一
令和七年五月場所の千秋楽。両国国技館は異様な熱気に包まれていた。
結びの一番を終えた横綱・武蔵海が、土俵上で片膝をついた。観客席がざわめく。力士が怪我をしたのかと思った次の瞬間、彼は懐から小さな箱を取り出した。
「美咲、結婚してください」
マイクを通した声が館内に響き渡る。スポットライトが正面升席の一人の女性を照らし出した。藤崎美咲、二十八歳。大手広告代理店勤務。武蔵海との交際が週刊誌にスクープされてから三ヶ月が経っていた。
美咲の隣に座っていた同僚が、小声で囁いた。
「すごいロマンチック! 羨ましい」
だが美咲の顔は青ざめていた。拳を握りしめ、全身が小刻みに震えている。
「まさか……ここで」
震える声は、観客席の喧騒にかき消された。武蔵海は満面の笑みを浮かべたまま、手を差し伸べている。カメラが二人を映し出す。全国に生中継されている。
美咲は立ち上がった。そして、ゆっくりと土俵に向かって歩き始めた。
二
十五年前。
中学二年生の藤崎美咲は、全日本女子相撲選手権で優勝した。体重は五十八キロ。男子中学生の全国大会に出場しても優勝できる実力だった。
高校でも女子相撲で無敗を誇った。大学進学後、ある挑戦を申し出た。
「男子と稽古させてください」
大学相撲部の監督は困惑した。しかし、美咲の真剣な眼差しに負けて、非公式の稽古を許可した。
結果は衝撃的だった。
美咲は、大学横綱経験者を次々と土俵に這わせた。技術、スピード、そして何より相撲センス。すべてが規格外だった。
「君が男だったら、間違いなく横綱になれる」
監督は言った。その言葉が、美咲の心に突き刺さった。
実力があっても、女だから大相撲の力士にはなれない。土俵に立つことすらできない。どんなに強くても、性別という超えられない壁があった。
大学卒業後、美咲は相撲から離れた。広告代理店に就職し、「普通の女性」として生きることを選んだ。相撲の経験は、誰にも話さなかった。
三
土俵下に着いた美咲は、階段の前で立ち止まった。
行司が慌てて駆け寄ってくる。
「お客様、女性は土俵には……」
「知っています」
美咲は行司を見据えた。そして、ヒールを脱いだ。ストッキングも脱ぎ捨てる。
観客席がどよめく。まさか、という空気が広がる。武蔵海の笑顔が凍りついた。
「美咲、待って」
彼女は振り返らずに、一段、また一段と階段を上がった。そして――
美咲の素足が、土俵の土を踏んだ。
その瞬間、国技館が静まり返った。女性が土俵に上がった。百五十年の禁忌が破られた。
相撲協会の理事たちが、血相を変えて土俵に駆け上がってきた。
「すぐに降りなさい! 神聖な土俵を汚すな!」
理事長が美咲の腕を掴もうとした。
次の瞬間、理事長の巨体が宙を舞った。
美咲が放った見事な上手投げだった。百二十キロの理事長が、土俵に叩きつけられる。
「なっ……」
他の親方たちが一斉に美咲に襲いかかった。元大関、元関脇。現役時代は名を馳せた力士たち。
しかし――
美咲は、片っ端から投げ飛ばしていった。
小手投げ、掬い投げ、内掛け。教科書に載せたいほど完璧な技の連続。親方たちが次々と土俵に転がる。誰一人、美咲に触れることすらできない。
観客席は、完全に沈黙していた。
四
武蔵海は、土俵の上で立ち尽くしていた。
美咲が相撲をやっていたことは知っていた。学生時代に少しやっていた、という程度に聞いていた。しかし、目の前の光景は理解を超えていた。
現役の横綱である自分でも、これほど鮮やかに元力士たちを投げることはできない。
「美咲……君は」
最後の親方が土俵下に転げ落ちた後、美咲は武蔵海と向き合った。
「私は、あなたより強い」
静かな声だった。しかし、その言葉の重みは、土俵を震わせた。
「十年前、私はあなたと稽古をしたことがある。覚えていないでしょうけど。大学の合同稽古で、一度だけ。あなたはまだ幕下だった」
武蔵海の記憶が蘇る。確かにあった。女子選手との交流稽古。軽い気持ちで胸を出したら、一瞬で土俵に這わされた。
「あの時の……」
「そう。あの後、あなたは必死に稽古して横綱になった。私は? どんなに強くても、女だから力士になれない。土俵にも立てない」
美咲は、落ちていた婚約指輪を拾い上げた。
「これが、あなたの答えなの? 私が立てない場所で、私にプロポーズすることが」
「僕は……僕は君に一番大切な場所で」
「私にとっては、一番残酷な場所よ」
五
その時、機動隊が国技館に到着した。
土俵を囲むように隊員たちが配置される。相撲協会が通報したのだ。「不審者が土俵を占拠している」と。
「最後に、証明させて」
美咲は武蔵海に向き直った。
「勝負しましょう。私が勝ったら、この土俵は女性も立てる場所にすべきだと認めて」
「美咲、それは」
「怖いの? 女に負けるのが」
挑発的な言葉に、武蔵海の顔が紅潮した。横綱のプライドが刺激される。
「いいだろう」
二人は土俵中央で向かい合った。美咲はスーツのジャケットを脱ぎ捨てた。タイトスカートのまま、腰を落とす。
武蔵海が突進してきた。百八十キロの巨体が、全力で突っ込んでくる。
美咲は、それを真正面から受け止めた。
そして――
信じられないことが起きた。武蔵海の体が、少しずつ後退し始めたのだ。美咲が、横綱を押し返している。
次の瞬間、美咲の体が沈み込んだ。下手投げ。武蔵海の巨体が、大きく宙を舞う。
横綱が、土俵に背中から落ちた。
美咲の、完勝だった。
六
国技館は、墓場のように静まり返っていた。
女性が、現役横綱を投げた。それも、スカート姿で。この光景を目撃した観客たちは、何を見たのか理解できずにいた。
機動隊が土俵に上がってきた。美咲は抵抗しなかった。両手を後ろに回され、連行されていく。
その時、一人の老人が叫んだ。
「恥を知れ! 女が土俵を汚しやがって!」
その声を皮切りに、罵声が飛び始めた。
「出て行け!」
「二度と来るな!」
「伝統を壊すな!」
美咲が横綱を投げたという事実は、彼らの怒りを煽るだけだった。強ければいいという問題ではない。女は女だ。土俵に立つ資格はない。
連行される美咲の背中に、憎悪の言葉が降り注いだ。
七
翌日、相撲協会は緊急記者会見を開いた。
「昨日の事件について、協会の見解を述べさせていただきます」
理事長は、腕を三角巾で吊っていた。
「土俵は神聖な場所であり、女人禁制は我々が守るべき伝統です。昨日の暴挙は、断じて許されるものではありません」
記者が質問した。
「藤崎さんが横綱に勝利したことについては?」
「あれは相撲ではない。ルールも礼儀もない、ただの暴力行為だ」
「でも、技術的には完璧な投げ技でした」
「技術の問題ではない!」
理事長が声を荒げた。
「女性は土俵に上がれない。これは変わらない。変える必要もない。以上だ」
一方、武蔵海も会見を開いた。
「昨日は、不覚を取りました。今後、より一層稽古に励みます」
「藤崎さんとの関係は?」
「終わりました」
短い答えだった。記者たちがざわめく。
「彼女の実力については?」
「強かった。認めます。でも、だからといって伝統を変える理由にはならない」
武蔵海の言葉に、記者たちは失望した。横綱は、保身を選んだのだ。
八
美咲は、その日のうちに釈放された。しかし、待っていたのは社会的な死だった。
会社は即日解雇。「企業イメージを著しく損なった」という理由。実家には脅迫状が届き、両親は引っ越しを余儀なくされた。
SNSでは美咲を支持する声もあったが、批判の方が圧倒的に多かった。
『伝統を理解できない現代女性の典型』
『強ければ何をしてもいいのか』
『日本の恥』
美咲は、すべてのSNSアカウントを削除した。
三ヶ月後、美咲は故郷を離れ、地方の小さな町でひっそりと暮らし始めた。コンビニでアルバイトをしながら、誰にも過去を話さず生きている。
ある日、テレビのニュースが流れた。
『大相撲九月場所、横綱武蔵海が優勝。結婚も発表』
画面には、武蔵海と若い女性タレントが映っていた。土俵下で、花束を渡している。
「お相手の方は、相撲はお好きですか?」
「はい! でも土俵には上がりません。それがルールですから」
タレントの答えに、武蔵海は満足そうに微笑んだ。
九
それから五年が経った。
相撲界は何も変わらなかった。
むしろ、美咲の一件以降、警備は厳重になった。女性が土俵に近づくことすら難しくなった。「藤崎美咲の再来」を防ぐためだ。
ある女性団体が、土俵の女人禁制撤廃を求めてデモを行った。しかし、世論は冷たかった。
「また始まった」
「伝統を尊重できない人たち」
「藤崎の二の舞になりたいのか」
美咲の名前は、「伝統を破壊しようとした女」の代名詞になっていた。
その頃、美咲は結婚していた。相手は地元の工場で働く男性。相撲のことは何も知らない人だった。美咲の過去も知らない。
娘が生まれた。その子が五歳になった時、テレビで相撲中継を見て言った。
「ママ、これ面白い! 私もやりたい」
美咲は静かにテレビを消した。
「女の子はできないの」
「どうして?」
「そういうルールなの」
「変なの」
娘は不満そうだったが、すぐに別の遊びを始めた。美咲は娘を見つめながら思った。この子が大人になっても、きっと何も変わらない。
十
令和十五年。
東京オリンピックで、女子相撲が公開競技として採用されることが決まった。しかし、会場は両国国技館ではなく、別の体育館だった。
「土俵は神聖だから」
相撲協会の言い分は変わらない。
その発表を聞いた時、美咲は薄く笑った。三十八歳になっていた。もう相撲をする体力はない。いや、する気もない。
ある日、一通の手紙が届いた。差出人の名前はなかった。
『美咲へ。君が正しかった。でも、世界は正しさでは動かない。僕は今も土俵に立っている。君が立てない場所で。それが僕の選んだ道だ。許してくれとは言わない。ただ、君の勇気を忘れたことはない』
武蔵海からだとすぐにわかった。美咲は手紙を破り捨てた。
勇気? それが何の意味があった?
結局、美咲の行動は何も変えなかった。いや、むしろ女性が土俵に上がることへの警戒を強めただけだった。
最強だったことが、何の意味があった?
実力があっても、女だから認められない。その現実は、十年前も今も同じだった。
終章
令和二十年。
美咲の娘が高校生になった。ある日、学校の課題で「日本の伝統文化」について調べていた娘が、古い動画を見つけてきた。
「ママ、これ見て。すごい女の人がいたんだって」
スマートフォンの画面には、土俵で親方たちを投げ飛ばす女性が映っていた。画質は粗いが、確かに美咲だった。
「横綱にも勝ったんだって。でも、結局土俵から追い出されて、社会的に抹殺されたらしい。ひどい話だよね」
美咲は何も言わなかった。
「この人、今どうしてるんだろう。生きてるのかな」
「さあ、どうかしら」
娘は動画を見続けた。コメント欄には、様々な意見が書かれていた。賛否両論。しかし、十五年経っても、議論は平行線のままだった。
「ママは、この人のこと、どう思う?」
美咲は少し考えてから答えた。
「愚かな人だと思う」
「え、どうして? すごく勇敢じゃない」
「勇敢と愚かは、紙一重よ。変えられないものを変えようとして、すべてを失った。それが賢いことだと思う?」
娘は首を傾げた。
「でも、誰かが声を上げなきゃ、何も変わらないんじゃない?」
「変わらないものは、変わらないの」
美咲はそう言って、立ち上がった。
窓の外では、近所の神社から太鼓の音が聞こえてきた。秋祭りの季節だ。その神社の境内にも、女性が上がれない場所がある。
伝統という名の、差別。
それは、土俵だけではない。この国のあちこちに、根深く残っている。
美咲はカーテンを閉めた。
もう、戦うのは疲れた。
土俵でプロポーズをしてはいけない。
その言葉の本当の意味を、理解する人は、きっと永遠に現れない。
浅野文月 投稿者 | 2025-09-11 22:34
浅野文月です。
「土俵でプロポーズしてはいけない」立候補します!
高橋文樹 編集長 | 2025-09-12 11:39
登録しておきました!
浅野文月 投稿者 | 2025-09-22 23:50
がんばります!