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暗殺の血 完結

礼 室町

歴史上、事実だと思われていることは実は論理的なものではなく
多喜二の死については共産党関係者の一方的な発言だけが根拠に
なっていて、論理的整合性はありません。
この小説は通説と正反対ですが、論理的にはこうなるというひとつ
のこころみです。

小説

15,056文字

小林多喜二の死は特高の拷問によるものと巷間伝えられている。
特高=悪&加害者。コミンテルン日本支部(当時の日本共産党)=
善&被害者。という図式が今日まで広く流布しているが、いろいろ
調べてみると当時の政治情勢はそんな簡単なものではなかった。
資料によれば昭和初期の特高警察幹部は課長の毛利以下、全員が貧
農の出で、中卒ないしは中学中退者だった。山県為三は大卒だったが
わずかの期間ですぐに内務省本庁へ呼び戻されている。特高幹部ら
は毛利同様、仕事をしながら日大の夜間に通い、そこで専門学校卒
業資格を得ていた。専卒資格とは大卒の証明ではなく、今日でいえ
ば大学受験資格のようなものといっていい。警察や裁判所の上級職
登用試験に必要な資格だった。
治安維持法によって強大な捜査権を持つ特高幹部ほぼ全員が貧農出
身、中卒ないしは中退者という実態は今日の感覚では異常にみえる
かもしれない。しかも捜査をしながら夜は大学に通っていたという
のだから異様である。しかしそれが「不浄」な者は「不浄」な者に
取り締まりをさせるというそれまでの日本の「お上」の伝統であっ
た。江戸時代が終わってから50年ほどしかたっていない。じつは
特高は一般警察官や庶民大衆からも軽蔑される「人非人、穢多」の
仕事だったのである。
一方、共産党幹部のほとんどは裕福な階級の師弟が多く、大卒者ば
かりで占められていた。いわば知的な特権的富裕層が組織を支配し
ていた。当時の共産党最高幹部トリオ(田中、佐野、志賀)らはと
もに東大卒で、佐野学などは大分の大地主の家に生まれて戦後有名
になったオノ・ヨーコの曾祖父、安田財閥創始者、安田善次郎とも
閨閥でつながっていた。
マルクスらが生み出した共産主義思想においては抑圧された労働者
が主体となって革命を担うはずが、マルクスが敵として考えた資本
家や貴族特権階層の師弟たちが共産党の枢軸を担っていた。そのた
め労働者階級出身の者が共産党の幹部になって事情を知るとあまり
に理想とは違った閉鎖的な体質に反感を抱き、警察や憲兵隊の犬(
スパイ)に転向する者が多く出た。そんなことから大卒の共産党幹
部は労働者出身の党員を内心では信用せず軽んじていたという。
この”ねじれ”が、その中間にいた秋田の小作農の出で小樽の専門
学校出身者であった小林多喜二の心を悩ませていた。その心の揺れ
が共産党幹部の疑惑や不審を買っていたのである。
ここで密かに、ある計画が動き出す。

 

「殿下、お父上のお墓参りにすぐにお連れしたいところですが、形
式とはいえ一応、軍法会議の手続がありますので」
身柄を引き取り、一条実淳のために特別に用意したシボーレーのセ
ダンに乗った麹町憲兵分隊長の佐藤は縁戚の主筋にあたる一条に語
りかけた。
「軍法会議といっても軽微な犯罪の場合は書類手続きだけで終わり
ます。判定はわたしに一任されていますので殿下には一晩、憲兵隊
宿舎にお泊り頂くことになりますがご辛抱願います」
「いいよ。おやじの墓参りはもう少し気持ちが落ち着いてからにす
るさ」
まだ二十歳半ば過ぎの青年はわずか三月ほどのあいだに世界が変わ
ってしまったかのように熱心に町並みを見ている。
クッションのよく効いた黒塗りの外車は麹町憲兵隊の白亜の建物に
すべりこんだ。
関東大震災に遭ってから建て直されたとはいえ拷問室があった地下
はそのままで、そこには憲兵隊長の寝室と私用の応接室もしつらえ
てあった。
明治十四年からつづく麹町憲兵隊地下拷問室のひとつを佐藤中佐が
改造して密談用の応接室にしたのは厚い壁に阻れて機密性が高いか
らだった。
車から降りた佐藤中佐はその足で地下応接室に一条を案内した。
そこで一条を待っていたのは共産党幹部の風間丈吉だった。当時、
日本共産党最高幹部田中・佐野・鍋山らは逮捕投獄されており、党
を指導していたのは最後まで官憲の追求を切り抜けた徳田球一ただ
ひとりだった。風間はその徳田の片腕で、東京地区の実質的責任者
でもある。
佐藤らが入っていくと、風間は四方の壁にしみついた薄茶色の地図
のような広がりを熱心にみていた。ところどころ黎(くろ)い雫(
しずく)のあとのようなものが散っている。それはここで拷問を受
けた容疑者たちの血や汗、唾液が長年かけてコンクリート壁に沁み
込み、色褪せて変色したものだった。
「いい味だしてるだろ」佐藤中佐は風間に声をかけた。
「これは──もはや絵画ですな」壁をみつめたまま風間は中佐に返
事を返した。そして小さく歌うようにつぶやいた。
Калейдоскоп человеческих судеб(カレイドスコープ・チェロヴェー

チェスキフ・スヂェーブ)ロシア語で「わたしにはさまざまな人間

模様に見える」といったのだった。
風間はロシアにある国際コミンテルン本部の党員養成機関クートヴ
ェから日本に送り込まれた謎の多い人物である。この男は多喜二の
事件後転向し、その後、世間から姿を消してしまった。戦後も彼の
行方はようとして知られていない。
佐藤は風間のロシア語を鼻で嗤うと「殿下をお連れしたよ」といっ
た。
それを聞いて風間は後手を組んだまま振り返える。
「一条くんか、心配していたよ」
眼鏡をかけた学者風の面長の顔がそこにあった。三十代のようにも
見えるし、六十にも見える老成した顔立ちだった。身をやつすこと
で年齢を隠し顔を隠す、工作員特有のしたたかな偽装なのかもしれ
なかったが、しかしロシアで身につけた洋装は板についていた。
「地区委員、どうしてあなたがここに?」
下部党員と上層部をつなぐ情報伝達役の一条にとって風間は最高位
の指導幹部だった。遠くからみたことはあっても直接会うのは初め
てである。
「きみが勾留されていたあいだに、色々あってね」
風間は一条と佐藤に対面するようにソファに腰を下ろした。
「党中央委員が徳田先生一人を残して、全員逮捕投獄されてしまっ
た」
信じられない話に一条が声をつまらせていると、さらに風間は、
「同時に東京、大阪、名古屋などで一斉検挙があって地区委員、連
絡員レベルでの逮捕者は百名近くにのぼる」
一条が留置場にいるあいだに共産党は壊滅的な打撃を受けていたの
だった。
一条は佐藤の横顔を見た。
「あのジイさんたち、裏でそんなことをやっていたなんて、毛ほど
も気配を見せなかったが」
佐藤中佐は顎を撫でながらいった。「もともとは20名ほどで出発
した特高は、いまでは東京市下だけでも配下に二百名ほどの人員を

置くほどになっています。これを放っておけばこの先、手がつけら

れなくなるでしょう」
中佐の口調はまるで共産党幹部がいうようだった。
「この三ケ月、毎日が、党が崩壊していくのを見る思いだったよ..
….」静かな口調で風間はつづけた。「今では連絡線がすべて断
絶し、資金も尽きている。党員の潜伏先も不安定で、誰とも連絡で
きない状態だ」
一条はため息をついた。「そんなことになっているとは、夢にも思
いませんでした」
「きみは、外部と一切遮断されていたからな」
風間は佐藤中佐を示していった。「彼とは尋常小学校からのなじみ
でね」
そういわれても一条は返事に困った。幾ら幼馴染だといわれても、
東京の共産党地区委員と憲兵隊隊長が同座するなど、ありえない取
り合わせだった。
いったいどうなっているのか。一条は風間にいった。
「それで、我々はこれからどうすればいいのでしょう」
「今は、活動どころじゃない。バラバラになってしまった組織をく
つけるニカワのようなものが必要だよ」
「ニカワ、ですか」
「ああ。糊だけじゃなく、殉教者も必要かもしれないな」
殉教者と聴いて一条が眉をひそめると風間と佐藤は互いに顔を見合
わせた。
「殿下、小林多喜二の居所を教えて頂けますか」
憲兵隊長の佐藤が口を開いた。
「多喜二さんの!?」
思わず一条は声をつまらせた。「おまえ、小林先生をどうするつも
りだよ」
風間が湯呑みをテーブルに音高く置いて一条の注意をうながした。
「コミンテル本部から司令が来て、わたしは彼を査問しなければな
らないんだよ、一条くん!」
一条は眉をひそめた。「またスパイ探しですか」
党の壊滅的情況の中で以前から幹部同志でさえ互いにスパイではな
いかと疑心暗鬼になり、コミンテル本部に密告する者が続出してい
た。
「いま、あの方を吊るし上げたりすれば、我々は労働者の支持を失
いますよ」
「もちろん今はそんなことをやっている力も組織もない。だから佐
藤中佐の協力が必要なんだ」
「憲兵隊に小林先生を査問させるなんて、世に知れたらわたしたち
はお終いですよ」
風間は譲らなかった。
「このまま手をこまねいていれば多喜二くんはいずれ特高に身柄を
拘束される。そのまえに彼を保護してもらって事情を聞けるのは佐
藤中佐だけだよ、一条くん」といった。
「しかし、わたしにだって多喜二さんが今どこにいるかわかりませ
んし」
地下に潜った党員と中央とをつなぐ役割であった連絡員の一条が捕
まった時点で、かれらは潜伏先を変えているはずだった。
風間は執拗だった。
「わたしは上から司令するばかりで現場を知らない。また現場の同
志たちも互いにまったく顔が知られぬようになっている。しかし、
きみならかれらを繋げることができるはずだ。地下に潜った党員の
点を、線に出来るのはきみだけだよ」
「そうはいっても……」一条は作家として尊敬する小林多喜二を憲兵

隊に売るなどありえないと思って声を濁らせた。それをみて業を煮

やしたかのように、
「これを読んでみたまえ」と風間は紐で綴じた紙の束を一条に投げ
た。小林多喜二の『党生活者』だった。
「このままじゃ党は終わるよ」

 

死後、共産党によって多喜二が神格化され、また、共産党もまるで
警察組織の犠牲者であるかのように喧伝してきたがその内実を知る
と事件の様相はもっと複雑怪奇なものである。
問題は多喜二が死ぬ直前に書いた小説『党生活者』だった。
この小説が党中央への背信とみなされたのである。
『党生活者』が脱稿されたのが昭和8年1月初旬、その一ヶ月半後に

多喜二は「虐殺されて」亡くなっている。
かれの遺稿である『党生活者』が発表されたのは死んでからだが、
その小説は党中央によって多くの描写を削除、伏せ字にされていた。

しかも一部は小説そのものが改竄されて出版されたことが今日明ら

かになっている。
もちろん、出版前の官憲の指導による削除、伏せ字の箇所もあり、
いわば多喜二の初期出版本『党生活者』は共産党と当時の体制権力
による合作小説といってもいいものだった。
原本から消され、改竄された多喜二の”肉声”は以下のようなもので

あった。
アジトに共同生活する女性、笠原らへの性的な欲望や葛藤などが描
かれた部分、それは清らかであるはずの革命家にふさわしくないと
して伏せ字、削除された。
あるいは運動資金を得るために裕福な知人から半ば脅かすようにし
て金を引き出すシーンやその後の罪悪感の吐露なども真面目な共産
党員がするわけがないと削除、伏せ字の憂き目にあっている。
もっとも共産党幹部たちを激怒させたのは官僚的な党中央幹部の、
現場を知らない非現実的な司令に対する批判の部分だった。この箇
所は削除や伏せ字ではなく、文章そのものが改竄されていた。
このような削除、改竄も多喜二が死んだから出来たことだった。
驚くべきことに多喜二はこの『党生活者』よりも、もっと過激なも
のを続編として書こうとしていた。それを多喜二からの手紙で知っ
た壷井繁治は当然、党に報告したはずである。当時の共産党中央や
ロシアにあったコミンテルン本部が青ざめたのは想像に難くない。
コミンテルンの「1932年テーゼ」を小林多喜二が次の小説で否定す

る予告をしていたからであった。底辺にいる下層労働者に絶大な人

気のある作家がそんな小説を出せば当時、ほとんどの最高幹部が逮

捕投獄されて空白状態にあった日本共産党は壊滅的な打撃を受ける。

とくにロシアのコミンテル本部の通達を否定する思想はかれらを震

撼させたのだった。

 

黒門町の居間の引き出しに無造作に放り込んであった札束を取り出
して机の上に積み上げた毛利は金額をざっと数えた。
五千円ほどある。──当時、キツネうどん一杯が10銭ほどだった
から五千円は、いまの日本円にして一千三百万ほどの価値があった。

しかし毛利にしてみればこの程度の金は瞬時に消えるはした金だ
った。
毛利が特高課長として絶大な権力をふるえたのは治安維持法という
越権的な法律があるからだけではなかった。もうひとつ、湯水のご
とく使える潤沢な「特高機密費」があった。これは使途を追求され
ないし報告義務もない特別会計で、内務省から定期的に特高の隠し口
座に振り込まれていた。その額は現在の価値になおすと年間15億
とも20億ともいわれている。なぜ公的な特高の予算とは別にこの
ような莫大な機密費が特高課長の匿名口座に振り込まれたか。ひと
つは共産党中央委員の買収や潜入スパイの活動費として潤沢な資金
が必要だったからである。
さらには東京市下にある各警察署幹部、地検幹部を手懐けるための
ばら撒き、司法行政機関の長の買収や情報提供者の報奨にも使われ
ていた。もちろん特高課員の餞別や慰労会の飲み食いにも当然使わ
れた。毛利にとって一千万程度ははした金で、いつでも右から左に
動かせる金だった。そのお陰で妾や愛人を三人も囲い、それぞれに
家を持たせることができたのである。もちろん、一般会計ならそれ
は横領であるが、機密費に監査は入らないので事実上、毛利の私物
といえた。
毛利は机の上の札束を新聞紙で包み、手提げの紙袋に放り込むと妾
宅から歩いて10分ほどのところにある佃島渡船場に向かった。
この渡船場には佃一丁目と湊三丁目の間を結ぶ通運丸という60ト
ン級の蒸気船が運行しており、常時100名ほどの客を運んで両岸
を行き来していた。
その通運丸のデッキ上で定まった日の定まった時間に共産党最高幹
部のひとり、飯塚盈秋と会うのが毛利の習わしだった。
ときの最高指導者徳田球一の思想的な右腕が風間丈吉だとすれば飯
塚盈秋は経済面における徳田の腹心だった。後に「スパイM」と
して有名になる飯塚は毛利が共産党中央に放ったスパイだった。特
高による全国規模の壊滅作戦によって幹部のほとんどが逮捕された
今、飯塚盈秋は徳田に次ぐ共産党のナンバー2になっていた。それ
もこれも飯塚が日共に流す潤沢な資金のお陰だった。幹部たちの生
活維持費、地下活動家たちの逃亡費用まで、どこからか資金を巧み
に調達してくる飯塚がいなければ共産党はさらに深刻な事態に陥っ
ていただろう。しかし飯塚が党に貢ぐ金は特高課長の毛利から出た
金だったのである。
「もうあと一歩だな」と並んでデッキに立って隅田川の流れに目を
やりながら毛利は飯塚にいった。
「きみが共産党のトップになるのも」
同じように川の表をみつめていた飯塚は表情ひとつ変えずにいった。
「どうやら東京地区委員の風間が憲兵隊の側についたようです」
毛利は舌打ちをして、ひん曲げた口を大きく開いた。
「それは、まずい」
「その二人に一条実淳が合流しました」
「それは、ますます、まずいな」
毛利の顔は心持ち青ざめたようだった。
「いままで介入してこなかったのに、どうして急に軍部はおれたち
の邪魔をしはじめたのだい?」
「どうやら多喜二の小説が軍部の若手統制派の神経を逆撫でしたよ
うです」
飯塚は一冊の本を毛利に手渡した。
『地区の人々』というタイトルのその小説は毛利もすでに読んでい
た。これまで資本家を非難していた多喜二にしては珍しく陸軍批判
が出てくる。しかも軍内部に工作を仕掛けて内部を再編するような
ことを語っているのだ。これが陸軍統制派の逆鱗に触れた。
「次から次へと問題作ばかり書くやつだ」
二人が沈黙しているあいだに汽笛がひとつ鳴った。もう対岸が近づ
いている。
「多喜二からの連絡は?」
飯塚は黙って首を横に振った。「もう党中央を信用していないよう
です」
うん、と毛利はうなづいた。
特高、軍、そして党からも狙われている多喜二としては危機がひし
ひしと身に迫っていることを感じているだろうと想像できた。
飯塚がいった。
「憲兵対策ですが、秦真次に工作を仕掛けますか?」
秦はときの憲兵司令官だった。この時期、陸軍は皇道派と統制派の
対立が激しく、昭和天皇まで巻き込んでさまざまな騒動を起こすほ
どになっていた。統制派は資本階級を軸にした富国強兵を考えるの
に対し、皇道派は資本階級を敵視して天皇中心の神道国家を理想と
していた。しかし統制派の佐藤憲兵分隊中佐と対立している皇道派
の秦真次憲兵司令官は劣勢だった。すでに陸軍の中枢にいる幹部の
ほとんどが統制派に与みしていたからだ。
「秦真次ではもう歯止めにはならんだろ」
と毛利がいう。
「では、参謀次長の真崎甚三郎か、いっそのこと陸軍大臣の荒木を
懐柔しますか」
天才的な知力と胆力をもつ飯塚盈秋なら、なにかそれが、いとも簡
単にできそうな気がしなくもなく、毛利はその精悍な顔をのぞきこ
んだ。この労働者階級出身の男が共産党中央の官僚ぶった体質に嫌
気をさして背を向けなければ、おれは今ごろどうなっていただろう
と思った。
毛利の金星のことごとくがこの背信者からの情報のお陰だった。
飯塚のいう真崎と荒木、この両者は数少ないとはいえ皇道派のドン
である。藁にもすがる思いで毛利はいった。
「真崎の周辺を徹底的調べてみるか」
毛利がいった。
「間に合えばいいのですがね」と「スパイM」こと飯塚盈秋は毛
利からもらった紙袋を下げて帰り際ぽつりといった。

 

案内を乞うて門をくぐると庭先から裂帛の気合が聞こえてきた。
この寒いさなか、もろ肌を脱いだ東條英機が九八式軍刀で人間にみ
たてた藁束を斬り落としたばかりだった。
東條は肩から湯気をあげ額に汗をかいている。この時期、陸軍では
軍刀の試し切りが盛んに行われており東條は戸山流居合の達人でも
あった。
その姿に向かって直立不動になった麹町憲兵分隊佐藤中佐は背筋を
ピンと伸ばして折りたたみナイフのようなおじぎを返した。
「まあ、入りなさい」東條はにこりともせずそういった。
のちに首相になる東條英機はこの頃、陸軍統制派がつくった親睦団
体「一夕会」の中心人物で、陸軍整備課長の肩書を持つ大佐だった。

この「整備課長」という役職がくせ者だった。実質的には国家総
動員法の青写真を描く職務にあり、軍内部のすべてのシステムを管
理、掌握する立場にあった。さらに、実務を握る佐官級の将校の横
のつながりを組織化して将軍クラスに圧力をかけ、大将、中将らの
力を形骸化することにも成功していた。
麹町憲兵隊中佐の佐藤は東條を心酔する腹心の部下のひとりであり
東條の片腕でもあった。東條の私邸は麹町憲兵隊から歩いてすぐの
ところにあったので電話ひとつで佐藤を呼び寄せることができた。
佐藤が庭の見える居間で待っていると浴び湯をして紬の長着に着替
えた東條があらわれた。半年後には少将になって関東憲兵隊司令官
に就任するこの男は今や陸軍で、飛ぶ鳥も落とす勢いだった。
佐藤中佐が再び座ったまま這いつくばるように大げさなお辞儀をす
ると、東條は黙って座卓の上に一冊の本を投げた。
小林多喜二が書いた『地区の人々』だった。
「先日から将校団のあいだで厳しい意見が相次いでいる」
「申し訳ありません」
「軍が警察組織に介入することなど出来れば控えたかったのだが、
百姓出の特高があまりにもたもたしている。こんな小説を書く男の
ために我が軍の計画に亀裂が入ることなど許されない」
「申し訳ありません」
佐藤は再び這いつくばった。
「きみの計画はどうなっている?」
「はい。近日中にこの男は物理的に排除されます」
ふむ、といって東條は満足そうにうなづいた。
「我々にとっては赤子の手をひねるようなものだが、しかし、皇軍
の名を穢すようなことがあってはならないよ」
東條は腕を組んだまま佐藤の顔に額を寄せていった。「ひとつ間違
えば皇道派の将軍たちが黙っていない」
「それはもう総て軍ではなく警察がやったことになります」
皇道派は多喜二の存在をそれほど疎んじてはいなかった。多喜二は
ロシア・コミンテルンのテーゼが日本の歴史や制度に合わないとし
て否定し、天皇制を容認する日本独自の労働者革命を考えていた。
しかし、中国、アメリカを仮想的国と考え、ロシアとはいずれ不可
侵条約を結ぶことを念頭においていた統制派にとって小林多喜二は
うるさい蝿のような存在になっていた。
「きみの計画を聞かせてもらおうか」
そういって東條は懐からメモ帳と万年筆を取り出した。
東條には面白い逸話がある。首相になってからも近所を徘徊しゴミ
箱の中味を調べ、それをメモしていたというのだ。
贅沢をしていないか、物資の節約(統制)が末端まで行き届いてい
るかを確認するためであったらしいが、その周到さは整備課長時代
にも発揮されていた。あらゆることをメモしてそれを記憶するクセ
があった。部下が語る物事の細部にわたる日付や場所をメモし、あ
とでその発言に齟齬があると厳しく追求したという。つまりメモ魔
であり記憶の天才でもあった東條はなんでも仔細に聴きたがるのだ
った。
そこで憲兵中佐の佐藤が語った計画は驚くべきものだった。
小一時間ほど詳細に渡って佐藤の話を聞き、メモをとって質問を終え
たあと東條は唸るように瞑目した。そこには軍の関与を疑わせるも
のは一切出てこなかった。見事な計画である。
「ますます君を見直したよ」東條は上機嫌にいった。
すると玄関の小門に立って「ご免ください」と声をかける者があっ
た。家人が急いで迎えにゆくとそこにはスパイ「M」、飯塚盈秋が
立っていた。

 

「なにがあった」
本庁の机の電話をとると相手はタキだったので思わず毛利は姿勢を
なおした。めずらしいことがあるものだ。
「今日、新聞の勧誘員だという男が来たんです」
昭和初年当時、もうすでに新聞の勧誘は盛んであった。新聞社の勃
興期で、各新聞社は専門の勧誘員を配達店に送っていた。
「ああ」と毛利はいった。その男のことはすでに報告が来ていた。
「心配しないでいい。あんたに危害が及ぶようなことがあれば監視
している刑事がとんでいくよ」
タキとその家族は二十四時間、特高の監視下にあった。彼女を尋ね
た新聞勧誘員と称する男は当然、尾行され、麹町憲兵隊の中に消え
たことが確認されている。
「そいつの身元はもうわかっているから」
「それで…..」とタキはいった。
「大事な話があるんです」
内容はいわずタキは日時と場所をいって電話を切った。

 

1933年(昭和8年)2月20日昼前、特高課長の毛利は東京市の東の果

て、市電の終着駅である須崎駅前に立っていた。
駅前には須崎遊郭の入口があって人や円タクで混雑していたが、の
ちに洲崎球場ができる江東区新砂一丁目あたりは造成されたばかり
で広大な空き地や湿地帯が広がっていた。遠くに東京湾を望む波の
音だけが聞こえるような寂しい場所である。
こんなところにタキは「ひとりで来て」といって電話を切ったのだ
った。まさか須崎遊郭で働くつもりじゃないだろうなと毛利が訝っ
ていると円タクから降りるタキの姿がみえた。
おうい、ここだと手を振るとタキが小走りに駆け寄ってきた。
二人は須崎弁天の社の裏地に向かった。震災にあった須崎弁天は都
市開発の影響も受けて周囲の喧騒から取り残されたように寂れてい
る。
「一体、どうしたんだ」
「多喜二さんが、あなたとここで待っていてくれと手紙くれたの」
毛利は訝った。
タキに届く手紙はすべてチェックしていた。それに毛利がタキを監
視していることを多喜二が知っているとも思えない。
「その手紙、こないだ来たという男があんたに渡したのだろ?」
「ええ」
見せてご覧といって多喜二が男に託したという手紙を読んでみた。

  すっかりご無沙汰していますが
元気にしてますか。
考えたのですがそろそろ表に出て
作家活動に専念したいと決断しました。
そこで特高の毛利課長に直接会って
話したいことがあります。
2月20日正午
須崎駅前にて待っています。

「こりゃ、デタラメだ! 多喜二はきみが漢字を読めないことを知
っている。奴なら、ひらがなで書いたはずだ」
「でも筆跡は多喜二さんにそっくりだわ」
おそらく連絡係りをしていた一条がもっていた手紙の筆跡を誰かが
巧妙に真似したのだろう。麹町憲兵隊の仕業だ。しかしそれをタキ
に説明しているヒマはない。
毛利は駅前のほうを眺め、当時普及し始めた灰色の電話ボックスを
みつけると猛然とダッシュした。
「どこいくの」タキはあきれている。
「家に帰って待っててくれ。あとで行く」
電話ボックスでは遊郭の歓楽に酔いしれたかのように昼間から酒酔
いの赤ら顔の男が電話をしていた。毛利はその中年男をボックスか
ら引きづり出した。中年男は激怒したが毛利が特高の警察手帖をみ
せると腰を抜かしたように低姿勢のまま逃げていった。
本庁に電話をする。すぐに警部補の中川成夫が出た。
「どこにいらっしゃるのですか。庁内はもうてんやわんやですよ」
「なにがあった」
「こちらに連絡もなく築地署のやつが小林多喜二を赤坂の溜池で逮
捕したようです」
「身柄は?」
「連絡がありません。どうやら築地署にもっていったようです」
「こっちにもってくるのが筋だろ!」
「はい、すぐに築地署へ急行します」
「おかしな動きだ。武装させた警官を十名ほど連れて行け。どうあ
っても身柄を確保するんだ」
「なにが起きているのでしょう?」
毛利は突然気づいたように警部補に尋ねた。
「たしか溜池から築地署までのルートの中間に麹町憲兵隊があった
な?」
「仰るとおりです」
「くそったれ!」と毛利は電話口で怒りを爆発させた。
「おそらく多喜二の身柄は麹町に運ばれたんだ。お前は築地へいっ
て多喜二がいるか確認しろ。いなかったら麹町に来るんだ」
「わかりました」中川は察したようだった。
「武装させたやつらを二十名ほど連れてくんだぞ」
やっと駅前に戻ってきたタキの手を掴んで毛利はいった。
「必ず家で待っているんだよ」
円タクを拾ってタキを乗せると毛利は別のタクシーを拾った。
こうなれば時間との勝負だった。

 

小林多喜二は麹町憲兵隊分隊地下の拷問室を改造した応接室の椅子
に縛り付けられていた。
そのまわりを憲兵分隊長佐藤中佐、日共東京地区委員の風間丈吉、
連絡員の一条実淳が囲み、後に多喜二を麹町に運び込んだ築地署の
特高刑事、山口武、笹井嘉兵衛、不破健、宮下長平の四名が立って
いた。
多喜二の顔は腫れ、和服は破れて、そこからはみでた脚や太ももは
傷だらけだった。もはや虫の息である。それをみて一条はおろおろ
とわめいている「だれか、今すぐ医者を呼んでください!」

一条はこの日、風間に呼ばれて多喜二を待っていたのだ。それが、

この有り様だった。一条の懇願には答えず佐藤憲兵分隊中佐は怒り

を含んだ声で四人の築地署員をねめ回していた。
「おいおい、どうしてこうも痛めつけて運んでくるんだ、おまえた

ち!」
憲兵隊の犬(スパイ)として飼っている刑事たち四人を怒鳴りつけ
た。「これじゃおれの出番がねえじゃないか」
健康体の多喜二を拷問にかけるつもりが、もはや死に体である。
「すみません、こいつ、思ったよりも力がありまして」
多喜二は眼も腫れてよく見えないようだった。髪はざんばらに垂れ
脱力したように肩を落としてうなだれている。
「風間さん、すぐに医者を呼んでくださいよ」
一条は泣かんばかりになっている。しかし風間はそれには返事せず
薄笑いを浮かべているだけだった。
「しょうがねえ奴らだ。こうなりゃ、もういいからお前たちで叩き
のめして、こいつの潜伏先だった場所と仲間の名を吐かせろ」
佐藤は椅子にふんぞり返った。
刑事たちは、薄暗い部屋で山犬のように目を光らせると、それぞれ
竹刀をもって多喜二をめった打ちにし始めた。多喜二は呻くばかり
で声を出す気力も失っている。
「中佐、これ以上は、こいつ、もちませんよ」刑事のひとりがいっ
た。
「おれが知るか。これはお前たちの仕事だ」
と佐藤がいったとき、地下廊下になだれ込む人声と叫び声が交差し
て聞こえてきた。
拷問室に乱入してきたのは銃を構えた毛利と配下の特高警察二十数
名だった。彼の背後からは同じくライフル銃を構えた憲兵隊十数名
がにじり寄って武装した特高課員と向き合っている。
入ってきた毛利は32口径の自動拳銃の筒先を真っ直ぐ佐藤に向け
た。それをみて佐藤はわめいた。
「おい、やい百姓! ジジィ! お前何をしているかわかってるの
か!」
「風間丈吉をかくまった治安維持法違反容疑でお前を逮捕する」
「こら、ここをどこだと思ってる。おめえら特高ごときが軍にケン
カ売る気かっ!」
それには答えず毛利は躊躇なく引き金を引いた。32口径の弾丸が
佐藤の肩を貫いたらしい。硝煙と血飛沫があがる。
「ひぃ~」と叫ぶと佐藤は床に転がった。「た、たいへんだ、血が
、血がでてる」
佐藤は人格が変わったように突然女のようなか細い声でおろおろと
悲鳴をあげはじめた。
まさか陸軍中佐の自分を一介の刑事ごときが虫を撃つごとく、ため
らいもなく撃つとは予想もしていなかったのだ。それは突然の恐怖
となって佐藤を襲った。
「このロイヤル自動拳銃は32口径だからおまえを殺すには何発か
撃たなければならん。でも、おれは射撃が下手だから、まかり間違
っておまえの心臓や頭にあたるかもしれないぞ。そうなりゃイチコロ
だ。」
そういって次の弾を発射しようとした矢先、廊下にさらに大きな足
音が近づいて、その相手をみて特高部隊が銃を下げる気配がした。
陸軍整備課長、東條英機が重武装をした兵隊を率いてやってきたの
だった。
「おい、毛利とかいったな、銃を捨てろ。皆殺しにするぞ」
部屋にはいってきた東條はこともなげにいった。東條が皆殺しにす
るといえば皆殺しになる。しかし毛利は顔色も変えず振り返って東
條の頭に狙いをつけた。
「軍のお偉いさんか何か知らないが、おれたちは内務省直属の特高
だ。その仕事を邪魔するならお前だって容赦しないぞ」
東條は一瞬、立ちすくんだ。予想外の毛利の態度に気圧されたのだ
った。「貴様、気でも狂ったかっ!」
顔を真っ赤にした。一瞬でも、毛利の銃口にうろたえた自分が恥ず
かしかったのだ。
東條はゆっくり軍刀の止め具を外すと、居合抜きの姿勢をとった。
32口径が致命傷を与えない限り、飛び込んで毛利を一刀両断にす
るつもりだった。
「ほほう、おれを殺れるかな?」毛利が嘲笑うと、肩を射抜かれて
血だらけの佐藤がまたしても悲鳴をあげた。
「東條閣下、やめて下さい。我々陸軍にとってあなたは….」とい
ったところで机上の電話が鳴った。
その場にいた全員が凍りついたかのように一瞬、動きをとめた。
相変わらず電話は規則的に鳴り響く。
佐藤中佐が立ち上がってやっとのことでそれをとった。
「はい」「はい」と頷く声だけが静かな拷問室に響いた。
しばらくして電話をもったまま佐藤は東條にいった。
「元老の西園寺公望公爵からです。あなたに銃を収めて帰れとおっ
しゃってます」
「西園寺公が!?」
東條は緊張を解くと、不審げに毛利をみた。
今上陛下の側近で最後の元老といわれる西園寺公の命令を聞かない
ものなどこの世にいない。それはつまり昭和天皇の意志でもあるの
だから。
東條は是非の判断が速かった。「全員、銃を収めて撤退だ!」配下
の兵士に命令を下した。
軍刀から手を離して毛利に背を向けて出てゆく東條の肩は心持ち屈
辱に震えているようだった。
「それから、毛利! おまえにだ」佐藤は肩を押さえながらしぶし
ぶ電話を手渡した。
電話をとった毛利に西園寺公のしわがれた、しかし威厳のある声が
響いた。「きみの行為は万死に値する。むかしなら一族皆殺し、関
わった部下たちは全員斬首だ」
「はい」
「しかし、きみが今回の不始末を特高の責任として全部引き受ける
のなら大目にみよう。きみのような逸材を失うのは如何にも惜しい
。但し、くれぐれも軍部の名を出しちゃいけませんよ」
「わかりました」
毛利はうやうやしく電話を切った。どうしてこんな大物が出てきた
のか毛利にもわからない。決死の覚悟で来たのに命拾いしたことが
不思議だったが、すぐに部下を振り返っていった。
「多喜二を病院に運ぶんだ!」

 

晩年、西園寺公望が住んだ別宅は荻窪にあった。西園寺自ら「荻外
荘」と命名し東京の隠れ家として利用していた。
別宅といっても全体が臙脂色に統一された、洒落た洋館と和風の折
衷造りで、その臙脂色の支配を打ち消すように円形のテーブルには
鮮やかな緑青色のクロスがかかっていた。
その上に置かれた一台の電話台に受話器を置くと西園寺はため息を
ついた。
「これでまた軍部から怨敵のように目を向けられるな」と後ろに立
っている側近の原田熊雄にいった。原田は長い間、西園寺の「耳目
」となって政界や軍部の裏面情報を収集し、報告する役割を担って
いた。いわば西園寺の懐刀だった。
軍部が皇軍派と統制派に別れてそれぞれグループを結成して以来、
西園寺は激怒していた。両者の諍いが今上陛下を煩わせていたから
だった。そこで西園寺は原田を使い両グループの動向をずっと探っ
ていたのである。
原田に東條──佐藤ラインの謀略に関する情報をもたらしたのは日
本共産党最高幹部の飯塚盈秋だった。
驚いたことに飯塚盈秋は毛利を救うために捨て身で東條のもとに潜
り込み、飯塚だけが知っている多喜二と連絡をつけることができる
秘密ラインの存在を佐藤中佐に教えたのだった。しかも、そうやっ
て東條らを懐柔し、かれらの企みを知ると西園寺の密偵である原田
に東條らの謀略情報を流したのである。
「憎むどころか軍部は閣下に感謝すべきでしょう」
原田はかしこまってそういった。「お陰で大変な醜聞が立ち消えに
なったのですから」
「介入なんかしたくなかったよ。統帥権をもつ陛下の名誉のために
仕方なくやったんだ」
「それにしても東條、毛利、こやつら二人とも国のためになります
まい」原田がいった。
「いや。始末するのもいいが、考えてみれば、これほどのことをや
ってのける。どちらも我が日本国にとっては逸材だ。しばらく様子
をみよう」

 

1933年(昭和8年)2月22日、小林多喜二の遺体は馬橋の自宅から数

キロ先にある落合火葬場に運ばれ、そこで荼毘に付された。
火葬場の周辺には畑が広がっておりそこに火葬に訪れた人たちが休
憩に利用する「待合茶屋」がノレンを風にはためかせている。
「茶屋」といっても民家の一階を開放した広い畳敷きにちゃぶ台を
置いただけのもので毛利と田口タキは、他にだれもいないそんな茶
屋のひとつに入って火葬場の煙突から上がる煙をみていた。
「結局、あんたの彼氏を救けられなんだな」
生涯、口を閉ざすことを約束に多喜二の死に至る経緯をすべてタキ
に語った毛利は脚を投げ出して脱力したようにいった。
すると突然タキは座ったまま身体を後ろに引いて頭を畳に擦り付け
た。
「おい、なにをする」
「ありがとうでした。ほんとうにありがとうでした」
「バカなことするなよ」
「いいえ、あたしがバカでした。課長さんを信じて、多喜二さんに
会って、自首をすすめるべきでした」
毛利は頭を畳に擦り付けているタキをみて吹き出した。
「あのなあ、多喜二みたいな奴は、結局はどこへいっても横紙を破
って、生き急ぎするのが関の山だっただろ」
するとタキは毅然として頭を挙げた。
「結局はというのなら、結局は多喜二さんは何一つ悪いことはして
なかったでしょう?」
不意をつかれて毛利はタキをじっと見た。
そういえばそうだ。小林多喜二は人から殺されるような悪いことは
何もしていなかった。それは出会ったときからタキがずっと主張し
てきたことだった。
「治安維持法違反というのはそういう罪なんだよ」
毛利は居心地が悪そうに後ろ首を掻いて弁解した。
悪いことをしてなかったといえば多喜二と手紙のやりとりをしてい
た壷井繁治、栄夫妻がじつはスパイM、飯塚盈秋にうまく利用され
て小林多喜二をおびき出すことに加担してしまったことも仕方のな
いことだった。巷間、今村恒夫が特高のスパイだったといわれてい
るが、それは違う。今村は飯塚にいわれたとおり小林多喜二を呼び
出したにすぎない。今村は共産党の指導部の命令に忠実な一共産党
員にすぎなかった。
「おれのためとはいえ裏切った飯塚も、風間も、どいつもこいつも、
いずれ捕まえてやる。おれが捕まえた連中のほとんどは転向
してから正反対の方にいってしまったが、多喜二ってやつはそうい
う輩とはまったく違ったタイプの奴だったかもしれんな」
毛利が述懐すると、
「お礼をいってなんだか損したような気がしてきた」
と、タキはむくれ面になった。
「でも、課長さん、どうして命がけで憲兵隊に殴り込むなんて無茶
したんです?」
「さあな、今から思うとどうかしてた」
今度はタキが微笑した。
「でも、やっぱりありがとう」再びタキがぺこりと頭を下げた。
(いや、おれはただ、多喜二が殺されるのが、まるで自分が殺さ
れるような気がして、必死になっただけなんだよ)
毛利は心の中でそう呟いていた。

 

 

暗殺の血①
https://hametuha.com/novel/108451/
暗殺の血②
https://hametuha.com/novel/108773/

© 2026 礼 室町 ( 2026年2月26日公開

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