IX
早朝という時間帯に限られてはいたが、私は少女をたびたび、そしてあちこちで見かけた。あちこちで、というのが不自然だ。走れないほどの範囲ではないし、彼女も私と同じで道をいつも変えているのかもしれない。たぶん合理的な説明はできるのだろう。種を明かせばごくごく自然な成り行きなのかもしれない。だが、私にとっては見えない真実よりも目にしたことそのものが重要だ。
人違いなのかもしれない。何度もそう思った。
普段は若い人たちには会うこともなく、私の目には思春期の少女がみんな同じように見えているだけなのかもしれない。彼女の顔をじろじろ見ているわけではない。走る姿を眺めているだけなのだから、髪型が似ているだけでも見間違いそうだ。だが、追い越され、すれ違い、歩道の向こう側で見かける少女の足下は、決まって同じピンクのランニングシューズだった。
ランニングシューズで少女の同一性を確保するのはいかがなものだろう。そうは思ったけれど、見慣れないうえに表情さえある少女の顔より、靴の色形の方が同定しやすい。髪型や背格好は同じだし、そのうえ靴も同じなら同一人物と見做していいだろう。目撃する時間帯を条件に加えれば、この仮説は補強される。それで十分だ。私が求めているのは真実ではない。他者と共有される事実でもない。真実や事実を確かめることになどに価値を感じない。目に映った現象の背後に隠れる物語の可能性にこそ興味をそそられるのだ。私は細い糸を見つけ出し、撚り合わせては身勝手な物語を紡ぐ。“早朝”と“ピンクのシューズ”という条件が二項揃うだけでひとりの少女の物語が始まる。目撃の時間帯と靴が似ているだけで全くの別人だったなら、それはそれで別の物語を紡ぐことができそうだ。
私は少女との度重なる邂逅に、運命的な物語を感じる。
不自然や非合理を繋ぐことで物語が動き始める。
少女の眼差しは、虚ろに憂いを抱えている。
私は彼女と同じ年頃だった少年時代を思い浮かべる。もう何十年も前のことだ。私はあの頃に戻りたい、と、思うだろうか。半分半分だ。思春期は些細なことが不安で、些細なことがとてつもなく嬉しい。感情がコントロールできないくせに大人ぶって、余計に心が揺らぎ出す。それはとても気持ち悪くて気持ちいい。それはとても恥ずかしくて、とても愉快だ。そして、おそらく、こんなふうに突き放して考えることができない。だから、足下しか見えなくなる。ちょっとした出来事に喜び、哀しみ、怒り、それを何度も何度も繰り返しながら、繊細な感情を摩滅させてゆく。いつの間にか感情までもが打算的になり、大人になってしまう。気が付いた時にはもう遅いのだ。ひとつの感情に刻まれた複雑な模様はすっかり削ぎ落とされて、もう二度と取り戻すことはできない。少女の虚ろな眼差しは、抱え込んだどうしようもない気持ちを、どうしようもないまま保護しているようだ。それは、正しい。だが、正しさを抱えたままで、少女は少女から抜け出せない。
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