今夜も月は出ない。今夜も。今夜もだ。いつから月を見ていないだろう? セルゲイ・ヘルゼンスキーは思った。たしかに月齢カレンダーなるものがある。診療所で見たこともある。だが、見えないのに満月だと聞かされ、信じるのは――それこそ、信仰そのものではないのか? 本当に満月だとしたら――今夜だけで千を超える分娩がある。それだけは確かだ。診療所のドクトル・モーリエが言っていた。人間に限らず、あらゆる動物が満月に出産を促される。それに逆らうことはできない。そして、そのうちの何割かは障害を持って生まれてくる。病気を抱えて生まれてくる。自然派原理主義者のアデリーヌ・チェリジェンスカヤでさえ神に我が子の五体満足を懇願した。「真実の光」によると、あの二枚舌は病院への寄付と引き換えに、リストの一番上にジャンプしたらしい。大統領でさえ順番を守ったというのに。
腕時計のアラームがなった。セルゲイは窓辺を離れてキチンに向かった。棚から缶詰を取り出す。薬瓶を取りだす。アンナの部屋からは絶えることなく激しい音楽が聞こえてくる。缶詰を置き、薬瓶をポケットに入れた。
「アンナ。薬の時間だ」ドアをノックした。「聞こえているのか? アンナ」
アンナは今夜も不機嫌そうだった――いつもだ。「アンナ、いいかげんにしろ」セルゲイはドアを押し開けた。暴力的な音量。耳をふさぎたくなる。ドアに硬いものが触れた。またか。セルゲイは身をかがめた。
「カーボンスチールのレッグ・パーツは高いんだぞ。こんなに粗末にして……」それ以外にもさまざまなものが床には散乱していた。思わず息が漏れる。アンナはベッドの上で背を向けていたが、気配に気づいたのかようやくふりかえった。口を開こうとして――音を絞る。
「なに? なんか用? それ、売りたいならいいわよ」
セルゲイは深くため息をついた。レッグ・パーツとブランケットを拾う。「粗末にするなっていってるんだ。せっかく……」
「買ってもらったのに?」
アンナはイライラといった。身を起こし、左の太ももを叩いた。足の付け根から数センチ先は丸みを帯びており、先端がわずかに歪んでいた。さまざまなパーツを試したせいだ、とアンナはいうが、もともとなのか、原因はわからない。
「じゃあこれも買ってもらえるわね。私知ってるんだから。欠損体が好きな連中がいることくらい」
「よせ」
レッグ・パーツを壁に立てかけると、セルゲイはアンナに近寄った。「自分を粗末にするな」
「兄さんに何がわかるの」
セルゲイはベッドに腰掛けた。疲労が背中から腰に落ちていく。言おうとしていた言葉が消えた。アンナの両足にブランケットをかけ、肩に手を回す。なぐさめるように軽く叩く。
「……この間聞いたわ。サーシャが上海に行ったって」
項垂れながらアンナがつぶやく。その声は沈んでいた。無理もない。セルゲイはうんとだけいった。「……サーシャは検査をしたって聞いた。だから行けたんでしょ?」
「それは噂だよ。ただの噂だ」
セルゲイは言った。サーシャは隣村の娘だった。アンナと同い年で、彼女もまた左肘から先が生まれながらに欠損していた。地域包括欠損対策センターで彼女らは出会った。お互い似たような境遇だった――そう少なくともアンナは思っていた。センターでの定期検診や、個人的な文通などで彼女たちは励ましあった。しかし、次第に疎遠になった――サーシャの姉がシティで見初められて、結婚をしてからは一切の連絡が取れなくなった。変化は急激に訪れた。
まず弟のマキシムが離職し、新しい商売を始めた。すると地主だったユーリ・エラブノヴィッチがそれまでの態度を一変させ、マキシムに土地の一部を差し出した。やり手の地主ははその代わりにマキシムの商売のあがりの何割かをもらえる権利を手に入れ、順調に進んでいたそれまでの計画は白紙に戻り、予告もなく土地は開発されはじめた。サーシャは最先端の検査を受け、まもなくこの土地を離れるという……そんな話を聞いたのもつい最近だった。だがそれらはしょせん噂だった。妬みほど、人の口をなめらかにするものはない。
セルゲイはアンナの手に触れた。手のひらのうえにポケットから取り出した薬の瓶をそっと乗せる。
「アーニャ。みんな噂だ。実態も何もない、幽霊みたいなものだ。そんなものに、耳を貸しちゃいけない」
「……わかってるわよ」
アンナの声は揺れていた。抑圧と苛立ち。悲しみと自己嫌悪。「でも思うの。どうして私なの? どうして順番が来ないの? どうして産まれてすぐにナノを受けられなかったの? どうしてなの?」
アンナは薬瓶を投げ捨てた。ブランケットを放り、ベッドを叩く。セルゲイを押しやった。「どうしてなのよ!」
セルゲイはアンナを抱きしめてやることしかできなかった。
――アンナは限界だ。
彼女の寝息を確かめてから、セルゲイはキチンに戻った。のろのろと缶詰をしまう。これまでも深刻だった。手の打ちようもない。これからは? どうしたら、何をしたら解決する?
戸棚の中には酒の瓶が入っている。封も切っていない。暗い気分に誘惑がしみ込んでくる。アンナのことを考えた。自分の人生について考えた。戸棚を開けた。グラスに注ぐ。一気にあおった。より気持ちが重くなった。涙が出た。セルゲイは酒瓶を手に外へ出た。寒さに頬が凍りそうだった。酒場に行く気分ではなかった。やはり星は見えない。
駅舎の明かりが遠くに光った。セルゲイは駅舎にむかった。人の気配はない。風の音ばかりがしていた。待合室もまた閑散としていた。ねずみの死骸さえない。掲示板を見る――長距離列車の募集はなかった。セルゲイは古き良き長椅子に腰を下ろした。指先がかじかんでくる。息をついた。酒瓶を床に置いた。酒を飲んだところで、悲しみに暮れたところで、物事が解決するわけじゃない。それは分かっている。けれど飲まなければならない時もある。感情を洗い流すために――どうしても金が必要だった。アンナのために、医者にかかる費用が必要だった。検査をして、培養をして、入院をして、手術をして、リハビリをしなければならない。そのために、これ以上……何をしたらいいのか? 頭の芯がしびれていた。セルゲイは手で顔を覆った。
「よう、セリョージャ」
突然の声にも感情が動かなかった。額を手のひらでこする。ゆっくりと振り返った。オレグが立っていた。制服姿の彼はよけいに大きく、威信があるように見える。こんな薄暗いところでは特にそうだ。
「……ひとりで見回りかい」やっとのことでセルゲイはきいた。オレグはモジャモジャのひげをひと撫でしていった。「コミンスキーはカミさんのところだ。産気づいたらしい。そういうあんたは? どこかに旅立つのかな?」軽い調子。すぐに答えることはできなかった。目を伏せて肩をすくめる。「ははあ、傷心中か? こりゃあ悪かった。……あんたの働きぶりは優良だとハバロフスキーさんもいっている。だから辛抱して働くことだ。そのうちアンナにもいい男ができるさ」
「……そうですね」
なかばささやくようにセルゲイはいった。彼は警察官で、地域の治安を統括していて、村長にいくつもの貸しがあり、そして色々な賄賂を手にしている。だからそう言えるのだ。そんなことを言えるのだ。
「……そういえば」
警察官は懐中電灯で天井を照らして言った。オンオフを繰り返す。「エンリケが今度の列車に乗れないといっていたな。やつの代わりに引き受けてみるか?」かちり。かちり。いたずらに天井を照らし、気のいい顔をしてオレグは言った。
「本当ですか」信じられなかった。思わずオレグの顔を見返す。彼はすこし怪訝そうにした。「こんなことで嘘は言わんよ。どうかね」
「はい、ぜひ。いや、すみません……急に、急だったので、つい。助かります。ありがとうございます」
セルゲイの礼を聞いて、しばし黙ったのち、警察官はうなずいた。「そうだ、アンナも連れて行ってやりなさい。シティへはいったことがないだろう……なに、二人分くらいはね、――ああ、呼び出しだ。すまないが、じゃあまた」
警察官は止まらないビープ音に顔をしかめて待合室を出た。
――こんなことってあるのか。セルゲイは酒瓶をあおり、熱い酒が喉を焼いたあとにやってくる、ジワリとした酩酊に目を伏せた。それから改めて待合室をながめた。古めかしい一九〇〇年代をそのまま持ってきたような木製の壁、つめたいコンクリートの床、隅に追いやられたゴミ。フィラメント。鉄くず。チラシ。薄汚れた靴。セルゲイはじっと靴を見下ろしながら、アンナのことを考えた。列車の仕事は悪くない。だがアンナには長すぎる。それに、三等車は劣悪だ。古き良きシベリヤ鉄道の旅――特等車や一等車の金持ちのために、文化の保存のために、金持ちの暇つぶしのために、過疎地に恵んでやるために、三等車両に乗り込む仕事。田舎者らしく、貧乏で、しかしそれを嘆くそぶりも見せない、古き良き人々を演じる仕事。セルゲイは二度その仕事をした。アンナがまだ幼かった時だ。シティから戻ったとき、家にはアンナしかいなかった。父はアンナを置いて、国境をこえたらしい。あくまでも噂だ。中国か朝鮮か、はたまた海を越え、北海自治区まで行ったのか。アンナは死にかけてはいなかったが、ひどく腹を空かせていた。
それからセルゲイはアンナの世話に明け暮れた。できることはなんでもした。まとまった金を用意することだけはできなかった。だがシティへいけば、あのころとは違って、もしかしたら割りの良い仕事を見つけられるかもしれない。アンナも希望を持てるかもしれない。
セルゲイは酒瓶を傾けて考えた。まずアンナにどう話すか。アンナはすぐにやけになる。感情のコントロールが苦手だ。診療所のドクトル・モーリエによれば、自己愛が強すぎるらしい。だから他者への攻撃性が増す。それは、しかし自分を守るためでもあるんだ……そう説明を受けたがセルゲイはいまいちよく分からなかった。いろいろなことを思い返した。
※
ベルの音を止める。夢も見なかった。身体が――頭が重かった。寝台から降りる。手探りで明かりをつける。アンナはまだ眠っていることだろう。顔を洗った。着替えをしてからキチンへ行って黒パンを切り、卵を焼いた。湯を沸かし、貰い物のシナモンを紅茶に入れる。
「アンナ」
ドアを叩いた。返事はない。ドアノブをつかんだ――鍵がかかっていた。「アンナ」
呼吸が止まる。胸がつぶされそうになる。こんなことはなかった。「どうした。アンナ。具合が良くないのか」
何度も叩いた。名前を呼んだ。そんなはずはない。脳裏をよぎる、暗闇しか残されていない部屋。冷えた部屋で横たわる小さな身体。マリヤ・サマーエブナが言った言葉――あの人はおととい見かけたきりよ。ありえない。疲れきった寝息。落ちくぼんだ眼、あいまいに開いた口から……
「アンナ」
拳に血がにじむ。そのときドアが開いた。
「うるさいわね。何なの、朝から――やめてよ、なんなの。離れてよ! 気持ち悪い」
セルゲイは喜んでアンナに叩かれた。手の痛みなど感じなかった。「なにそれ。マジきもい」アンナはセルゲイの拳の血に顔をゆがめて、服を払いながら食卓に着いた。左足のレッグ・パーツの接合部分を指でなぞる。
「いい加減にして。私はもう子供じゃないのよ。兄さんに世話してもらわなくったって生きていけるんだから」
「赤い絨毯はダメだぞ」
セルゲイはハチミツを黒パンに塗りながらいった。差し出す。アンナは受け取らなかった。
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