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僕は蝉よりもけたたましいスマホのアラームによって叩き起こされた。いつも通り暑かったけれど、そこまで嫌じゃなかった。敢えて言うなら「さわやかな朝」だった。
名残惜しい敷布団に別れを告げる、階段を下りてリビングに向かうと、目を疑う光景が待っていた。
「お母さん、頑張ってみちゃった」
言う母の前の食卓の上には、大皿のサラダと焼き魚、白米に味噌汁がある。これは一般的な朝食かもしれないけれど、僕はこんなものを見たのは初めてだった。母曰く『嬉しくって』らしい。僕が学校に行くのがこんなにもうれしいのだろうか、なんだか照れてしまう。
こんなに多いものを朝から平らげてしまうのは、いくら何でも不可能で割と残してしまったが、母は過保護なほどに僕を心配し、笑顔で玄関から手を振っていた。
ハロウィンの雑貨屋に向かおうとしたことろ、彼女から遅刻するから、学校ひとりで行ける? という旨の連絡が来たため。心細かったけれど覚悟を決めて、学校の方へと足を動かした。
彼女と学校で会えるならそれでいい。
夏休みのうちの判明したことだけれど、驚くことに彼女は同じ学校だった、三年生らしい。
制服を着て久しぶりに通る道で、普通に間違えてしまいそうになりながらも、薄い記憶に頼って進んでみる。大通りに到達すると、制服姿が何人か先を歩いている。道が合っているという安心感と共に心がどこか欠けてしまったように、不安感が込み上げてきた。
生まれたての小鹿のようになりながらも、僕は前に歩く人についていった。よくわからない裏道みたいなところも通って行ったけど、とりあえず付いて行った。幸い誰にも何か言われることもなく、巨大な校舎が顔を出した。
心臓が早鐘を鳴らして、蝉がそれを煽った。
蝉に腹を立てる余裕もなく、僕は歩いている勢いに任せて校門をくぐった。
下駄箱に入ると、すでに異常な速度で脈打つ心臓がさらに鳴る。
声をかけられた。
肩を跳ね上げて振り返ると、複数の集団から一人抜けてくる。
彼は仲間の制止を軽くいなし、僕に片手をあげる。
彼の仲間に申し訳なくなりつつ、僕も彼の真似をして片手をあげてみる。
誰だろう、と思っていたけれど、海に行く前に声をかけられた彼のようだ。
「学校、来たんだな。説教した甲斐があったぜ」
説教なんて、されていたっけ。彼女に説教された気はするけれど…。僕はとりあえず「うん」とだけ返事をしてみる。
次の言葉を考えて、もじもじしていると、彼の仲間から声がかかる。
彼は「あっ」と声を出して続けた。
「すまん、もう行かなきゃだわ、今度遊ぼうぜ」
彼はそういうと、輪の中に戻っていく。
嵐のような感じだったけれど、気が楽になった気がする。
僕は彼に背中を押されたように感じて、そのままの勢いで階段を上った。
目的の教室にたどり着く。
教室の中はすでに人でいっぱいになっていて、僕は廊下の反対側の壁にもたれかかる。入り口にはまるで透明な膜でもあるかのように入ることができなかった。僕は息をするのも忘れて、扉を見つめる。肩が尋常ではないほど上下する。扉の隙間からクーラーによる冷気を感じた。
このまま帰ってしまおうか。
ここに来ただけ偉いのではないか。
…でも。
僕は、思い出す。
彼女はここにきているんだ。
彼女にこんなところを見られたら笑われるだろうな。そんなこと、妄想しなくてもわかってしまう。
僕をここまで導いてくれた彼女を落胆させるわけにはいかない。
僕は体重を元に戻して、扉のへこみに手をひっかけてスライドさせた。
冷たい心地いい空気。火照った体が徐々に冷やされていった。
何人かの視線が僕に集まった。一瞬、自分が相当おかしい存在なのかとおもったけれど、たぶんそんなことはない。僕にはおかしいところはない。はず。それは彼女が証明してくれる。
僕は視線を気にしていない振りをしながら、教室後方を歩いてみる。クーラーの下で冷や汗をさらに大量にかいた。
さて。
僕の席はどこだ。
教室を見回してみるけれど席順のようなものが書いてある掲示物は存在しない。正確には、教室前方の掲示物はよく見えなかったけれど。
どうしよう。
帰ろうかな。
念のため、もう一度見まわしてみる。
右から、前面の出入り口、黒板、教卓、窓、そして生徒。生徒を黒板側からざっと見ていいく。
そこに、手をこちらに振る彼。
窓側の一番後ろの席に、下駄箱で話した彼がいた。
そういえば同じクラスなのだった。
そういうことで、彼に席を教えてもらって、一旦落ち着くことができた。
落ち着くといっても、さっきよりマシになったよいう感じで。着席すると、目線をかなり感じる。
トイレに駆け込んで、身の回りを確認したいという衝動を抑えつつ、時間が来るのを待った。
正直、この後、彼女に会えるという前程がなければ、ここまでこれなかった。背中を押してくれた、彼女と彼に感謝しなければいけない。
ある程度の不安は、ホームルームが終わった後トイレで自分を点検することで解決された。
ホームルームや始業式は滞りなく進んだ。本当になんの問題のなく、物語性もなくただ淡々と進んだ。
学校は午前中に終わった。
席を案内してくれた彼は『これから、部活だよ』とぼやいていたのを、聞いた。
僕は彼女と事前に待ち合わせていた集合場所へと向かう。
集合場所は武道場の裏。
体育館が隣に立っているので、部活にいそしんでいる声が聞こえている。
彼女に『ついたよ』と連絡を送りつつ、柵にもたれかかった。腕を組んで少しかっこつけてみるけれど、彼女に見られたら、と思うと、すぐに腕を戻す。
立つのにも疲れた頃。スマホを確認すると連絡を送った時から十五分経過していた。
返信も何も、既読すらついていない。
遅すぎる。
今度は腹を立てる暇があったので、腹を立ててみる。
しょうがないから向かいに行ってやるよ。
僕は心の中で腕を組んで、鼻を鳴らして、嘯く。
彼女の教室は二階に位置する。
三年生の教室ということで、同学年のいる廊下とは一味違う緊張が僕を支配する。だけれど、放課後ということで幸い人はいなかった。
ほとんどの教室が電気を点灯させておらず、窓は閉め切り、エアコンもついていない。おそらくサウナ状態になっているんだろうなと妄想する。中に入ったら一瞬で全身から汗を噴き出すだろう。
そんな中、彼女が居るはずの教室が目の前にやってきた。
扉は締め切られているが、中からは微かな話し声と冷たい空気が抜け出していた。
僕は黒板の側の小窓を、周囲に気を配りながら覗いた。
一つの机を数人が囲んでいる。その中央には黒髪の少女が俯いて座っている。
彼女はいない。
金髪の彼女はいなかった。
居るのは不自然に、に不自然に、不自然に、不自然に、不自然に、不自然に、不自然に、不自然に、不自然に、不自然に、不自然に、黒い髪の少女が中心にポツリ。
それ以外の人は彼女を責めたてるようにしていた。
なんて言ってるのかは不明。
誰なのかも不明。
何をしているか……………………。
僕は、何も見ていない。
彼女はそこにいなかった。
彼女はこの日は学校をさぼっただけ。
そう。
彼女は不登校でも、いじめられてるわけでもない。
彼女は僕に意地悪したんだ。嘘をついたんだ。
そう。そう。そう。
そうだとしか考えられない。
「どこ遊びに行こうか?」
「あれ。居たんだ」
「また、海行っちゃう? 今日はきっとずっと晴れだよ」
「僕たち電車賃ないじゃん」
「…それじゃあ、虫取りはどう?」
「それは…却下」
「じゃあ、どうすればいいのよ。みっちゃんが決めて」
「……………………」
ただの散歩でも、楽しい。
彼女と歩いて、談笑して、殴られて、言い返して。
彼女は、夏の炎天下や蝉の声をかき消した。
僕の手を握って半歩先を歩く彼女に、引っ張られる形で歩く。
目の前をカブトムシが飛んでいく。
彼女は反射的に腕を伸ばすけれど、当然届かない。
「みっちゃん、こんな所にカブトムシって出現するのね」
「案外、いるんだね」
「みっちゃん、あれ」
彼女が指さす。
それは遠くにいる。
金髪の彼女は続けた。あの山の時のように言った。
「蝉、だよ」
一直線のずっと続く道から、陽炎の奥からそれは来た。
それはあっという間に近くに来て、僕に話しかけた。
「————————————」
蝉の声。がした。
真っ黒な黒髪を頭に下げた彼女を見て僕は思い出す。
『指切りげんまん、嘘ついたら針千本のます』
懐かしい。
約束を破っているのなら、針を飲まなければならない。
彼女の手が僕の手首を持ち上げる。
彼女の細い首に指を這うようにする。
「———————————————」
また、蝉の声。
うるさい。
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