痛い。
何かを踏んで、足の裏の痛覚を刺激された私は心の中で呟き、それから、今度は口に出して言った。
「痛い。」
このあたりにはもう誰もいないはずなのに、私は、敢えて、言葉を音に乗せる。
「痛い。」
今度は、もう少し大きな声で。
その音に、私の周りの空気が、驚いたかのように揺れる。
じん。
じん。
じん。
痛い。痛い。いたい。イタイ。
足をどけると、そこには、錆びた釘が落ちていた。私の皮膚を切り裂いて、赤いシミが、転々と地面に広がる。
赤い血。
赤い色を、私は思わず、まじまじと見つめる。
久々に、白と黒以外のものを見た。
黒い岩肌に広がる、赤い血。
赤。
私の血液。
このあたりだけではない。もうほとんどの場所に、生きている者はいないだろう。最後までしぶとく生き永らえていた小動物や爬虫類といった原始的な生命も、近頃ではめっきり見なくなったし、太陽はずいぶん長い間昇っていないから、かつてよりも随分と気温も下がった。
この世は滅んだ。
世界、もしくは世界と呼ばれていたものは、終焉を迎えた。生命は息絶え、草木は枯れ、陽は昇るのをやめた。
かつては、鮮やかな色彩で彩られていた大地も―――それが人工的なものにしろ天然のものにしろ―――いまや、モノクローナルな白と黒に支配されている。
世界を終わらせたのは私だ。
私の存在価値は、世界に終焉を与えるということ。それ以上それ以下でもない。すなわち、世界が終焉を迎えた今、私の存在する意味は皆無となり、自然の摂理によって、私という存在は、次第に消えていこうとしている。
意味のなくなったものの消滅。
それが自然の法則。
存在する全てのものに意味を持たせるために作られた法則。神々の気まぐれ。
神々。
かつて、私が仕えていたもの。もしくはそれに類するもの。
天使、というと聞こえはいいけれど、その称号を誇りに思ったことは、一度もない。
気が遠くなるくらい昔―――それはもう、宇宙だの生命だの、そういう名称の概念すら存在していなかったぐらい昔のこと―――私は天使だった。
他の天使たちと同じように、天上で暮らしていた。
あの頃の私は、よく笑った。何もかもが幸せに溢れていた。
天上(と、人々が呼んでいた場所)の説明をするのは、ひどく難しい。何もかもが穏やかで、すべては永遠に続く。
永遠。気が遠くなるぐらいの時間。
しかし、私は、永遠から追い出された。
羽根をもぎとられ、私は、天上を追われた。
永遠という終わりのない輪から外れた私の身体は、永遠ではないものによって汚れ、黒く濁った。醜く暗い場所に身を潜める私を、人々は「悪魔」と呼んだこともあれば、「魔物」と呼んだこともあった。またあるときは、「死神」と畏れられたこともあった。
けれども、私は、悪魔でもなければ魔物でもなかった。生命を奪うという意味では、死神が最も近いかもしれないが、それともまた違っていた。
私は、天上を追われた、ただの堕天使にすぎなかった。
そして、天上を追われたその日から、私の存在意義は、「いつの日か、世界の終焉をもたらす者」という、ただそれだけだった。
世界を終焉に導く者。
私の存在は、それだけでしかない。
だから、私は今、その存在意味を失い、消滅しようとしている。
身体を流れる血は、とまることなく、傷口から溢れる。
濁流のように、どくどくと。
白と黒の、モノクローナルな大地に広がる、赤い色。
静寂。
暗い空と、汚れた地上。
世界は、終焉を迎えた。
そして私は、消滅に向かっている。
***
世界が終焉に向かっていることに、人々はもう随分と前から気づいていた。気がついてはいたが、気がつかないふりをしていただけだ。
異常気象。大地の揺さぶり。消えていく生命。死んでいく植物。汚れた空気。穴の開いた大気。木々を枯らす雨。降り注ぐ毒。
毒。
しかし人々は、気がつかないふりをした。いや、気がついても、人々は、どうしたら終焉を免れるかわからず、途方に暮れただけであった。
賢い人々は頭を抱え、あまり賢くない人々は、笑いながらこう言った。
「神よ!できるなら、我らに永遠を!
さもなくば、我々の生きているうちには、終焉が来ないことを!
後のことはいいから!」
私は、それらを、ただ黙って見ていた。
私には、人々に永遠を与える力はなかったし(永遠というものを、この私も持ってはいない、)何より、それは私の役目ではなかった。
私は所詮、天上を追われた堕天使に過ぎず、世界に終焉を与えるということ以外、私にはなんの存在価値もない。
白と黒の大地。
赤いシミを足跡の向こうに残しながら、私は歩き続けた。
あては無かったが、立ち止まっている理由はもっと無かった。
立ち止まっていれば、連綿と続くこの白と黒だけの死んだ大地に飲み込まれてしまうような錯覚に陥った。そう思わせるだけの圧倒的な力を持って、大地は死に向かい、そこから精気と呼べるものは失われていた。
私はただ歩き続けた。
私自身に、残された時間はもうあまりないということはわかっていたのに。
私も、終焉から目を背け続けた愚かな人々と、何も変わらないかもしれない。
堕天使。
堕落した天使。
永遠を奪われた者。
世界の終焉と共に、世界から消滅せざるを得ない者。
天使とは、永遠の中で存在している。すなわち、世界が消滅しても、かつての(それは随分と古い「かつて」だが)仲間であった天使たちは、笑って、同じ時間を繰り返し続けている。永遠に。
足の傷が、しくしく痛む。
終焉を迎えると、傷は痛むようになる。
永遠の中では、痛みなど、存在しなかったのに。
しく。しく。
白と黒の大地。モノクローナル。
足跡の向こう側に続いている、赤いシミ。
てん、てん、てん。
血。血。血。
暗い空。
死んだ大地。
黙りこくった空気。
しん。しん。しん。
「……」
けれども次の瞬間、私は、思わず息を呑み、声を上げた。
今度はわざとでなく、大きな声で。
痛みを忘れて、目をこすって、それからまじまじとそれを見つめた。
そこには、人がいた。
***
「あんたは、誰だい」
私の姿を、上から下までなめるように見て、彼は尋ねた。
おそるおそる、といった具合に。
何十万、何百億、いや、考えられないくらい長い間――そう、永遠を失い、天上を追われてからというもの――私は少しも美しくなくなったし、身体はどこもかしこも汚れて濁っていたから、私は、そんなふうにじっくりと見つめられ、少しばかり恥じた。
黒い身体。しかも、足からは、赤い血を流し続けている。
どく、どく、どく。
「あんたは、誰だい。」
彼は、もう一度尋ねた。
どうやら怪我をしているらしく、呻き、苦しんでいる。何かと闘い続けた後のように、衣服は破れ、ボロボロになり、見るも無残な姿となっている。内側からも病に侵食されたその顔貌は、ひどく醜い。
「あんたは、神かい。」
黙っていると、彼は、もう一度私に尋ねた。
私はゆっくりと首を横に振った。
「いや、違う。」
「ならば、悪魔かい。」
「それとも少し違う。」
「ならば、あんたは誰だい。」
私は、自分がここにいる経緯を説明しようと口を開きかけたが、やめた。
全てを話し終えるまでに、この男は、きっと息絶えてしまうだろう。もちろん、私も。
「お前は、どうしてまだ生きている」
私は、彼に尋ねた。
「知らない。俺が聞きたい。他の人間は、皆死んでしまったのに。あの日から、太陽は昇らないし、草木も生えない。大地も死んでしまった。」
あの日、というのは、私が、世界を終焉に導いた日のことだろう。
私が命じると、世界は、存在し続けることをやめた。
そうやって、終焉に向かい、死んでいった。
この男を除いて。
「どうして、お前は他の人間のように死なない?」
「わからない。迷惑なことだ」
男は、ため息をつきながら答えた。
「迷惑?」
「ああ、迷惑さ。俺は、生きたいと思ったことなんか、一度もない。周りの奴らが死んでいっているのを見て、ああ、これでようやく俺も死ねる、って思っていたのに。それなのに、だ。」
私の足から流れた血が、黒い大地を、ほんのりと赤い色に染めている。
血。血。血。
男と私の間にできた、ほんのり赤い大地。
地。地。地。
「おまえは、生きていたいとは思わないのか」
「ああ、少しも思わないね。」
言いながら男は、鼻で笑った。
「何故」
「何故って、そりゃああんた、生きていたってロクなことはないからサ。人には裏切られる。蔑まれる。病気にはなる。努力しても、報われることなんざ、ほんのこれっぽっち」
言いながら男は、人差し指と親指で小さな隙間を作り、顔をしかめた。
「生きてたってロクなことはない。なのに、死のう死のうと思ってたって、これまたあんた、身体に傷をつけりゃ痛いし、眠っているうちに死んでしまおうとしたって、無理やり息をふきかえさせられる。医学の進歩、ってやつかい?こっちが死にたくても、なかなか死なせてくれやしない。病気になったって、苦しいばっかりで、いっこうに死ねやしない。死にたいから放っておいてくれと言えば、頭がおかしい扱いだ。そんな矢先に、世界が終わってくれたってわけだ。万々歳だ。嬉しくはあっても、悲しいこともなけりゃ、辛いこともない」
言いながら、男は笑った。醜い顔を、よりいっそう醜く歪めながら。
「でも、死ぬのは怖いだろう。世界が終わるということは、死んでしまうのと同じだ。お前という存在は、なくなってしまう」
そう言うと、男はしばらく私を見つめ、今度は大声で笑った。
「死ぬのが怖い?そりゃあ怖いサ。死んだらどうなるのかなんざ、俺にはわからん。俺はあまり賢くはないからな。でも、生きているよりはましサ。死んだらどうなるのかわからんから怖いが、生きてたってどうなるのかわからんから、やっぱり怖い。存在がなくなったって、俺は神じゃないからよくわからんが、俺の存在意義というものが仮にあったとしても、そんな大それたもんじゃないということだけは確かだ。もしくは、存在意義なんか,最初からないのかもしれん。」
「いや、それはない。全てのものには、存在する意味がある。」
意味のなくなったものの消滅。
それが自然の法則。
存在する全てのものに意味を持たせるために作られた法則。神々の気まぐれ。
空気が揺れる。
しん。しん。しん。
モノクローナルな大地に不釣合いな、生きている男。
消えていく世界。
消滅していくすべてのもの。
しん。しん。しん。
「ふん」
男は鼻を鳴らし、顔をしかめた。
「だが、なんにしろ俺は、さっさと終わってしまえばいいと、ずっと思っていたからな。ロクでもない世界は、一度滅んでしまったほうがいいんだ。全部リセットしなきゃ、奇麗にはならない。悪い毒は、リセットしてしまわないとなくならないからな。なのに、俺はまだ死んでない。迷惑な話だ。」
空気が揺れる。
白と黒の大地に、赤い血が広がっていく。
どく。どく。どく。
赤い色。鮮やかな極彩色。
しかしじっと見ていると、その赤も、色を失った大地に飲み込まれて、またモノクローナルに侵食されていくのがわかる。
死んだ大地。
終焉を迎えた世界。
消えていく、全てのものたち。
消えない男。
じくじくと、傷口が痛む。じわじわと、足の感触が消えていくのを感じる。
私の時間は、もうすぐ終わろうとしている。そういえば、ぼんやりと視界がぼやけているのがわかる。
モノクローナルな大地。
白と黒。
風は吹かない。
空気。
しん。しん。しん。
意味のなくなったものの消滅。
それが自然の法則。
存在する全てのものに意味を持たせるために作られた法則。神々の気まぐれ。
だから私は、消滅する。
私の存在意義は、世界に終焉を与えること。それ以上それ以下でもない。
しん。しん。しん。
消滅しない男。
生きることに意味を見出せない男。
死ぬことに意味を持つ男。
世界の終焉。
この世の終わり。
やがて私は、自分が大地に仰向けになっていることに気づいた。立ち上がる力は、もう残されていない。
暗い空。
もう太陽は、長いこと昇っていない。
とまってしまった時間。
空と大地は、同じ色だ。
黒。
世界を終焉に導いたのは、私だ。
だが私は、ただの堕天使に過ぎない。
気が遠くなるくらい昔、羽根をもぎとられ、私は、天上を追われた。
私はただ、もはや自分の存在意義を失い、消滅する。
世界と共に。
消滅した堕天使は、どこにいくのだろう。
世界が終わった後は、何が残るのだろう。
否、何も残らないだろうか。
堕天使に過ぎない私には、何もわからない。
わからなくていい。
消滅。
終焉。
私は、ゆっくりと目を閉じた。
暗い空。死んだ大地。
黒。
そこに、飲み込まれる。
ただ、そこに。
堕天使。
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