商店街の裏路地に、煤けた看板を掲げる古書店がある。店名は「雲母堂(きららどう)」。木造二階建てのその店は、大正ロマンの残り香を纏ったまま、時代の喧噪から取り残されていた。
ある秋の日の夕暮れ、私は偶然その店の前を通りかかった。夕立に追われ、軒先に逃げ込んだのがきっかけだった。しとしとと降る雨の音と、傘を持たなかった後悔が心を曇らせる中、ふと視線を上げると、「雲母堂」の文字が、かすれた墨文字で板看板に記されていた。
興味を引かれ、私は引き戸を開けて中に入った。キィ、と懐かしい音が鳴り、古い畳の匂いと紙の香りが鼻をつく。店内は薄暗く、白熱灯がぼんやりと棚の背表紙を照らしていた。積み重なった本の山、その間を縫うように細い通路が伸びている。
奥のカウンターに、背筋のしゃんとした中年の店主が座っていた。白髪交じりの髪を後ろで結び、眼鏡の奥から鋭い視線を向けてきたが、口元は穏やかだった。
「いらっしゃい。雨宿りかね?」
「ええ、まあ……少し見させてもらってもいいですか?」
「ご自由に」
私は礼を言って、文芸書の棚へと足を向けた。戦前の文庫が雑多に並び、表紙の色あせ具合や背表紙の剥がれ具合が、長い時間の経過を物語っていた。
一冊、背の割れた古いエッセイ集を手に取った瞬間、紙片が一枚、はらりと舞った。
拾い上げると、それは茶色く変色した封筒だった。封はされておらず、中には便箋が一枚。
拝啓 お元気でいらっしゃいますか。
この子は十三歳になります。そろそろ死ぬべき年です。どうか、お見逃しくださいませ。
私はいまでも、あのときのことを忘れてはおりません。
——大正八年 如月
便箋はクリーム色で、万年筆のような筆跡が黒々と残っていた。インクの濃淡、紙の質感、何よりも手書きの揺れが、偽物とは思えない時代性を感じさせる。
私は思わず声をあげそうになり、振り返って店主に見せた。
「これは……」
店主はちらと目を上げると、まるで見慣れたものを見たような顔をして言った。
「それ、また出てきたのか。よく紛れ込むんですよ、その手紙」
「紛れ込む……って、誰かのいたずらですか?」
「いいや。違う。うちで何年も前から、たまに出てくるんだ。場所も本も毎回違う。だけど文面は同じ。大正八年、如月。十三歳。死ぬべき年、ってね」
私は手紙をそっと封筒に戻しながら尋ねた。
「最初に出てきたのは、いつですか?」
「十五年前かな。父からこの店を継いだ年だった。あのときはちょうど、書棚を整理していたら一冊の漢詩集から出てきて……ぞっとしたよ」
店主は奥の引き出しから小箱を取り出し、開いて見せた。中には、明らかに同じ手紙が十数通、慎重に保存されていた。紙の色味やインクの濃さは微妙に異なるが、筆跡と文面は一語一句変わらない。
「ある時は推理小説に、ある時は官能小説に、ある時は絵本の間にまで……まるで何かを訴えるようにして現れる」
私は戦慄した。手が込んだイタズラにしては異様すぎる。
「それに、うちの先代——つまり祖父の代にも、この手紙の噂があったらしい。『十三歳の子の手紙』と、戦時中の客の間でも奇妙な話題になったとか」
「十三歳……それって、誰のことなんでしょう?」
店主は小さく首を振った。
「それが、わからないんだ。だが……一つ、気になることがある。大正八年、この辺りで火事があってな。一家全焼。少女が一人、行方不明になった」
私は胸の奥に冷たいものが落ちるのを感じた。
その晩、私は古い新聞を扱う国立図書館のデジタルアーカイブを漁った。大正八年二月。確かに、深川で火事があった。雲母堂のある番地に一致する。
《深川の古書店にて放火。一家全焼。少女の姿、いまだ見つからず》
焼け跡から見つかった遺体は三体。だが、住んでいた家族は四人。残る一人は——十三歳の娘。
それを読んだ瞬間、手の震えが止まらなくなった。
——この子は十三歳になります。そろそろ死ぬべき年です。
あの手紙は、その娘に関するものなのか。
いや、違う。もっと身近なもののように思えた。
私は結婚しており、息子が一人いる。蒼生(あおい)という名の、来月十三歳になる少年だ。
何気なく、その夜、彼の寝顔を見に行った。すやすやと眠る頬に触れ、ふと胸騒ぎがした。なぜだかわからない。いや、理由などあるはずがない。だが、そのとき、私は確かに”思い出した”のだ。
私自身も、十三歳の頃、奇妙な出来事に遭遇したことを。
母に電話をかけた。
「ねえ、僕が十三歳のとき……なんか、変わったことってあった?」
母はしばらく黙っていた。沈黙が不安をあおる。
「……あのとき、あんた、三日間行方不明だったのよ。覚えてないかもしれないけど」
「え? 三日間……?」
「気がついたら、家の書斎で寝てたの。でも、どこにいたか本人も全然覚えてなくて……そのあと、何事もなかったように日常に戻ったけど、あれは……」
私は電話を切ったあと、まるで磁石に吸い寄せられるように書斎へ戻った。
そこには、あの封筒が置いてあった。
だが違和感があった。
——封筒の裏に、見覚えのある筆跡があったのだ。
自分の字で書かれた「雲母堂様」の宛名。
慌てて便箋を取り出す。筆跡を確認する。
私の、字だった。
——私は、この手紙を書いたのか? なぜ? いつ?
恐怖と混乱の中、私は夢を見た。障子の向こうに立つ少女。十三歳くらいの面影。
「おとうさん……死ななきゃ、だめ……?」
声が震えていた。悲しみと諦めが混じっていた。
私は首を振った。違う。誰も死ぬ必要はない。
だが、朝目覚めると、万年筆が机の上にあった。インク瓶の蓋は開いたまま。便箋は一枚、下書きのような筆跡。
この子は十三歳になります——
私は愕然とした。あれは、私が書いた。夢遊病のように、無意識に。
息子の名前は蒼生。だが、家系図を確認すると、大正八年に”蒼生”という名の少女が十三歳で失踪していたことがわかった。
蒼生という名は、先祖代々に続いていた。
——私は、何かを繰り返している?
あの火事の少女。あの失踪事件。あの手紙。
十三歳という年齢。蒼生という名前。
私がその記憶を抱えたまま生まれ変わったのか、それともこの家に宿る記憶が私を操っているのか。
どちらにせよ、私は決意した。
もう繰り返させてはならない。
私は便箋を新たに取り出し、静かに万年筆を走らせた。
拝啓 雲母堂様
私はこれから、自分の過去を断ち切るため、この手紙を同封の書籍に忍ばせます。
この子は十三歳になります。だが、もう死なせはしません。
どうか、この循環を、ここで終わらせてください。
——令和七年 如月
私は封筒に入れ、古書店に戻った。そして、そっと一冊の本の中にそれを忍ばせた。
雨は上がっていた。
空に微かに虹がかかっていた。
そのとき、確かに誰かが——あの少女が——私の耳元でささやいた気がした。
——ありがとう。
……そう思った、のは錯覚だったのかもしれない。
次の日、書斎に戻った私は、見慣れない封筒を見つけた。
封は開かれており、中には一枚の便箋。
拝啓 わたしへ
あなたはまた忘れるでしょう。十三歳は繰り返されます。
この子は十三歳になります。そろそろ死ぬべき年です。
記憶は巡り、意志は風化し、意志は記録に負けます。
この手紙を読むあなたが、次の私です。
どうか、お見逃しくださいませ。
——大正八年のあなたより
私は崩れ落ちた。
——終わっていなかった。
輪廻は、断ち切れなかったのだ。
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