薄雲が空から降りてきたような濃淡の霧が風に流れさ
れて対岸の工場群のノコギリのような黒い切妻屋根を
消してゆく関門海峡の埠頭に立っていた。
せわしなくゆれる濃い緑色の海の上を使い古したタグ
ボートが行き来するこの港町はかつてドラマの舞台だ
った。
食いつめた麻薬売人や娼婦や半島から流れてきた異邦
人たちの、辛子の効いた愛や裏切り、暴力、別れと出
会いが匂いたつ。
中には小説家、林芙美子の自伝に描かれた一家のよう
に子どもの手をひいた不倫夜逃げの夫婦もいたのだろ
う。なんと無垢で哀れな愛欲だろう。
そういった擦り傷のある純情がこの港町にふさわしい。
斜めに傾いた電柱と野良犬が背景にあるような荒んだ、
崩れ落ちそうなアパートがもたれあっている横丁で、
幾度も幾度もニンゲンのモノガタリが生成されたに違
いない。
泣いてもいいし殺されてもよかった
孤独でいるよりは。
朝から開いている店が見つからなかったので鉄骨だけ
で出来た階段のある、アパート一階の中華ソバ屋に入
った。
無口で無愛想な夫婦がやっていた。
客はひとりもいず、まったく期待していなかったとおり
まったく不味いラーメンだった。
さびしい食事だったけど帰りぎわに
「ごちそうさま」というと
ホール係の女房のほうが初めてにこりと笑って
「どこからおいでったの?」
と聞いてきた
「大阪です。西成って知ってます?」
「へえ、うちらも、前にあそこに住んじょったっちゃ」
まだ昏い未明 バイクに乗って大阪を出発し 中国自動車
道をひたすら走って4時間で下関についた。
平均時速は150キロを越えていた。
暁方の中国自動車道のことだからバイクにとっては貸
し切りのようなものだった。
途中、ハイウェイ・パトロールの高速パトカーとすれ
違った。170キロほどの速さで屋根の回転灯を眩くきら
めかせながら大きな弧を描く湾岸部を流星のようにす
べり、あっという間に消えていった。
あとで聞いたところ中国自動車道では少々のスピード
違反でいちいち捕まえないという。制限速度に反して
いない車など一台としてないからだ。あるいは緊急事
態が発生してかまっている場合じゃなかったのかもし
れない。
奇遇だということで奥さんとは、ひとしきりよもや話
がはずんだ。
話してみるとお喋り好きでよく笑う人だった。
旦那の方を見るとカウンターに入ってうつむいたまま最
後まで口を利かず顔をあげようともしなかった
最高出力58馬力6750rpmを発揮する745ccの2気筒エンジ
ンはいつも静かだ。高速走行時は抵抗がないせいかさらに
静寂を保っている。
あの、街なかをバリバリ音を立てて走る下品なバイクや、
見かけに反して半日も走れば疲れるアメリカンクルーザー
と違って前傾姿勢で何時間走っても疲れない。
750ccでも十分なのだが 欲をいえば1000cc以上が欲しかっ
た そうすれば150キロで走っても裏庭を静かに散歩して
いるようなものだ。
西成のあいりん地区から下関に来たという初老の夫婦はど
うみても訳ありにみえた。
あいりん地区はスラムドヤ街である。
旦那はリタイアしたヤクザ者のように陰があったし、奥さ
んはそういう日陰者にも黙ってついていくような素朴さと
明らかさがあった。
ファミマやレストランは利用するには便利だがうらびれた
中華屋も悪くない。
ラーメンの味はいまいちだったがこんな風に突然思い立っ
て九州の鼻先に立つような寂しい流れ者にとっては、そん
なモノガタリを垣間見させる断片のようなものでも心に残
る贈り物になるのだった。
中華ソバ屋を出てバイクに跨りエンジンをかけた
これから大阪に戻れば昼過ぎにはコタツに入ってうたた寝
をしているだろう。
暁方と朝のあいだに150キロをとばして拾ってきたモノガタリ
を枕に
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