさしたのは、「サイハテ」という名前の店だった。
説明書きによると、「メキシコから直輸入しているバニラで作った、こだわりのバニラ・ティーは絶品の一言。小樽市の隠れた名喫茶!」らしい。
「守にぴったりだと思ってさ」
僕は思わず笑った。
「そこまで遠くに行かなくても。冬の北海道は寒いだろ」
「せっかくガイドブックを買ったのに……」と頬を膨らませる。
ガイドブックの裏表紙を見てみると、バーコード近くには千円と書いてあった。
健気なやつだな、と僕は思った。
でも結局、双方の親も北海道の旅行を許してくれた。
「あのガラス、綺麗だね」と叶多は言う。僕はうなずく。
叶多は棚においてある花びんを指していた。あわく橙がかった、手のひら大の花瓶だった。
僕と叶多は小樽大正ガラス館にいた。ガラス館といっても、ひとつしかないわけではなくて、工房と店が一体となっているところもあれば、展示しかしていない館もあった。
いくつかあるガラス館のうち、堺街店というお店のなかにいた。店内はまるで美術館のようだった。肘やかばんが並べられたガラスにあたらないように注意しながら、見回る。赤や橙や黄色や緑、ありとあらゆる色と形のものがあった。
僕はそこまでガラス館には興味がなかったけれど、ガイドブックには「カップルに人気」と書かれていたので、叶多は絶対に行きたいと言って、僕も連れて来られていた。
「次はどこに行く?」
堺街店を見飽きた叶多がそう聞いてきてくれたので、僕は「宇宙」というガラス館を提案した。
「宇宙」には星座の描かれたガラスコップや、ガラスを星に見立てたプラネタリウム型の飾りもあった。
「守はどれが好き?」
叶多はプラネタリウムの惑星を回していた。
「これとか」、僕はコップを手に取ってみた。
群青に染まったコップ。星は、ほんとうに小さく描かれていた。群青空に浮かぶ星たちはどうも心細く見えた。
「そういうのが好きなんだ」
真剣にそのコップを吟味している叶多の表情がかわいかった。
旅館は落ち着きのあるところだった。四十路を迎えたくらいの女の人が部屋に案内してくれた。
「友達とご旅行ですか」僕と叶多を交互に見て聞いてきた。
叶多は振り向いて、僕のことを見る。いたずらっぽい目だった。でも、悲しげな翳を隠している目でもあった。その目は案内の女の人からは見えなかったと思う。
「そうです」と僕はとりあえずうなずいておいた。
「いいですね」と女の人はにっこりしながら、部屋に案内してくれた。
部屋に着いて、僕らは夕飯を食べてお風呂に入り、布団を並べて寝ていた。
「もし俺か守が女子だったら、この旅行は絶対できなかったね」
掛布団から顔の上半分をのぞかせて、叶多は言う。どちらかというと、天井に向かって言ったひとりごとに近かった。
「うん」
「男の人が好きでよかったかも」
叶多は、「ホモ」という言葉が嫌いだった。「ゲイ」という言葉も嫌いだった。「言葉でくくるのは簡単だけど、そうすると何かが失われてると思うんだよね」、そう言っていた。だから、いつも『男の人が好き』と遠回しに言う。
「俺も」と僕は言った。
男性を好きになることに、僕は抵抗がなかった。それは今、好きになっている対象が叶多だからなのかもしれないけれど。
「これって普通なんだよね」
「うん」
「好きな人と一緒にいたいと思うことは何もおかしくないよね」
「うん」
「そしたら、みんな普通なのかもね」
「そうだね」
そうして叶多は何も言わなくなった。布団から身を出して、叶多の顔を見てみると、話し終った叶多は満足げな寝顔をしていた。僕はずっと叶多の寝顔を見ていたかったけれど、僕もいつの間にか自分の布団で寝ていた。
その翌日――つまり二泊三日の北海道旅行の、実質的な最終日――僕と叶多は例のバニラ・ティーの喫茶店、《サイハテ》に行った。
「バニラ・ティーとチョコレートケーキをひとつ」
「俺もそれでお願いします」
「かしこまりました」
店員が行ってから、
「いいところだね」
と叶多は言った。僕はうなずいた。
テーブルもイスも木でできている。壁も木目模様のデザインだった。
「バニラ・ティーとチョコレートケーキになります」
ほどなくして僕らはバニラ・ティーとケーキを堪能することができた。
僕と叶多はひとくちバニラ・ティーを飲んでみた。
「おいしい」
お茶に詳しくない僕と叶多でさえ、思わず声をそろえて言ってしまった。
《サイハテ》に行ったあとは海鮮丼を食べたり、またガラス館に行ったりした。そうしているうちに夕方にになったので、僕らは旅館に戻った。一日前と同じように、夕飯を食べ、お風呂に入り、布団にもぐった。
旅行はあっという間だったね、とか、そんな話をしていた。
「守」
「何」
「今日は一緒に寝よ」
「……いいよ」
北海道の冬は尋常ではなかった。粉雪は美しいのだけれど、積雪のせいで夜も寒い。暖房をつけていても、寒い。でも叶多が僕の布団に入ってきた途端、布団の中は暖かくなった。
叶多の顔はすぐそこにあった。遊び疲れてくたびれた顔だ。
「叶多」
「何?」
「いや、別に」
「なんだよー」
「なんでもない。おやすみ」
「おやすみ」
『このまま時間が止まってくれたらいいのに』という言葉の意味を、僕はやっとわかったような気がした。
* * *
高校二年生の三学期が始まって、すこし経ってからのこと。
「もう噂は流れてるの?」
叶多がそう切り出してきたのは、驚きではなかった。
「少なくとも俺は後輩に、噂は本当なのかとは聞かれた」
僕はそうメールを打ち返した。
僕と叶多は、以前のようには相席に座っていない。
僕は店内の一人用の席に座っていた。
叶多は外の席にひとりで座っていた。
僕の席は窓に向かう形で設置されてあったので、叶多のことは見えた。僕と叶多は、メールで密かに会話をしていた。叶多はときどきこちらを見る。
* * *
北海道から帰ってくると間もなく冬休みは明け、高校二年生の三学期は始まった。
もちろん三学期に入ってからも僕と叶多はお茶をした。すっかり《シオン》の店員も僕らと顔見知りになってしまった。
そしていつだったかは忘れたが、叶多は店を出てから僕の頬にキスをしてきたのだ。
《シオン》の外は寒かった。もうスズメも、代替わりする時季だ。合唱部の愚痴のようなとりとめのない話をしたあと、紅茶も飲み終わると僕らは並んで店先に出た。
「冬はやっぱり寒いね」と叶多はふるえていた。
「うん」
震えている叶多を抱きしめてあげたかったけれど、照れくさかった。だから、大丈夫か、と一応、心配している視線は送っていた。
すると、叶多は少し背伸びをして、「この前のお返し」と言って、僕の頬にわずかに口づけをした。あざとい奴め、とその時は楽観的に思っていた。
でも、それが間違いだった。
冬だから暗くて誰も見えないだろう、そう思って、叶多はキスをしてくれたのかもしれない。でも、きっと誰かが見ていたのだ。誰かが。
いつのまにか噂は学年で広がっていた。しかも、傍から見れば、叶多がいきなり僕にキスをしていたように見えていたはずだ。
田中叶多が一方的に水森守にキスをした。水森守は被害者だ。
そういう形で噂は流布していた。
水森が田中にキスされたらしい。え、マジで。ホモってやっぱり人を襲うんだな。俺には寄ってこないで欲しいわー。
そんなひそひそ話だって聞こえていた。そもそもお前を狙うやつなんていないだろ、と反論したいときもあった。でも、そう反論すればなおさら怪しまれてしまう。
叶多を擁護したかったけれど、できたものでもなかった。自分の不誠実さを呪った。でも、叶多は、「仕方ないよ」、と許してくれた。
* * *
「守も……マジか」
「どうする? これからは違うところで会う?」
「負けたくない。だって、《シオン》は俺たちの場所じゃん。追い出されるみたいじゃん」
だから、意地でも《シオン》で会っていた。でも、帰るタイミングはずらし、なるべく一緒に歩いているところは見られないようにしていた。
「そのうち、噂も消えるよ。それに、俺たちは何も悪くない。普通だろ」、そう送った。
「うん」なんだか、叶多の答えはそっけなかった。
「叶多、大丈夫?」
「うん」
「何か言いたいことがあるのか?」
「うん」
僕は外の叶多に目を向けてみる。叶多は肩を落として、小さな身体をさらに小さくしている。
「別れ話、とか?」、冗談で送ってみた。自分でも出来の悪い冗談だとわかっていた。
「まさか(笑)。でも俺、怖くなっちゃった」
「大丈夫?」
「俺、やっぱり間違ってるんじゃないかって」
「何が間違ってる?」
「男の人を好きになる、っていうこと」
「ああ……そういうこと」
「すごく前にした音程の話、覚えてる?」
「うん」
「あれって俺にも言えるよね」
「どうして?」
「だってさ、俺は別に、男を好きになりたくて生まれてきたわけじゃないのに、こう生まれてきたんだもん。これって最悪の音痴だよ、治せもしないし」
「叶多、落ち着け」
叶多の目には、きっと涙が浮かんでいたと思う。たとえ僕が今見えているのが叶多の後ろ姿だけだとしても、それはわかった。僕もひどく悲しくなった。
「昨日、すごく悲しくなっちゃった。母親とテレビを見ていたんだ。バラエティの。九時くらいにやってたよ。守は見てた?」
「見てないよ」
「そっか……。それで、芸人さんの飲み会に密着していたんだ。飲み会は結婚したい、っていう話で盛り上がってた。で、ひとりの芸人さんが言ってた。『俺も好きな人をつくりたい』って。『もういっそ、男の人でもええんちゃうかな』って。」
「それが悲しかった?」
「芸人さんの言ったことは別に悲しくなかったんだ。『男の人でもええんちゃうかな』って言ったときに、スタジオで笑いが起きたことも別に悲しくなかったんだ」
「うん」、そう送るしか、僕にはできなかった。
「でもね、一緒に見てた母親がテレビに向かって、笑いながらこう言ったんだ。『なにそれ、大丈夫―?』って。笑いながらだよ? 俺はそのときに、ものすごく悲しくなっちゃった。守からすればどうってことないかもしれないけど、俺はあのときに、本当に悲しかった。俺、おかしいんだな、って」
「俺も悲しくなるよ。叶多は何もおかしくない」
「うん……。わかってる。いや、わかってたはずなのに、実はわかってなかったのかもしれない」
「俺らは何かしらの、自然の摂理に反しているのかもしれない。でも、だからって俺らは否定されたことにはならない。もし否定されたと思うなら、俺らにもそれを否定しかえす権利がある。母親も、結局は他人だ。だから、今は一緒に耐えよう」
「……そうだよね。ごめんね、取り乱しちゃって。俺が自分のことを好きじゃなかったら、守を否定することになるもんね。きっと大丈夫だよね。ありがとう。じゃあ、今日は俺が先に帰るね」
「ああ、また明日」
叶多はこちらを向いて、わずかに手を振ってきてくれた。僕もガラス越しに手を振った。
でも、手を振る自分に自信がもてなかった。
あらゆるものが自分の感覚から遠ざかっていくような気がした。
まるで双眼鏡を逆から覗いてしまったように、ガラスの向こう側のものは僕から逃げていく。
それらがすべて、僕の五感の範囲から限りなくすれすれの端っこまで離れて散って行ってしまうようだった。
店の前の会社員の往来が、叶多の食べ残したケーキが、テーブルの足元に集まっているスズメが、カップの中に入っているバニラ・ティーが、ことごとく遥か遠くに飛んで行くのを、僕はぼんやりと見ていることしかできなかった。
叶多のバニラ・ティーはそれでも、窓の向こうにはあるはずなのだ。
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