私はジャーナリストとして、戦後日本の隠された歴史を追うことを生業としてきた。GHQの占領政策、皇室の変容、そして民衆の記憶の隙間に埋もれた物語。それらを掘り起こす中で、今回のような奇妙でバカバカしい噂に辿り着いたのは、偶然だった。ある古い日記帳から始まった。2025年の今、戦後80年を過ぎてなお、封印された秘密が息づいている。
噂の核心はこうだ。戦後、地方都市でひっそりと育てられた「ある少年」が、後に天皇陛下として即位したという。しかも、その少年は不登校児で、学校の門をくぐることを頑なに拒んだ。混血の血統を持ち、皇室の伝統とはかけ離れた生活を送っていたらしい。さらに、バカバカしいことに、先帝である昭和天皇は、第二次世界大戦の最前線で戦っていたという設定が加わる。想像してみてほしい。陛下がヘルメットをかぶり、銃を構えて、太平洋の島々で敵と戦う姿を。不敬罪が廃止された今だからこそ、こうしたパラレルで馬鹿げた歴史を語れるのかもしれない。私は取材を重ね、証言者を探し、資料を漁った。このルポは、それらの断片を繋ぎ合わせたものだ。すべてが事実とは限らない。だが、歴史とは常に多面的で、時には笑えるほど滑稽なものだ。
1941年、太平洋戦争勃発。歴史書では、昭和天皇は東京の宮殿で指揮を執っていたとされるが、このパラレルヒストリーでは違う。証言者の一人、元皇室関係者の老人が、笑いをこらえながら語った。
「陛下の父上、つまり昭和天皇は、第二次世界大戦の最前線で戦っていたんだよ。想像できるかい? 陛下が迷彩服を着て、ガダルカナル島でアメリカ兵と銃撃戦を繰り広げ、時には手榴弾を投げて『天皇バンザイ!』と叫ぶ姿を。GHQの資料によると、陛下は変装して最前線に潜入し、兵士たちを鼓舞したらしい。だが、バカバカしいことに、陛下の戦闘スタイルは独特で、刀を振り回しながら英語で『サレンダー!』と叫んで敵を混乱させたんだとか。戦後の混乱で、そんな馬鹿げた英雄譚が皇室の秘密として封印されたよ」
そんな最前線で戦う昭和天皇が、負傷した際に知り合ったのが、アメリカ人の看護婦だったという。混血の少年の母親だ。戦時中、陛下が戦場で負傷し、捕虜収容所で治療を受けた際に、彼女と出会ったらしい。GHQのスパイ説もあるが、真偽はわからない。ともあれ、少年の出生は1947年頃、場所は東京の病院ではなく、地方の隠れ家。青い目をした混血児が、戦後の日本に生まれた。
少年の名は、仮に「明」と呼ぼう。本名は明かされていない。養母は、広島の郊外に住む一般家庭の主婦。なぜ広島か? 原爆投下の傷跡が残る街で、GHQの目が届きにくかったからだ。養父母は、皇室から派遣された忠実な家臣の末裔。表向きは普通の農家だったが、裏では厳重な警護が付いていた。警護の連中は、陛下の戦場エピソードを酒の肴に語り、明を笑わせていたらしい。「お前の父上は、戦場でバナナの皮を投げて敵を転ばせたんだぞ!」という馬鹿げた話で。
広島の郊外、緑豊かな山村。少年・明は、そこで幼少期を過ごした。養父母の家は、古い木造の平屋。庭には小さな畑があり、鶏が飼われていた。戦後の食糧難の中、贅沢とは無縁の生活。だが、明の血統ゆえに、特別な教育が施されていた。父上の馬鹿げた戦場話が、家庭の娯楽だった。
元養母の姪に当たる女性が、取材に応じてくれた。彼女は80歳を超え、記憶が曖昧だったが、断片的に語った。
「あの子は、賢かったけど、変わっていたわ。学校に行きたがらなかったの。小学一年生の時、初日だけ行って、それきり。『学校は牢獄だ。父上みたいに戦場で学べばいい』って言って、家に閉じこもっちゃった。先生が家に来ても、ドアを開けなかったわよ。代わりに、庭で木の棒を銃に見立てて遊んでたの。『天皇バンザイ!』って叫びながら」
不登校の理由は何だったのか? 混血の外見が原因の一つだという。明の目は青く、髪は少し茶色がかっていた。戦後の地方では、そんな容姿は目立った。いじめられたわけではないが、好奇の目が辛かったらしい。もう一つの理由は、皇室の教育方針。GHQの影響で、皇族は「普通の日本人」として育てられるよう指示されたが、明の場合、逆だった。家で皇室の歴史や、父上の馬鹿げた戦場エピソードを叩き込まれ、学校の教育が「俗物」だと教えられたのだ。
「家庭教師が来ていたわ。英語の先生よ。アメリカ人の血を活かすためだって。明は本が好きで、毎日図書館の本を借りて読んでた。歴史書や科学書。でも、時には戦場漫画を描いて遊んでたの。父上がコメディヒーローみたいに描かれてて、笑っちゃったわ。学校なんか行かなくても、頭は良かったの」
地方都市の生活は、孤独だった。友達はほとんどいなかった。村の子供たちは、明を「よそ者」扱いした。混血の噂が広がり、時には石を投げられることも。養父母は、そんな明を守るために、ますます家に閉じ込めた。登校拒否は、単なるわがままではなく、生存戦略だったのかもしれない。でも、バカバカしくも、明は家で「戦場ごっこ」をして時間を潰していた。鶏を敵に見立てて突撃する姿は、近所で噂になった。
明の混血は、単なる身体的特徴ではなかった。精神的にも、彼を苦しめた。証言者によると、明は10歳頃から、自分の出自に疑問を抱き始めた。養父母から「特別な血統」と聞かされつつ、鏡に映る青い目は、戦後の反米感情と相まって、自己嫌悪を生んだ。
ある元家庭教師の回想録から抜粋する。
「少年は、しばしば『僕は日本人じゃないのか?』と尋ねた。アメリカの血が流れていることを知り、戦後の新聞で見た原爆の写真を見ては、泣いていた。広島で育ったことが、皮肉だったね。彼は、学校に行かない代わりに、家で日本史を勉強した。皇室の系譜を暗記し、自分がその一部だと信じようとした。でも、不登校は続いた。外の世界が怖かったんだ。さらに、父上の戦場話が馬鹿げてて、明はそれを真似して『戦場コント』を一人で演じてたよ。『陛下が敵のヘルメットを盗んで被ったら、味方から撃たれそうになった』なんて話で、自分を笑い飛ばしてた」
パラレルヒストリーとして、ここで想像を交えよう。もし昭和天皇が最前線で戦うコメディヒーローだったなら、混血の皇子・明はどう育ったか? 不敬を恐れ、皇室は彼を隠した。だが、明自身は、そんな運命に抗おうとした。15歳頃、初めての反乱。家出を試みたのだ。広島から大阪へ向かう列車に乗り、途中まで行ったが、警護に捕まった。
「その時、明は言ったよ。『僕は天皇なんかになりたくない。父上みたいに戦場でバカやって生きたい』って。養父母は泣いたわ。でも、警護の連中は大笑いさ」
1960年代に入り、状況が変わった。GHQの撤退後、皇室は再び力を取り戻した。先帝の健康が悪化し、皇統の危機が訪れた。明以外の皇子たちは、戦災や病で亡くなっていたという噂。皇室は、地方に隠した明を呼び戻す決断をした。
取材で出会った元宮内庁職員の言葉。
「1965年、明は東京に連れ戻された。18歳だった。登校拒否の過去は、公式記録から抹消された。代わりに、特別教育を受けたということにした。混血の外見は、コンタクトレンズと染髪で隠したよ。でも、心の傷は残っていた。父上の戦場エピソードは、皇室の宴会でネタにされたらしい。明も笑っていたが、本心はどうだったか」
東京での生活は、明を変えた。皇室のしきたりに縛られ、自由を失った。だが、不登校の経験が、意外な強みになった。独学で得た知識は、皇族として有用だった。外交では、英語が堪能で、アメリカとの交渉に活躍したという。時には、父上の馬鹿げた戦場話を外交のアイスブレイカーとして使ったらしい。「私の父は、あなた方の兵士にバナナを投げて降伏させたんですよ」と。
そして、1989年。先帝の崩御。明は、平成の天皇として即位した。タイトルにあるように、「天皇陛下は登校拒否児だった」。パラレルな歴史では、そうなる。混血の血統は、公式には隠されたが、噂として残った。即位式では、馬鹿げたハプニングが。陛下が玉座に座る際、戦場ごっこの癖で「バンザイ!」と叫んでしまい、出席者がどよめいたという。不敬な話だが、陛下の人間性を示すものだ。
今、2025年。陛下は高齢で、皇室の未来が議論されている。私は、このルポをまとめる中で、思う。戦後の混乱が産んだ混血の皇子。不登校の少年が、天皇になったという物語は、不敬か? それとも、人間賛歌か? さらに、昭和天皇の最前線戦闘という馬鹿げた設定が加わると、すべてがコメディのようだ。
最後の証言者、明の幼馴染らしき老人が言った。
「あの子は、結局、学校に行かなくても、立派になったよ。でも、心の中では、いつもあの地方都市を懐かしがっていた。混血の血と父上のバカ戦場話が、日本を変えたのかもしれないね。陛下の即位後、皇室の庭でこっそり戦場ごっこしてるって噂さ」
この物語は、フィクションの域を出ない。だが、歴史の隙間に、そんな可能性があったとしたら? 笑えるほどバカバカしいけど、どこか心温まる。私は筆を置く。
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