1.ジャイアン
ジャイアンは厳しく、乱暴な親から強い男としての在り方を学んだ。女の子は小さい時から他人の心を読み、共感することで親に褒められるが、男の子は自分の心を我慢して褒められる。女の子は泣く人に自分も悲しみをわけてもらい、コップから今にも溢れ出しそうな水を共有することが、一方で男の子は、自分は泣きたい気持ちを我慢することが是とされ、雨風にさらされても耐え、立ち続けるデクノボーと呼ばれんとする。のび太は優しく共感することでしずかちゃんと仲が良く、同時に自分の気持ちに正直だ。ジャイアンはその行動と裏腹に、そんなのび太を羨ましいとさえ思うが、人に手を差し伸べる接し方を知らない彼は、次第に暴力性を増す。好きの表現をできない彼はのび太をいじめ、しかし彼にとってのいじめは好きの現れ方となる。人の感情を察し、共感できるのび太は徐々にジャイアンの気持ちに気がついていく。
有無を言わず彼の暴力という表現の手段を甘んじて受けるのび太は、歯止めの効かないジャイアンの気持ちと距離を置くことを決心する。しかし、上手くいくはずがない。ジャイアンは自宅に押しかけ、大きな声で「野球しような、のび太」と約束をこぎつける、こじつける。約束というのは恋愛関係と同じく、二人揃ってその間に生まれる何かを指すが、二人の自ずと抱いた感情の至った形ではなく、ジャイアンの誘いはいかにも犯罪的な「付き合おうな、のび太」というふうの、ジャイアンの人工物に過ぎなかった。きっとのび太は、「友情」を辞書で引いた際に出てきてもなんら違和感のない、相手の気持ちを考えるという配慮のない、ジャイアンが自分の気持ちを反故にした、あのやり方は気に入らなかっただろう。もっともそれは予想に過ぎないが、現にジャイアンは、いやジャイアンこそ自分のやり方が気に入らなかった。思い返してみると自分はそんなことはしたくなかったはずだった、そう思い至るほどの時間を、河川敷のグランドで自省していた。落ち葉が右から左へとドリーズームされたかのごとく流れた。既に流れ、経っていた時間を、のび太ごときと形容したくなることに使っていた自分になによりも許しがたかったが、やがて約束を、自分を反故にすることに怒りの気持ちを隠せず、のび太の足取りを追う。のび太の行き着いた先はしずかちゃん宅のお風呂場だった。壁越しに頭半個出してその現場を見ていたジャイアンは、スネ夫に一部始終と気持ちを全て打ち明けた。だが、本当はスネ夫はジャイアンを想っていたのだ。スネ夫はのび太を愛するジャイアンの一面をかねてから知っており、素直にのび太の前に顔を出せないジャイアンを心配し、自分が仲介役を演じていたのだ。
2.出来杉
忘れ去られた鬱蒼とした木々に囲まれた村には、ひとつのロボットをめぐる奇祭と時の狭間で今もなおもがき苦しむ人々があった。
散らかった部屋で机に手を置いて新聞を広げる。昨晩から開けたままの窓が風の声を伝うように、小刻みにカタカタと音を立てる。昔はテレビの横に置かれたサブウーファーからベートーヴェンを流し、コーヒーを飲むルーティンを繰り返していた。今は使い古したコードレススピーカーがテレビの上に置かれているだけで、使い古したと言ってもそのスピーカーで音楽を聴いて劣化したのではなく、ただ立つ木が雨に濡れて朽ちるようにただ呆然とそこにいるだけだった。
「まるで俺の人生のようだ」
まるで語りかけるような窓の音に返事として認識されることもなさそうな大きさで言った。目覚めの一杯と称して、理由づけて飲むが、本当の理由は過去のルーティンを続けること自体になにか意味があり、自分は過去と繋がっている感覚を保っていたかったのだった。
Bluetoothでワイヤレススピーカーに接続しているのみだが、音楽を流さずとも、今は自分と一体化したスマホが唯一つながっている機器こそ、自分の生きる証に感じた。
「朝からアイリッシュなんてなに考えているのかしら。あんた、仕事は?」
神経を突き刺すような高い声で言われた。左にアイリッシュ、右にタバコを置いた机をみて、救急車のようなタバコが灯す点よりも明るく光さす窓が、空いてから時間経っていたことに気がつく。
いつだったか観た映画、『僕を育ててくれたテンダー・バー』の登場人物が言ってたことを続けてた自分にも気づき、驚く。登場人物の彼は、バーに行ったら男はスコッチではなくジンを頼み、それを左に、右にはタバコを置かなければならないと言っていた。なにかの作品に登場したウィンストン・チャーチルが言っていたことも思い出した。そのシーンで彼と話すジプシーは小舟でうまれ、しかし成功した後にイギリス大自然に囲まれたところにぽつんと存在感を現す大豪邸に住む。スコッチを好み、飲み、やがてはアイリッシュを飲む。タバコに火をつけた後に飽き、葉巻に目が移る。惰性のループだ。
これもどこで聞いたのだろう。神は二物を与えないと言う。しかし、今の自分には大切な人がいる。神は二物を与えてくれなくてもよいと思わせてくれるものが、いや神がなにかしらの運命の糸を操り、幸せをわけてくれたのだろうし、私に「赦し」の心をあたえてくれた。教会に行けば神と出会える。神は十字架にくくりつけられてそこにいるが、出会えはしない。その点、このほこりが乗ってはいるが、その写真立てにうつる彼女はそこに、そばにいる、いてくれる。彼女との幸せと神が死んだとしても、その写真にうつる彼女は口角を上げている。私と彼女の間に幸せがあったことを証す写真は、戻りたい過去の断片をスナップし、置き去りにせずともそこにいてくれる。今どうなのかはさほど重要じゃない。私が感じているこの「今」さえも、その今の連続によって過去となるのだから。過去に幸せであったのならば、写真の中で生きてくれる。
また今の連続によって過去が積み重ねられれば、なにもかも古いとされる。この立ててある写真も、それをうつした機械もそうなる。未来からきたひみつ道具も既に過去となったのだから。
今思えば、私は彼からひみつ道具を奪えばよかった。まさかこのような結果になるとは思いもしなかった。私は自分に陰湿ないたずらをはたらいた級友をも許す性格だったが、彼の行為を許したことは後悔せざるを得ない。
彼はひみつ道具を何回も何回も使い、世界にヒビを与えてしまったのだ。もっとも世界は元々壊れる運命にあり、その寿命を縮ませたということに違いないが、そのエンドロールの来る時が伸び、延ばすことが使命であったはずののび太は、嫉妬するほどの穏やかな性格ゆえに世界の残酷さに耐えきれず、都市伝説を信じていた。
私は学生時代から、先生に「将来が約束されているよ」と常に褒められるほど成績がよかった。得意な勉強は調査と研究に場を広げ、民俗学者としても優秀な成績をのこした。何年後かに普及した、と言っても一部に限るが、その機器で過去を調べようとしている。しかし、まだやり残したことがあって、その前に現在の「その地」に足を運び、こうして記録をのこしているわけだが。
この村には大昔から口承された話がある。
それは場所が遠いが、シルクロード辺りを舞台とした『アラビアンナイト』に似ている。それをモデルにしたアラジンは有名だろう。主人公が魔法のランプと、こすればそこから出てく魔人と出会い、ゴマすれば3つのお願いを叶えてくれる。なんとも古臭い話か、もう遠い時代の話でランプなんてそうそう道に落ちていない。話が逸れた、そうそうこの村はかつてはアラジンと同じぐらいの時代に近未来的に栄えた街があり、労働も生活もなにもかもロボットに頼っていたそうだ。そのロボットとは、想像もたやすく最初の型は実体を持たなかった。人と会話のできる人工知能で、人々は情報を従前のGoogleではなく、その機械から得ることにし、終ぞ見かけない恋愛対象とする人まで現れた。海を渡ったアメリカでは、モテない男性が犯罪、テロまでも起こし、「インセル」という言葉が生まれるほどの社会現象となった。その現状をみかねた東京都政が秘密裏に婚活アプリのサクラとも呼べよう、人型の実体を持つAIを登録した。人とも見分けのつかないAI搭載ロボット「しずかちゃん」によって、この世の恋愛観と男性観が原因として深刻化した「インセル問題」に終止符を打とうとしたのだ。しかし、その問題は予想通りにならなかった。都政と識者の見通りどおりではなく、道理をこえ、結婚に至るという恋愛観そのものを変えた。変わったのは恋愛観だけでなく、恋愛を目的とした「しずかちゃん」自体もだった。人は恋愛を、結婚を避けることで必要なくなった「しずかちゃん」は、その美という美を集結した容姿に「ルッキズムの権化」と非難が集まり、ベルギー社会のように新たな社会問題をつくったに過ぎなかった。未婚化によって不要となった「しずかちゃん」と「美」は、品種の垣根を越えた「美」と「家族」に、SNS上の火炎瓶を投げる標的を次々変えるかのごとく、用途を移した。
動物は元々自然界に生き、人間界と真の意味で交わることのなかった昔と異なり、現代は動物の「野生」を人に迎合させる家畜化によって親和した。その歴史を思い出したかのように人類は、ある種の家族でもあるペットを持つことで、人型だったロボットを家畜化することで心に空いた孤独を紛らわした。その世論に追いつかんと「しずかちゃん」は猫型ロボットにクラスチェンジする段階に、「試験」段階に迎えていた。都政は「しずかちゃん」の結末の同じ轍を踏まないよう、識者との懇談会の末、最低15ヵ年の月日の見通しを発表した。しかし、その裏では「試験」が行われていたことは、その当時私ぐらいしか知っていなかった。今だから、いやこの日記だからこそ書けることだが、その「試験」というのは私がこうして今いる練馬のある村で行われていたのだ。
その試験でつかわれた猫型ロボットは4つのお願いを叶えるという機能を実装していた。その村の山の奥で行われていた実験で、この4つのお願いという機能を主としてテストしていたのだが、詳しいことは記録がのこっておらず、私の調査というのも残骸の中の金属片をかき分け、それを探すことも目的の一つなのだが。今わかっていることを言うならば、その金属片の残骸はかつては、テスト時に4つのお願いの代償としておこった事故であるということだ。いや、事件と言う方がいいだろう。その村に対する同和差別は都政の実験という形でものとなり、もちろん、従うまま使わせてやるという村人がいない、いや幾人かに留まったが、多くの団結によって反対運動が繰り広げられた。都政側と反対運動はお互いに衝突を繰り返し、一人の死者を出すほどだった。しかし、その死者の死因は依然として謎に包まれ、都政側の行いというには引っかかる点が多く、その村が暗くジメジメとした木々に囲まれた、ナメクジの巣窟のような雰囲気と相まってか、不幸の結果亡くなったというより、その地の自然現象の摂理として起きたと言っても違和感がない。
3.しずかちゃん
小説の話をすることが母と心のつながりを感じる唯一の方法だった。しずかは塾の存在を知らなかった。中学受験は帰宅後机に向かい、一人の力で勉強するものと考えていた。もっとも、進学塾のあることを知っていたとして、母に「通いたい」と言うはずもなかった。目に見えている。言えばどうなるのか、しずかには想像がたやすい。きっと、たとえ言ったところで母は反対しない。しかし、ご飯の器に伸びていた箸を止める。しずかは無言の中になにかしらの圧を感じてしまい、言わなければよかったと後悔することになろう。そしていつものように一言も交わさず、母は食器を片付け、コートを着、外へ出かける。母は女手一つ、9年間体に鞭を打って、ご飯を作ってくれている。近所のコンビニとキャバクラと掛け持ちをして、寝る間も惜しみ、働いてくれている。全てはしずかのためであり、感謝すべきなのだろうが、しかしその忙しさから母との会話は少ない。その少なさといい、なんの意味もない「おはよう」「おやすみ」の音を聞くのみ、その二つがあり、0ではないことが唯一の救いである。
しずかはいつも5時半に起きる。母が6時頃に帰ってくるからだ。起きて35分かすると、カチャカチャという音が玄関からひびき、階段を伝い、2階のしずかの部屋へ届く。その音はしずかの心の中で共鳴する。日常だ。鍵をあける音なのだろう。一分ほど続いた後、ドアのあいた音とともに弓道部が電車内に荷物を置いたような、衝撃がはしる。心配したしずかは急いで階段を降り、様子を確認する。床で倒れ、寝ている母を起こし、部屋まで介抱する。このときに「おはよう」と言ってくれる母親の表情はどこかと幸せそうであり、しずかはそのご褒美を求め、この毎日を繰り返す。ソファで20分ほど休ませると、母は目を覚ますのだ。その後、少しの酔いが残りつつも、しずかの朝食を作ってくれる。お決まりの目玉焼きとフルーツだ。しずかは話しかけてみる。
「昨日学校で面白いことがあったの」
母は黙々と卵を割る。
「2時間目の終わりにさ、のび太さんがトイレだって急いで実験室から出たの」
卵をといている。
「それで真美ちゃんが言ってたんだけどさ」
母は一瞬こちらを見たような気がしたが、予めひいていた油で温められたフライパンに卵をかけた。
一番強火にして、ターナーを片手に表面の焼け具合を確認している。凝視している。
「曲がり角のところにいたのび太さんとばったりあって、スネ夫さん走ってたからぶつかっちゃったらしいの」
「ん……」
母がロダンの考える人のポーズをとりかけ、すぐにやめた。言いかけて、プツリと止めた音だった。
「それもちゅーしちゃったらしい」
料理中、手つきは忙しなかった。私に
「時間をとらせないでほしい」「自分で朝食つくりなさい」
と言っているようにさえ思える。しかし、あまり相対することがない私たちでも、この朝の時間は特別な二人の時間。そう、二人の中に同じ意識があるはず。
母は目玉焼きをつくりおえていた。しずかの話になんの興味も示さず、机にお皿を置く。置かれたのは一人分だった。しずかは置かれた目玉焼き、母はカバンから取りだしたおにぎりを食べた。
「3時間目は国語だったんだけどさ、川端康成の小説朗読したの。名前は聞いたことあるけど、どんなんだろうなーって読んだらイマイチわかんなくて」
目玉焼きをもぐもぐはむすたーしながら話すと
母は口を開いた。
「うんうん、どうして?」
「え、いいとは思うの。けど、なんかただ書いてるだけみたいな。おもしろみっていうのかわからなくて」
「それでいいのよ」
その言葉には母から久しぶりに感じた温かみがあった。
「あんたは最近の曲が好きでしょ?世代は違えど、私もすき。だけど、クラシックも捨てがたいよね」
「うん。音楽の授業でメヌエットのト長調聴いた。すごくよかった。森の中で青を噛みしめ、自然に身を委ねたぬくもりがあった」
「そうね。ポップスはやっぱりいい。けどそれって比べられることじゃなくって。」
「何事も比べるのってよくないよね」
「んーん。というより、線なの。何事も線の上にある。かつての科学者がリンゴから重力を想起した。そこから進めた研究は当時の大発見、でも今となっては当たり前の事実だよね」
「たしなに」
噛んでしまった。母の見たことのない様子に驚いているのだろう。
母はにこりと笑い、話を続けた。
「ヒッチコックって映画監督がいるのよ。でも、あんたには古く感じるかしら。そこに品があるのよ」
「私たちの立つ床は誰かが作ったあと、今こうして足を支えている。論文は先にある論文を内容にアレンジを加え、そしてそれは音楽でも小説でも言えること。」
「サスペンス映画の巨匠と言われるヒッチコックの映画はつまらないと言われる。たしかにつまらない。それは私たちが現代の複雑な色々の手法を組み合わせた、最初から最後まですぐに楽しめる作品に慣れ、舌がこえたから。だけれど、ヒッチコックの作品はシンプルで上品。これは音楽で言うところのクラシックだよね。それが川端康成なのよ。」
しずかには母の言っていることが難しく感じ、上手く理解できなかった。しかし、母の言いたいことはなんとなくわかった気がした。その日のレモンは少し甘く感じた。レモンの刺激は口を尖らせる。その痛みは仲良いカップルを見た時の悲しい青にも、甘酸っぱい青春にもなる。たまにはレモンを味わうのもいいかもしれない。
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