4
彼女とカブトムシを捕りから帰ってきてから、一日が立った。
昨日から今日にかけて、母がヒステリックに何やら叫んだり、家をぐちゃぐちゃにしたことは言うまでもないだろう。こうなってしまったのは、僕が学校に行かなくなったとき以来だった。
そんなことを考えているとポケットが震えた。
スマホに着信だ。
『遅れるかもしれない。申し訳ないけれど少し待っていて』
昨日ぶりの声が聞こえてくる。テンションが高くなるのを感じながら返事をして、電話を切った。ホーム画面のアプリアイコンに昨日溜まったと思われる着信の通知があったが、目の端で捉えただけで何もしなかった。
そのタイミングでちょうど駅に到着した、僕は広場のところどころに植えてある、木を囲むように設置してあるベンチに座った。空のほうを見上げると、真っ青な空の中に入道雲が存在していて、なんとなくアニメの中にいるような気がした。
爽やかなアニソンが流れるイヤホンを、いつ彼女が来てもいいようにポケットにしまった。
こういうときは、アイスが欲しくなってしまう。
彼女はどれくらい遅れるのだろうか、聞いておけばよかった、と後悔する。
「あれ、みゆじゃん、こんなとこで何やってんの?」
知っている声。
冷や汗。
「学校来ないで何してんだよ」
なんとなく、気が遠くなる。自分の体が自分のでなくなるような。視界が狭くなるのを感じつつ、答を必死に考える。
「おい、ちょっと…なんとか言えよ」
その時、
「みっちゃん、お待たせ。——で、この人は、だれ?」
彼女の声に反応して下がっていた顔が上がる。
「…………」
「…………」
「友達だよ、クラスメイト。俺と去年も一緒のクラスだったんだ」
友達? 違うだろ。
「…そうなんだ。なら、仲良くしなくてはね」彼女は言うと、僕に視線を向ける。「ほら」言って、彼女はその人に気づかれないように口パクをする『あ・い・さ・つ』。
いつもなら無神経で自分勝手だと非難するべきところだが、指切りをしてしまった以上…『私はみっちゃんを幸せにするから、みっちゃんは私に協力して』か。
目線が泳ぐ。空、雲、屋根、地面。右往左往して行きついた先は金髪の彼女。すると彼女の鋭い視線が僕に刺さった。僕を催促している。
挨拶しなきゃ。挨拶…。
挨拶ってなんだ。
脳がうまく働かない。
それに、何か言おうと思っても。声がかすれたみたいになって何も出てこない。声帯がまるっきりなくなったように、喉が震えない。
二人の視線が集まっていることに気が付くと、脳に繋がっていたはずの神経が断絶していく。何も考えられない。頭が真っ白になった。
「…あー。えっと、俺もう行くわ」
あれ。
彼女のほうを見る。
なんだよ、その顔。
失望したような、呆れたような、見捨てるような目。
そうしたら、約束はどうなっちゃうんだよ。あれ、約束破っちゃったらどうなっちゃうんだっけ。いや、そんなことはそうでもいい。ここで、ここで、声を出せなかったら彼女に見放されてしまう。彼女に見放されたらどうなっちゃうんだ。そうしたら、僕はきっとなにもできなくなってしまう。僕はそんなことは嫌だ。
でも、それでも、口は開かない。
あの人はまだ遠くに行っていない。
やるなら、今。
僕は立ち上がる。
「………………………」
が、無理。
本当の本当に声帯がなくなってしまったかのように声が出なかった。かすれてすらもいなかった。体が声を出すことを拒否している。
僕は再び気が遠くなる。
終わった。
これは詰み。
体に力が入らずに立っていられるだけでやっと。
その時、肩に手。
彼女は僕に笑いかけた。微笑だったけれど、僕にとっては眩しすぎる笑顔。
「よく頑張ったじゃん」彼女は言って、向こうにいる人に向けて声を張る。「みっちゃんが『また会おう』だそうよ!」
僕たちはがらすきの電車の中で二つに分けられるタイプの棒アイスを分け合って食べていた。正直、二つ買いたかったけれど、二人ともお金がなかった。
車窓からは何でもないような住宅街がパラパラ漫画のように過ぎ去っていく。
僕たちはそれをぼーっと見つめながら1時間ほど電車に揺られている。
僕と彼女の間にはしばらく会話が生じていない。僕はそういうのに耐性があるから平気だが、彼女の方も話しかけてくる様子がないということは彼女も気まずさを感じていないということなのだろう。逆もあるかもしれないけれど。
というか、この電車はどこに向かっているのだろうか。最寄り駅から1回乗り換えをして、今この電車に乗ってる。電車、というものに初めて乗ったということはなかったけど、乗ることはかなり珍しい。だから、地理に疎いこともあり、今どこに向かっているかがわからない。だけれど何か、わからないなりに《既視感》がある。
そういえば、電車に乗るのが久々といえば改札を通るときに少しだけ戸惑ってしまった。彼女にそれがバレてなければいいのだけど。
閑話休題。
ここの路線がどこ方面か、どこに向かっているか既視感の記憶を辿ってみる。
うーん。
あまりの記憶の残らなさに首を傾ける。だけれど、うっすらは思い出せた。
たしか、確証はないが、家族と一緒にこの方面の列車に乗った気がする。両親そろって座っていて、僕はその中心。
本当に、そんなことあったっけ。
「…………」
その記憶は多分、妄想。
そうなら、今向かっているところの推測ができなくなってしまう。自分の妄想癖にもそろそろ嫌気がさしてくるな。
さて。
気まずくない、といっても暇になってきてしまった。
彼女と居るにあたって、イヤホンをするというのも失礼になってしまうし、スマホを見るというのもいかがなものか、ここはひとつ小粋なジョークの一つや二つでも…と思うけれど僕にそんな技量があるわけでもなく…。
僕が頭を抱えていると、アナウンスがして電車が減速する。
同時に何かが肩に触れた。
その後、さらに重みが増す。
風景をただ見ていた僕の視線が自分の肩に集まると、そこには金髪があった。
「んにゃ…」
彼女に続けて僕も呟いてみた。
「んにゃ」
僕は彼女の金髪をただただ見ることしかできない。肩を揺さぶってみるなんてまっぴらだ。
「あれ、寝ていた」彼女はひとりでに顔を上げて繋げる。「顔、見た?」
彼女はなんだかバツが悪そうに聞いた。顔が赤かった。
「見てないよ」
「…………」
彼女は僕をじっと見た後、顔を背後に向けた。
彼女につられて、僕も振り返る。
再び動き出した車窓から見える、
そこは海。
太陽の光が紙吹雪のように反射していた。
駅を出ると思い出した。
家族との記憶。
「どうして僕をここに連れてきたの」
僕は炎天下の砂浜で言った。嫌味とかではない、ただ単純な興味だ。
「…海、きれいだから。心が浄化されるみたいで、私の行きつけなの」彼女はさざ波に耳を傾けながら続ける。「みっちゃんは海、嫌い?」
彼女と目が合う。
堤防の陰になっているところで僕らは座り込んでいた。彼女は『海に入ろう』と誘ってくれたが僕は断った。
自分にもきちんと断ることができるのだな、と妙な感心をする。僕は彼女の目線から逃げてそう考えた。
「わかんない」
問いに答える。これは僕の常套句だった。
僕は膝を抱えた姿勢で小さくなる。
海を睨むような感じで見る。透き通る、とまでは行かないものの十人にこの海を見せたら九人は『きれい』だと言う確信ができる海。
「そういえば、カブトムシ元気?」
「…ええ、ちゃんとしたケースに入れて大切に管理しているわよ。レジスターの横に置いているから、お客さんに褒められてしまったの。『おおきいねぇ』って」
そんなところにおいてるんだ…。
ってか―――
「客、くるんだ」
あぅ。
声に出た。
一瞬また踵が飛んでくるかと身構えたけれど、それについては彼女も同意なようで、彼女も頷いて「久しぶりすぎて、戸惑ってしまったわ」と、言った。
店や客について、ついて詳しく聞きたいところだけど。僕はそんな気分ではなかった、僕の脳には大きい腫物が膿んでいた。それを口にしてしまおうと考えたこともあったけれど、不快感を押し付けられるのは良い気分ではないだろうから、やめた。
時間ほどずっとそのままだった。
そのままといっても、イヤホンを二人で半分にして、一緒に聞いていたりした。
父譲りのアニソンを聞いていて引かれてしまう、と拒否するつもりでいたけれど、彼女の強い要望によって仕方なく聞かせた。反応はかなり楽しんでくれているようで、なんと表現したらいいのか、幸せなそうな顔をしていた。
ただ、ちょっと前に頭上に出現した灰色が突然大粒の雨を降らせた。それは空間全体を埋め尽くすように降った。
けれど、彼女は動かなかった。
だから僕も動かなかった。
さざ波の音は聞こえない。
僕にはアニソンと雨が砂で砕ける音しか聞こえなかった。
彼女は僕の手を握って、海の方へと引っ張っていった。手には相当強い力が込められていて手首が潰れてしまうかと思った。
服に雨水がしみ込んで肌に引っ付く。風呂に入っているかと錯覚するほど体中は雨水で浸っていた。
こちらに押し寄せてくる波がつま先から脛に変わって、次第に深くなっていく。
僕の手を引っ張る彼女の表情は向こうを向いているからわからない。妄想してもわからない。
これは、何をしているんだろう。これも《約束》の一環なのだろうか。
風邪を引いてしまうよ。
僕は、黙ってついていった。
その時、
吹き飛んだ。
もうすでに何も聞こえないイヤホンが彼女から外れる。
海に体で着地して派手な音が鳴った。
彼女は僕を投げ飛ばした反動で、尻もちをついている。
「何して————」
僕の発言は海水が顔面にかかったことによって、中断された。
彼女は子供っぽい笑顔をしていた。この世のことを何にも知らないでただ楽しんでいる、見ているだけで幸せになる、そんな顔。
僕らは、昼と同じように電車の中で揺られていた。違うのは、今回は立って吊革につかまっている。あれから、空は機嫌を取り戻し、それに乗じて服を乾かしてしまおうと思ったのだけれど、完璧には乾かず座席を濡らすわけにはいかないので立ちっぱなしになっている。
今現在、空は橙色をしていて。時間はカラスがなく頃だろう。だけれど、カラスの鳴き声は聞こえない。海辺だからカラスというよりもウミネコなのだろうか。
「みっちゃん、楽しそうにしてたね」
さっきの楽しそうな顔とは違って、いつもの無表情。
「楽しくないよ、最悪」
「あれ? さっきまで満面の笑みで海水の掛け合いをしていたのにおかしいわね」
そうなの?
彼女の冗談でなければ、どうやらそうらしい。
楽しそうだったんだ僕。まあ、楽しかったけれど…。
「終わり良ければすべて良しってあるじゃん、今回はそれの逆だよ。終わり悪いから全部悪し。肌着がベタベタ張り付いてもう最悪」
「でも、肌に衣服が張り付いて体のラインが露わになった私を、楽しそうに見ていたじゃない。そういう面では『良し』なんじゃない?」
「見てねぇよ」
だから、勘違いされるようなことをいうんじゃねぇよ。
僕は彼女にそんな気があるわけではない。…興味がないとは言えないけれど。
誰もいない電車の中で僕らはそんな会話をした。
楽しかった。
今日思い出した記憶のことも、もういいだろう。家族についてはもう崩壊していると言っていいのだ。
もういいだろう、これ以上考えることもない。
僕があがいても無駄だ、今は今を生きよう。
過去のことなんて未来のことなんてどうでもいい。
今は今なんだ。
僕はそれから毎日彼女と遊んだ。遊ばれて遊んでくれて、遊んで遊んで遊んだ。
四日。風邪を引いた彼女の看病をした。可哀そうと同時にかわいかった。彼女は火照った顔で僕が風邪を引いていないことを妬んでいた。
五日。すっかり元気になった彼女が風邪気味な僕を馬鹿にしてきた。『お前が移したんだろ』と言い返してやった。
十日。隣町の大型ショッピングモールに行った、お金がなかったから何もできなくて、二人とも汗だくで帰った。
十七日。遊園地で、僕がジェットコースターを乗れないことを彼女に馬鹿にされたので、やけになって乗ったらかなり気持ち悪くなってしまった。そのことも、いつものように馬鹿にされた。
二十四日。この日はハロウィンの雑貨屋で過ごした。彼女にせがまれたから泊まった。母親は激怒していたけれど、あまり関心はなかった。
そして、ついさっき。つまり三十日。僕と彼女はこの日も雑貨屋にいた。
ここの雰囲気にも溶け込んできて、ハロウィンのグッズにも違和感を抱かなくなった頃。
「言いたいこと、というか言っておかなければいけないことがあるの」
言った彼女は、トランプが終わったテーブルを跨いでこちら側の縁に座った。彼女は無表情だった、いつもと同じだけれどどこか真剣な目を僕に向けていた。
彼女のこんな顔を見るのは初めてだった。山の時だってこんな顔をしていない。そして、よく見ると震えているように見えた。
緊張する。
聴覚が耳なりしたようになって、無意識に息をのむ。口が乾いているのが何をせずともわかった。
彼女は決意をするように俯いた後、こちらを見て、口を開いた。
「《約束》の話は覚えている?」
彼女は足の踏み場でも確かめるかのように、ゆっくりと発声した。
僕は頷く。
忘れるわけがない。あの日、山でのこと『私はみっちゃんを幸せにするから、みっちゃんは私に協力して。ついでにできたら私も幸せにして』だ。一言一句忘れるはずがない。
「それで、私言ったよね…『社会復帰を手伝ってあげるって』。つまり、学校に行くのを手伝うって」
これにも、頷く。
彼女の震える唇を見て次を待つ。口を出したかったけれど僕は待つ。
「それで、それでね。」彼女は必死に枯れそうな声をつないでいる。「私、わたし、実は————」
「みっちゃんに、失望されちゃう…かもしれないけど、私ね…」口調がいつもの丁寧なものから、年相応なものになった彼女は、声を振り絞るようにする「実は、私も…学校行ってないの」
視界が揺れた。
彼女の泣きそうな顔が崩れた。陽炎みたいに。
状況がよくわからなくなった。床が床の役割をしなくなった。
「だからね、明後日の学校一緒に頑張ろう」
彼女が笑いかけてくる。愛おしいはずの彼女がそこにいた。
僕はなんと言ったのだろうか。その日は気づいたら家にいた。
おかしいな、こんなはずじゃないのに。
おかしい、おかしい。おかしい、おかしい。おかしい。
妄想。そう妄想だっけ。そう、もうそう。もうそうでした。
趣味のわるいもうそうをするんだなぁ。ぼくは。
僕はため息をついた。
ため息をついた。
ため息をついた。
僕は再び夏休みのことについて思い返してみる。何かから逃げるように思い出す。
僕は行きたいところとかはあまりなかったから、彼女が行きたいところにたくさん行った。
行く場所がなくなったら雑貨屋に通った。
二人で何をするわけでもなく一緒に居た。
泊りも何回かした。母は激怒していたけれど。
気づけばほとんどの時間をその雑貨屋で過ごしていた。
そんな一か月。
あっという間に夏休みは終わりを告げようとしている。
時間は引き留めようとすると、必死に逃げ去ってしまう、そんな嫌な奴だった。
明後日は、いつもの彼女と一緒に学校に行くんだ。
"僕のカイラク談"へのコメント 0件