2
こういう状況は『案ずるより産むが易し』と、いうのだろうか。
高温の温泉かと思って湯につかるのを躊躇して、その後覚悟を決めてみたら実はぬるま湯だったという感じ。『取り越し苦労』とも言うかもしれない。
まあ、僕はその湯に入る勇気がなかったから、今回は熱湯風呂にまたがっていたところ背中を押されたみたいな形なのだろうか。
彼女にはそういう気はなさそうだけれど。
「…………」
僕はそんなことより、と思考を切り替える。
僕はレジカウンターの前に設けられた、応接間にて待たされていた。
かぼちゃを模したスツール(スツールといっても椅子の形はしていなく、インテリアのよう)に座らされていて、目の前にはローテーブル。まるでカフェのような雰囲気だと安易な考えが頭に浮かぶ。だけれど、僕はカフェなるものに行ったことがないので完全な想像であるが、と付け加えないといけない。
ローテーブルの上に目線を動かす。そこには、先ほど僕が買った小説が山になっている。ようやく頭の隅に追いやった記憶が大声を上げそうになるのを感じて、顔をそらした。物理的に。
僕を取り囲むように設置されている商品棚は、橙色をメインに据えて他に黒や紫、白などの色があった。背後の方から商品棚に目を滑らすと、あるもので目が止まる。
等身大の頭蓋。ぽつんと置かれたそれは1メートル半ほど離れた僕から見てもリアリティーにあふれていて、見ているだけでも重さが手に取るようにわかる。もちろん本物は見たこともないし触ったこともないが、人がファンタジーの物語に没入するように、僕もこの雑貨店の異世界的な雰囲気にのまれているのだろう。そして本物かもしれない、というどうしようもなく幼くて理解しがたい疑問と好奇心が生まれた。
僕はすぐにそれを確かめてみたくなり、彼女がまだ帰ってこないことを願って身を乗り出したが、すぐに体を元に戻す。
何かいけないことをしているような気がしたし、その様子を戻ってきた彼女に見られたくもない。なにより、その頭蓋は触ってみたらかなり軽かった。
音がして固いかぼちゃに身を正す。
白黒チェックの床を打つ足音がレジの奥からやってきた。
エプロン姿の彼女はお盆を両手に大事そうに抱えてこちらへ向かってきている。
「ありがとうございます」
テーブルの上にティーカップを置く金髪の彼女に言う。務めて冷静にさわやかにそう言ったつもりだが、僕はとてつもなく微妙な顔をしているかもしれない。そう思う。
「敬語じゃなくていいとさっきから言っているでしょう 何回言えばわかってくれるの」
ムキになって言う彼女に、僕はほぼ初対面の人間にタメ口を利けるほど良くできていないんです。という言葉を飲み込んで、とっさに「う、うん」と頷いた。
向かい側のかぼちゃに座った彼女は、未知の生物を見るような顔で僕を見ている。
彼女の視線から逃れるように俯く、数秒何もない時間が続いて思いつく。もしかしたら、僕が喋るのを待っているのか。
そうだとしたら困る。
ここに来るまでの会話の主導権は彼女にあった。名前だとか、趣味だとか色々、必死になって答えていたので何を話していたのかはあまり思い出せないがそんな会話をしていた。
そこで、僕からも話せというのか。それは無理難題である。今の僕が質問や話題が思いつくことは不可能と言っていいだろう。
その間、およそ0.5秒。いや5秒だったかもしれない。
なんとなく気まずくなった僕は、おばけのティーカップに逃げる。
一旦これで頭と体を冷やすとしよう。
紅茶のフルーツのような、甘い香りが鼻から酸素とともに体に取り込まれる。
口に広がるのは――
僕は思いっきり傾けたティーカップを直ちに口から離した。
危険信号が体の節々に広がる。
口の中のモノを吐き出してしまいそうだったが何とか飲み込む。
「熱ッ!」
たまらず僕は僕らしくもない声を上げていた。
「アイスティーじゃなかった…。アイスティーだと思ってた…」
独り言をつぶやく。
わざわざ彼女が持ってきてくれていた冷水を口に含む、口と舌のヒリヒリ感はマシになったように思えるけれど、ほんの一瞬で気休めにしかならない。
夏にホットの飲み物が出てくるなんて誰が予想できるのだろう。
一旦落ち着くことができた僕は脳内で愚痴る。
「ちょっ、あっ……ぷっ、ふふふふふ」
この声は目の前の彼女。彼女はなぜか俯いて肩を震わせている。
「ふふっ、ふ…あっはははははは」
ダムが決壊したように笑いだす彼女を横目に、もう一度冷水を飲み込む。
こいつは、この人は、何を面白がっているのだろうか。
「ア、アイスティー? くふふっ、あはは! アイ、アイスティー? あはははははは―――」
「………………………」
目の前の光景に絶句した僕は正面を向くことに絶望して首を折る。この際、本当の意味で首を折ってしまってもいいかもしれない。
彼女の頭の中には、僕を馬鹿にするような気持ちしかないようだけれど。僕の頭の中は羞恥心と劣等感が膨らみ続けている。その所為で体中が破裂してしまうような気がして、彼女に悟られないように僕は深呼吸を何回も繰り返す。
そんなことをしていると彼女はいきなり嘲笑をやめた。
見上げると、彼女はミュートされてしまったようなって僕のほうを据わった目で見ている。表情は何を考えているかわからない顔、つまり無表情でどこか清々しい印象を受けた。
彼女はおばけのティーカップを手に取ると平たい唇にあてがう。
フーッという効果音。次にズズズという音。
「うっ」
彼女は眉をしかめる。
まさか、熱かったのだろうか。だとしたらお揃いだけれど、僕のとはだいぶ規模が違う。仕返しで笑ってしまいたかったが、笑える状況でなかったし笑うことは気が引けた。
出会ってまだ1日も過ぎてないとはいえ、彼女のキャラクターというか性格が全く分からない。僕と同じ中学生で、僕に慈悲の手を差し伸べ、僕に積極的に話しかけ、僕を馬鹿にして笑い、僕と同じ轍を踏んでしまうような女の子。金髪でやんちゃな見た目なのに言葉遣いはどこか上品な女の子。
掴みどころがないというか、リレー形式で書かれた小説の登場人物のようだ、と比喩してみる。割と的を得ているのではと自画自賛したところで虚しくなった。
そして、彼女の謎をメンタリストが解明してくれる、なんてふざけた妄想を始めた時にはため息をついてしまった。
さて――
「……………………」
「………………………」
無言。
彼女がティーカップを置いた時から静寂に包まれていた。聞こえるものといえば蝉の抗議とたまのたまに聞こえる自動車の音だけ。
そういえば、前々から通りすがるたびに気になっていたのだけれど。この店に客は来ないのだろうか。この店は客を選ぶタイプだろうとは思っていたが、客が来る気配がない。しかも、客が来ないということを裏づけるように店員と自称した彼女は目の前で動く気はないように思える。
しかし、客が来ても何をしに来るのだろうか、夏にハロウィンの雑貨を買いに来る人がいるとは到底思えない。
ここにはどういう人が来店するのだろうか。
その時、ドアベルが来客を知らせた。
グレーの背広にトランクケースを手に提げた男が商品棚の間を縫って、この応接間に顔を出した。その背広の男は季節外れのハロウィンのグッズを買いに来ている様子では明らかになく、明らかに何かある。素人なりに、そう思う。
僕よりも身長がだいぶ大きい背広の男は金髪の彼女に顔を近づけて耳打ちした。背広の男は僕を道端のごみを見る目で一瞥した。そして、全身の毛が総毛だった僕を、存在していないかのように彼女は営業スマイルで背広の男に答える。
何かつぶやいて立ち上がった彼女は背広の男を先導するようにしてレジの奥、つまりバックヤードへと歩き出した。
僕は、レジの奥に消える二人の後をついていくことにした。
抜け足差し足で若干大股に歩く。少しの足音は蝉がかき消してくれそうだが、蝉は信用せずに僕はゆっくりと慎重に歩を進めた。蜘蛛の巣の暖簾の先に消えた二人を追って、暖簾の一歩手前で立ち止まり、中の様子を窺ってみる。
そこは、長方形の部屋が左向きについていて、彼女が突き当りのところで何かやっているのが見えた。
彼女はキーパッド? に何か入力すると、ゴゴゴと派手な音を出して壁が動きだす。
僕は思わず「わっ」と声をあげてしまうが壁が動く音にかき消されたようで、張り裂けそうになった胸をなでおろす。僕は震える足を押さえつけて奥の暗闇を覗き込んだ。
その瞬間、額に何か冷たくて硬いものが押し当てられる。
体が跳ねると同時に破裂音がして、ブラックアウトした。
僕はため息を吐いて、もう飲めるであろう紅茶をすすった。
案外こういうことがあるのかもしれない。
「……………………」
「………………………」
無言。
僕は無言になることは嫌いではないし、寧ろ居心地がいいと思えることもあるのだけれど、ここまで彼女が無言だとこちらが何かしないといけないのかもしれない。
僕の頭はさっきと同じ考えを起こす。
何かをしなければいけないのか。だとしたら何だろう。話しかけてフラグを立たせないと進行ができない、というのならばまるでゲームだ。僕はゲームの主人公見たく大した正義感もないし行動力もない。もし、僕がゲームの主人公になってしまったならば本当につまらないものだと思う。
…そんなことはどうでもいい。ここはゲームでも妄想の世界でもない現実だ。
本当になんで、この人はしゃべらないのだろうか。ここに来るまでは質問とか話題提供とかしてくれていて、趣味の話などを話していたというのに。と、当初の考えがループする。
何かの気が変わってしまったのだろうか? だとしたらなんの気だ?
ともかく、ここまで一対一で無言だとさすがの僕も参ってきてしまう。ここは僕が腹をくくるしかないのだろうか。ここは僕の一世一代の頑張り物語を始めるしかないのだろうか。ただ、古本屋の店員にすら満足に会話できない僕が目の前の女子にきちんと話しかけることはできるのだろうか。
絶対に無理。
今すぐに小説を抱えて逃げだしたい。
息を吸って吐く。一旦落ち着こう。
薄いピンク色の唇に、穴など存在しないかに思える小ぶりの鼻、そして僕をじっと見つめる猫の目。今日で何回目かはわからないけれど目が合う。なぜかやってはいけないことをしている気がして反射的に目をそらした。
「ちょっと、何をしているの?」
彼女の冷水のような声が僕を不意打ちする。
何をしているのか。そう聞かれると何もしていない、と答えてしまいそうになるが多分間違いなのだろう。だが、それ以外に心あたりがないし…もしかしたら彼女はメンタリストなのかもしれない、僕の下劣な妄想とか自己卑下などが彼女に駄々洩れになっていて、それについての苦情をいわれているのかもしれない。と、戯言。
「——話しかけなさいよ!」
その罵声のような声に二重の意味で殴られた。
?
一瞬、頭がはじけ飛んだような感じがした後、頭の中で反芻することでようやく理解できた。彼女は何かしていることに対して言ったのではなく何もしていないことに対して言ったということか、と。
なるほどね、そうですか。
僕の憶測は当たっていたらしい。
独白で余裕ぶっていたが、さっきから指先の震えと背中にかなりの量の冷や汗が流れているのは言うまでもない。自分だけの独白の世界に逃げていたがもう時間限界《タイムリミット》らしい。
再び無言の時間が訪れ、蝉の嘲笑が耳に届く。
話しかけるといっても話題がないと始まらない。
本当に無理難題だ。僕は口の中でつぶやく。
僕は目を伏せる。
あるものが目に入った。
こぶしを握り締める。
「…あっ、あの、紅茶おいしかったです」
やってやったぞ。
少々どもってしまったかもしれないが、僕にしては上出来だと思う。
「だから敬語じゃなくっていいって言っているでしょ!」彼女は再びムキになる。「それ、インスタントだから…私じゃなくて工場の人に言いなさいよ…」
彼女はよくわからないことを口走った後に照れくさいのか顔を俯かせた。
「あぅ…」
何も理解できずによくわからない声を出してしまう。少し顔が熱くなった。
「そんなことより」と、彼女は咳払いして居住まいを正す。「はい、これ」
彼女はハロウィン仕様の紙袋をエプロンから取り出して、僕の目の前に差し出した。
「ありがとう…」
僕は敬語を一生懸命抑え込んで言う。
「ごめんなさい」彼女は紙袋に小説を詰める僕に言う。「つい面白くって笑ってしまったわ。しかも、その後も悪ノリを続けてしまったわ。本当にごめんなさい」
彼女は二度頭を下げて続ける。「良ければ、夏休みの間たまにでいいから遊びに来てはくれないかしら。暇なの」
……………。
「これたら来るよ」
僕は微妙であろう笑顔を作った。
熱湯風呂に飛び込んだらしっかりやけどを負ってしまった。今回は不可抗力のようなものだったけれど、紙袋を手に入れることができたのは怪我の功名と言える(致命傷を負ってしまったけれど)。
例の雑貨店からの帰り道はすでに日が落ち始めていた。
片手にはずっしりと重い紙袋。最初は重さに耐えられるか心配だったが思ったより丈夫にできていて三十冊の小説を十分に支えていた。ただ、何かの拍子に少し破けているようで、そこから傷が広がっていかないように注意しなければいけない。
腕が疲れて片方の手に紙袋を移す。
そして、ふと、彼女とした会話を思い出した。雑貨店の中でした会話ではなくそこにたどり着くまでの道中での会話…。
「ふーん。そんな名前なの…女の子みたい」
僕の自己紹介を聞いた彼女は言う。愛玩動物を見るような顔で言う。
沈黙している僕を横目に彼女は続ける。
「体格小さいし、もしかしたら、もしかしなくても女装とかできるんじゃない?」
「…ありがとうございます」
とりあえずそう言ってみる。よく考えてみると、ここで『ありがとう』はおかしいのではないだろうか。
「それにしてもこんなに小説買うなんて、趣味が読書なの?」彼女は両手に抱えている半分に分けた小説の山を顎で指して言った。「あと、敬語じゃなくていいわよ」
「ええ、そうです。読書が趣味です」 僕は咄嗟に出た直訳みたいな言葉に続いて質問する。「ちなみに、今ってどこに向かっているんですか?」
適当に思いついた話題を口に出した。適当といっても、僕が一番気にしなければいけない話題なのだろうけれど。
「私の親戚の店。ここら辺に住んでるなら知っているかな? ずっとハロウィンのお店なの。私は夏休みの間、手伝いとしてそこで店番みたいなことをしているの。ほら、私ってまじめで優等生だからこういうのも頼まれるの」彼女は平然と続ける。「あと、敬語じゃなくていいのよ」
衝撃の事実。とりあえず、危ない場所に連れていかれるということはないようで、知っていることろに向かっているということであれば少し安心できる。
だが、引っかかるところが一つある。彼女は自分のことを『まじめで優等生』と表現してたけど、彼女は金髪でなんだかやんちゃしてそうな見た目だ、言葉遣いは丁寧だけれど。
「この髪はね、髪を染めている人の気持ちを理解したくって染めたの」彼女の髪を注視していたのがばれたのか彼女は言った。「金髪に憧れたとかではないんだから」
そういうことらしい。
だけど金髪はなかなかに似合っていると思う。
家が見えてくると僕は歓喜の息をもらした。
両親不在の玄関の扉を開けてると、真っ暗なリビングを通って階段を上り自室のドアノブをひねった。
照明をつけて敷布団にうつ伏せで倒れた。柔らかいとは言えない敷布団の感触が僕の体を支配する。おもむろに枕を引き寄せて本物の柔らかさに顔をうずめると、当て感で扇風機に手を伸ばして電源を入れた。
海面に浮かんでいるような感じがして、なんとなく眠気が誘われる。
外に出るのはここまで疲れるものだったっけ。
ここまで濃い一日はそうそうない。というかここまで濃い日が頻繁にやってきたら僕は過度の心労によって死を迎えると思う。僕はこれ以上の恥を許容できる器は持ち合わせていない。
『死ぬ』か。
親は悲しむかな…。
出来損ないの引きこもりで足引っ張りの息子の死を果たして親は悲しむのだろうか。泣いてはくれるのだろうか。
こんな生産性のない、はっきり言ってしまうとゴミのような生活…………。将来性などない、一歩先は闇のこの状況。
海面に浮かんでいたはずの体に錘がついて加速度的に沈む。
生きていて何かいいことがあるのだろうか。
ない。
ただ、腐ったように小説を読むだけの人生に何も価値なんてものはない。だから、このまま生きていくのは意味なんてない、生きているだけ迷惑なんだ。
それに、このまま恥を罪悪感を積み重ねるよりもこのまま————。
どこからともなく希死念慮が脳を蝕む。それは季節のようにいつの間にか当たり前のようにそこにいて思考の中にそれが鎮座したら最後、過ぎ去るまで耐えるしかない。
僕は今朝やったように胎児のように丸まってただただ目を閉じた。そうする以外にできることは何もできない。瞼の裏の暗闇に身を投げると幾ばくか楽になる。瞼の向こうの照明の光を鬱陶しく感じて、タオルケットを頭にかける。照明を消すという考えは一瞬思いついたが、そんなこと出来るんだったらそうしている。
頭の中にできるだけ何も思い浮かべないように努力する。
でも、どれだけ押さえつけても、それは必ずどこからか溢れ出す。
いきたくない。
意識すればするほどそれは勢いが強く。元気になる。
いきたくない。
そんな考えが頭を縦横無尽に駆け巡る。場違いに楽しそうに駆け巡る。
じゃあ、どうするの?
母の声だ。
死ぬ。
死ぬしかない。
死のう。死のう。死のう。
僕は両の手を喉元に当てる。徐々に力を入れていって圧迫する。咳が出しゃばっているが、飲み込む様にして体の中に引っ込める。体が落ちたような感覚がした後、何もなくなった。
暗闇。
僕は思いっきり嘆息する。
本当に、僕の生きる意味とは何なんだろう――。
母の声がして、意識が覚醒する。
眠っていたのだろうか、頭が握りつぶされているように痛い。
僕はあくびをして伸びた。
虚無感が体中を支配している。何か夢を見ていた気がするが、どんな夢だったかは覚えていない。ただ、確実に悪夢だっただろう。最悪な気分だからよくわかった。
寝汗で気持ち悪いTシャツを着替えて、リビングへと向かう。
父親のいない食卓に向かって、無言で食事を口元に運ぶ。僕は何も声を出さず、母の方も僕に言いたいことも無いようで話しかけてくることはなかった。
僕はそのまま皿を片付けて風呂を済ませた後、部屋に戻った。
部屋に戻ると傷が広がって縦に大きく裂けた紙袋をゴミ箱に入れて、小説の一の間違いは成立してしまう。
なんて無防備な女なんだ。
僕は嘯うそぶいて、平静を装って、心の中で腕を組んでそうつぶやく。
ただ、残念ながら僕にはここで一歩踏み出せるほどの度胸もなかったし、ここで刑務所にぶち込まれる覚悟もなかった。
そもそも、そんな気はない。
僕は何も言えず、目の前にある彼女の顔を思わず凝視してしまう。
小ぶりな鼻にぱっちりとした猫目、そして薄い唇。頬にところどころあるニキビは微妙な赤みを放っている。
僕は彼女の顔を見回す。まるで、同じアトラクションに乗り続ける子供のように何回も、飽きることもなく、何回も。
そして、彼女は目が合った後、若干顔をしかめて視界の下のほうに消えていってしまった。
「あっ」と蚊の鳴くよりも小さな声が出る。喉の隙間から何とか出てきたような、そんな声。
嫌われてしまった。
直感的にそう思う。体が地面に沈んでしまう錯覚を起こした。
口が半開きの僕は彼女が下に消えるに従って顔を動かす。その時、違和感を感じる。すごく恐れていたことをやってしまったような、そんな違和感。
というかこの違和感はもう少し前から感じるべきだった、と思う。
その違和感は一秒もしない内に明らかになった。
そこには彼女がしゃがんで何かを、《それ》を拾っている様子が見えた。《それ》とは言うまでもなく本だ。
ああ。
落としていた。
とっくに崩れていた。
彼女の登場で意識を奪われていた僕は大切に抱えていた、本を崩して落としてしまっていた。
下を向いて彼女の姿がそのまま見えることに抱いた違和感は、手にかかる重みで、本たちが崩れ去る音で気づくべきだった。
それができなくなるぐらい彼女に目を奪われていのかと思うと。なかなかに自分はイカレていると思う。
改めて、下を見ると彼女は地面に散乱した小説たちをせっせと集めている。
数秒。いや一秒、呆然と眺めた後、僕は手伝おうと思い至って、しゃがんだ。
だが、その時にはすでに、同じ高さの塔が二つ建造されており、僕にするべきことは残されていなかった。
"僕のカイラク談"へのコメント 0件