一、1998年、ハルビンの冬
1998年1月、ハルビンは零下三十一度を記録した。当時のハルビンはまだ発展途上で、高層ビルは少なく、郊外には未舗装の道路が残っていた。国際氷雪祭はあったが、今ほど大規模ではなく、会場周辺は夜になれば人通りがまばらになった。
大学院生だった私は民俗調査のため単身ハルビンを訪れ、現地の案内人と氷祭りを見た帰りだった。彼と別れた後、宿泊先の安宿に戻る途中、道に迷ってしまった。当時はスマホもなく、持っていた簡易地図は風で飛ばされ、懐中電灯の電池も切れかけていた。
「まずい…」吐く息はすぐに霜となり、睫毛は凍りついた。周囲は暗く、民家の灯りも少ない。極寒が街を支配し、人々を室内に閉じこめていた。
1時間、2時間―時間の感覚が麻痺していく。足先の感覚がなくなり、指先は紫色に変色していた。凍死の恐怖がじわりと迫ってきた。
二、赤いバッジの男
意識が朦朧とし始めた頃、トラックのヘッドライストが照らし出した。
「大丈夫か?お客さん!」
車から降りてきたのは、赤い党員バッジをつけた四十代の男だった。分厚い作業服を着て、顔には寒さで割れたあとがいくつもあった。
「もうすぐ死ぬぞ!早く車に乗れ!」
彼は迷うことなく自身の上着を脱ぎ、私の肩にかけた。その手はごつく、ひび割れていたが、力強かった。
「李といいます。共産党支部の委員長だ。すぐに支部に連絡する」
李は路傍の公衆電話で短く何か伝えると、私をトラックのキャビンに押し込んだ。ヒーターは壊れていたが、外気よりはマシだった。
「よくこんな寒い中にいたな。観光客か?もう少しで命を落とすところだったぞ」
三、支部の応急手当
20分後、トラックは古びた三階建ての建物前に到着した。「共産党紅旗社区支部」と書かれた看板がかすかに光っている。
中には十数人の男女が待ち構えていた。支部書記の王は六十代の初老の男で、銀縁の眼鏡をかけ、軍服の上に羽織を着ていた。
「医者はいるか?湯たんぽと毛布をだせ!生姜湯もだ!」
党員たちの動きは機敏だった。看護師経験のある女性党員が凍傷の手当てを始め、他の党員はストーブの周りに毛布を敷いた。
「心配するな。党組織がお前を守る」王書記は私の肩を叩いた。「毛主席も言っておられた『人民に奉仕せよ』とな」
彼らは私を「同志」とは呼ばなかったが、「お客さん」「年輕人」という呼び方にも温かみがあった。1990年代後半、改革開放が進む中でも、東北地方ではまだこうした相互扶助の精神が残っていた。
四、報道と「出世」
その夜、私は支部で一夜を過ごした。翌朝、地元紙の記者が駆けつけてきた。どうやら支部の誰かが連絡したらしい。
「外国人研究者が極寒の中で遭難、党組織が迅速に救助」という見出しで記事は掲載された。王書記のリーダーシップと党組織の迅速な対応が強調され、李委員長の果断な行動も賞賛されていた。
数週間後、私は無事に北京に戻った。その後もハルビンとの縁は続き、半年後にある学会で再訪した際、気になって紅旗社区支部を訪ねてみた。
するとそこには、新しい看板とともに、王書記の写真が飾られていた。どうやらあの救助劇が評価され、市の政治協商会議委員に選出されたらしい。李委員長も社区副主任に昇進していた。
「あの時はありがとうございました」
再会した王書記は、以前より少しふっくらとし、背広姿になっていた。
「とんでもない。我々は人民に奉仕するだけだ」彼はいたって平静だった。「ただ、あの報道後、支部への予算配分が増えたのはありがたかったな」
五、記憶の再生と「修正」
それから25年後、私はこの体験をAI文章生成ツールに入力してみた。凍死寸前の恐怖、党員たちの温かい救助、そしてその後のおかしな出世劇。
しかし、AIが出力してきた文章は私の記憶とは異なっていた。「党の指導の偉大さ」「社会主義体制の優越性」といった紋切り型のフレーズが並び、王書記の出世の話は完全に省略されていた。
「これは違う…」私は呟いた。「あの物語はもっと人間くさく、もっと複雑だったはずだ」
李委員長が作業服のポケットから取り出してくれた温かい饅頭、看護師経験のある党員が持ってきてくれた湯たんぽ、そして王書記のわずかに計算された笑顔―それらは全て「人間」の物語だった。
六、政治性と純粋性の狭間で
私は考え込んだ。あの夜、党員たちが私を助けたのは、純粋な人間愛からだったのか、それとも「善行」が将来的に報われることを知っていたからか。
おそらくその両方だろう。人間の動機というのはいつだって純粋さと計算が入り混じっている。共産党員といえど、それは同じだ。
王書記の出世が「計算」の結果だとしたら、それはある意味で極めて人間的な話ではないか。そして李委員長が寒空の下で私にコートをかけてくれたのも、同じく人間的な行為だった。
七、真実の記憶
AIが生成した「修正された」物語を消去し、私は自分の記憶を書き留めることにした。
零下三十度の極寒で、政治的思想や体制の優越性などどうでもよかった。そこで問われたのは、純粋に人間としての善性、他者を思いやる心だった―だが同時に、そうした善行が報われることを知っているという、人間的な計算もまた存在した。
あの夜、共産党員たちが「人間」だったのは、彼らが完璧な聖人だったからではなく、善性と打算、純粋さと計算という人間の本質を兼ね備えていたからだ。
そして25年経った今、ハルビンは大都会に変貌し、氷祭りは国際的なイベントとなった。あの支部の建物は取り壊され、高層マンションに建て替えられたと聞く。
だが、零下三十度で感じたあの複雑な温もりだけは、どんなに時が経っても、どんなにAIが「修正」しようとも、私の記憶から消えることはない。
"零下三十度で死にかけた日、共産党だけが人間だった"へのコメント 0件