3
十秒以上開けるべきか悩んだそのガラス戸は非常に軽いものだった。カランカランというドアベルの音と共にオレンジ色の店内に入ると、冷えた心地のいい空気が僕を招き入れた。
彼女が昨日言っていた『遊びに来てはくれないかしら』を真に受けて、それに答えて来ているという訳ではない。結果的に来てしまっているというだけで、《全く違う理由》がある。
別に今日来る必要もなかったのだが、なんとなくここに来てしまった。『彼女のすることはよくわからないし、早く来たほうがいいと思った』という後付けの理由を頭に浮かべる僕。理由がない行動はいまいち不気味だ。
パタパタ、という音が聞こえて商品棚から無表情が顔を出す。
入口にて立ち止まっている僕に近づいている彼女は、膝丈ぐらいの地味なワンピースにサンダルという出で立ちだった。
「あら、来てくれたんだ。来てくれないと思っていたから、かなり以外。」昨日と変わらず、みずみずしいけれど、どこか冷たい声。「…ああそうだ、出かけない? 暇なの」
「いや、あの外はちょっと——」
「じゃあ、出かけるのはまた今度ね。昨日の椅子に座っていてくれない? すぐに行くから」
彼女は最後までまともに僕の言葉を聞かずに答えて、レジの奥に消えていった。
僕は誘いを断ったことに罪悪感を覚えつつ昨日のかぼちゃに座る。
昨日と同じ…。
なぜだか、昨日のことが順番にフラッシュバックした。
僕が案山子みたいに突っ立ている様子が頭の中で鮮明に流れる、嘲笑われ、馬鹿にされ、哀れな目で見られる。
必死に止めようとするが、頭の中の映像は止まらない。映像が次から次へと流れていく。
その時、
停止、した。
目の前の光景に映像が停止する。
そして、一瞬も経たないうちに電源が切れたように映像が途切れた。
僕のフラッシュバックを停止させたのは金髪の彼女だった。
なにか意味不明なことをされると、頭が硬直してしまうということを今、知った。
彼女は昨日の登場と同じく、お盆を抱えてレジから出てきた。日本の原風景からそのまま歩いてきたような姿に思考が停止していた。停止せざるを得なかった。
彼女は頭にツバの長い麦わら帽子を被って、お盆と一緒の虫取り網を持ち、肩には緑の虫かごをぶら下げていた。それに白いワンピースにサンダル。
もしかしたら、レジの奥は田園風景が広がっているのかもしれない。
「………」
外で遊ぶ気満々じゃねぇか。
僕はやっと動き出した脳ですでに目の前に座っている彼女につっこんだ。
「アイスティー…」言いかけて彼女は口元を抑える。「はい、どうぞ」
彼女は僕の前にグラスを出して続ける。
「…昨日の紅茶と違って、っ、これはホットではないから安心して――」
途中で耐えられなくなったのか彼女は「ぷっ、ふふふ、あはは」と吹いてうずくまってしまった。
ムカつく。
自由すぎるだろ。いくら何でも。
とにかく早く帰りたい、この人のままごとに付き合っている時間はない。僕は勢いに任せて口を開いてみる。
「あの…! 返してください。」
「ん?」僕の声で笑うのをやめた彼女は続ける「何のこと?」
「とぼけないでくださいよ! 僕のはここにあるんでしょう?」
「敬語じゃなくていいって!!」
彼女はローテーブルを叩く。
あぅ。
大きくなった気が一瞬で委縮した。
「言っているのは、本のことでしょ? みっちゃんが忘れて帰ってしまった本。みっちゃんが忘れたんだよ、なのに人がものを盗ったみたいな口の利き方はないんじゃない? かなり失礼だよ」
失礼って、僕に言えることではないだろう。ブーメランだ。
それにみっちゃんって、だれだよ。
そんなことより『忘れて帰った』? 違う。おまえがいたずらで盗ったんだろ。
「………………………………………」
でも、でも。
証拠なんて、どこにもなくないか? もしかしたら、勘違いなのでは。
忘れていた? そうかもしれない。
なんとなくだけど、盗られた、そう思っていた、思い込んでいた。盗った証拠なんてないのに。
体の中に大きな虫が蠢いているような気分になる。つまり最悪な気分。僕はその虫を口から追い出そうと決めた。
「ごめ―。ごめん」
敬語を制しながら僕は頭を下げて言う。
「まあ。無問題《もうまんたい》」
彼女は愉悦という表情を浮かべると僕の頭を虫網で捕らえた。
「おまえ、マジでふざけんなよ!! ふざけるのもいい加減にしろ!!」
と、心の中でもしくは、妄想で行ってみる。実際は「ちょっ、あの」とだけ声が出ただけ。
彼女は言う。
「ただし、《返す》には条件があります。今日一日、私と遊んで」
僕は蝉の鳴き声の真っただ中にいた。
右隣からは、一際大きな鳴き声が聞こえる。それを近づけられると僕は思わず顔をしかめる。目の前の緑の虫かごには蝉が犇めいていた。
ハッキリ言って気持ちが悪い。
「カブトムシ、いないわね」
僕たち(二人だけど)は山に入ってカブトムシを探しに来ていた。僕は半ば無理やりというか小説を人質に取られたわけだけれども。…さすがにそうでないと信じたいが、本当は僕が小説を忘れたんじゃなくて僕に付いてこさせるために盗ったのではないかと疑ってしまう。
「…カブトムシってそんな気軽にとれる感じじゃなかったと思うんだけれど…。罠とかを使うイメージだったな」
「みっちゃん、そんな悲しいことは言わないで。絶対にカブトムシを捕まえるんだから。十分以内にこのかごの中にカブトムシが五匹はいるでしょうね」
そうらしい。
この森、というか林、というか山? 定義はよくわからないがここに入って一時間くらい経過しても、そんな戯言を言っていられるのが素晴らしいと思う。
木々の陰によって直射日光はそこまで浴びないとはいえ、歩きっぱなしで噴き出た汗が体中を蒸していた。前を歩く彼女は暑さを感じていないような足取りで前をスイスイ進んでいっている。
頭おかしいのかな。
僕はもうとっくに、
限界。
「ちょっと、ちょーっと、待って。もう限界。やばい。やばいよ。限界!」
「ん? へばるのが早いね」
彼女は膝に手をついた僕の頭を、蝉と同じように網で確保した。
「ここで、死ぬのは不本意でしょうし、ここで休憩にしようか」
僕は礼を言うと、彼女が座った倒木に僕も座る。
「カブトムシって、こんなにも珍しいなんてしらなかった」
「蝉ならまだしも、カブトムシなんて土地開発で全滅してい《《ますよ》》。それより——」彼女に頭を鷲掴まれた僕は気にせず続ける。「なんでカブトムシ探してるの?」
「うーん。単なる好奇心。カブトムシというものをこの目で見てみたくって。それで、おじさん…あの店の店主である親戚のおじさんに聞いたら『あそこにはたくさんいるぞーっ!』と言ってたから、ここに来たまで」
「そう…」
僕はその言葉しか頭に浮かばない。小説の登場人物ならここでうまく返せるのだろうけれど。聞いたことろでそこまで興味はなかった。
太陽が真上にある、たぶん今は正午ぐらい。
真上を向く僕は、昨日と違って目に太陽が馴染んでいるのか、そこまでまぶしく感じない(木々の葉のおかげでもある)、しかし数秒ほど眺めていると目に若干の痛みが走る。太陽は僕の視界に黒い点を残した。目を瞑っていても残っているそれを邪険にしていると彼女の声が聞こえた。
「眠い」
そうなんですか。じゃあ帰って寝ますか。
僕も眠い。正直、徹夜明け(小説を一気読みしていた)からの森林探索はマラソンよりきつい。
今すぐかえって、敷布団に沈みたい気分だ。
「ここで、寝るね。申し訳ないけれど、ここで寝るね」
「ん、なんて言った?」
彼女は顔を傾けて答える「『ここで、寝るね』?」
いや、そうじゃあないだろう。
こいつ、またふざけている。
「みっちゃん。これがあるから安心して」
言って、彼女が虫捕りかごと一緒に肩から下げていたポシェットから、スプレー缶を取り出す。虫よけスプレーだ。
そういう問題じゃない。
「そういう問題じゃない!」
あぅ。
声に出た。
彼女は僕の叫び声を無視して、虫よけスプレーを体にかけようとするので蝉の入った箱を急いで預かった。
彼女はスプレーしすぎたのか咳込んだ後、容赦なく全部使い切ってしまうかの勢いで僕にも吹き付けてくれた。
彼女は「これで虫は近くに寄ってこれないわ」とかほざいていたが、こんな大それたものがあるなら早めに言って欲しい。もう僕の体はすでに血を吸われまくっている。
「みっちゃんも寝転がりなさいよ」
この金髪は本当にここで眠るつもりだ。言いながら、丸太の上に寝ている。白いワンピースが汚れることに気も留めていないような彼女は、丸太から外れた土を指さした。なんだか無関心みたいな我関せずみたいな表情で彼女は言っていた。
結局、彼女は目をつぶって、次第に寝息を上げ始めた。
僕の体は汗をかくのも忘れて今の状況を整理していたが、何が何だかわからず、とりあえず彼女の言う通り丸太に頭を預けるような形で寝転がった。
「本当に寝るとは思っていなかったな」
僕は独り言を言う。
よく寝れるもんだな。ここは木の陰になっているとは言え、十分すぎるほど猛暑で地獄だ。そういうことろは感心できる。それ以外はあんまり関心というか尊敬することはできないけれど。
彼女は虫よけスプレーを最強の兵器のように取り出していたけれど、本当に寝てしまうと思っていいなかったから指摘はしなかったが、本当に怖いのは動物だろう。熊とか。
現実的に言うと歩いて気軽に来れるところには出ないだろうけど、もしものことがある。
その事実を知ってか知らぬか寝入ってしまった彼女を起こしてまで知らせるのは気が引けた。
「…………………………」
僕は普通のため息をつく。
こんなことなら外に出なければよかった。こんな滅茶苦茶な人と関わりたくない。
これは僕の本心。
でも僕の中の何かが否定する。認めたくはないし、もみ消してしまいたいけれど、確かにそこに存在する。『外に出なければ』と思うのが表の自分というのなら、否定したのは裏の自分。
知ろうとすると、それに比例して遠ざかってしまう裏の自分は明らかに確かにそこにいた。
「なんなんだよ…」
僕は彼女を起こさないようにつぶやいた。
意識が朦朧としてなんだかふわふわする。さらに、おなかに猫のような動物が乗っているような感触。あったかい。
「みっちゃん!」
「夢?」僕は言ってみる。声にならないような声。
喉のあたりに強い力が加わっている。
そのせいで息ができない。
「みっちゃん!!」
わずかに瞼が持ち上がる感覚。
目の前に金髪。
「みっちゃん!!!」
この声は目の前の…?
苦しい。
本当に苦しい。
首にかかる力がふっと抜ける。
「みっちゃん…!!」
その瞬間、せき込む。
過呼吸のように肺の中の空気と外気を入れ替える。
首から頭頂部にめがけて、はっきりと血液とわかる感覚が巡っていった。
何回も嗚咽すると、涙目になった眼球から液体が雫になって地面に落ちた。
目をこするとやっと現状を理解した。
僕はただ、早鐘を打つ心臓をただ感じることしかできない。
あのままでもよかった、そう思う。
「みっちゃん、やっと起きた。死んでしまったのかと思ったよ」
本当に死ぬところだったよ。
僕の上に馬乗り状態になっている彼女は九死に一生を得た僕を見る。表情はわからない。そして、彼女はさっきまで僕の首を絞めていた手を使ってひょいと立ち上がった。
「なんで、こんなことすんだよ」
「みっちゃんが何しても起きないから。耳元で叫んでも、頬をはたいても、つねっても、なぐっても、あんなことやこんなことをしても、みっちゃん目を開かないから仕方なく、というやつだよ」
だからと言って、やっていいこととやっちゃダメなことが…。
最後のやつが気になってしまうが一旦は無視だ。
「だからと言って、やっていいこととやっちゃダメなことがあるだろ!」
僕は思いついたままを言ってみる。
「そうだけれども、まぁこの状況だし…」
彼女は言い淀んであたりを見回す動作をした。
僕はやっと落ち着いていた心臓を抑えながらゆっくりと立ち上がった。
僕もあたりを見回す。
残念ながら何も情報は得られない。
ただ、蝉の鳴き声は聞こえない。聞こえるのは
リリリリリリリリリリリリリリリ。
コオロギの鳴き声だけ。
冷汗なのか何なのかわからない汗が滝のように流れる。
暗闇がそこにはあった。
子供の頃、スーパーで親を見失ってしまったような焦燥感。
僕は呼吸さえ、体が動くことすら忘れてただ、今はこの焦燥感を味わうことしかできない。
「どうしようか」
金髪の彼女の声。
どうしようって。
そんなのわからない。
こんなことは初めてで、咄嗟に何がどうとか思いつくわけがない。そもそも——
「そもそも、おまえのせいでこんな状況になったんだから、それぐらい自分で考えろよ!!」
僕は罵声を放った。今まで出したこともない声で。虫の声しか聞こえない夜の山に僕の声が響く。傍から聞くと小さいものだったかもしれないが、僕にとっては最大限の自己表現。
その瞬間、目の前に白い閃光が広がった。
「落ち着きなよ」スマホのライトを天に向けた彼女は続ける。「そんな大声出したら熊さんが来てしまうよ」
彼女は飄々と言う。
ふざけるなよ。
右手を大きく振り上げる。衝動的に振り上げる。
ものすごく滑稽に振り上げる。
僕は堕ちた。落ちた。
ものすごく高いところまで飛んで行った僕は重力が何倍にもなったように落ちた。
彼女は落としたスマホを拾おうともせず動こうとしない。僕も同じように一歩足を踏み出して、手を振り上げた姿勢で固まってしまった。彼女の表情を見て動けなかった。
怯えたような目。
虐待されている子供のような、天敵に出会った野生動物のような、こちらを一方的に加害者に仕立て上げてしまう被害者の目。
僕は上げた腕を隠すように背に回す、謝罪の言葉が頭をかすめたが口をつぐんでしまった。
彼女は口を開く。
「それで、これからなんだけれど」彼女は何事もなかったように進める。一瞬だけ僕に見せたその目はどこへ行ったのか、無表情だった。「ここから動くことは危ないから絶対にない。ここで朝を待とう。後、119番通報はしない方向でいいよね?」
彼女はさっきした表情を、自覚していないように言い放った。まるでロボットのようだという、印象を受ける。
僕は彼女の問いに何となく頷く。正直彼女が何を問うているのかわからなかった。
重力が異常に重い。
ああ、これは。
「あの、僕たちって友達だと思いますか?」
敬語を指摘する彼女の声が聞こえて、彼女が何か言う「それは、そうじゃない? 友達でしょう。」
「じゃあ、さっきの続きをしましょうよ」
「知っている? 友達同士って敬語使わないのよ」彼女はドヤ顔をして続ける。「『さっきの続き』…? あ、もしかして『あんなことやこんなこと』? あれは冗談――」
「違いますよ」僕は彼女の言葉を遮る。そして、彼女の細くて、触り心地がよくて、簡単に手の中に納まる手首をそれぞれ掴んで、僕の喉元に運んだ。彼女の手には力が入っておらずだらんとしている。「さっきの続きをしましょうよ」僕は再度言うと、彼女の手を喉仏の少し上に押し当てる。
彼女の掌が撫でるように首に巻き付くと気分が高揚した。
「死にたい?」
彼女はいつもの調子で言う。
「死にたい」
僕は頷く。
「嘘だ」
嘘じゃない。
「嘘じゃない!僕は…僕は…………」
「本当は死にたくないんでしょう? 本当に死にたいのなら一人で死んでいるもの」
「僕は…毎日辛いんだ。なんのために生きているかもわからない。何をすればいいのかもわからない。学校にも行っていなくて、ただ何もしない日がどんどん過ぎてく。それに社会になじめない僕は失敗ばかりして、笑われて憐れまれて…とにかく怖いんだ、このまま何もせず大人になってこんなカスな、お先真っ暗みたいな生活するようなら死んだほうがいいんだ…。だから死ぬんだ!」
「みっちゃんは、もう少し頑張れるよ。みっちゃんにはまだできることはある。絶対に」
「なんて無責任なことを言うんですか…」
「ただ、今は」彼女はいつの間にか、僕の手から抜け出した掌で僕の頭を摩《《さす》》る「ただ今は本当にお疲れさま」
彼女は僕の頭をひとしきり頭をなでた後、僕の胸にもたれる。彼女の細い腕が僕の胴に巻き付く。ふんわりとはいかずに少し痛かったけれど、それを言い出せる雰囲気でも、言いだそうとする気もなかった。
「みっちゃんはすぐに頑張れないだろうから、私が手伝ってあげるよ。社会復帰」
「…なんで、そんなに良くしてくれるの」
「ん? そうだね『私の知っている人が死んじゃうと悲しいから』じゃだめ?」
彼女の体に腕を巻き損ねた僕は、まさに手持無沙汰といった感じで、「そんなことない」と答えた。
あれから三十分後くらい。僕たちは大した会話もなく再び闇に包まれた。
僕たちはさっきの倒木に座っている。当然、手と手が触れ合うなんてこともなく、それなりに距離を保っていた。
あたりから聞こえてくるコオロギの鳴き声は蝉とは反対の効果があるようで普段家にいるより涼しい気がした。
暗闇の中で光っていたスマホに蛾が寄ってきたことをきっかけに、スマホの電源を落としたことで、僕らは虫の鳴き声に耳を傾けるしかやることがなくなってしまった。
顔も姿も見えない声だけの彼女は言う。
「暇から抜け出すために、ここに来たはずなのに暇になってしまったわね」
「誰のせいだと思ってんの」
踵が飛んできた。
「謝罪ならさっきしたじゃない。私を九十度の最敬礼させただけでは飽き足らず、この土の地面で全裸土下座までさせたくせにまだ許してくれないのんだ。それじゃあ今度は『ご主人様許してください』って涙目になりながら懇願すればいいの?」
最初の十三文字しか合ってねぇ。
「勘違いされるようなことを吹聴するのはやめろよ。それに――」最後のはいらないと言おうとしたところで、悪くないかもと気づいて言及はしないでおいた。
「だれに勘違いされるっていうの?」
「…この森にいる誰か」
「みっちゃん、夜明けまであと何分?」
人を某AI音声アシスタントみたいに使うな。
「わかんない」
「みっちゃんの社会復帰プログラム、どうしようか」
「僕に聞かれても…」
「じゃあ、学校に行くとかは? さっき学校行ってないって言ってたわよね。あ、でも、今夏休みか」
「…………」
「そしたら、私といろんなところに遊びに行こう」
「いいけど。店は大丈夫なの?」
「無問題。おじさん優しいから」
彼女は続ける。
「だから、だからさ、《私はみっちゃんを幸せにするから、みっちゃんは私に協力して。ついでにできたら私も幸せにして》」
言い終わった後その声の方向から小指が伸びてきた。
「ほら、約束」
指切り。最後にしたのは、覚えていないくらい昔。確か何か歌詞があったような気がする。よく思い出せないけれど、とりあえず彼女の小指に僕の小指を絡ませる。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のます。指切った」
彼女は指をパッと離す。
すると、彼女の顔がずいと近くに寄ってくる、それは初対面の時と同じように。それよりも近かったかもしれない。僕は間違いが起こってしまうのかもと焦ったが当たり前にそんなことはなく、彼女は言う。
「改めてよろしく」
気づいたら、空が淡い青色を放ち始めていた。
ようやく視界がクリアになった彼女が僕に最初に言った言葉は「汚い」だった。『そりゃ、床で寝てたんだから当たり前だろ。そもそもお前がそこで寝ろ、って言ったんだぞ』と思ってみる。言うとまた蹴られそうで気が引けた。
寝る前ぶりに現れた太陽は本当に久しぶりな気がしたし、太陽のありがたさを感じた瞬間だった。ただ、太陽が顔を出すと同時に、(静かなほうだが)蝉が鳴きだしているのが僕は許せない。
長時間寝たけれど、全くと言っていいほど疲れが抜けていなくて僕はかなりヘトヘトな状態で帰路を辿ることになった。逆に彼女はかなり元気なようで僕はおいて行かれそうだった。
カブトムシを発見したり、籠の中でほとんど死んでいる蝉をそこらへんに捨てたりしながら森林を抜ける。ただ気がかりなのは彼女が『カブトムシって思っていたよりキモイのね』と言ったこと。
素直にムカついた。
彼女と別れた後、僕は小指を眺めながらアスファルトの上をとぼとぼと歩いていて家に帰った。
"僕のカイラク談"へのコメント 0件