床が軋む。玄関の鍵が外され、冷たい夜の外気が部屋へと吹き込んでくる。子供は玄関の取手に手を乗せながら、そっと振り返った。寝室の扉からうっすらと光が漏れていたが、母が寝返りを打つ音以外は何も聞こえない。
少年は確信したように、ゆっくりと扉を押した。開ききった重い扉から夜の暗闇が紛れ込んでくる。少年は心が踊るようだった。漏れでそうになる声を必死に噛み殺し、裸足のままスポーツシューズに足を埋め、駆け出す。
家を出れば、もう見慣れた長い畦道が広がり、遠くには祭りの赤々とした炎が見えた。間に合った。少年は思った。
この田舎に引っ越してからというもの、月末の深夜にだけ催される祭りがあることを知り、彼はずっと行きたがっていたのだ。
だが、母に言っても、彼女は決して連れていってくれようとしなかった。「いいでしょうめんどくさい。田舎の祭りったって、東京でいっつも開かれてるイベントとは訳が違うのよ。チョコバナナどころか、そもそも出店がないのよ」「じゃあなんのお祭りなの」「なんてーの、それはさ、民族的なの。未開の地に住んでるアフリカ人みたいなことしてんの」母はそれだけいって立ち上がり、逃げるように寝た。
でこぼこした道を踏みしめる。皮膚に直で履いた靴は蒸れて気持ちが悪かったが、祭りを見ることへの高揚で少しも気にならなかった。一歩踏み出すたび、ゆっくりと家の灯が引いてゆき十メートル間隔で置かれた電灯だけが足元を照らす。寝間着の繊維を風が通り抜けて背中の汗をさっと冷やす。無我夢中で走った。側溝からは轟轟と滝の音がしたが多分用水路だ。山の麓まで来ると少年の息は荒くなり始め、肋骨にズキズキとした痛みが生じ思わず立ち止まる。服は汗でびっしょりと濡れ、全身に羽虫がたかっていた。顔を顰め腕や腿をさする。脇をバスが通った。大きな、市で運営しているようなバスで、だが少年はこの田舎に来てから一度も公共交通機関を見ていない。
この深夜に、バス?
ヘッドライトが山の木々を照らしている。木々の狭間から動物の瞳のような反射光がちろちろと漏れ出ていた。
バスは少年の目の前で止まった。窓にはカーテンがかけられ中の様子は伺えなかった。大きなクラクションがなる。くすんだ灰の髪をした男性が運転席から顔を出し叫んだ。「おい、坊ちゃん、何してる」バスの照らす木々から反射光は消え、代わりに老人の目が白く光っていた。バスの中から声が聞こえた。どれも老人の声だった。「祭だベェ」「乗せてってあげんさいよ」私は答えることができず、ただ固まっていた。だが運転手は再び身を乗り出すと「あぁ、坊ちゃん、十三詣りに来てらったのか。だから麓まで一人でなぁ」
老人は、私を急かすようにしてバスに乗せた。バスはごく平凡な内装で、だが乗車しているのは老人ばかりだった。その中には隣に住んでいる老婆もいた。彼女は隣に座る青いカーディガンを羽織った、少し若い、と言っても母よりは十以上年上であろう女性と話していた。老人たちはこうして、まるで観光ツアーのような雰囲気で毎月祭りに行くのか。少し拍子抜けだった。
少年が席に座ると、老人たちはひっきりなしに話し始め、少年は黙って最後列の座席に座っていた。バスが低い唸り声を上げて坂を登り始める。緩い坂だった。山もただ木が多いだけで、高さはあまりない。窓から外を覗く。道は整備されていなかった。土の露出した踏み固められた太い道にはみ出した枝や羽虫がひっきりなしに窓にぶつかるたび鈍い衝撃が座席に伝わった。視線を窓に固定したまま少年は老人たちの会話に耳を澄ました。老人は、一般の年老いた人間がそうであるように若い自分に興味を示すこともなく、黙々とまるで義務のように話し続けているのが不思議でならなかった。「なんにせよ何にもなく祭りが終わればいい。男の子供のお詣りなんか久しぶりダァ。私たちも子供もマガスたら大変だべな」「ほんとだヨォ。おっとさんいねぇっきゃマガスた責任は自分一人でとらねばなんね」あんな枝みたいに細っこい子がねぇ。老婆二人が私の背を見ているのがわかった。マガスというのが一体どういうことなのか、祭りとは一体何をする場所なのか、聞きたくても聞くことができない。しばらく坂を登り、ヤンキースの帽子を被った七十くらいの男が乗り込んできた。運転手と何やら雑談をし、少年の方を意味深げに見つめたあと数度頷いて、オラもひさすぶりだな、男で儀式やるのは、と言った。ズンズンバスの中を歩いて少年の隣に座る。歳の割に足は滑らかに動くようで、静脈の浮き出た腕も未だ筋肉は衰えていないようだった。様子を見ていたことがばれないようさっと顔を背ける。バスはまだ森を抜けないようだったが、道幅は少しずつ広くなっていた。あの広場まであとどのくらいだろうか。
「おめぇ、おっとつあんは。」老人が急に話しかけてくる。老人が乗ってきてから、バスの中はいつの間にか静かだった。少年と老人以外誰も喋ろうとしていない。代わりに全ての老人が後ろを見ていた。「いないんです。母親が、父親を嫌いになったので」もしかすると、祭りはもう始まっていてこの詰問も何か儀式の一部なのか。邪推が頭をめぐるが考えないことにした。自分が、何やら恐ろしいものに足を踏み入れようとしていることだけがわかった。老人はしばらく黙ったが「……ジュウサンマイリでるだ、ゆったどしてらばマガスでぇ」それだけ言って席をたった。今度は最前列に座って運転手と話し始めた。他の乗客も、それを境にどっと話声が溢れる。どうやら友人のようだ。彼らは数度笑いながら、バスはいつしか山の高台についていた。
今までの道からは想像がつかないほど高台は整備されており、入り口には赤いペンキで月極駐車場の文字もあった。約訂済みの三角コーンが至る所に置かれていたが車は一つもない。
バスは止まり、ヤンキースの帽子を被った老人を皮切りに、他の乗客も降りた。少年は列の最後尾についた。バスの扉をくぐる。むっとする熱気が体を覆い重くのしかかる。ここでも、水の流れる滝のような音が聞こえたが、どこに水があるのかわからなかった。バスの前で立ち尽くすうちに、慣れた手つきで老人たちが準備し始める。高台のはじに置かれた、雨でも消えないように傘をつけられた篝火が中央まで運ばれ、背の高い老人が腕ほどの太さと長さの薪を篝火の先へ伸ばして火をつけた。放射状に並べられた松の枝の塊に火がもたらされる。彼らは聖火を扱うかのような丁寧さで準備を進め、火が完全についたのを確認すると、マキが燃え尽きないうちに早く、早くと鍋を持ってき、黒いゴツゴツとした塊を持ってきた。手伝おうとしたが断られた。
ヤンキース帽の老人が薪の前に立つ。他の老人が一斉に静まり返り火のついた薪の周りに円状に集まる。
アーーァアーーアーー
奇妙な節をつけて老人が叫ぶ。私はこのまま棒立ちしていて良いのかわからず老人たちの円へそっと近づいた。隣の家に住む老婆の横に割り込む。迷惑そうな顔はしなかった。それどころか、こちらを見てすらいなかった。
アーーァアーーアーー
ヤーレトリャノセーイ
合いの手のように、今度は周りを囲う老人が叫んだ。
ヤーレトリャノセーイ
強い風が吹く。篝火にともる聖火が頼りなげに揺らぐ。ヤンキース帽の老人は節を止めない。
老人の声は、火の芯に絡みつくように上下し、いつしか言葉の意味を失って、ただの息と音程だけが残った。周囲の老人たちは目を閉じ、ある者は唇を噛み、ある者は両手を前に差し出して、炎の熱を測っているようだった。少年は、自分の鼓動がこの節に合わせて速くなっているのに気づき、理由もなく喉が渇いた。
合いの手が一段落すると、鍋を持ってきた老人が篝火の前で立ち往生した。黒い鍋底が赤く照り返し、持ち手から白い湯気のようなものが立ち上る。だが、鍋を下ろす場所がない。地面は乾いてはいるが、そこかしこに石と根が張り出し、火に近づけすぎれば倒れるのが目に見えていた。
「ここじゃ、芋煮はできねぇな」
誰かが呟いた。別の誰かが苦笑いをし、「毎度のことだべ。もう何年も十三詣りなんかしてなかったすけ、芋も米も炊かなくなっちまってよ」と応じる。祭りの中心に据えられた火は、祈るための火であって、煮るための火ではない。鍋を囲む輪ができかけては崩れ、老人たちは所在なさげに立ち位置を変えた。
「川原がありゃいいんだがなぁ」
「前は、下の段さ降りてやってたっけ」
「もうあそこ、道ふさがってら」
言葉の端々に、場所を失った記憶が混じる。芋と肉と、こんにゃくと葱が、この山のどこにも落ち着けないまま、鍋の中で待っている。座る場所、鍋を置く場所、笑い声が逃げていく場所。ここにはそれがない。
「昔は毎月のようにやったんだが、もう十三の子供なんかいねがら、みんなやり方忘れちまって」
ヤンキース帽の老人が肩をすくめ、「今日は声だけダァ」と言った。老人たちは再び円を作り、今度は火を中心に、何も置かないまま立った。鍋は端に寄せられ、誰も触れなくなった。
少年は、自分が何を期待してここまで来たのか分からなくなっていた。赤々と燃える炎も、聞いたことのない節も、芋煮の匂いの代わりに立ちこめる焦げた松脂の匂いも、すべてが正しく、同時にどこか欠けている。欠けているのは場所だ。だから彼らは声を出す。声なら置ける。どこにでも。
合図もなく、再び節が始まった。今度は老人たち全員が声を重ねる。少年も、気づけば喉を開いていた。言葉の意味は分からない。ただ、声を出すと、ここに立っていられる気がした。
火は高くなり、影が伸びる。影の中で、鍋は黙って冷えていった。
少年はふと、父のことを思い出した。
この村に来る前、父は月に一度だけ、夜に迎えに来ていた。約束の時間を少し過ぎて、駐車場の端に車を停め、エンジンを切らずに待っていた。少年は後部座席に座り、父は前を向いたまま、何も聞かなかった。あのときも、二人のあいだには場所がなかった。帰る家も、腰を落ち着ける場所も。
ここにいる老人たちも、同じなのだと少年は思った。
かつては川原があり、畑があり、鍋を置ける場所があった。人が減り、道が塞がれ、残ったのは声だけだ。声だけなら、失われずに済む。
合図もなく、再び節が始まった。今度は老人たち全員が声を重ねる。少年も、気づけば喉を開いていた。意味は分からない。ただ声を出すと、父といた夜も、この村の夜も、どちらも同じように遠ざかっていく気がした。
明滅する電灯には数十匹の悍ましい虫の影が光に群がり黒いカバーにぶつかったり離れたりを繰り返している。一匹が、傷ついた翅を動かしながら力無く地面に落ちた。ゴトリ、と固形物の落ちる音がするのを少年は聞いた。振り返ったがそこには何もない。あかりがチカチカと明滅する駐車場があった。少年はまた祭りに戻っていった。神輿を担ぎヤーレトリャノセーイと一際大きな声をあげて駐車場を練りあるいた。篝火は、深夜の間中、煌々と夜空を照らし続けていた。
浅谷童夏 投稿者 | 2026-01-23 01:35
不気味な味わいを楽しめました。はるか昔の少年時代、夜中に裏山の階段脇に蝋燭を立て、登った上の祠でやっていた、我が親族の特殊な氏神祭りがちょっと似た雰囲気で、非常に怖かったのを思い出しました。
眞山大知 投稿者 | 2026-01-23 07:01
小説全体に漂う、不気味だけどどこか神聖さを覚える雰囲気がいいと思いました