夜の蝶だなんてよく言った。
所詮蛾だ。よくて蛾だ。派手な蛾だ。
「会話が巧いね」なんていうセリフ。銀座ホステスが指南本を出す。一流の心理学者かとでもいうような。蝶はきれいで、蛾は汚い。同じ羽があって、ぱたぱた飛ぶのに、なんで汚いんだろうなあ?
店は、だいたい汚い。でも照明と酒でそんなの全然わかりはしない。フロアなんて、舐めれたもんじゃない。煙草の煙っていうか、もう粉が、焼きついた喉にひっついて咽ぶ。苦しそうにすると、いやらしい客は悦ぶ。そんな顔をさせてみたいねと。死んで。死ねばいい。むしろ死んで。うん死んで。
絹って流行った。シルクの靴下、四重履き。シルクのパジャマ。朝白湯。絹ってさ、知ってる? 蛾だよね。蚕と蛾の違いなんて私にはわからない。私のなかでは絹は、フォアグラとおんなじ。無茶に太らせて食べる。そんなもの。
昔、うちは貧乏だった。あんまりよくわかってはいなかったけど、新しいランドセルを買ってもらえないってことがどういうことなのかはなんとなくだけどわかった。天井にでかい蜘蛛がひっついていたり、ポルターガイストみたいに家がミッシンミッシン鳴るのを、もう怖いとか悲鳴とかあげてることなんかも勿体なくて、屋根裏からネズミの死骸が落ちてきても声ひとつあげなくなってた可愛げのない私が、畳に迷い込んできた小さなカマキリの赤ちゃんをへっちゃらで指でつまんだとき、好きだった男の子は「おまえすげーな」と私にキスをしてくれた。あれがファーストキスだった。その赤ちゃんのカマキリは透明だった。そしてすっごく小さかった。そうだな、小指の爪くらい? ううん、もう少しおっきかったかも。小指の爪ふたつ分くらい? そこまで考えて私は笑う。私の頭はその程度。たとえ話するにしても、小指の爪から離れらんないくらいにつまんないちっぽけな脳みそ。
私はティッシュ箱からティッシュを全部出して、ううん、一枚だけ残して内側に広げて、そして箱の中にその透明なカマキリを入れた。カマキリって、なに食べるんだろう。明日ガッコで、誰かにきいてみなきゃ。どうせお母さんに聞いたって、知ってるわけないし。隣のお婆さんはもしかしたら知ってるかな? でも行くと、お菓子を食べろってうるさいから、太りたくない私はあんまり行きたくない。いい人なんだけど。ほんのちょっと、私を養子にしてくんないかな、とか、そんなことを考えてみたこともある。だけどさ、そんなのってまあないよね。うん、ない。ないんだな。
小指の爪ふたつ分みたいな透明なカマキリは、すっごい私を威嚇してた。うん、頑張ってた。すごいなー。こんなに小さいのに、もう戦う気満々。赤ちゃんなのに、戦うってすごい。生命力。生きるのに必死。殺るか、殺られるか。もっと人間も必死になった方がいいって思う。だから死ね! って簡単に言えるし、言われるんだ。
ランドセルの中に、牛乳がぶちまけられていた日、私は雑巾でそれを拭いた。匂いはどうしてもとれなくって、教室に置いて帰りたかったけど、置いて帰ったら次はピーナッツバターでも塗られていそうな気がして、持って帰った。背中から、牛乳の匂いがぷんぷんしていた。
家に帰ると、お母さんが「あんた臭い」と言った。それは事実だったから、私は貯めておいた小銭をつかんで銭湯に行った。ボロイ銭湯。入ってるのは、萎んだお婆ちゃんばっかり。タオル一本で石鹸で体洗って、かっちんかっちんに絞って体拭いて、さらに流し場ですすぐと、ついでに脱衣所の床までご丁寧に拭いて帰る。
だから銭湯の床はきれい。すっごいきれい。舐めれるくらいきれい。私の体よりきれい。もちろんランドセルよりも。
「舐めていい?」
声が、私を回想から連れ戻す。私が黙って肯くと、男は舐めながら私の足を左手で掴んで、自分の股間へ運んでいった。私は足の裏のくぼみで、亀頭と竿を包んでは転がす。さするとか無理だから、割と強めに転がす。親指と人差し指の間で擦りあげようとしてみるけど、それはいつもあんまりうまくいかないから、足の裏で踏むようにしている。
「血でるかも」
「いいよ」
生理の予定は明後日だったけど、最近食生活が荒れていて少し太ったら覿面に生理が早まった。さっきシャワーを浴びて膣清浄したら血が出たからきっと明日には始まる。私は生理でも気にしないけど気にする男はいる。そしてむしろ好んで嗅ぐ奴もいる。
私は割とこいつのことは気に入っている。なぜかっていうとこいつは私の脚に惚れていてくれてるからだ。狂ったギタリストみたいに私の脚を愛撫する。握りつぶすほどにさすりあげては、唇を這わし、涎を垂らし、両腕で締めつける。
思わず声が漏れる。男の顔を見ていると溜まらない快楽の波が内側から押し寄せる。そして漏らした私の声に、こいつは湿度を上げていく。左足の指先でその先端をたどって確認すると、じっとりしめった液体が漏れ出し始めていた。
「ねえ、濡れてるよ。すごい出てる」
男は黙って閉じた目をしかめると苦しそうに私の腿をつかんだ。痛い。とても痛い。痣になってしまう。でもまあそれもいい。こいつは自分でどれだけ私に痣を作ろうと記憶にない。終わったあと浴びる即シャワーで、「どうしたの⁉ それ」と目を丸くするような男だった。
私は妄想する。うつぶせにされ、腰を浮かし、後ろから密着される。髪をつかまれ、左側から顎をつかまれ、無理な姿勢でキスをされながら、合うか合わないかもわからない躰を無理に好き勝手にされる。男は果て、脱力した肢体は、汗と一緒に私の上に落ちて来て、しばらくすると横に転がった。止まったかに思えた呼吸はほどなく日常を取り戻すと、男は白いシーツを掴んで冷房の送風から私を遮るようにして覆った。
白いシーツは決して気持ちよくはない。沁みは目立つし、皺も気になる。躰をまとっても肌を美しく見せるなんて効果はないし、そんなのはきっと妄想。私の妄想なんかよりずっと稚拙な幻影。肌のうっすらピンクな、ぺたんこ座りの似合う人形みたいな子だったら、ほんの少しは可愛いかもしれないけど、そんな少女はここにはいない。
重力に完全に従った男の重みを感じるのは好きだ。意識から解放されて、完全にぐったりしているあの瞬間が、一番女の支配欲が満たされる気がする。もっとも、女にあるのは被支配欲で、云々――なんて下世話な解説で雑誌やネットは溢れているけど、攻撃的な男ほど、実は支配されたがってたり、こいつ、女みたいな脳してるなって思うサラリーマンは意外といる。そんなタイプは、足を開いて女にやるみたいに攻めてやると、喘ぎ声を出したりする。
「寝てていいよ。また電話する」
薄いのか薄くないのかよくわからないシーツの向こうで男が立ち上がって服を着る。それから私の頭を撫ぜてこめかみ辺りに唇をあてると、しっかり休んでと言い残して出ていった。
ぐったりして起き上がれないなんてことはない。女はそんなに弱くない。それでもこうして、幸せ過ぎて、疲れすぎて、もう腰が抜けて起き上がれませんとか装うのも、諸々計算させていただいた都合上の所作でした。なにより楽だし。女がそうしているのが、男にとって一番の喜びだというのは、知りすぎているから。自分だけ満たされればいいなんていう人間もいるにはいるけど、誰かを満足させることを一度知ってしまえば、そこから逃れられない脆い存在だ。征服欲に気づいていない人間でも、その快楽を憶えてしまえばその自己認識に抗うことは難しい。何かがかけがえがなくなるのは、自分が存在して初めて完成する対象となったとき。それを共依存と呼ぶのか真実の愛と呼ぶのかは別として。ま、小難しいことはいいとして、歪んでさえいなければ、依存は否定すべきものでもない。
玄関の施錠音がゆっくりと響き、郵便受けが小さな金属の塊を受け止める。その控えめな物音たちは、すべてこの部屋に残すものたちへの配慮。それを合図にして私は起き上がる。その配慮が演技なのか純粋なものによるものなのかどうかは知る由もない。
枕にうっすらとした血のシミが、ひっかき傷みたいに何本もついていた。さあ洗濯しないと。カーテンを開け、清浄器を回す。突然現れる青い空は眩しくて、最近ひどくなった気がする飛蚊症の黒いもやもやが、陰毛のように至近に映り込んだ。
私はカマキリを探しに外へ出た。透明なやつ。小指の先くらいのやつ。私の小指は昔よりたぶん大きいけど、きっとそんなには違わないだろうからこんくらいなら平気だ。私のファーストキス。あの子がくれた、おまえすげーな。もう一度私はあれがほしい。
あのとき赤ちゃんカマキリがいたのはヘチマの葉っぱの上だった。ヘチマは洗面器で腐らせて、たわしにした。体を洗った。だんだんぐにゃぐにゃになっていった。気持ちよかった。ヘチマは今ない。赤ちゃんカマキリも見つからない。あちこちの茂みに入って私はカマキリの卵を見つけた。それを持ち帰ってティッシュの空箱に入れた。大事に守った。生まれた。透明なあの子だ。あのときと一緒。私はそれを指でつぶして、キスをした。ぞくぞくした。
"鱗粉"へのコメント 0件