突然の、未曾有の、凶事であった。
それは静かに、しかし残酷に容赦なく始まった。
いつもの秋だった。
黄金の絨毯のように美しい稲穂の群れがあった。例年にないほどに重々しく頭を垂れて、多少の風には揺らぎさえしないほどだ。大地は祝福されたかのように、稲穂の海を輝かせていた。誰もが豊作を疑わなかった。
だが、刈り取りが始まったとき、人々は奇怪な感触に顔を曇らせた。あまりにも重い。ひとつ籾殻をむく、その手が焦る。現われたそれは、冷たく硬く、金属のように鈍い光を宿していた。一斉に脱穀が始まった。誰かれ問わず、年寄りも子供も稲を夢中ですいた。やがて村全体に重苦しい動揺が波のように広がっていった。
脱穀場に駆けつけた者たちは絶句し、ただちにそれは絶望と恐怖へと変わった。年寄りたちの記憶はもとより、記録にも言い伝えにもない、未知の流行り病。
山の向こうでも、そのまた遥か向こうでも、状況は同じであった。空は高く晴れわたり、風はたしかに実りの匂いを運んでいる。しかし手にあるのは、絶望の実であった。
蔵に積んであった米では事足りず多くの民が飢えた。もとより農民は稗、粟、芋の類で暮らしていたが、それすら手に入れるのが困難になった。まもなく備蓄は底を突き、芋や稗さえも尽きた。人は飢え、やせ細りながら土に伏した。だが、役所も学問所もこの病について何一つ明瞭な原因を得られぬまま、ただ時が冷ややかに追い越していく。そうして新しい年が白々と明けた。
人々は祈るように田を耕し、慎重に稲を芽吹かせ、焦るように例年よりも早く苗を植えた。とにかく早場が要る。さいわい天候は申し分なく、稲は瑞々しい翠に育っていく。
実をつけるまでは、稲穂を確認するまでは、とジリジリした日々が過ぎる。畔に立つ農夫らの眼差しは、まるで裁きを待つ罪人のようであった。
そんな世間を尻目に、病気の稲をかき集める者たちがいた。米病の真相にたどり着いた、目鼻の効く連中、金物師や工芸人など日頃から金ものを扱う者たちだった。彼らは噂を聞いて田圃へ様子を見にいくと、確かに金属の粒だというので持ち帰り、天秤だの酸だの持ち出して調べた。様々な組み合わせと検証を根気強く試した者だけが、ひとつの驚くべき結論にたどり着く。
──それは米ではなく、銀。
しかも極めて純度の高い、まさに精錬された天与の富だった。
彼らは密かに農民から稲を譲り受け、蓄財へと走った。もちろん真相を秘匿したままで。とはいえ、出どころ不明な純銀をそうやすやすと取引できるような先もない。やむなく商人に相談し買い取りを求めたが彼らとて経験豊富、喜びも束の間、下手をすれば命取り、思案の上で出す手を引っ込める。ただ富の気配は隠せぬもので、噂だけは市中へと漏れ伝わっていった。
まもなく村々の畔道では、銀粒をめぐる小競り合いが頻発するようになる。お上が銀の扱いをめぐって算用を立てているうちに、村々の騒ぎは静観できなくなっていく。あわてて銀品取引禁止令を発布するも、後の祭り。
蓄財への渇望は、貧困の苦渋によって輪をかけて増長、狂気狂乱へとまっしぐらに駆け上っていく。土地は強奪され、火が放たれ、村が焼かれた。人は銀のために殺し合い、出兵するも鎮火に及ばず、それどころか国境では機に乗じて戦が始まる始末であった。
血の臭いを孕みながら、重たい風が野をなであげていく。
季節は移ろい、人々は再び残された貴重な田に向かう。まだ青々とした稲を、乱暴に引き剥いては中身を凝視する。恐る恐る口に運べば、まだ未熟ではあるが変哲もない白く柔らかな米であった。
──銀ではない…!
どれだけ探しても、どれだけ強欲に穂を裂いても、手のひらに落ちるのは見慣れた穀物であった。このようにして刈り取られた未熟な稲があちこちの田んぼの脇へ打ち捨てられ、腐敗し、風に晒された。
それでも田の稲は伸びやかに成長し、黄金の波を打つ。災禍を逃れた村では米を待ちこがれた人々が、再び収穫の歓びとともに鎌を振るった。丁寧に稲架掛けした稲を千歯に通した。しかし現われた粒を見て、農民は再び顔色を失うことになる。
金であった。
もみ殻を割れば、そこにはどこまでも冷たく、ひたすらに黄金に光る粒が眠っていた。一体いつの間に、昨日まではただの米だったものが、今日は鈍い黄色の金粒と化している。もう誰も検分を待たなかった。誰も証明を必要としなかった。誰もがただちに悟った。一夜にして米は金と化してしまったのだ、と。再びの凶事である。
農民は息を飲み、商人は絶句し、為替人は仰天した。
この世の理という箍が外れ、堰は切れ、荒れ狂う乱流が茫々と地に溢れていった。貨幣経済の根幹が揺らぎ、秩序はすぐに瓦解を始めた。幕府は取り急ぎ金銀流通の禁止を命じたものの、こたびも手遅れであった。金は国中にあふれ、一方、飢えはさらに深刻になった。すぐにでも手を打つ必要があった。近隣諸国に金銀をばら撒き、代わりにとにかく穀物を入れればならぬ。しかし米どころか日々の穀物にさえ飢え、忍んできた農民たちの怒りを止めることはできなかった。
争いは激しさを増した。食うために、人に手をかけ強奪する。欲望と飢えはひとつに溶け合い、ケダモノのように田畑をかけずりまわり、激しい野分のように大きな渦を巻いた。暴走は限りなく続き、稲穂の小山をおおうようにして今度は人と獣の屍が、無数の山となった。
やがて冬も深まる頃、静かに雪が降り積もっていった。
あまりにも静かで、耳が痛むほどであった。
雪解けの水と強い初春の日差しが交わって、屍の山々に猛烈な腐敗を生じさせた。土壌はいっそう醸され異様な臭気で世界が満ちるころ、無数の小さな芽吹きが土をもたげた。日を浴び、腐體を肥とし、臭気を吸い込んで、みるみるたくましく伸びていく。真っ直ぐな大木のように空へと突き刺さるような茎に、大型だがシュッと先細りする刃のような鋭い葉がついている。やがて茎の先が膨らむと無数の穂を宿すのであった。
蝉一匹鳴くことのない灼熱の夏を越し、秋の太い野分が吹き荒れても堂とした茎は折れもせず、異様に重い穂先をゆったりと揺らすだけだった。もし天空から俯瞰できるなら、それは巨大な黄金の細波のように見えたであろう。ざわざわと大きな音が鳴ったとて、それに突かれる耳を持った生き物すらいない大地に、無言の巨大稲穂がただ不気味に揺れていた。
「あっ」と声が出た。
南に向かう貨車である。貨車ではあるが、その薄暗い車内は闇市で必死にかき集めた食料を風呂敷や行李に詰めて運ぶ者たちで、足の踏み場もないほどに混み合っていた。誰もが疲れきった浅黒い顔で、奥歯を噛んでいる。話す気力もなく、機関車の轟音と揺れに足を踏ん張ってただ黙々と耐えていた。忍耐の加速が止まって水平になると、すべての意識は溶けて交わり、ついには茫漠として催眠の淵へ潜っていった。そのとき、貨車が小石を踏みでもしたのだろう、がたんと大きく揺れた拍子に米袋が勢いよく傾いてぶつかり、その口が切れた。中からざばざばと米が大量にぶちまけられた
…はずだった。
米だったはずの貴重な粒は、いつの間にか輝く黄金へと変わっていた。列車の激しい走行音と人いきれにまみれた狭い車内が、金粒のせいでひときわ明るく輝いた。その光は貨車の小窓や隙間をぬって、夕闇の世界へと無限に漏れ出していった。
眞山大知 投稿者 | 2025-07-25 12:34
金銀財宝を手に入れたいというのは人類普遍の欲望ですが、食べ物が金銀にかわり地獄を見るという物語はギリシャ神話のミダス王のエピソードぐらいしかなかったと記憶しています。珍しい話を読ませてもらいました。素晴らしいです
サマ 投稿者 | 2025-07-25 15:04
読んでいただいた上に評価までしていただき嬉しい限りです。社会的価値と身体的価値が相反する中で、何か物語を紡ぐことができないかと思って創作しました。ギリシャ神話には遠く及びませんが、神話的な何かを多少なりとも表現できたなら書いた甲斐があります。
諏訪靖彦 投稿者 | 2025-07-26 14:42
稲穂に金銀が実る発想がおとぎ話を読んでいるようであったのだけど、単純なおとぎ話とさせない展開はうまいと思いました。そういえば最近、水銀から金を作る錬金術が実現可能となったようで金に投資している私は戦々恐々しています。
サマ 投稿者 | 2025-07-26 20:27
いただいたコメントとご講評を拝読して、御伽話/御伽にさせない、について気づきと言いますか考えを巡らせてみたくなりました。自作を振り返ってみて、銀金の騒動は前置きで、本当に描きたかったのは稲の巨大化と最後の場面だったのかもしれません。
それはさておき、水銀をこっそりと大量に入手しようとしている秘密組織があるかも、などと空想しています。
曾根崎十三 投稿者 | 2025-07-26 23:50
私もミダス王の呪いを思い出しました。ぞっとする恐怖がひしひしと伝わってきます。それでいて、伝承のような話で、本当にこの話が語り継がれていて、現代語訳されたものかな?と思わせられました。そういう設定でも良かったかもしれません。そういう設定なら「こんな伝承があったんだ~」と騙されていたと思います。
何食べて生きてたらこんな話思い付くんだろうなーと思いました。米……?
サマ 投稿者 | 2025-07-27 07:05
伝承という衣を被せて迫真を増す、そのご指摘に膝を打ちました。その場合は種明かしした方がいいのかどうか… 読み終わりに、遠回しに気づいてもらえるような工夫ができればいいのかもしれません。
それはともかく、コメントのオチがお見事。「うまい!」と独りごちました。
浅野文月 投稿者 | 2025-07-27 02:25
面白かった!
よかった!
サマ 投稿者 | 2025-07-27 06:53
風呂上がりにビールを飲んだようなズバッとした感想、ありがとうございます!
大猫 投稿者 | 2025-07-27 19:09
強靭な描写力に引っ張られました。ボルヘスの伝奇みたいな壮大な物語ですね。天の意思か神の意志か知らないけれど、食が必要な時に財宝が降ってきても何にもならない。
米が貨幣であった江戸時代が舞台なのも皮肉が効いているし、最後のシーン、敗戦直後で皆が飢えている時に食糧が金に変わってしまう。天を呪いたくなるラストです。
大地が腐乱した屍を養分として再び稲が豊かに実る描写にも、自然というか、植物の力の禍々しさを感じます。
この一年の米騒動を思うにつけ、「食を以って天と為す」ことを忘れた我々への警告みたいだとも思いました。
サマ 投稿者 | 2025-07-28 06:02
好きな作家であるボルヘスに例えていただき恐縮です。また、作品の場面ごとに洞察や感想を添えていただきとても嬉しいです。大猫さんの言葉を通じて、自分の作品に再会できたように感じます。ふと、作中の人々は何もしていないのに、突然の異変で振り回されてしまって気の毒なようにも思いました。
「食を以って天と為す」、それもまたお話の題材になりそうです。
こい瀬 伊音 投稿者 | 2025-07-28 00:27
お米がほしいのにみんなが飢えそうなのに争いが起きているのに、あふれるのは銀や金。たべられず、争いの種にもなる…。食料や農業政策への痛烈な批判、のようにも感じました。
最後の貨車の中から金が溢れていく描写は芥川龍之介の「蜜柑」のようで鮮やかでした!
サマ 投稿者 | 2025-07-28 06:12
作品に龍之介の影を感じていただけて光栄です。ご指摘の通り、最後の場面はぎゅーっと重々しく絞って、その暗さと濃密から対照的な金色の光が少しづつ漏れ出ていくさまを描きたかったのです。受け取っていただけてありがたく思います。
河野沢雉 投稿者 | 2025-07-28 10:15
天(神)というのはいつの時代も、世界のいずこでも、意地悪だなあと思いました。人はなんで太古の昔から意地悪な話を書きたがるんでしょうね。不条理の中に真実を見いだすからなんでしょうか。
と、そんなことを考えながら読みました。
抜群のストーリーテリング力にぐいぐい引っ張られました。文句なしの星五つで。
サマ 投稿者 | 2025-07-28 19:45
大脳が先回りして多少の不条理は意味付けられてしまうので、それを避けるのは難しいものです。「作品は受け取り手がいて完成する」というのは、そういうことから来ているのでしょう。それにしても今回は意地悪が過ぎたかも知れませんね…。
過分のご評価をいただき背筋が伸びる思いです。ありがとうございます。
藤田 投稿者 | 2025-07-31 13:46
金はあるのに食べ物が手に入らない。資本主義の末路を暗示しているような印象を持ちました。
サマ 投稿者 | 2025-08-03 06:01
始めは戒めや皮肉ではなく、お題を見たときに絵と言葉が混ざったようなイメージが浮かんできました。整理してお話としてまとめるなかで、社会の現況に影響を受けたかもしれません。読み手にとってもそれは同様だと思います。もし、今・此処にこの作品があることが有意義なら嬉しく思います。
お読みいただき、またコメントもありがとうございます。