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スリーパー

yuya

タグ: #純文学

小説

9,697文字

好きな子がいたんだ――。
彼女が朝、教室に入ってくるだけで薄暗い曇りの日も、鬱陶しい雨の日も、あるいは苦手な国語の授業が一時間目から入っていても、僕の心は澄み晴れる。
朝が好きだった。
なぜなら、眠るまでたっぷりと時間が余っているから。
眠るのが怖かった。
なぜなら、とても不思議な夢を必ず見るから。
この世界が好きだった。
なぜなら、彼女が存在するから。
夢の世界に彼女はいない。
「おはよう、結城くん」
天使の囀り、透き通った青い水晶のような声色。澱んだ室内を浄化するような旋律。その余韻を感じながら、僕はゆっくりと顔を上げた。
「うん、おはよう」
僕は背が小さくて、とても細い。まるでゴボウのように頼りない。クラスの女子にだって僕よりも小さい人は一人しかいない。彼女は背が高いほうではないけれど、真ん中よりも少し後ろ。背の順で並んだ時、僕たちの間には天地の隔たりができる。
「ねえ、結城くん。クリスマス会のプレゼント用意した?」
彼女は椅子に座り、真っ赤なランドセルから教科書を出しては机に移動させ、内緒話をするように聞いてきた。
「いや、まだ……」
と、僕は答えた。嘘だった。ツリーの入ったスノードームを綺麗に包装してもらい、自分の部屋にある勉強机の裏に隠してある。二ヶ月分のお小遣いで買った彼女へのプレゼント。もちろん正確には誰に渡るか分からない。
「私はもう用意したよ」
さらに声をひそめて彼女は言った。殆ど吐息のようなトーンだ。
僕たちはクラスで仲の良い男女のグループだった。と言っても僕はスクールカーストの末席で、クラスのアイドルでもある彼女はピラミッドの頂点にいる。こうして気軽に話しかけてくれるのは、くじ引きで勝ち取った席順の恩恵に他ならないことは十分に理解している。そう、僕はわきまえていた。十二歳にして、それが出来た。
「そうなんだ……」
と、僕は言った。
彼女はいささか寂しそうな目色を一瞬垣間見せる。彼女は時折りそんな顔をする。ふとした瞬間、誰も見ていないことを確認するように辺りを見渡して、慎重な小鳥のように僅かにそんな顔をする。
その理由を僕は知っている。
僕だけが知っている。
「なあ結城、クリスマス会のプレゼント用意したか?」
丸々と太った琥太郎が話しかけてきた。どうやら彼女と二人だけの時間もここまでだ。
「いや、まだだけど……」
と、僕は嘘をつく。
「じゃあ、一緒に買いにいこーよ」
と、琥太郎は言った。
「こら、相談なしで買うって約束だよ」
と、彼女が琥太郎の尻をはたいた。頬を膨らませた顔が愛らしい。
「えー! 何がいいかなぁ。やっぱナタデココかなぁ。流行ってるし」
琥太郎の独り言に彼女は表情だけで笑う。
「なんでもいいの、琥太郎くんが選んだものだったら。でもナタデココだと琥太郎くんってすぐにバレちゃうね」
「確かに、食べ物はダメかあ」
プレゼントは音楽をかけながらみんなで回し、止まった時に手にしている物を貰う手順になっている。クリスマス会の終盤に行われるメインイベントだ。もちろん男性陣はみな、彼女のプレゼントを狙っているが、琥太郎に関してはどうだろうか、彼は食べ物以外に興味がないようにも見える。
「朝礼はじめるぞー、日直はだれだー?」
日に焼けた教師が入ってきて、出席簿をパンパン叩く。窓の外は透きとおる海のように青く、雲ひとつない。今日も楽しい一日が始まった。

放課後、友達と児童館に集まる約束をしてから、ランドセルを置きに家へと帰る。まだまだ長い一日は終わらない。僕はガチャガチャと背中を鳴らしながら、小走りで朝来た道を逆走する。すると、電信柱の影からスッと黒い影が僕の行く手を阻んだ。
「よう、今帰りか?」
真っ黒な学ランに身を包んだ巨大な壁。もとい、彼女のお兄ちゃんが立っていた。
「あっ、ひろくん」
「ひろさん、な」
と、彼は言った。一つ年上のひろくんは、中学生になると敬語を使うように強要してきたけれど、今のところ誰にも浸透していない。
「結城、ちょっとこっちこい」
と、彼は僕を手招きする。濡れた電信柱の影に僕らは吸い込まれ、そこは僅かな異空間を演出した。まるで秘密基地のように。
「今日、あいつどうだった?」
ひろくんのあいつ、とは妹。つまり、僕の好きな彼女のことだ。
「元気だったよ」
と、僕は答えた。
「そう……か……」
ひろくんは顎に手を当て逡巡する。
「もしかして、また?」
「ああ、たぶん、昨日の夜」
僕らは見つめ合い、互いに顔を歪めた。
「元気に、見えたけど……」
僕は少し自信をなくし、言い換えた。
「俺たちが護るんだ、いいな? その計画はいま考えてるから、まっとけ。いいな?」
と、彼は言った。
「うん」
「よし、じゃあまたな」
「あ、ひろくん!」
「ひろさん、な」
「言わないでよね、ほら、僕のこと……」
と、僕が言うと、ひろくんは笑顔になって僕の頭をポンとたたく。背が高く、腕も長い。
「大丈夫だよ、それより買ったのか? プレゼント」
「うん、スノードームにした」
「お、そうか、あいつ欲しがってたから喜ぶぞ、きっと」
「でも、確率は低いよ」
「大丈夫だって、俺に作戦がある。包装紙の色を教えろよ」
「赤、に黄色のリボン」
「よっしゃ、任せとけよ。俺は結城の味方だからな」
「うん、ありがとう……」
僕らは秘密基地から出ると、久しぶりに会った親戚みたいによそよそしく振る舞い、ひろくんは隠すように親指を立ててから走り去っていった。帰る方向は同じなのに。

その夜、彼女のことを考えた。
眠る前には大抵、そうしている。彼女を助けたい。助けなきゃ。そうすれば、僕のスノードームは彼女の元に行くだろうか? それだけが望みだった。

そして僕は今日も眠りについた――。

 

 

部屋の中がぼんやりと揺らいで見える。蝋燭の火をかざしたように、目の焦点が合わない。窓の向こうに広がる景色は確かに見覚えがあるようで、どこか違う気もする。私はここにいる。けれど、ここはどこなのだろう?
またか――。
夢の中で、いつも私は大人になっている。
声が聞こえた。誰の声だろう? 振り向くと、女性が立っている。私の母親のはずだ。いや、違う? 顔も声も、何もかもが違う。では、彼女は一体誰なのだろう。しかし、私は知っている。あるいは、本能的に理解している。夢とは記憶の整理なのだと。いずれにせよ、彼女は私の人生、そのどこかで交わった誰かである事に疑いようはない。
「あの、どちらさまでしたっけ?」
私の問いに彼女は狼狽した。質問の答えもなかった。
「お腹すいたな……」
そう呟くと、今度はため息を吐かれた。私は彼女との会話を諦めた。と、言うよりは、夢の中で会話を成立させる事は極めて困難であることを、私は経験上熟知している。しかたなく、部屋を出てリビングに向かった。初めて見る廊下や扉だが、その道のりに迷いはない。得てして夢とはそんなものである。
キッチンの戸棚からカップ麺を取り出し蓋を開けた。しかし、湯を沸かすために薬缶を探すが見当たらない。これでは湯を沸かせない。
「何探してるの?」
先程の女性が傍に立っていた。手には洗濯籠をぶら下げている。やはり母親なのだろうか? いや、違う。母の髪はもっと短いし、黒い。
「薬缶を……お湯を沸かそうかと」
私がかろうじて言葉を返すと彼女は頷く。会話が成立したようでホッとした。この世界は非常に息苦しさを感じる。夢の中だから仕方ないけれど、出来れば早く目覚めたいものだ。と、私は考えていた。
「食べるの? それ」
彼女は蓋の取れたカップ麺を指差した。そこで自らの失態に気がつくと、とたんに恥ずかしくなり顔がカッと熱くなる。蓋を全て剥がしてしまったら、お湯を入れた後にどうするのだ。
「これは、あれだ、うっかり全て剥がしてしまったけれど大丈夫、そうだな本でも乗せたら大丈夫、そう、大丈夫だから」
私は取り繕うように言い訳をした。
「本なんて乗せたら表紙がダメになるからやめてよ、ラップをかければ大丈夫だから、火傷をしないようにね」
と、彼女は言ってリビングを出て行った。
「ラップ……か」
馬鹿なことを、とは思わなかった。彼女なりに私を気づかい、恥をかかせぬよう思慮した結果なのだろう。それにしてもラップとは――。
「プッ、クククッ」
なかなかユーモアのある女だ。悪くない。
「Yo! カップ麺は手軽なメン! 俺はぺこぺこ腹減りメン! 湯を注ぐだけで始まるフェス! 三分後には奇跡のプレス! カップ麺は俺を救済! これ考えたやつは天才! マジで怖いぜ大震災! だから集まれ前夜祭!」
クスクス笑いながら椅子に座ると、テーブルに並べられた食事をぼんやりと眺めた。あいも変わらず時系列が滅茶苦茶である。さて、これを一体どうするんだ。箸は手の届く場所にある。しかし、手が動かない。ただ見つめているだけだ。諦めてソファに座り込む。窓の外を眺めながら、自分の頭の中を探る。何かを掴もうとするたび、それは霧のように消えていく。自分が自分であるという感覚が、少しずつ削られていくのが分かる。まあ、それが夢の中というものだ。
突然、ある記憶がわずかな隙間からはみ出してくる。小さな公園、ブランコに座る少女の笑顔、そして私の手を握るあの感触。それだけが閃光のように脳内を走り、涙が一筋、手の甲に落ちた。
彼女だ、彼女が私を呼んでいる。
私はソファで横になり眠る。それだけが現実の世界に戻る方法であることを、私はずっと前から知っていた。

 

 

切ったカステラみたいな形をした団地が、横に五つ並んでいた。たとえば、ドミノみたいに倒してもギリギリ届かないくらいの間隔を開けている。中庭? には各家庭に与えられた物置や、申しわけ程度に設置された砂場と鉄棒があり、小さなブランコは錆びていて、風に揺られると『ギィィィ』と嫌な音を響かせた。
クリーム色の外壁、その側面には番号がふられていて、僕は真ん中の03棟に住んでいた。彼女は隣の04棟。エレベーターのない五階建ての最上階は、窓を開けると正面に彼女の部屋(正確には誰の部屋か分からない)が見渡せた。
小さな頃から僕は彼女の部屋を見ていた。一年中カーテンの閉じた部屋。不思議な国のルールのように、外部に一切の情報を漏らさない。すぐ右隣の部屋は丸見えで、ステテコを履いたお爺さんが、いつもテレビを見ながらタバコを吸っているし、左隣のおばさんは、洗濯物を毎日部屋に干していた。団地とは開放的な人たちの集まりだと僕は思っていた。けれど。
カーテンの向こうにいるはずの彼女。
本当にいるのだろうか? その場所に彼女が存在するところを僕は見たことがない。でも、確かにそこは彼女の家で、カーテンを開ければヒロくんや、その父親がいるはずだ。
彼女には母親がいない。それはヒロくんから聞いた。どうしていないのかは分からない。おそらくヒロくんも知らない。僕は彼女の父親を見たことがないし、それはすごく不自然なことだと思っていた。

いつからだろう、彼女の瞳から光が消えた――。
そんな気がした。他の誰も気がつかない僅かな変化を僕は見逃さなかった。

団地の屋上は立入禁止になっている。扉には鈍色の南京錠が掛かっていたけれど、04棟のそれは誰かが壊してそのままになっていた。
薄曇りの夕暮れ時、屋上にはひっそりとした空気が漂っていた。古びた貯水タンクが錆びた支柱に身を委ね、重い存在感を放っている。そのすぐ脇には、曲がりかけたアンテナが風に揺れ、窶れた案山子のようにこうべを垂れていた。
埃をかぶったエアコンの室外機は、低い唸りを響かせながらも働き続けている。その足元には、誰が置いたのか分からない鉢植えがいくつか並び、すでに枯れてしまった植物たちが静かに佇んでいた。一角には折りたたみ椅子が置き去りにされているが、座る人の姿は想像できないほど、日差しで色褪せている。
手すりはなく、僅かな段差の向こうに見える街並みは、どこか遠い異国の世界のようだ。屋上の静けさに包まれていると、ここが団地の上ではなく、時が止まった別の場所に思えてくる。
「結城、今日の夜だ。いけるか?」
と、ヒロくんは言った。僕はゆっくりと頷く。
「いいか、奴はいつもここに来る。誰もこないし、室外機の影は人目につかない。だから奴はここを選んだ。アイツはここで酷い目にあっている、分かるな?」
僕は頷く。
「俺が奴を引きつける、結城は背中を押すだけでいい。勢いあまってお前まで落ちるなよ。できるか?」
僕は頷く。
「結城、俺が押す役でもいいんだぞ?」
僕は首を横に振った。
「まあ、確かに図体のデカい俺は隠れる場所がないからな、結城、ごめんな」
僕は微動だにしなかった。覚悟はもう出来ている。
「なあ、結城。将来はお前がアイツを幸せにしてやってくれ。お前は信用できる。アイツを任せられる」
「うん」
僕はハッキリと返事した。
僕はわきまえている。決して自己評価を高く見積らない。かと言って悲観しているわけじゃない。人にはそれぞれ役割がある。僕にも出来ることがある。
――彼女を救えるのはきっと、僕だけだ。

 

 

ヒタヒタと夜の街を歩いていた。
誰もいない深夜の街路樹が夜露に濡れて光っている。とても綺麗だ。私はつと立ち止まり空を見上げる。儚く陰る朧月が雲の隙間を縫っていた。
この夢は当たりだ。自分ではコントロールできない歯痒さはあるが、運が良ければこの場所へとたどり着くことができる。この場所には殆どの場合において誰も現れない。蔑んだ目をする女も、騒がしい子供も、夜店に売られている面のような笑顔を貼り付けた男もいない。ここには私一人だけだ。
辺りを見渡すが場所は分からない。あるいは、初めて来る場所かも知れない。テレビや雑誌で見た風景、映画かも知れない。いずれにせよ、記憶の整理こそ夢の役割なのだから、文句を言う筋合いはないだろう。
再び歩き始めるが、ひどく緩慢な動きしかできなかった。まるで牛歩戦術さながらの焦ったい歩調に苛立ちながら、一歩一歩、慎重にありもしない目的地へと向かっていく。すると、前方に人影が見えて不意に身を隠した。と、言っても身を隠すような場所はなく、電信柱の影にスッと交わっただけだ。しかし、それだけで別世界に救済されたような安心感が私を包み、癒やしてくれた。
前方の人影はよく見ると信号待ちをしていたが、車の往来はない。律儀な奴だと舌打ちをする。あまり余計な出演者は増えてほしくないものだ。しかし、人生というものは往々にして、招かれざるゲストに見舞われるものである。
いや、彼はもしかして。
ふと、記憶を司る海馬が刺激された。私は電信柱の影から出てその背中に近づいた。ごま塩頭に作業着、煙草を吸っている。間違いない、奴だ。
――どうしてこんなところに奴がいる?
私の頭は混乱した。眉間に皺が寄るのが分かる。その距離を徐々に詰めていく、もう手を伸ばせば届く距離だ。
『いまだ、押せ!』
誰かの声が聞こえた。私はハッと我に返り、目の前に広がる背中を押そうとした。
『ダメだ、押すな!』
違う誰かの声で、私の体は硬直する。後ろを振り返るが誰もいない。真っ暗な夜道が街灯に照らされ歪んで見えた。この世界は面倒だな。と、私はため息を吐く。
向き直るとそこには誰もいなかった。チカチカと明滅する信号機が眩しくて目を閉じる。何もかもがせわしない。いや、他にもっといい表現や描写がないだろうか? どれだけの小説を読んできた? 馬鹿な、国語が嫌いな私が小説など読むものか。
少し疲れた――。
私は来た道を戻り、電信柱の影に身を隠した。腰を下ろして夜空を見上げると、月が変わらぬ静けさで佇んでいる。その姿は、あまりに遠く、冷たく、美しく、それでいて残酷なほど無関心だ。
人の営みなど、月にとっては微塵も意味を持たない。そう思えば、この世の喧騒も、ただ一瞬の振動のように思えてならない。ならば、ここに執着する意味など何もないような気がする。それならば戻ろう、現実の世界こそが生きるに相応しい楽園、いや、それは誇張しすぎか――。
生きる意味のある世界であると思い直し、私はこの日、何度目かの眠りにつこうかと瞼を閉じかけた。その時、水色のワンピースを着た女の子が目の前を走り抜けた。颯爽とポニーテールを揺らし、真っ赤なランドセルを背負っている。
彼女だ――。
私はカッと目を見開いた。同時に思考を高速で回転させる。馬鹿な、ここに彼女がいるはずがない。ここには、もう、彼女は存在しないはずだ。
私は立ち上がり彼女の背中を追った。闇に消え入りそうな小さな背中、その赤いランドセルを必死に追いかけていた。青信号を二つ渡り、曲がり角を四度折れたところで団地が現れた。唐突に、なんの前触れもなくそれは現れた。彼女は04棟の入り口から階段を駆け上がって行く。各階の踊り場に着くたびに彼女の姿が確認できた。家に帰るのだろうか?
と、私は04棟の下で息を切らしながら安堵した。しかし、彼女は五階を飛ばし屋上へと上がっていく。マズイ。私はなぜかそう思った。私は急いで彼女の後を追い、階段を駆け上がった。

 

 

ガチャリと扉が開く。
漆黒の闇に包まれた屋上に、光の筋が伸びて消えた。
あまりの眩しさに僕は目を細めた。僕は暗闇に慣れていた。この場所に待機してからもう二時間が経つ。おかげで夜目が効いている。ヒロくんの言った通りだ。僕は唸る室外機の影から、入ってきた人間を確認する。ゆったりとしたパジャマのような格好で靴を履いていない、裸足だ。
顔はよく見えないが髪はボサボサで、無精髭が生えているように見えた。漫画に出てくる泥棒みたいだと思った。僕はこの男が奴なのか判断が付かなかった。
男はキョロキョロと辺りを見渡しながら、ゆっくりと奥に進んでいく。しかし、石でも踏んづけたのだろうか、「イタッ」っと声がした後にその場にしゃがみ込んでしまった。
僕は男から入口の扉に目を移す。彼女が入ってくる気配はない。ここで待ち合わせをしているはずだ。ならば、じきに彼女も来るだろう。出来ればその前に終わらせてしまいたい。今がチャンスだ。
その想いが通じたのだろうか、『パンッ』と乾いた音が鳴り響いた。団地の下、ヒロくんからの合図だ。続いてロケット花火の『ヒュー』という音や、爆竹の『パンパンッ』という破裂音が聞こえてくると、案の定、男は何事かと確認するように屋上の縁まで歩いていき、恐る恐る下を覗き込んだ。
今だ、今なら少し力を加えて押してやれば奴は真っ逆さまに落ちてゆく。僕の緊張感は高まり、心臓の音がして頭の後ろから聞こえてくる。男までの距離は五メートルくらい、すぐだ。男は身を乗り出して下を見ている。この機を逃すな。彼女を救え。
僕は猫のような素早さで室外機の影から飛び出した。しかし、すぐ爪先に何かが当たり、それが前方へと転がっていくと男の足に命中した。コカコーラの空缶だった。僕はその場に立ち尽くした。男が振り返る。目が合った。
「彼女は?」
と、男は言った。
それが彼女の事であることを、僕は瞬時に理解する。男は振り返り階下を一瞥すると、諦めたように縁に腰掛けた。そして胸のポケットから煙草を取り出し、ライターで火を付けて煙を吐いた。
「ああ、なるほど、君は……」
と、男は僕を見て笑う。
「おじさんは、誰?」
と、僕は聞いた。それ以外に何を言っていいか分からなかった。
「奴はこない、諦めなさい」
と、男は言った。僕の質問に答える気はないようだ。
「奴を、知ってるの?」
「ああ、良くしっている。ところで、彼女はどこに?」
「知らない、ここには来てないよ」
「そうか……やはり、ここからやり直すしかないのだな」
「え?」
「少し話をしないか? 時間はとらせない」
「あ、うん、はい」と、僕は言った。
男は煙草を足元に捨てて、踏み消そうとした所で裸足であることに気付いた。面倒くさそうに拾い直してから、縁に擦り付けて消した。
「君は奴をこの世界から追い出そうとした、彼女を護るために、そうだね?」
僕は頷いた。
「君が奴をこの世界から追い出しても、彼女は救われない。いや、ある意味ではもっと酷い目に合う。ヒロくんは遠い国へ行ってしまうし、スノードームは彼女に渡らない。私は知っているんだ。その世界を知っている」
僕は混乱した。
「奴は、死んだの?」
「奴は死んじゃいない、悪党ってのはしぶといのが多い、ひきかえ善人は薄命だ。昔からそう決まっている。しかし、クッションがなければ、あるいは死んでいたかもしれない。いずれにせよタダじゃ済まないさ、この高さだからな。そして、奴の悪事は露見する。君は彼女を助けたのさ。でもスノードームは彼女に渡らないし、代わりに大切なものを失った。彼女は決して救われなかった。そんなもんさ、人生なんて」
と、男は言った。
「でも、ヒロくんがなんとかするって……」
僕は混乱していた。奴がいなくなれば、彼女な幸せになるはず。そう信じていたから。
「ヒロくんにも悪いことをした。大人に任せておけば良かったんだ。そうすればよかった……。だから計画は諦めて、違う人生を歩めばいいさ。大丈夫、背は伸びる。もちろん百八十センチとはいかないが、日本人の平均は少し超えるから心配するな」
僕には男の言っている意味がわからなかった。
「生まれ変わっても、もう一度同じ人生を歩みたいなどと言えば立派に聞こえるが、そんな奴はなにも考えてないのと同じさ。忘れていく恐怖を繰り返さないために嘘をつく。そんな生き方に意味はない」
男は夜空を見上げた。つられて顔を上げる。星はない。月も。真っ黒なペンキをぶちまけたような空に、僕の想いは吸い込まれそうになった。
「じゃあな」
「いっちゃうの?」
「なーに、すぐに戻るさ。ちょっと、最後の挨拶にな」
「おじさんは、後悔してる?」
僕は少し悩んで聞いた。
「まさか」
そう言って男は笑った。
 

 

錆びたブランコに彼女が座っていた。下を向いて泣いているように見えた。私はゆっくりと近づいてから、手を差し伸べる。顔を上げた彼女は嬉しそうにその手を握った。まるで夕暮れ時に迎えにきた母親に、誰もがそうするように。
私が手を差し伸べれば、彼女はいつもその手を握る。だから分からなかった。私が彼女に手を差し伸べない世界も、彼女がその手を握らない未来も、私には永久に分からない。もちろん、それは誰にも分からないだろう。
私たちは手を繋ぎ、団地の外へ旅に出る。ドミノのように規則正しく並べられた世界から、無作為で残酷な未来へと歩き出す。それなのに彼女は笑っていた。どんな時も、前を向いて笑っていた――。

気がつくと、真っ白な天井がボンヤリと見えた。
「結城くん!」
目を細めると、妻の顔が目の前にあった。目元が赤く腫れている。
「亜依……か……」
「うん、わかる?」
「ああ、もちろん」
と、私は言った。
「すまない。一緒に、苦労をかけてしまった」
「そんなことないよ……」
彼女はスノードームを膝に乗せていた。あの日、彼女に渡したかったプレゼント。一連の事件により中止になったクリスマス会。プレゼントは私の机の裏に放置されていたはずだ。いつしか、その存在すら忘れて風化していった記憶のカケラ。
「それ……どうして君が?」
と、私は彼女に聞いた。彼女はイタズラがバレた少女のように肩をすくめ、微笑した。赤く腫れた目元が刹那的に輝く宝石のように美しい。
「お兄ちゃんに聞いてたから。赤い包装紙に黄色のリボンで、机の裏に隠してあるって。中学生の時、結城くんの家に遊びに行ったでしょ? その時に家探し、と言うかまあ盗んだのよ。でも、私に渡すはずだったから良いかなって、ごめんね。でもほら、ずっと大切にしてるよ」
私はあの少年に嘘を言ってしまった。スノードームは彼女に渡っていたのだ。しかし、それはそれ。彼は彼の人生を歩めばいい。
いずれにせよ――。
いずれにせよ、私は君を選ぶだろう。
彼女は私の手を握った。あまり力が入らないが、深い皺が刻まれた手を、私は握りかえした。

――二人で旅立った、あの日のように。

© 2025 yuya ( 2025年4月23日公開

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