この森の奥にはね、無料でおせちを出してくれる、謎の古民家があるんだよ。
両肩に金銀の斧をマウントした垢まみれの爺は、竹藪から出てくるなり俺にそう言った。俺は絶句し、意表という意表を突かれて即座に強直した。
爺は、裸身のそこかしこがウルシでかぶれフルーチェのようになっていた。陰部にはクマザサを貼っていた。
お前の得体がいちばん知れないよ、と魂から返答が涌き上がるころには、彼は警察に連行されていた。俺の手には緊急通報システムを開いたスマートフォンがあった。
寝て起きて、三度日が昇るのを見た。
俺はふと、あの時の爺の口の動きを思い出していた。
無料で、おせち。
思わず、その昆布巻きみたいな唇を唇で塞ぎたくなるくらい、甘美な響きだ。
栗きんとんよりスウィートなキスを想像した俺は強かった。
全身にコールマンのアウトドア用品を着込み、ザックから藪刈りガマを吊るした姿は、ヒグマですら怯む威容を放っていた。
爺の出てきた竹藪を開き、巨大な泉にクソをして、子どものころから見知った森の、知らない場所を歩き続けた。やがて煮崩れた芋のように削れた谷底に転がるようにして、一軒の家があるのを見つける。
インフラも、畜生の気配もない。人間の住居である確率は、限りなくゼロに思えた。
戸を叩く。
はあい。
過不足なく応答する老婆の声。不足のどん底から響いてくるには不気味だ。
入るか、入るまいか?
馬鹿が。
逡巡は毒だ。振れる賽はすべて振れ。後悔と躊躇は幸福を漸減させる。
戸を素早く横に開くと、三和土に正座した全裸の老婆が、白磁らしき皿の上にどす黒い物体を載せて差し出してきた。
「こちらヨウリュウです」
「いただきます」
何も知らぬヨウリュウ、信念に掛けて喰らう。大きさ、この掌ほど。質感、かりんとうじみて硬くべたつく。岩を握る拳のように隆起している。それを両手で掴みかかってとにかくムチャクチャに喰らった。触感に違わず異様に硬質。前歯が軋む。C3の虫歯を患った犬歯が、砕けそうなほど痛んだ。
だから何だ?
これはおせちか?
いや違うだろう。
だから何だ?
俺は運命よりも前に進みたいだけだ。砕け散った門歯に構わず、全力を込めて噛み割る。
脳みその何かが弾けた音がした。
途端。視界の彩度が、これほど、と思うほどに増し、鼻梁に森林の風が通い始めた。バスロマンで浴びる偽物の香気とは、何もかもが違っていた。
両の耳は赤子のようにこの世のすべてを聴許しており、全身の表皮は粘膜のように敏感ながら角質のように無痛だった。
世界は、鼓動していた。
ポォンパァン。
廊下の向こう。古びた玄関ベルが鳴る。
背後、気配ならざる気配。閉じた戸を隔てたそこに、知能も格も持たぬのに、それに擬して動くものが、いる。存在のみがあるとでも言おうか。
「はあい」
裸身の婆は、寸分違わず応対する。Like a robot.
俺はそいつの姿を見ようと、戸を開く。
女がいて、若かった。
想像ではギリシア人がまとう感じの、白い布を着ていた。
「あなたが落としたのは、この金の物体ですか」
女は右手に、やや湾曲した筒状物体を握っており、それは黄金色に輝いていた。そして左手にはまったく同形かつ銀のそれが握られてあった。
見ているとプードルを思い出す感じの、やや毛羽だった質感のそれは、紛れもなく俺が道中の泉に解放したクソだった。
両肩に金銀の斧をマウントした爺と、『金の斧』の寓話とを、俺は同時に思い出した。
「いりません、だってクソだから」
遮るように婆が、こちらヨウリュウです、と言った。俺の時とまったく同じ声だった。
「ではこの銀の物体ですか?」
俺の返答にのみ応じて、女は銀のクソを差し出してそう言った。だが、直後に婆の言葉を処理し終えたかのように視線を移すと、微動だにしなくなった。
五秒。静寂、だれも動かない。
はじめに婆の握力限界が訪れ、プルプルと震えた手から皿が落ちた。女に付随して湧き出している泉の底に、ヨウリュウと皿がボチャンと沈む。すると女は、雷撃を浴びたように痙攣を始めた。
「【#NUM! IFERROR=(itemdrop>2,”質問を再設定します”)】 質問を再設定します。あなたが落としたのはこの金のヨウリュウですか」
「ヨウリュウはね、ヨウリュウはね。今のでね、なくなってしもたわい……!」
婆は、まるで夜叉のようにおそろしい形相に変じると、くらあああああああああああああああ!!! 叫ぶやいなや靴箱からマサカリを取り出して俺を押しのけ、女に大上段で斬りかかった。三和土に変な色の血飛沫が飛散した。
女は機械のように質問を繰り返しながら、婆とともに泉の底に沈んでいった。
何もなくなって、空っぽの家と俺が残った。
運命の先で、俺は血便のような夕陽を見ていた。光はおそろしく鮮やかだった。
森の向こうに、俺の帰るべき場所はもうどこにもないのだと分かった。ここに暮らすしかないのだと分かった。
この時間のカラスが、いつも何を鳴いていたのかが分かった。
遠空に滲むムクドリの大群を、翼もつ龍が喰らいながら翔んでいく。
夕陽は目玉で、星々は生命を咀嚼していた。
俺は常識の軛を逃れ、境界を越えたこの場所から生きていくのだ。
上等!
世界は、鼓動していた。
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