安心タイカスは今日も勝った。
中西半太は、帰りの電車の中でもまだ笑いがとまらなかった。それは車内を埋める乗客たちも同じで、どの顔をみてもこみあげる笑みでみな、ふやけたようになっている。この電車はタイカスのファンでみちており、さっきまでいたわきにわいた球場での熱狂と興奮からまだたれも冷めきっていないのだった。
じっさい、球場のスタンドから声をかぎりに声援していたときのあの頭が完全に真っ白になっていた状態ほどすばらしい瞬間はなかった。至福の時とはあのような心境をいうのではないだろうか。スタンドを埋めるすべての観客がただ安心タイカスの勝利だけを願っている。タイカスのバッターがホームランをうったあの一瞬は、たとえこの世を破滅させる爆弾がどこかで爆発したとしても、陶酔に酔いしれずにはいられなかったにちがいない。
「タイカスが勝利したんだ、どこかで祝杯をあげようじゃないか」
だれかがいいだすと、みんながぞろぞろと最寄りの飲み屋に歩きはじめるのに、いつのまにか半太も加わっていた。球場のそばとあって、その飲み屋にも大勢のタイカスファンがたむろしていた。
客のひとりが半太たちにむかって手をふりながら、
「ハーイ、チャンチャン!」
半太たちもお返しとばかり、
「ハーイ、チャンチャン!」
いま街中でこの流行の挨拶がさかんにやりとりされていた。年代のちがいや性別、さらには国籍をもこえて、街角で、コンビニで、公衆トイレで、交差点の中央で、ハーイ、チャンチャンの声がこだました。知らないもの同士でも、これを交わすことによって不思議と親和感がうまれた。
半太たちが席についてまもなくして、一人の男が入ってきた。客たちを不審にさせたのは彼の、なにかを思いつめたその表情だった。これまで賑わっていた店内がたちまちしずまりかえった。だれかがこのきまずい沈黙にたえかねて、新来の客にむかって、「ハーイチャンチャン」をやってみせた。ところが男は、それにはまったく上の空で、魚のようなうつろな目をむくばかりだった。
厨房の奥で、女店主がコソッと電話をとった。店に向って消防でも救急でもない、独特のサイレンの音がちかづいてきたのはその直後のことだった。
がらりと店の戸があき、数人の男がおどりこんできた。
「HJCです。連絡されたのはここですか?」
そう名乗った隊員のといかけに、女店主はうなずくとともに、まだ席にすわるでもなく立ち尽くしているさっきの男を指さした。三人の隊員たちはいっせいに男のまわりをとりかこんだ。
「あなたを変人とみなします」
男はそれをきくなり、血相をかえた。
「冗談じゃない。なんでおれが変人なんだ?」
「あなたの態度が変人だと通告する人がいたのです」
「おれは変人なんかじゃない、おれはただ……」
男の声がきゅうに、切羽詰ったようにうわずった。
「疑わしきは捕縛せよの法令にしたがい、あなたをHJCまで連行します」
「ちがう、ちがう、わあーっ」
男が断末魔にちかい絶叫に絶叫をあげたあとに、そのからだから異臭が立ちのぼった。
「脱糞です」
女性隊員が、男のズボンのうしろを、きまりわるそうにみおろしながら、隊長にいった。
「おれはただ、トイレがあくのをまっていただけなんだ。下痢ぎみだったもんで、たまらなかったんだ。そんなところへ、あんたたちがおさえつけたもんだから、がまんしきれなくなって――」
男の説明をうらづけるかのように、トイレ内からざぁっと水をながす音が聞こえ、いっときしてみるからに満足した様子の男がドアから出てきた。
「どうしましょう、隊長?」
「脱糞行為は変人の範疇には入らない」
「あのう、このひとは、どうなるのですか?」
店の女がたずねた。
「変人でない以上、われわれの関知するところではない」
HIJ隊員たちは早々に店から引き上げていった。
「はなしには聞いていたけど、HIJってほんとに、すぐかけつけるのね」
「疑わしきは捕縛せよとはまた、恐ろしい話だこと」
半太の両側でそんな客たちのやりとりが飛び交った。
トイレに行っていたさっきの脱糞男が、みかねた女店主が用意してくれズボンにはきかえてふたたび姿をみせ、なんども詫びをいっては自分の汚物で汚れた床を、モップでふきはじめたのをながめながら、半太は注文した生ビールを口にした。
「いまのをみていた変人が、いつかHIJにつかまりそうになったら、鼬の最後っ屁じゃないが、脱糞してうまくやりすごすかもしれないな。そうなったら、世の中が臭くなっていけない」
変人規正法が成立したのは一年前のことだった。社会に背を向ける人間が罪を犯すまえに捕らえてしかるべき矯正をほどこすというのがこの法令だが、いま半太たちが目の当たりにしたように、変人の規定の線引きをどこにするかで最初はおおいにもめたものだった。疑わしきはすべて捕らえよというずいぶん乱暴なやりかたがとりいれられたのもそのためで、とにかく捕らえてからあとで篩いにかけるというのが当局の方針となったのだった。
半太は自宅アパートに帰宅した。かえる途中にもなんども彼の耳に、HIJの車がたてるサイレンが聞こえた。まちの随所にとりつけられた変人監視カメラにキャッチされた容疑者たちを追って、かけまわっているのだ。
部屋に入り、明かりをつけると半太は、ほっと息をついた。分厚いカーテンに隙間がないのをたしかめてから、奥の部屋に向った。
書棚にかこまれた机の上に、書きかけの原稿用紙がひろげられている。彼はイスにすわると、万年筆のキャップをとって、おもむろに原稿用紙の升目をうめはじめた。
そのとき玄関のインターホンが鳴った。いやな予感にうながされて半太はたちあがった。
「HIJのものです。ここをあけてください」
ドアの外から聞こえるその声には、有無をいわせぬ強い響きがこめられていた。
「なんの用ですか?」
といかける半太の顔からは血の気がひいていた。HIJの隊員がここまできたということは、用件はきまっていた。
ドアをあけるなり、三人の隊員たちは彼をおしのけるようにしながら部屋にあがりこんできた。かれらはいままで半太がいた書斎に飛び込んでいくと、机の上の原稿用紙をわしづかみにした。
「あなたを変人として連行します」
「容疑はなんですか?」
「この原稿です」
「小説を書くのが、変人なんですか?」
「あなたはこの小説を、どこかに応募するなり、ひとにみせるなり、一度でもしたことがありますか?」
「いえ」
「ということはこれには、人にみせられないことが書いてあるということになる。ひとりこそこそものを書くのは、かぎりなく変人に近い行為です」
半太がここで、隊員に向って原稿の中身を読んでくれといわなかったのには、それなりのわけがあった。というのもこの小説の主人公が、自分が変人かどうかに悩み苦しむという話で、それを作者の投影だと受け取られるのがおそろしかったのだ。それにしてもどうして、HIJはこの小説のことをかぎつけたのだろう。半太はだれにも、ひとりひそかにものを書いていることを、話した記憶はなかった。
そんな彼の胸のうちをよんだのか目の前の隊員が、
「物書きでもない人間が大量に、原稿用紙を買い込んだりしたら、怪しいとおもわれますよ。われわれは以前からあなたに注目していたのです」
「ぼくはいったい、どうなるのです?」
「死刑場に行くような顔をしないでください。なに、あなたはちょっと矯正されてすぐ、ふたたび社会にもどれます。そのときはすっかり、変人ではなくなっている。体制のなかの、うらおもてのない常人として、りっぱに社会に役立つのです」
そのちょっと矯正という言葉に、半太は怖気をふるった。以前、知り合いの知り合いが
やはり、変人の容疑をうけてHIJに連行された。それから一ヶ月後、社会に復帰したときの彼は、まるで別人かとみまがうばかりに様変わりしていたという。知り合いの話では以前の彼は、豊かな個性の持主で、芸術にたいする造詣も深く、またみずから詩を書きこれまで何冊もの詩集を出版していた。芸術家イコール変人では決してない。が、世間の人間たちからいわせると、かれらの区分は紙一重だった。自分の好きなことをしている人間は、そうでない人間たちからは当然、煙たく思われる。安心タイカスに声援を送る大勢の常人の目には芸術家は、何を考えているのかわからない、変なやつなのだ。とはいえかれら芸術家は、表現という、大義名分の印籠を手にしている。それが人気を博し、金になるかぎり、HIJも手がだせない。たとえ芸術家にとって人気を博し、表現したものが金になることが本望でないとしても。そういう意味では人気を博し、金になることはある意味、芸術家の隠れ蓑といえないこともない。げんに人気もなく、ひとつも金にならない自称芸術家は、問答無用でHIJに連行されていた。ではなぜ、人気もあり、金も稼ぐ彼が連行されたのか。半太の知り合いの話では、どうやらはめられた模様だった。正確には、はかされたというべきか……。彼は、大酒飲みだった。一週間に一度は、いきつけのバーで酔いつぶれるのをまるで芸術家の使命だと心得ていた。その夜も酔いつぶれた彼が、ホステスたちが休憩場所にしているトイレの横の小部屋で横たわっていたところへ、HIJ隊員が踏み込んできた。その場で彼は、着ているものを脱がされ、下着一枚にされたあげく、証拠写真をとられた――ホステスが干していたピンクの下着をはいた彼の写真を。彼は身におぼえがないと言い張った。自分が酔いつぶれている間に、だれかがはかせたのだ。しかしその主張は認められずに彼は結局、矯正された。矯正されたのちの彼は、かつてのオリジナリティは影をひそめ、向こう受けする、通俗を絵に描いたような作品ばかりを書くようになってしまったという。
HIJ隊員に部屋に踏みこまれた半太の頭にとっさに、その人物のことがよぎった。おれも彼のようになってしまうのか。そうおもうと恐怖に、生きた心地もしなかった。
「さあ、きてもらおうか」
一番前にいた隊員が、ぐいと彼の腕をわしづかみにした。とそのとき半太の目に、隊員が胸につけている認証カードがとびこんできた。栗林ケンジ。その名に半太はおぼえがあった。
「栗林じゃないか」
相手は、ぎくりと顔をこわばらせた。
「…………」
「おれだよ、ほら学生のとき仲のよかった中西半太だよ」
「中西、はんた……」
動揺もあらわな彼をながめる半太の頭に、ありありと当時のできごとがよみがえった。
それは二人が高校一年のときだった。中学から高校までいっしょで、家も近所ということもあって、二人は友人関係にあった。あるとき栗林が、何枚かの写真をもって半太の家をたずねてきた。以前から写真が好きでこれまでにも、自分で撮影した写真をよくみせてくれた彼だった。しかしこのとき持参した写真は、これまでの風景や人物をうつしたものとはちがっていた。それは外から窓越しに家の中を写したもので、そのほとんどが女性の半裸、もしくは全裸を撮影したものだった。
「これ、だれだと思う?」
そうといかける栗林の表情はいかにも得意げだった。
「だれって……」
半太にはその女性が漠然と、クラスの担任の古桜先生に似ているとおもったが、普段教壇に立つときのあの、きりりとした服装の先生と、写真の肌を露出した女性とには、あまりに距離がありすぎた。
「古桜先生だよ」
はげしい驚きに打たれて半太は、手にした浴室内の、泡にまみれた古桜教師を見入った。全校の男子生徒の憧れの的、かわいらしさと美しさをかねそなえた先生の、これは盗撮写真だった。
「僕の家から先生の家がよく見える。望遠をつかえば、どんな写真だって撮れるんだよ」
「見つかったら、大変だぞ」
「見つかりっこないよ。それにぼくには、先生のプライベートを撮る権利がある」
以前栗林は、死ぬほど古桜先生が好きだと半太に告白したことがあった。これほどぼくを好きにならせた先生には、それなりの責任がある。自分に盗撮させているのは、栗林を好きにならせた古桜先生のほうだと彼はいいたかったのだ。
「これもまた、同様の権利からでた行為だ」
そういって彼がショルダーバッグから取り出して見せたのは、女性物の下着だった。
「もしかして、これも、先生の……?」
栗林はうなずいた。
それからあとの記憶は、茫として定かではない。古桜先生の婚約者宅に先生のプライベートな写真が送りつけられて、ひと騒動もちあがったという後日談も記憶の断片にかいまみえたが、そんなことはどうでもよかった。半太はさっきの、自分をみておおげさなまでのおどろきをしめした栗林の態度から、彼がいまなお当時の習慣をもちつづけていることを確信した。盗撮か、下着泥棒か。どちらにしろHIJ隊員にとって、それは致命的な行為にほかならない。
ぐずぐずしているひまはない。部屋にはほかの隊員も踏み込んでいる。半太は栗林ひとりを机のそばに誘導し、そっとささやきかけた。
「栗林、頼みがある。おれをみのがしてくれ」
彼が言下にそれをはねつけようとしないところを見た半太は、自分の憶測がまちがっていないことに自信をふかめた。
「おれの一存で、そんなことできるか」
「もしおれがつかまったら、問い詰められるままに、なんでもしゃべってしまいそうなんだ。そうなったら過去のこともぜんぶ、明るみになってしまう……」
栗林の顔は蒼白になった。唇がかすかにふるえている。一瞬後、彼はコクリとうなずくと、半太の腕をつかんで自分のほうに引き寄せた。
「外へでたら、車に乗るまえにおれをなぐって逃げるんだ」
半太は、困惑げに栗林をみかえした。家を追われて、HIJからマークされた変人の逃げられるところなど、彼には想像できなかった。すると栗林はすばやく、
「6番街の、お蝶さんをたずねろ」
と告げた後は、ことさら声をあらげて、
「さあ、はやくくるんだ!」
あらあらしく半太を室外につれだした。
5分後、半太は夜の街中を、全速力でかけていた。指示どおり、家から出で、彼を乗せるべくまちかまえるHIJの車のまえまできたところで、いきなり栗林を殴りつけた。見事なフックで、栗林はたまらずくらくらと目眩をおこして地面にうずくまってしまった。いろめきたつ隊員たちを尻目に、半太は一目散に逃げ出し、最寄の路地にとびこんでなんとかここまで、逃げてきたのだった。
彼はそして、路地から路地をとおりぬけて、しだいに6番街の方角にちかづいていった。
HIJ隊員の栗林を殴ったことで、おれには変人の名が烙印されてしまった。どこに逃げようともはや、通常の人間とみなされることはない。そのことは半太を、さすがに恐恐とした境地に陥れた。知人たちにもすぐに知れ渡ることだろう。だれもが変人視されることを恐れるあまり、変人ときめつけられたものに対しては容赦がない。見かけたらたちまちHIJに連絡されるし、あるいはその場で拘束されることだって十分ありえる。知人、友人、あるいは家族の類がもっとも危険な相手であるかもしれなかった。
ほかにもひとつ、半太の恐れるものがあった。それは街じゅうに設置された監視カメラだ。彼がにげだした時点で、すべての監視カメラが夜中に獲物を狙う梟のように、そのするどいまなざしをみひらいたことにちがいない。6番街にいくにはどうしても、路地から出て、繁華街を通過しなければならなかった。
路地の出口までやってきた半太は、大勢の通行人が行き交う眼前の通りを、途方にくれた目でながめた。
と、その彼の目に、ピンクのデンデン虫を頭にかぶった一団が飛び込んできた。とたんに彼は、急ぎ足で路地から走り出した。
「ハーイ、チャンチャン!」
いうなり半太は、まぢかにいた男の頭からデンデン虫の帽子をひったくるなりそれを、自分の頭にふかぶかとかぶった。帽子をとられた男は、半太をおなじ安心タイカスのフアンとみなして、ぎゃくに半太の肩に腕をまわして愉快そうに笑い出した。
おかげで半太は、監視カメラににらまれることもなくぶじ、6番街にたどりつけた。
しかし、栗林から聞かされた名は、お蝶さんだけ。しかもそのお蝶さんがいったいなにものなのかは、まるでわからないときている。半太は、両側に家がたちならぶ通りをまえにしてふたたび、途方にくれだした。
お蝶というからには、飲み屋かスナックではと当たりをつけて、それらしき店をさがしているとき半太の目に、ドアのまえにはりつけられた毒毒しいまでにまっかな色彩の蝶々の絵が飛び込んできた。
彼は、その木製のドアに手をかけた。明るい光が照らしつける店内には、値札のついた財布や手提げ、コサージュやブローチなどがならべられ、一目見て若い女の子向けの商品をあつかうブティックといったところだった。彼は、見当違いだったかと、はやくも足をかえしそうになった。
「いらっしゃい」
突き当たりの扉が開き、身をかがめるようにしてひとりの女があらわれた。全身真っ黒な衣服をまとい、その胸には一点、赤糸であしらった蝶のアップリケが認められた。半太はある種の直感にうながされて、女にちかづいていった。
「もしかしてあなたは、お蝶さんでは?」
彼女の表情が一瞬だが緊張したように見えた。
「だれに、それを?」
「栗林という男に聞きました」
相手は、納得顔でうなずくと、
「こちらに、きて」
と彼を、さっき自分が出てきた、壁の扉のところまで招いた。
扉のなかにも、同じようなスペースの部屋があった。半太は、台上をびっしり埋め尽くす奇妙なものに目をやった。
「これは、石膏ですか?」
「そう。変人同盟のひとたちの、ペニスのかたどりです」
いわれてはじめて半太にも、自分がいま目にしているものがみな、男性の性器であることを理解した。上向きに屹立しているので最初は、キュウリか瓜を連想していた。
「みんな、勃起してるのですね」
「でないと、型がとれないのよ。これをごらんなさい」
とお蝶さんは、台の端にあるひとつを指さした。
「これが?」
「ここにSKとイニシャルが刻んであるでしょ。栗林さんのものよ」
「え、これがあいつのですか。柄はでかいが、案外しょぼいな。でも、どうしてあいつのが、ここにあるのです?」
「あのひとも、変人同盟の一員だからよ。ここには変人同盟全員のものがそろっているわ」
「変人同盟って、なんなのです?」
するとお蝶さんは、意外そうな表情を浮かべて、
「あなたも入りにきたのじゃなくって?」
「ぼくはただ、栗林にここにくるようにといわれただけです」
「あなたも、変人狩りにあって、すんでのところで栗林さんに助けられた口でしょう?」
「ええ、まあ」
「ということはもう、あなたの選択肢はふたつにしぼられたということなの。一つはこの同盟に加わる。もうひとつはこのまま一生、HIJに追い回されて逃げ続けるか。強要はしないわ。選ぶのはあなたよ」
「同盟に入ると、どういうことになるのでしょうか?」
「世間に存在する他の多くの変人たちと共通意識をもつことになり、変人であることを一人で悩むことはなくなるわ」
「共通意識とは?」
「変人こそ人間の本質であるという認識」
「あの、女ものの下着を男がはくのが、人間の本質なのでしょうか?」
例の、知り合いの知り合いの芸術家のことをいったつもりが、ひょっとして自分にあてはめられないかと彼ははらはらしたが、相手はべつにこだわる様子も見せずに、
「あるいはそれは恥かもしれないけど、すくなくとも罪ではない。変人同盟の基本理念は、恥はよし、罪は犯すなよ。ところがHIJはその恥をよしとするものたちを捉えることに執心しています。自分ひとりのひそかな喜び。変人とよばれる連中は例外なく、この悦びに耽る人たちなのは、あなたもおわかりね。オリジナリティに富み、ゆたかな人間性の持主であればあるだけ、そのようなよろこびを大切にするものです。HIJはそんなかれらを片端から、ときに卑劣な手段を弄して捉えては矯正という洗脳をほどこし、もはや変人ではない味もそっけもない常人に脱色してしまうのです」
「同盟に参加しても、依然としてHIJに追われることにはちがいないんじゃないですか?」
「いまに日本中の変人たちが抗議にたちあがるそのときまでは、わたしたちも辛抱が必要
です」
「抗議?」
半太は眉をしかめた。そんなことぐらいで、法律がゆらぐとでもおもっているとしたら、このお蝶さんのいう変人同盟もたかのしれたものだと半太は胸中でつぶやいた。
「さあ、どちらを選ぶの?」
「せっかくですが、やめときます」
いきなりどかどかと足音がして、奥から二人の屈強そうな男が出現した。あっというまに半太は、両側から男たちに腕をねじあげられた。
「話がちがうぞ。選ぶのはこちらにまかすと、さっきいったじゃないか」
「たしかに、選ぶのはあなたの自由だといったわ。そしてあなたは自由に選び、その結果、拘束されたというわけよ」
「卑怯だ!」
「HIJに目をつけられているあなたが、ここから出ていったい、どこへ行く気なの?」
半太は言葉に詰まった。自分にはもうもどるところなどない。変人同盟に参加する、しない以前に、おれはすでに変人なのだ。
「どうするつもりだ?」
「かたどりをするだけよ」
「かたどり――」
半太は台上の、屹立するオブジェを見やった。
「あいにくだけど、いまのぼくに、こんな元気は到底わきそうにない」
声をたててお蝶さんは笑いながら、
「だいじょうぶよ。そんなこと心配しなくていいわ」
一時間後に半太の、隆々と屹立したペニスのかたどりは完成した。じっさい、よくそこまで隆起したものだが、それにはお蝶さんの親身な協力があったのだった。ここにあるすべてのかたどりも同様の工程をたどったとしたなら、かれら変人同盟の力の源はひとりお蝶さんの貢献が大といっても過言ではないだろう。
「ところで、変人同盟って、具体的になにをするんですか?」
半太は、単刀直入にお蝶さんに質問した。男たちはどこかに消えてしまいいま部屋には彼女と二人だけしかいなかった。
「表面的に常人をよそおっている変人たちを同盟に引き入れること」
「同盟の規模を拡大するのですね。で、それからは?」
「抗議よ」
彼の顔に、あからさまな失望感がにじむのをみたお蝶さんは、
「いいたいことがあれば、はっきりいっていいのよ」
「それじゃいわせてもらいますが、いくら多くの変人が自分たちに権利をと抗議したところで、それで世の中が変わったりするのですか。HIJの格好の餌食になるだけの話じゃありませんか」
「日本じゅうの変人たちがいっせいにやるのよ」
「同じだ」
「あなたのいう抗議って、こぶしを振り上げて叫ぶことでしょう」
「ちがうのですか?」
「それは、常人のすることよ」
「それじゃ、変人の抗議とは?」
お蝶さんはいきなり、両肘を肩の高さまであげて、ちょうど蟹がハサミをふりあげるようなしぐさをみせた。
「……阿波踊り?」
「そのルーツかな」
彼女は、あげた肘を前後に揺らしながら、小刻みにまえにすすみだした。口ではたえず、念仏のようなものが唱えられていて、半太が耳をかたむけるとそれは、
「エエジャナイカ、エエジャナイカ――」
と聞こえた。
常人の顔というものがあるそうだ。その顔を手にいれるために半太はいま、ハヤミという整形外科医をたずねた。むろん彼も変人同盟の一員で、お蝶さんの秘密の部屋に飾られた彼の、隆起したオブジェは半太も目にしていた。
半太は目下、お蝶さんの店の地下倉庫に起居していた。そこにはこれまで何人もが利用したとおぼしき、表面のすりきれたソファベッドが用意されていた。半太のような行き場をなくした連中に提供するもので、かれはそれをみて、これを利用した面々はその後どこへ行ったのかと素朴な疑問を抱いた。ここで夜をあかしたものは例外なく変人なのだから、そうおいそれとどこへでも行けるというものでもないだろう。半太同様HIJに追われるものも少なくないはずだ。
それらの連中のために、常人の顔を用意してハヤミは待機していた。
ビルの階段をあがり。美容整形HAYAMIと書かれたドアをあけると、受付の女が笑顔で半太を迎え入れた。
「中西半太さまですね。お蝶さまから連絡をいただいています」
彼女が指し示すドアから、荒々しくドアが開いて、あらわれたのはハヤミだった。
「きみ、ぐずぐずしてないではやく、こちらに入りたまえ」
とおされたところは、手術台とその両側に数種の器具が用意された部屋で、助手らしき看護師がひとり、手術台の横に立っていた。
「さ、時間がない。すぐにとりかかろう」
半太にというより、助手の看護師にむかってハヤミはいった。
「あの、どんな顔にしてもらえるのですか?」
半太は心配になってたずねた。
するとハヤミは、犬が口を聞きでもしたかのような、当惑を顔にうかべて、
「レディメードの顔にするのに、どんな顔もくそもあるもんか。きみはだまっていろ!」
「先生にすべてをおまかせします」
観念して半太は、手術台の上に横になった。
若い女たちがちらちらと視線をこちらに投げかける。最初のうち半太は、変人視されているのではと危惧したが、どうもそれとはちがう女たちのまなざしだった。
ハヤミ先生に顔をかえてもらって数週間が経過した。腫れもひき、違和感のあった表情もしだいになれてきて最近ちょくちょく、外出するようになっていた。はやく変人さがしもはじめなければならず、手術跡が癒えるまで屋内でじっとしているあいだも彼の気はせくばかりだったのだ。
包帯をはずし、はじめて鏡で自分の顔をみたとき、なんだ、これはと、彼は一驚した。
これが常人の顔というものか。どの街のどの場所にでもみかける、その他大勢、エキストラたちの顔。まあそのおかげでこうして、大手をふって往来を歩けるのだから、文句はいってられないが。それよりも、歩くにつれてむけられる、一度や二度ではない、女たちのまなざしのほうに半太は奇異なものを感じて、いったいこれはなんなのだと、なんどか立ち止まって考えこむほどだった。
以前のあの、個性的といえば聞こえはいいが、はっきりいえば不細工で醜い顔のとき、女たちが示す反応はきまって、無視か、あるいはあからさまに嫌悪感をうかべるか、ときには笑いだすものさえいた。こんな味気ない顔にもかかわらずなぜ、女たちは興味を抱くのだろう。わからないままなおも彼は歩きつづけた。そしてそれからもなんども自分にむけられる女たちの視線を意識するにつれて彼は、とうとうひとつの結論を導きだした。
おれは、女たちの注目をあびている。それはわるい気持ちではなかった。女たちの非好意的な態度にさんざんさらされていた以前でさえ、正直なところはやはり、いまのように注目の的になりたいという欲望があったことはたしかなのだ。みれば、こちらに視線をよせる、女たちもまた、みごとなまでに常人の顔がそろっている。無個性で、無味無臭の顔……
そんななかから、ひとりの女が半太にむかって歩みよってきた。女は、片手をふりながら彼のまえまでやってきて、
「ハーイ、チャンチャン」
つられて半太も、
「ハーイ、チャンチャン」
もうそれだけで二人の意思は通じあったとばかり、女はいきなり彼の腕に自分の腕をからませてきた。こんなことは安心タイカスが試合に勝ったときだけにゆるされる無礼講だったが、いまではこの顔がフリーパスとなって、白昼堂々の行為におよんだ模様だ。
半太の消息はそこでぷっつり絶えた。彼の行動が常人そのものとなった以後は、そこいらにいくらでもいる連中となんらかわることがなかった。埋没という言葉が適切かもしれない。
彼からの変人同盟への連絡もなくなり、お蝶さんにとってはとんだめがねちがいかもしれなかったが、彼女にしても近々行う抗議のことで頭がいっぱいで、半太のひとりや二人、どうなろうとしったことではなかった。こちらにはかたどりがとってあるので、万が一にも彼が同盟の秘密を他にもらすということは考えられなかった。
そんなとき、HIJに、新手の捜査官が登場した。
その捜査官には独特の嗅覚がはたらくとみえ、常人顔を獲得した変人を、なによりみわけるのが得意だった。毎日何人もの変人同盟の人間がHIJに検挙されてゆくのを知って、さすがにお蝶さんは脅威をおぼえた。
「いったい、新任捜査官って、どんな人間なの?」
例のかたどりがならぶ部屋でお蝶さんは、同盟者のひとりの、オーハカという、かたどりナンバー17の男にたずねた。あの半太のナンバー2387からみてもわかるとおりオーハカは、ほぼ同盟をたちあげた当時からお蝶さんをサポートしていて、おもに情報収集の方面に活動していた。
「こちらの事情にくわしいところからあるいは、変人からの転身者かもしれません」
「転身者……まさか、そんなことが」
お蝶さんにしてみれば、こちらにペニスのかたどりがあるかぎり、HIJ隊員になどなれるわけがないという確信があった。こちらの人間がHIJにスパイとしてはいりこめても、その逆はありえない。
「転身者なら、こちらにかたどりがあるはずでしょ。さっそくその捜査官の人相を確認してから、かたどりのレプリカをとってHIJへ送り届けなさい。たちまち懲戒免職まちがいなしよ」
お蝶さんのつよい指示にも、オーハカは弱々しげに首をふって、
「それが、むりなんですよ。その新任捜査官はどうも女性なんです」
「女!」
お蝶さんは苦々しげにつぶやいた。女のかたどりも一応はとる。しかしそれは男のものにくらべ、しごく曖昧模糊として、本人のものと照合しても同一人かそうでないかの判断はつきにくい。つまり、証拠にはならないということだ。
そのとき、お蝶さんの携帯が甲走ったように鳴り出した。携帯を耳におしあてた彼女の顔色が、たちまち青ざめた。
「十三区の変人たちが全員拘束されたわ!」
彼女はそれだけいうと、足音もあらく奥の扉にむかいかけたが、一度オーハカのほうをふりかえると、
「栗林に連絡をつけて」
そしてそのまま扉を開けて中に入りこんだ。
憤りがため息となってお蝶さんの口からこぼれた。彼女は鏡のまえのイスに腰掛けると、顔から薄皮をはがすようにかぶっているものをとった。とたんに、脂肪ぶくれの顔がむきだしになった。つぎに彼女は着ているものをぬぐと、からだを補正しているすべての下着を脱ぎすてた。これまできりきりに縛りとめられていた皮膚も肉も血管も、そして骨さえも、突然の解放に歓喜し、思う存分羽根をひろげた。たちまちあまりにあまった脂肪がたるみにたるんで重々しげにたれさがった。そこには、さっきまでのお蝶さんとは似ても似つかぬ、おそろしく醜く肥満した女がいた。襞のように何重にも垂れた肌のなかに目も口も鼻も埋没してしまい、もはやそれは顔とはいい難かった。
彼女は、腹の肉をつまみあげて、その肉厚の感触をたのしむかのようにしばらくもてあそんでいた。全身にできた無数の襞、せめぎあう脂肪と脂肪がまるで、いくつものかりそめの大陰唇を生み出していた。彼女はひとつひとつの大陰唇を指のさきでなでさすった。ひりひりした電気的な快感は、本物のそれと同様の愉悦を彼女にもたらした。
変人の男たちは例外なく、このからだに酔い痴れ、耽溺する。その証拠が、あそこにならぶ屹立したオブジェだった。お蝶さんはこれまでこのからだで、相手が常人か変人の区別をつけてきた。どんなに常人をよそおっても、この裸体に興味をおぼえるものはみな、変人なのだ。HIJ隊員も、その例にもれない。栗林がその例だ。もっとも彼の場合は、因縁浅からぬものが二人の間にあった。お蝶さんが教師だったころ、望遠カメラというペニスによって、レイプしたのが彼だった。彼はその後、お蝶さんの婚約者に彼女のプライベートを撮影した写真を送りつけ、二人の関係をむちゃくちゃにしてしまった。結局犯人はわからずじまいだったが後日、彼みずからお蝶さんに告白した。お蝶さんはそのとき栗林の、異常にねじれた愛情をしった。彼女はそして、自分もまたそのねじれに、すすんでまきこまれるような関係を、彼との間に築き上げた。その結果、栗林のほうは現状に辟易して、その正反対上にあるHIJへのみちをすすみ、お蝶さんのほうはますます現状に耽溺して変人への道をまっしぐらにつきすすむようになった。しかし二人の関係はそこで完全に途絶えたわけではない。いってみれば二人は、一本の線の両端に位置していて、互いの存在を足場にして自分の立脚点を確かめるような感じだった。
その栗林から彼女の携帯に連絡がはいった。
「オーハカさんから、連絡をもらいました」
「ああ、栗林。なんだかまずいことになってるのよ」
「ゼンダ捜査官のことですね」
「ゼンダっていうの、その捜査官。ずいぶん腕利きのようね。同盟者がずいぶん検挙されちゃったわ」
「腕利きというより、変人にたいしてすさまじい嫌悪感を抱いているようです。わたしもいまのところはへたに動けないのです」
「女らしいけど、どんな来歴の持主なの?」
「大勢の変人たちをHIJに密告し、その功績によって隊員に抜擢されたという異色の人物です。隊員になってからはそれこそ、破竹の勢いで片端から変人たちをつりあげはじめたことはお蝶さんのしるところです。彼女には、変人をみわける勘がするどく、どんなに常人をよそおっていてもたちどころに見破ってしまうということです」
「はやいうちに、なんとか手をうたなければね。栗林、また連絡するわ。注意するのよ」
「わかりました。お蝶さんも、十分気をつけて。ゼンダの最終目標は、あなたですから」
「わかったわ」
彼女はいそいで補正下着を身にまとい、顔には習性マスクをかぶってもとの、グラマラスで魅力的な女にもどると、オーハカを呼んだ。
オーハカは厳しい面持ちで、扉を入ってきた。
「危険なやつがあらわれましたね。はやいことここは引き払ったほうがよさそうですよ」
オーハカは最近この近辺に目だってホームレスがふえたことを彼女に告げた。それがこの店を包囲するようなかたちで分散しているのだった。
「本来ならまっさきにHIJが関心をもつはずのホームレスなのに、これまで一回だってそんな動きがないところをみると、ますますあやしいやつらだ」
彼女はいまになって、事態の深刻さに気づいて慄然となった。
「オーハカ、すぐにここから立ち退くわ」
「ですが、どうやって。ここは監視されているのですよ」
お蝶さんは、いきなり衣服をパッと脱ぎすてるなり、さっきつけたばかりの補正下着をすべてはずしてしまった。
「お、蝶さん……!」
これにはオーハカもおもわず息をのんだ。お蝶さんの、補正なしの姿をまのあたりにするのはまえに、自分のかたどりをとったとき以来、これが二度目のことだった。
「同盟の者以外に、この姿を知っている者はいないはず。したがってこの姿なら、HIJの目をくらませると思うの」
「危険な賭けです」
「それは承知の上よ」
彼女はいそいで衣服をまとった。
「オーハカ、あとのことはまかせたわ。あなたもぶじ、逃れるのよ」
「おまかせください」
お蝶さんは、足をかえすと、扉のほうにむかった。が、肉がつかえて、容易に出ることもできないでいるのを、後ろからオーハカが押してやっととおりぬけることができた。
「ありがとう」
礼をいうお蝶さんに、オーハカはこたえることなくすぐに、物置からハンマーをとりだすと、あとは勢いにまかせて台の上の石膏を片はしから叩き壊しはじめた。
お蝶さんは、たれさがる肉体を両腕で抱えるようにしながら、通行人がゆきかう歩道をつきすすんだ。だれひとりとして、HIJに通報するものがなかったのは、変人とは姿かたちではなく人間の行為だという認識がひろく一般にしれわたっているからにほかならない。おそらく監視カメラも一台として、路上をゆく彼女に注目したものはないはずだった。
お蝶さんは、やがて商店街のなかに入り込んだ。両側にならぶ店々から、親しみのこもる視線が彼女に投げかけられた。この商店街の店主たちはみな、変人同盟の連中で、いまじぶんオーハカによって粉々にされたかたどりのなかにもちゃんとかれのものがまじっていた。八百屋の主人も、中華料理屋の経営者も、お好み焼きやの姉さんもみな、変人たちだった。自分たちのなかにまちがいなく、常人にはない異質なものがあることを正直に自覚した連中たちのここは商店街だった。
しかしそんなかれらも、いつにないお蝶さんの姿をまのあたりにして、だれもがおやっとおもった。彼女がその姿でここにあらわれるのをみたのは、きょうがはじめてだった。
お蝶さんは、この商店街のはずれにある地域振興会の事務所をめざしていた。そこに常駐する変人同盟の幹部に事情を告げるとともに一時、匿ってくれるよう頼むつもりなのだ。
お蝶さんは、店から顔をつきだす人々に、あいそよく手をふった。両側にむかってなのでしぜん、それは両腕になった。だぶつくからだのせいで腕をふるたびにそれは、右に左に大きくはずむようにゆれた。その様子はあたかも、彼女が同盟の抗議活動としてきめた、変人の存在を世間にアピールするために全国でいっせいに行う予定になっているあの、エエジャナイカ踊りに酷似した。
商店街のみんなにもその知らせは当然伝わっている。お蝶さんのきょうの、尋常でないふるまいは暗に、計画の実行をつげるためのものではないのか。だれともなくそんな考えがひろまりはじめた。商店街のめんめんはもともと、このまちで行われる盆踊りの中心メンバーたちでそれも、変人狩りがなかった当時は『闇踊り』と称する、照明をすべて落とした暗がりの中で男女が裸で舞い踊るといった、いまならHIJの格好の標的になりかねない踊りを得意としていた。そんなかれらにとって、エエジャナイカ踊りの計画をきいたときはさすがに、全身の血が沸き立つおもいだった。これによって全国の変人たちが主張しだせば、その圧倒的な数によって変人は必ず、市民権を獲得できるというお蝶さんの考えに、全面的に賛同したかれらは、いつその時期がおとずれるのかと、いままで首をながくして待ち続けていた。
その機会がようやく訪れた。商店街は、にわかにいろめきたった。みんなは店をそのままほっぽりだして、お蝶さんに続けとばかり、つぎつぎに表にとびだしていった。
そんなことがおこっているともしらずにお蝶さんは、荒い息を吐き吐きようやく、目的の店のまえまでやってきた。
『地域振興会』と書かれたガラスドアに彼女が手をかけたそのとき、背後から呼びかけるものがあった。
ハッとしてふりかえった彼女の目に、赤いレザーでぎゅっと肌をしめつけ、胸も太腿も、むき出しの肌以上にむきだして見える、一人の女の姿が飛び込んできた。
「だれ?」
「あたしは、ゼンダ」
「ゼンダ! HIJの?」
「そう。みんな、出てきなさい」
ゼンダの声に、お蝶さんのまえのガラスドアが開きなかから、変人同盟の幹部を拘束したHIJ隊員たちがあらわれた。
さきをこされた悔しさに、歯噛みするお蝶さんをみて、ゼンダはからだを弓なりにして笑い出した。
「どうしてわたしがくるのがわかったの?」
「だれも、あたしの嗅覚から逃れることはできないのよ」
そういうとゼンダはまた、大きく頭をのけぞらせて笑った。そんな相手をお蝶さんは、訝しげににらみつけた。ゼンダが嗅覚ならこちらは触覚がさっきからうずいていた。一度でも肌を交えた相手を、この肌は決して忘れなかった。
お蝶さんは、その体からは想像もつかないすばやさでゼンダに身をよせて、ぎゅっと相手に襞という襞を押し当てるなり、確信をこめていいはなった。
「わかったわ、あなたはあの、半太ね」
「ち、ちがう。わたしはゼンダよ。半太ってだれよ、しらないわ!」
お蝶さんからもがくようにしてはなれながらゼンダは、猛烈に否定した。
「性転換したって、このわたしの肌は男だったときのあなたを、ちゃんとおぼえている。ごまかしたってだめ。あなたはまちがいなく、半太よ。もともとあなたには常人の要素があったんだわ。そして常人の顔になったとたん、常人の甘い魅惑にあっさり負けたあげく、あろうことか変人を敵視する人間になってしまったようね」
「ちがう、ちがう。さあみんな、この女こそ、変人同盟のリーダーよ。ただちに連行するのよ!」
隊員たちがお蝶さんのまわりをとりかこみ、そのまま護送車に連行しようとしたやさき、
「エエジャナイカ、エエジャナイカ、エエジャナイカ」
の掛け声が聞こえてきた。
みると、ずらりとならぶ商店街の、すべての店の入口から、穴からあらわれる蟹さながら主人が、店員が、妻が子が、さては婆さんまでが、腕をふりあげながら出てきた。
通行人たちは最初、ものめずらしそうにかれらの様子をながめていたが、子供たちが見よう見まねでおどりだすと母親たちも、いっしょになって身をくねらせはじめた。
わずかなあいだに数をました連中は、あふれた水がふきだすようにどっとゼンダたちのほうに押し寄せてきた。
「まずいわ。変人同盟の抗議活動が火花をあげようとしている!」
顔色をかえるゼンダはたちまち踊り狂う人々の渦のなかにまきこまれ、もみくちゃにされ、押し倒されたあげく、他の隊員ともどもむちゃくちゃに踏みにじられた。
お蝶さんは、そんなかれらの予期しない行動におどろきの目をみはりながらも、たまりにたまった民衆のエネルギーが爆発するためにはこのように、案外ちょっとしたきっかけで起こるものかもしれないと思った。
そのお蝶さんの予想どおりそれからも、エエジャナイカ踊りに参加するものはふえつづけた。まるで強力な磁力にひきつけられる鉄粉さながら、踊りに行き会うすべの人間を片端からまきこんでさらに数を増していった。もはやHIJが何人やってこようととうてい、その勢いを鎮めることなどできそうになかった。いや、そのHIJ隊員でさえ、踊りに興じる人々の熱気にあおられているうちにしらずしらず手をふりあげ、小刻みに足をさしだしながらいつしか、エエジャナイカ、エエジャナイカと口にだしている自分を見出すのだった。
人々は盆踊りの輪にくわわるようにエエジャナイカ踊りに加わった。変人たちはもとより、これまで常人をよそおっていた面々までが、抵抗もなく、入り込んできた。これまで、安心タイカスが勝ったときに、ハーイ、チャンチャンと騒いでいたファンたちは、ただそれがエエジャナイカにかわっただけのことで、そこにはなんの違和感も存在しないかのようだった。
おそらくこの現象は、春に桜が咲きひろがるように、これから日本全国に拡大してゆく
かに思われた。
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