「おい、日報出しといてな」
「あ、はい」
重いボストンバックを肩に担ぎ、事務所を出ようとしたところを中島さんに呼び止められた。現在午前七時前。世の中はこれから動き出す。僕はこれから家に帰って寝る時間だ。
ガードマンという仕事は肉体的にも精神的にもとても疲れる。アルバイト情報誌で時給の高さに惹かれてやってはみたものの、あまりの過酷さに音を上げる毎日だ。
狭く薄暗い階段を下り、扉を開けると夏の陽射しが夜勤明けの目に突き刺さる。池袋の雑踏は出勤途中のサラリーマンやOL、登校途中の学生であわただしく流れていく。僕は流れに逆らって、東武東上線の改札に入る。成増までは通勤快速で一駅。制服やら誘導灯などの入った大きなバックは、満員電車では迷惑にしかならない。僕はあえて空いている各駅停車に乗る。前の座席では女子高生の二人組が、白い太ももをちらつかせて楽しそうにおしゃべりしている。
僕はいったいどこへいくのだろう。どこにいるのだろう。日給一万三千円のバイト代は、アパート代や高熱費へと消えていく。わずかながらの余剰分は、たまに借りるDVDや酒代に消えていく。東京へ出てきて七年。大学に合格した時は夢と希望に満ちあふれていた。何でもできる気がした。
就職に失敗し、両親は地元の公務員試験を受けるように勧めてきた。大学を出て高卒の奴らと同じステージに立つのはプライドが許さなかった。けれども今ではそいつらの方が立派な人生を歩んでいる。たまに送られてくる結婚式や同窓会の案内状に、欠席の印を付けるのにももう慣れた。
駅を降りるといつもの立ち食い定食屋で朝定食四百八十円を食べる。今日は鮭定食にしてみた。眠そうな目で駅に向かうサラリーマンやOLたち。ケータイを弄りながら友人と談笑する高校生たち。規則正しく右側通行する小学生の列。車の音、電車の音、アナウンスの音。東京の朝は社会の音に溢れている。僕はその音たちから逃げるようにアパートへと向かう。
「ふう」
脱いだ服やら下着やらを洗濯機に放り込み、スイッチを押すのと同時にシャワーを浴びにバスルームへ。いつもと変わらない僕の朝。就寝前の朝の習慣。
シャワーから出ると朝のニュースを見る。そう言えば近々選挙があるらしい。行く気はないけれど。冷蔵庫からビールを出し、つまみもなく喉に流し込む。テレビはいつの間にかワイドショーに変わっており、有名女優のスキャンダルを報じていた。
携帯電話に着信が入る。ディスプレイを見ると、社員の中島さんからだ。日報に不備でもあったのだろうか。
「はい」
『あ、高野くん、よかったつながって。悪いんだけど、今日日勤入ってもらえるかな。急に一人行けなくなっちゃったんだよね』
「これからですか」
『そう。住所は足立区ね』
「わかりました。あ、僕ビール飲んじゃったんですけど」
『スポットだからしょうがないよ。監督にはバレないようにしてね』
夜勤の後に続けて日勤、その後また夜勤。あり得ないシフトもこの世界では日常茶飯事だ。まあ仕事がもらえない奴よりは頼りにされてるということだろう。足立区なら電車に乗ってる時間に寝られないな。そんなことを考えながら、僕は新しいシャツを出す。会社からは一人三枚の制服を貸し出されている。
初夏から本格的な夏へと向かう六月下旬の陽射しは、僕の体力を容赦なく削っていく。区立小学校の前の路面補修工事は、幹線道路と住宅街を結ぶ通りを二百メートルほど全面通行止めにして行われる。僕は小学校側の通行止め担当となった。
「あっついなあ」
熱と光は夜勤専門の僕にはかなりきつい。もともと夜型人間で、二晩徹夜でゲームなど普通だった。額にうっすらと汗をかき始めたころ、一台の白い乗用車が僕の前に停車する。中から降りて来たのは、青いスーツに赤いネクタイをしめたどこにでもいる普通のサラリーマンだ。
「おい、何でこんなところ通行止めしてるんだよ」
通行止めをしていると、よくこういうクレームがつく。地域住民には一ヶ月以上前から告知し、現場監督が区長などを通して工事の了承は得ている。国土交通省の許可証も看板には明示されてある。しかし地域に住んでいない通行止め区間に用のある人や、その道路を使っている通行人などは、突然始まった工事に眉をしかめる。人はいつも通りのことができなくなるとストレスを感じるものだ。
「道路の補修工事です。ご迷惑おかけしております」
僕は丁寧に頭を下げる。
「ほんと迷惑だよ。誰に許可もらってんだ」
「国土交通省から許可を受けた正式な工事です」
「なんかお前生意気だな」
ネクタイごと襟首を掴まれる。
「いえ、そんなことありません。申し訳ございません」
「いいから現場監督呼んで来い」
突き放されるように怒鳴られ、僕は不承不承現場監督のところへ行く。監督はメジャーを持って剥がしたアスファルトの厚さを測り、敷く砂利や合材と呼ばれるアスファルトの量を計算していた。
「なに」
「あちらの方が監督を呼んで来いと」
監督は僕の背後をちらと見て、深くため息をついてヘルメットのつばを掴む。
「あのね、どうせクレームだろ。そういう処理をしてもらうためにあんたたちを雇ってんだから、いちいち呼びに来ないでくれる」
「でも」
「事故とかじゃないんでしょ」
「はい」
監督にはどんなクレームなのかお見通しだ。ああいうタイプはひとしきりがなり立てると、すっきりして去っていく。つまり仕事のストレスを社会的弱者である僕たちへぶつけて解消するのだ。
「じゃそっちで何とかして」
僕はこっそりため息をついて、またサラリーマンのところへ戻る。
「すみません、今監督は手が離せないんで僕が後で伝えておきます」
「はあ、お前俺のこと嘗めてるだろう」
「いえ、そんな」
サラリーマンの顔は紅潮し、目がぎょろりとひん剥かれる。通りすがりの人が興味深そうにこちらを見ながら歩いて行く。
「お前、人が話してるのにどこ向いてんだよ」
サラリーマンは僕のヘルメットを取り、ひっくり返して僕の頭を叩く。
「痛っ」
そのまま僕のヘルメットは地面に投げ捨てられる。白いヘルメットはスーパーマリオの亀のように転がっていく。ヘルメットを拾い上げた時すでに、サラリーマンはドアを閉めて車を発進させていた。
「ばあか」
開け放たれた窓から缶コーヒーが投げつけられる。僕の胸へ当たって地面へ落ちると、残った中身がアスファルトへ黒い染みを作っていく。僕の青い制服も染みでべとべとだった。
火の点いたタバコや空き缶、ゴミ、いろいろな物を投げつけられる。もちろん投げつけられるのは罵声が一番多い。ガードマンの仕事の半分はこういったクレーム処理だ。正直始めは不条理さに腹が立って仕方がなかった。工事をすれば生活が楽になるのに、人はどうしてそんなに眉をしかめ目をつり上げて攻撃してくるのだろうか。そしてなぜ僕は自分が悪くもないのに他人に頭を下げなければならないのかと。
けれども最近わかってきた。それも給料のうちなんだと。お金をもらって仕事をするとはそういうことなんだと。そしてそういうことを難なくこなして涼しい顔をしていられるのが本当のプロなんだと。
「よお、兄ちゃん」
薄いグレーのシャツの胸元には金色に光るバッヂ。口ひげにサングラス。真っ赤な原色のシャツが暑苦しい。両脇にはジーンズ姿にアロハシャツを着た若い男が二人。明らかにその筋の人たちだ。
一番偉そうな金バッヂの人は、ポケットに手を突っ込んだままこっちへ近づいてくる。僕は全身の血が逆流するような感覚を覚え、動けなくなってしまう。これは対応を誤ると大事になる。自分一人の責任では収まらないレベルの話になってしまうのだ。なにせ相手はクレームで飯を食っているプロなのだから。
肩で風を切るとはこのことをいうのだろう。肩を左右に大きく揺らしながらがに股で近づいてくる。地元では見たこともない本物のやくざに僕は呼吸が荒くなり、顔中に汗が吹き出してくる。背筋がぞくぞくするほど寒いのに、全身は汗まみれだ。
「何だか、えろう暑そうやのう」
その人はにやにや笑いながら、僕を下から覗き込む。
「は、はい、あ、暑いです」
「せやろ、ほれ」
「え、あ」
胸元へ放られたのは火の点いたタバコでも猫の死体でもなく、冷たい缶コーヒーだ。
「兄ちゃんがんばりや」
「あ、はい」
そのやくざたちは工事現場をしばらく眺めた後、またどこかに歩いて行ってしまった。やっぱり肩で風を切っていたが、その様子はこの都会の風景に妙に似合っていた。
こういう方々への話は、工事を請け負った会社の方で事前に話は通してある。仮に他のシマから流れてきた構成員がいちゃもんをつけてきても、話が通っていれば守ってもらえる。ただ事情はわかっていても、田舎者の僕には怖いことに変わりはない。僕は小さくため息をつくと、缶コーヒーをポケットに入れた。
世の中は不合理で不条理だ。矛盾と不道徳にまみれ、建前に埋もれている。ガードマンをしていると、人の本性がよく見える。ストレスを抱え、理不尽な憤懣をぶつけてくるのはごく普通のサラリーマンや主婦たち。茶髪金髪の、世に言われる不良たちは意外と誘導にきちんと従ってくれる。中にはぺこりとお辞儀をするやつもいる。夜勤をしていると夜の仕事をしている人たちをよく見るが、キャバ嬢にしろソープの呼び込みにしろみな僕たちのような仕事をしている者には一様に優しくしてくれる。
これはあくまでも僕の偏見だが、心に傷を負っている人や過去のある人は他人に優しくなれるのではないだろうか。夜の工事が早く終わってしまった時など、僕はよく公園や駅のガード下で段ボールにくるまって夜を明かす。OLや身なりの整った若者たちは、そんな僕を汚い物でも見るようにして去っていくが、ホームレスのおじさんは段ボールを持ってきてくれる。おじさんみたいになるなよと、遠い目をしてタバコをふかす。
楽しそうに彼女と歩いていく同年代の若者。いい車に乗っている自分より若いやつ。生き生きとした目で前を向いて歩いていく新社会人。そんなやつらにはまぶしくて目を向けることができない。僕は社会の底辺に生きている。
目の前を幼い男の子の手を引いた主婦が歩いていく。男の子は五歳くらいだろうか。母親の手に引かれて、不思議そうな顔で僕を見上げている。勤務中なので愛想を振りまくわけにはいかない。両手を腰で組み、両足を肩幅に開いて直立姿勢を取り続ける僕はガードマン。仕事に感情は必要ない。
子どもは僕の前を通り過ぎると、母親に視線を移して無邪気に聞く。
「あのおじさんなにしてんの」
ショックだった。二十五才の僕はあのぐらいの子どもからしたら、もうおじさんなんだろうか。
「こ、こら、お兄さんでしょ」
母親は慌ててフォローするが、時すでに遅し。僕は苦笑するしかなかった。小学校から聞こえてくる「世界に一つだけの花」の合唱を聞きながら、僕はまぶしい空を見上げる。東京にも青空は広がっている。僕の田舎と同じように。
今日、事務所に日報を出しに戻ったら、正社員昇格試験の申し込みをしようと思う。なんだかんだいっても、僕はこの仕事が好きだ。本当のおじさんになる前に、やれるだけやってみよう。
人生で初めて「おじさん」と呼ばれた日は、僕が少しだけ前を向けた日になった。やくざのおじさんにもらった無糖コーヒーは、少し苦くて大人の味がした。
財津達也 ゲスト | 2011-02-12 11:40
「社会の底辺」は実は世の中を俯瞰できる場所かもしれない。みんな地べたの上で生きている。爽やかな読後感。僕も頑張ろう、と思った。
聖騎士 ゲスト | 2011-03-27 10:16
財津達也さん、感想ありがとうございます。
職業に貴賎はない。
そうは思っていても、偏見や先入観、そして何よりも働いている本人たちがどう感じているかって大事なんだと思います。
劣等感などに苛まれながらも日々過酷な環境で働く彼らに少しでも脚光を浴びせたいと思い、筆を取りました。
よい読後感だったようで安心しました。
貴重なお時間を拙作に割いていただいてありがとうございました。
若山 かおり ゲスト | 2011-03-27 22:41
ガードマンの生活をリアルに描かれている表現の巧さに圧倒されました。主人公がこのまま自分を卑下したような生き方をしていくのかと、やや暗い気持ちで読みすすめていたら、子供の一言に傷つきながらも、それがばねになって前向きに切り替わる、その瞬間が意外で気持ちの良いものでした。自分の人生を誇れるものにしなければ、そんなことを思いました。
聖騎士 ゲスト | 2011-03-28 00:50
若山 かおりさん、感想ありがとうございます。
彼はまだ自分に人生の時間が無限にあるように感じていたのかもしれませんね。
しかしそうではない。
「おじさん」になるのはあっという間ですよね。
子どもの一言はそんな現実的な「外から見た自分」を教えてくれたのかもしれません。
世界に一人だけの自分。
一度きりの人生。
下ばかり見ずに上を向いて歩きたい。
低い位置から世間を見た「僕」は、後は上を向いて行くだけだと信じたいですね。
貴重なお時間を拙作に割いていただいてありがとうございました。
久遠 ゲスト | 2011-03-29 23:54
どうも久遠です!
この話はとても共感できる部分が多かったです。暴言を吐く主婦やサラリーマン。一方、気遣いをしてくれるヤクザ。
人間どこかしら傷を抱えてる分、その痛みを知っているだけ他の人にも優しくなれるんですね。
また、ラストも聖騎士さんの作品では必ずそうなのですが、スッキリとした終わり方が良かったです。
これからも執筆を頑張ってください!
聖騎士 ゲスト | 2011-04-29 18:18
久遠さん、感想ありがとうございます。
共感していただけて嬉しいです。
ガードマンが社会の底辺だとは思ってはいませんが、目線を下げると見えるものって違ってくるんですよね。
辛い思いをした人はそれだけ人に優しくできる。
その優しさを感じ取れる人間になりたいものです。
これからもよろしくお願いいたします。
貴重なお時間を拙作に割いていただいてありがとうございました。