彼女と結婚して残された人生を有意義に過ごしたい。
この夜に、初めて出会ったこのレストランで、プロポーズする。背広の内ポケットには、指輪と婚姻届が入っている。
彼女が店に入ってきた。キリッとした表情で歩いてくる。なんて美しいんだろう。きつい顔立ちと見られるかもしれないが、僕には知的な魅力に映る。実際、いつも冷静で先を見通していて、頭が切れる。
「あなた、どうして嘘をついていたの?」
僕の向かいに座った彼女は、ピンと背筋を伸ばしている。
「ん? 何のことだい?」僕は彼女の瞳の中を窺った。
「とぼけないで! 何から何までよ!」
彼女の口調は節度があって冷静だったが、厳しい表情が紅潮していた。香水が紅く匂った。
「調べたのかい? 僕のことを」
「あなたは誰? 名前も生年月日も嘘。働いている会社も存在しない。あなたの痕跡はどこにも見当たらなかった」
キッと結んだ唇は小刻みに振動している。
「君が僕の全てを知っていたとして、何かが変わったのかい?」
僕は真っ白いテーブルクロスの上で両手の指を組んで、そこに視線を移した。
「どういうこと? なぜ? どうして嘘をついていたの?」
彼女は身を乗り出す。両手をついたテーブルクロスにシワが寄り、グラスが傾き、バランスが崩れかける。
「僕はね、そもそも存在しないことになっている」
僕は視線を彼女の瞳に据えた。そして彼女だけに聞こえるよう声を落とした。
「何、それ? フン」
彼女は椅子に背中を預けて、鼻で笑いながら、夜が広がる窓の外に目をやる。視線の先には鉄塔があるはずだ。
「今日、ある成果、否、ある結論が出たのだよ」
僕も彼女の視線の先に目をやる。夜空の遠くに鉄塔の黒いシルエット溶けている。その先端で明滅するライトは、いつもと違う赤色だった。
「せ、成果? 結論? な、何それ」
自制しているのが分かった。だが、彼女の声には震えが漏れている。
「僕を愛しているかい?」
組んだ指を解いて、僕は彼女の手に触れた。
「分からない。あなたのこと、何も知っていなかったのよ。何を信じればいいの? お願い、何か本当のことを教えて」
彼女は首を振る。涙の雫が真っ白いテーブルクロスに染みを作る。
「……分かった。二つだけ本当のことを話そう。一つ目は僕は君を誰よりも愛していること」
僕は彼女の瞳を覗く。未来を閉じ込めた真球だった。
「もう一つは?」
一瞬の瞬き。涙が彼女の瞳をゆっくりと潤していく。
「1週間後、この町は灰になるんだ」
視界の端で赤いライトが数回、明滅した。
「あら、そうだったのね」
彼女は薬指を差し出した。表情は儚く穏やかな諦観で満たされていた。
(了)
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