10.対話ノ楽園
「ちゃんと食べてるの?」
側頭部に空いている、音を食う小さなブラックホールが夏生の言葉を一文字分の厚みに噛み潰した。
「お昼は?食べたの?」
その奥の薄い膜状の地平面を通過して黒い塊になった言葉が、気道の特異点に沈んで重さだけを残す。
——男できちゃった。ごめんね。
電話の3分前まで頭蓋骨の裏側に貼り付いていた台本はその重みで歪み、眉間の皺になって消えた。
「食べてるよ。」
音を出さないように気をつけながら菓子パンの袋を右手で丸め、コーヒーの空き缶と一緒にレジ袋に入れる。
「ハルはいい子にしてる?」
「まあ、うん。」
スマホを右手に持ち替えると、硬いパラコード編みのリードが左手首に残した擦過痕を袖が削る。
「明後日帰るから、もう少し頑張ってね。」
電話を切り画面を見ると、午後の始業時間を8分も過ぎていた。昼寝用にセットしていたアラームの通知を親指で投げ捨てる。
†
「お先です。」
「おお。そうだ、これやる。犬、うちはもう使わないから。」
†
ここの芝生はオフィスの床や摩滅した通勤路のように俺を跳ね返さない。林や水辺と草むらは輪郭が曖昧で、俺を四角く閉じ込めたことは一度もない。
ハルと歩く芝生は重く、代わりに俺の身体は軽い。
「ラッキー」と掠れた手書きの文字が残る、年季の入った重い伸縮リードをハルの首輪に着けてボールを投げる。
ハルが芝生を土ごと蹴散らして走る。リールが悲鳴を上げて伸び切り、ガツッとロックすると肩が抜けるような衝撃、次の瞬間俺は芝生に叩きつけられていた。
ボールを拾ったハルは戻って——来ないのでリードを巻き取りながら追いかけて奪い返し、涎まみれのボールをまた投げる。
ムキになったハルのひと噛みでブシュッという断末魔を吐き、百均で買ったビニール製のハルの獲物が死んだ。池の方からウシガエルの鳴く声が聞こえてきた。
†
ガラクタを押し込んだクローゼットを開けると、ハルがズタボロにした下着や雑誌がなだれ落ちてきたので、全てゴミ袋に叩き込んだ。
帰りに買った「三段仕込みの欧風黒カレー」を温め、「新発売」のシールが焦げた蓋を、ドアノブにかけたプラゴミ袋に突っ込む。
「ハル、飯。」
「ドッグブリーダーズ・セレクト」の大袋から、豚肉と堆肥を混ぜて薄めたような匂いの乾いたペレットを掬って床に置く。
三日分の洗い物、シャワー、髭剃り、歯磨き。冷蔵庫でキンキンにした水道水を一口、椅子に腰掛けて映画の続き。
——コンクリ打ち放しの部屋、チャコールグレーのスエードのソファに身を沈める白いシャツの男が、チタン製のスマホを見ながら鈍い金属光沢を放つ黒の湯呑みを、ゆっくりと天然木のテーブルに置く。足元には石像のように伏せる銀毛のガンドッグ。——
映画を止め、部屋を見渡たす。照明を消し、画面の割れたスマホで時間を確認してから電源を切り、裏返して机に置いた。
——バリバリッ。
モニターの明かりに照らされた黒い災厄がソファの死体を切り裂くのを見ながら、俺はベッドに入った。
"春10|アイの楽園—俺と彼女が犬に食べられるまでの365日"へのコメント 0件