桜ヶ丘町に住む小学五年生の御影蒼司は、いつものように放課後の図書館で宿題をしていた。九月の午後の陽射しが窓から差し込み、古い木製の机の上で算数のプリントが白く光っている。司書の水無月さんが新しい本を棚に並べている音が、静寂の中で小さく響いていた。
鉛筆を動かしながら横目でその作業を眺めていた蒼司の視線が、ふと一冊の本で止まった。手作りの絵本だった。表紙には茶色い犬の絵が描かれ、『みんなでまもろう どうぶつたち』というタイトルが子どもらしい文字で書かれている。作者名の欄には「みどり」とだけあった。他の本とは明らかに異質な、何かを放つような存在感があった。
「あ、それね」水無月さんが蒼司の視線に気づいて振り返った。「最近話題の絵本よ。町内の誰かが作ったらしいの。とても心温まる内容で、お母さんたちの間で評判になってるのよ」
蒼司は興味を引かれて立ち上がり、本を手に取った。表紙の犬の絵は決して上手とは言えないが、なぜか目が離せない。まるで犬の瞳が自分を見つめているような、そんな錯覚に囚われた。手に持った本は妙に重く、冷たかった。
図書館を出て家路につく夕暮れの道で、蒼司は同じクラスの白河詩音と出会った。商店街の向こうに西日が沈みかけ、街灯がぽつりぽつりと点り始めている。
「蒼司くん、それって『犬の本』?」詩音は蒼司の手にある絵本を指差した。彼女の声には妙な響きがあった。
「知ってるの?」
「うん、私も昨日読んだよ。すごく素敵な本だった」詩音の目が一瞬、遠くを見るような表情になった。「動物たちが本当に喜んでるのが伝わってくるの」
その夜、蒼司は自分の部屋で絵本を開いた。机の上の電気スタンドが本のページを白く照らす。表紙をめくると、まず犬の写真があった。しかし、よく見るとそれは写真ではなく、異様にリアルな絵だった。犬は首輪をつけられ、小さな檻の中にいる。その目には深い悲しみが宿っていた。毛並みの一本一本まで描かれたその絵は、まるで本物の犬がページの中に閉じ込められているかのようだった。
ページをめくると、文章が始まった。しかし、これは子ども向けの動物愛護の内容ではなかった。ページに書かれた文字は、夜の静寂の中で蒼司の心に重くのしかかった。
『記録その一 犬の処分について』
『本日、茶色い雑種犬を確保。体重約15キロ。鳴き声が近所迷惑になるため、声帯を除去。檻に収容完了』
蒼司の背筋に冷たいものが走った。これは絵本ではない。何かの記録だった。それも、とても恐ろしい記録だった。手が震え、ページをめくる音が部屋に異様に響く。
ページをめくるたびに、動物たちの「処分」について詳細に書かれていた。猫、鳥、ハムスター。それぞれの「記録」には、生々しい描写と冷酷な観察眼が込められていた。そして最後のページには、蒼司の血を凍らせる文章があった。
『次は人間の子どもで実験する予定。より大きな成果が期待できる』
蒼司は本を放り投げ、ベッドから飛び起きた。心臓が激しく鼓動し、冷や汗が額に浮かんでいる。時計の針は午後十一時を指していた。家は静まり返り、両親はもう寝室に入っている。これは冗談だろうか?それとも本当に誰かが動物を虐待し、さらに恐ろしい計画を立てているのだろうか?
翌朝の登校時、秋の肌寒い空気の中で蒼司は詩音に昨夜の出来事を話した。桜の木々が色づき始めた並木道を歩きながら、蒼司の言葉に詩音の反応は予想外だった。
「え?私が読んだのは普通の動物愛護の絵本だったよ。犬が幸せに暮らしてる話」詩音の声には困惑が滲んでいた。
「でも確かに僕が読んだのは…」
「もう一度見せて」
蒼司が絵本を開くと、そこには詩音が言った通りの内容が書かれていた。犬が飼い主に愛され、幸せに暮らしている心温まる話。昨夜読んだ恐ろしい内容は跡形もなく消えていた。蒼司は目を擦り、何度もページをめくったが、そこにあるのは平和で優しい物語だけだった。
その日の放課後、夕日が図書館の窓を染める中で、蒼司は一人で絵本について調べることにした。水無月さんに話を聞くと、さらに驚くべき事実が判明した。
「その本、不思議なのよ」水無月さんは声を潜め、誰かに聞かれることを恐れるように周りを見回した。「読む人によって内容が違うって言うの。ある人は動物愛護の話だと言うし、ある人は動物の生態について書かれてるって言うの」
「読む人によって違う?」蒼司の声が上ずった。
「ええ。でも子どもたちはみんな『素晴らしい本だった』って言うのよ。不思議でしょう?」水無月さんの表情には困惑と不安が混じっていた。
蒼司は胸騒ぎを覚えながら家路についた。夕暮れの街に街灯が点り始め、商店のネオンサインが薄暗い空に映えている。本が読む人によって内容を変える?そんなことがあり得るのだろうか?
家に帰ると、母親が心配そうな顔をして玄関で待っていた。台所からは夕食の支度をする音が聞こえ、いつもの家庭の温かさがあった。しかし、母の表情は普段とは違っていた。
「蒼司、隣の星野さんの息子さん、知ってる?一年生の遼太くん」
「ああ、知ってるよ」蒼司は胸の奥で嫌な予感が膨らんでいくのを感じた。
「その子が昨日から行方不明なの。お母さんがとても心配してるの」
蒼司の血の気が引いた。遼太は先週、あの絵本を図書館で借りていたのを見かけていた。小さな手で本を大切そうに抱えていた姿が鮮明に思い出される。まさか、あの本と関係があるのだろうか?
その夜、蒼司は震える手で再び絵本を開いた。部屋の電気を消し、デスクライトだけを点けた薄暗い中で、本のページが不気味に光っている。今度は違う内容だった。文字が浮かび上がるように現れ、蒼司の網膜に焼きついた。
『記録その七 実験体の確保について』
『6歳男児を確保。体重20キロ。泣き声対策として地下室に移動。明日から本格的な実験を開始する』
蒼司は震え上がった。これは遼太のことを書いているのではないだろうか?「6歳男児」「体重20キロ」という記述が遼太の体格と一致している。
慌てて両親に話そうと階下に駆け下りたが、母親が絵本を見ると、やはり普通の動物愛護の内容が書かれていた。父親も首をかしげるばかりだった。
「蒼司、最近疲れてるんじゃない?早く寝なさい」母親の優しい声が、かえって蒼司の孤独感を深めた。
誰も信じてくれない。しかし蒼司には確信があった。この本は何か恐ろしい秘密を隠している。そして遼太の失踪と確実に関係がある。
翌日の昼休み、蒼司は同じクラスの久遠理人と綾小路琴葉に相談した。校庭の片隅にある古い桜の木の下で、三人は輪になって座った。理人は理論的で冷静な性格、琴葉は直感が鋭く、霊感があると言われていた。秋風が桜の葉を舞い散らせ、校庭に子どもたちの声が響いている。
「本当にそんなことが書いてあったの?」理人は眉をひそめ、科学的な思考で状況を分析しようとしていた。「物理的に考えて、本の内容が読む人によって変わるなんて不可能だよ」
「でも実際に僕は見たんだ」蒼司は必死に説明した。理人の疑いの眼差しが痛い。
琴葉がじっと絵本を見つめていた。その表情は普段の明るさとは全く違っていた。「この本、何か変な感じがする。冷たいというか、重いというか…」彼女の声は小さく震えていた。
「琴葉まで」理人はため息をついたが、その時、琴葉が表紙の犬の絵に触れた瞬間、彼女の顔が青ざめた。
「見える…地下室…檻…子どもの泣き声…」琴葉の声が途切れがちになり、全身が小刻みに震え始めた。
琴葉は本を落とし、その場にへたり込んだ。桜の葉が風に舞って、彼女の周りに散らばった。
「琴葉!」蒼司と理人が駆け寄った。
「この本、本当に危険よ」琴葉は震え声で言った。顔は紙のように白く、唇も血の気を失っていた。「誰かが作ったんじゃない。何か…何かが作ったの」
理人の表情が一変した。科学的思考の持ち主である彼も、琴葉の異常な反応を目の当たりにして、もはや懐疑的でいることはできなかった。「もし君たちの言う通りなら、これは単なる迷信じゃない。遼太くんの失踪と関係があるかもしれない」
午後の授業が終わると、三人は本の謎を解くことを決意した。まず、この本がどこから来たのかを調べることにした。夕方の図書館は静寂に包まれ、本棚の間に長い影が伸びている。
水無月さんから得た情報は、さらに謎を深めるものだった。
「その本を最初に持ち込んだのは、『みどり』と名乗る女性よ。でも顔をよく覚えてないの」水無月さんは困惑した表情で頭を振った。「なぜか思い出そうとすると頭がぼんやりしてしまって…まるで霧がかかったみたいに」
彼女の声には不安が滲んでいた。「他にも何人か、その女性を見たって人がいるけど、みんな同じことを言うの。『緑色の服を着ていた』『声が妙に甘かった』でも、具体的な顔や特徴は誰も覚えてないの」
秋の夕暮れが早く、街に薄闇が広がる中で、三人は町を歩き回り、「みどり」について聞き込みを続けた。商店街の店主たち、公園で散歩している主婦たち、皆が同じような曖昧な記憶しか持っていなかった。そして調査を進めるうちに、奇妙で恐ろしいパターンが浮かび上がった。
この一ヶ月で、町内の子どもが三人失踪していた。そして全員、失踪前にあの絵本を読んでいた。一人目は小学三年生の女の子、二人目は幼稚園児の男の子、そして三人目が遼太だった。
町外れの古い民家の前で、琴葉が急に立ち止まった。夕日が家の壁に長い影を作り、庭の雑草が風に揺れている。
「あそこ」彼女の指差す先には、荒れ果てた庭と板で塞がれた窓が見えた。
「あそこから、変な感じがする」琴葉は青い顔をしていた。「本と同じような…冷たくて重い感じ」
理人がスマートフォンで住所を調べた。画面の光が彼の顔を青白く照らす。「この家、三年前から空き家になってる。持ち主は行方不明だって」
「行ってみよう」蒼司が言った時、もう辺りは完全に暗くなっていた。
「危険じゃない?」理人が反対したが、その声には既に覚悟が込められていた。
「でも遼太くんたちが本当にそこにいるかもしれない」
三人は意を決して、古い民家に向かった。街灯のない暗い道を歩きながら、それぞれが心の中で何かに祈っていた。
家の周りを慎重に調べると、裏口の鍵が壊れていることがわかった。月明かりだけが頼りの中、三人は恐る恐る中に入った。古い木造家屋特有の軋む音が足音に混じって響く。
家の中は埃だらけで、蜘蛛の巣が天井から垂れ下がっていた。しかし、床を理人のスマートフォンのライトで照らすと、新しい足跡があった。大人の靴跡と、小さな子どもの足跡が玄関から奥へと続いている。
「地下に降りる階段がある」理人がライトで照らすと、家の奥に下へ続く階段が見えた。階段は古く、一歩踏み出すたびに不安な音を立てた。
三人は手を繋ぎ、一歩一歩慎重に階段を降りた。地下に近づくにつれて、空気が重く湿っぽくなり、何か異様な匂いが漂ってきた。
地下室に足を踏み入れた瞬間、三人は言葉を失った。異様な光景が広がっていたのだ。地下室の壁一面に、手作りの本が並んでいる。どれも表紙には動物の絵が描かれているが、その目は全て同じような悲しい表情をしていた。まるで本の中に魂が閉じ込められているかのように。
部屋の奥には大きな机があった。そこには古い印刷機のような装置と、暗赤色の液体が入ったインクの瓶、それに古い羊皮紙のような紙が山積みになっていた。机の上には使い古された羽根ペンが置かれ、周囲には奇妙な道具類が散乱していた。
「これは何?」琴葉が机の上の液体を見つめた。「インクにしては色が…」
その液体は普通のインクとは明らかに違っていた。粘度が高く、時折泡のようなものが浮かび上がる。そして何より、生臭い匂いがした。
その時、地下室の隅から小さく弱々しい声が聞こえた。
「助けて…」
三人は声の方向に駆け寄った。部屋の最も暗い隅に、鉄格子で作られた小さな檻があった。中には遼太と他の二人の子どもが閉じ込められていた。三人とも生きていたが、顔は痩せこけ、目は虚ろだった。着ている服は汚れ、長い間適切な世話を受けていないことは明らかだった。
「遼太くん!」蒼司が叫んだ時、彼の声は地下室に響き、希望の光のように感じられた。
檻の鍵は古い南京錠だった。理人が近くにあった工具で錠前を壊そうと必死になった時、背後から低く甘い声がした。
「あら、お客様かしら」
振り返ると、緑色の服を着た女性が階段の下に立っていた。顔は普通の中年女性だったが、その目だけが異様だった。瞳孔が縦に細くなっている。まるで爬虫類のような目が、暗闇の中で不気味に光っていた。
「あなたたちも私の本を読んでくれたのね。ありがとう」女性は口元だけで微笑んだが、その笑みには温かさのかけらもなかった。「おかげで力が強くなったわ」
女性の存在感は圧倒的で、地下室の空気がさらに重くなったように感じられた。机の上のインクの瓶が微かに光り、壁に並ぶ本たちがざわめくような音を立てた。
「あなたは何者なの?」琴葉が勇気を振り絞って尋ねた。
女性は喉の奥から笑った。その笑い声は人間のものとは思えない響きを持っていた。「私は物語の力を食べて生きているの。人間の感情、特に恐怖と悲しみが一番美味しいのよ」
「化け物…」理人が呟いた時、彼の科学的な世界観が音を立てて崩れていくのが分かった。
「化け物だなんて失礼ね」女性の声に怒りが混じった。「私は古くからこの世界にいる存在よ。昔は口伝えの怖い話で力を得ていたけれど、今は本の方が効率的なの」
女性は机の上の装置を指差した。その動作は優雅だったが、指先が異常に長いことに三人は気づいた。「これで特別なインクを作るの。子どもたちの涙と恐怖を混ぜ込んだインクでね。そのインクで書いた本は、読む人の心に直接語りかける。そして読む人の感情を私に送ってくれるの」
「それで子どもたちを誘拐してたの?」蒼司が怒りに震えながら叫んだ。
「誘拐だなんて」女性は首を振った。「私は彼らを材料として大切に扱ってるわ。涙と恐怖は新鮮な方が良いのよ。それに、彼らは私の作品作りに貢献してくれてる。名誉なことじゃない」
蒼司は激怒した。遼太たちを檻に閉じ込め、恐怖を与えて涙を搾り取る。それが「みどり」の正体だった。人間の皮を被った、恐怖を糧とする化け物。
「でも困ったわね」女性の表情が急に冷たくなった。「あなたたちは真実を知りすぎた。もう帰すわけにはいかないわ」
女性が手を上げると、部屋中の本が宙に浮き始めた。本たちは生きているかのように空中を舞い、羽ばたくような動きで三人を囲んだ。表紙の動物たちの目が光り、まるで魂を持った生き物のように三人を見つめた。地下室は超自然的な力に満たされ、現実と悪夢の境界が曖昧になった。
「逃げて!」蒼司が叫んだが、もはや逃げ道はなかった。
しかし本たちが三人の逃げ道を塞いだ時、琴葉が突然叫んだ。「待って!私にも物語の力がある!」
「何を言ってるの?」理人が困惑した。
「私、小さい頃からお話を作るのが得意だったの。そして今、分かった」琴葉の目に決意の光が宿った。「この化け物は物語の力で生きてるなら、物語の力で倒せるはず!」
琴葉は目を閉じ、全身で集中し始めた。地下室の異様な空気の中で、彼女だけが別の次元にいるかのようだった。そして静かに、しかし力強く口を開いた。
「昔々、とても小さな町に、本当の愛を知らない可哀想な生き物がいました」
琴葉の声が響くと、宙に浮いていた本たちの動きが止まった。女性の顔にも動揺の色が浮かんだ。
「その生き物は、自分が愛を知らないために、他の生き物たちから愛を奪おうとしました。でも、奪った愛は本当の愛ではありませんでした」
琴葉の声には不思議な力があった。それは恐怖を打ち消し、希望を呼び起こすような響きだった。
「やめなさい!」女性が叫んだが、その声には先ほどまでの威圧感がなかった。
琴葉は続けた。「そして、ある日、三人の勇敢な子どもたちが現れました。その子どもたちは本当の愛を知っていました。友達を思う気持ち、家族を大切にする気持ち、動物を愛する気持ちを」
室内の空気が変わり始めた。重く湿っぽかった空気が軽やかになり、本たちの表紙の動物たちの目から、悲しみが消えていく。代わりに、穏やかな光が宿り始めた。
「その愛の力は、偽物の愛よりもずっと強く、可哀想な生き物の嘘を打ち破りました」
女性の体が透明になり始めた。「まさか…子どもの物語の力が私を…」彼女の声は驚愕に満ちていた。
琴葉の物語が続く中で、さらに不思議なことが起こった。檻の中の遼太たちが少しずつ元気を取り戻し始めたのだ。虚ろだった目に光が戻り、頬に血色が蘇った。そして部屋中の本たちも変化していた。表紙の動物たちの表情が明るくなり、悲しみが希望に変わっていく。本来あるべき、美しい物語の姿を取り戻していく。
「そして、その生き物は気づきました」琴葉の声がより優しくなった。「自分が本当に求めていたのは、恐怖や悲しみではなく、温かい愛だったのだと」
女性は最後の力を振り絞って叫んだ。「私の本が…私の力が…」
しかし、もう遅かった。室内の本たちは暖かい光に包まれ、一冊ずつ消えていく。それは破壊ではなく、浄化だった。歪められた物語たちが、本来の美しい姿を取り戻し、天に昇っていくようだった。女性の体も同時に薄くなり、その輪郭が曖昧になっていく。
「でも、もう遅いのです」琴葉は少し悲しそうに言った。「その生き物は長い間、愛を求めることを忘れ、恐怖ばかりを集めていました。だから、愛の力に触れると、消えてしまうのです」
「待って」蒼司が口を開いた。彼の声には怒りではなく、深い同情が込められていた。「僕たちは君を憎んでいるわけじゃない。ただ、遼太たちを傷つけるのをやめてほしいだけなんだ」
女性は驚いた表情を見せた。消えかけていた輪郭が少し鮮明になった。「あなたたちは…私を憎んでいないの?」
「君がしたことは許せないけど」理人も優しく言った。「君も誰かに愛されたかっただけなんでしょう?」
女性の目から、初めて人間らしい涙が流れた。それは透明で美しく、地下室の床に小さな音を立てて落ちた。「私は…私は本当はただ、誰かに私の物語を聞いてもらいたかっただけなの」
琴葉が優しく微笑んだ。その笑顔は地下室を照らす光のようだった。「それなら、今度は素敵な物語を作りましょう。誰も傷つけない、みんなが幸せになる物語を」
女性の体は最後の光に包まれ、ゆっくりと消えていった。しかし、その顔には今まで見たことのない安らかな表情が浮かんでいた。長い間求めていた愛を、最後の瞬間に感じることができたのだ。
「ありがとう…初めて本当の愛を感じました」
女性が完全に消えると、地下室の檻がひとりでに開き、遼太たち三人の子どもが自由になった。彼らは疲れていたが、もう恐怖に怯える必要はなかった。部屋は普通の地下室に戻り、机の上の不気味な装置も影も形もなくなっていた。
「みんな、大丈夫?」蒼司が遼太を抱きしめた時、遼太の小さな体は温かく、確かに生きていた。
「うん…でも怖かった」遼太は泣きながら答えた。「緑のお姉さんが、いつも悲しい話ばかり聞かせるんだ」
理人が携帯電話で警察と救急車を呼んだ。地下室からは他にも小さな動物たちが見つかり、皆無事に保護された。猫や鳥、ハムスターたちも、もう恐怖に震える必要はなかった。
数日後、事件は「行方不明事件の解決」として地元新聞に小さく報道されたが、超自然的な要素は伏せられた。町の人々は、子どもたちが古い家で迷子になっていたところを発見されたという説明で納得した。真実を知る必要のない人たちにとって、それで十分だった。
あの絵本はすべて消えていた。図書館の水無月さんに尋ねても「そんな本があったかしら?」と首をかしげるばかりだった。まるで最初からそんな本は存在しなかったかのように。
一週間後、秋の深まった午後の図書館で、蒼司、理人、琴葉の三人は静かに座っていた。西日が窓から差し込み、本棚を暖かく照らしている。琴葉が新しい絵本を書いていた。
『みんなでつくろう すてきなまち』
表紙には三匹の動物が仲良く遊んでいる絵が描かれている。犬と猫とウサギが、緑の草原で楽しそうに駆け回っている。その目には悲しみではなく、純粋な喜びが宿っていた。
「これなら、読む人みんなが幸せになれるね」蒼司が言った時、彼の声には深い安堵が込められていた。
「うん。物語の力は、悲しみを生むためじゃなくて、希望を作るためにあるんだと思う」琴葉が微笑んだ。彼女の笑顔は以前より大人びて見えた。
理人は最初は懐疑的だったが、今では三人の冒険を心から信じている。「僕たちが体験したことは、誰も信じてくれないかもしれない。でも確かに起こったことだ」彼は新しいページに向かう琴葉の手元を見ながら言った。
遼太は完全に回復し、いつものように元気に学校に通っている。時々、三人のもとにやってきて、「あの時は助けてくれてありがとう」と言う。その笑顔は以前より輝いて見えた。恐怖を乗り越えた子どもだけが持つ、特別な強さを身につけていた。
水無月さんが新しくできた琴葉の絵本を見て言った。「素敵な本ね。今度これを図書館の特別展示にしましょうか」
三人は顔を見合わせて笑った。その笑い声は図書館の静寂に小さく響き、他の読書中の人たちも思わず微笑んだ。
それから数ヶ月が経った。桜ヶ丘町は以前の平和を取り戻し、子どもたちは安心して図書館に通えるようになった。琴葉の絵本は町の子どもたちの間で評判になり、本当の意味で愛される本となった。
ある日の夕方、蒼司が図書館で宿題をしていると、一人の老人が近づいてきた。その老人は白い髭を蓄え、深い知恵を宿した目をしていた。
「君たちが『みどり』を倒した子どもたちかね?」
蒼司は驚いて振り返った。老人は優しい目をしていたが、どこか神秘的な雰囲気を持っていた。まるで長い年月を生きてきた賢者のような存在感があった。
「この世界には、君たちが戦ったような存在が他にもいる。物語の力を悪用する者たちがね」老人は静かに、しかし重要なことを伝えるように言った。「しかし、君たちのような真の物語の担い手がいる限り、世界は守られる」
老人は古い革表紙の本を蒼司に渡した。その本は手に馴染み、温かな重みがあった。
「これは物語の力について書かれた本だ。本当に必要な時が来たら、読むといい」
そう言って老人は立ち去った。蒼司がもう一度振り返った時には、老人の姿はもうどこにもなかった。まるで最初からそこにいなかったかのように。
蒼司は本を大切に鞄にしまった。きっとまた、物語の力が必要な時が来るだろう。その時は、理人と琴葉と一緒に立ち向かおう。三人で力を合わせれば、どんな困難も乗り越えられる。
図書館の窓から夕日が差し込み、本棚を温かく照らしていた。今日も多くの子どもたちが、安全で美しい物語を読んでいる。そしてその物語たちは、読む人に希望と愛を与え続けている。悪意ある力に歪められることなく、本来の姿で。
物語の力は、正しく使われる限り、世界を明るく照らし続けるのだ。それは恐怖ではなく希望を、絶望ではなく愛を人々の心に届ける。
桜ヶ丘町の図書館に、今日もまた子どもたちの笑い声が響いている。そして本棚の片隅で、琴葉の新しい絵本が、次の読者を静かに待っている。
『みんなでつくろう すてきなまち』
表紙の動物たちは、今日も幸せそうに微笑んでいる。その微笑みは、読む人の心に温かい光を灯し続けるだろう。物語の本当の力とは、人を幸せにすることなのだから。
秋の夕暮れが図書館を包み、新しい季節の始まりを告げていた。そして三人の友情は、これからも多くの物語を紡ぎ出していくだろう。愛と希望に満ちた、美しい物語を。
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