II
古びたマンションの一室で初老の男が横臥し、既に数日が経過している。
身体はベッドに浅く沈んでいる。
呼吸はしていない。
心臓も働いていない。
瞳孔も開いている。
外側からはわからないが、たぶん脳も機能していないのだろう。
彼が発見されるまでには、たぶんあと何日かはかかるだろう。
同居する家族はいないが、身寄りがないわけではない。友人も多くはないがいる。ただ、社会との没交渉を決め込んでいる彼を訪ねる者はいない。もともと人付き合いを煩わしいとしか思わなかった彼は、人とのつきあいを縮小し、限定し、さらに絞り込み、その方法すらできる限り最小限にとどめるよう、時間をかけて自らの孤独を企てていった。食べていく程度の仕事は自室でできる。打ち合わせから納品まで、すべてデジタルネットワークで完結できる。電話など出る必要がない。オンラインのメッセージも必要がなければ返信などしない。郵便受けに入っているのはほとんどがポスティングの広告だから月に何度か開けてみれば充分だ。もちろん、近所づきあいなどない。
だからといって、引きこもっていたわけではない。むしろ、よく外出をしていた。外出する時間はまちまちで、同じ場所へ頻繁に行かないよう、心がけていた。行動が習慣化すれば、思わぬところで顔見知りが出来てしまうかもしれない。他人にとっては、できる限りその他大勢でいたい。極論すれば、住まう場所すら定めたくはない。風に任せ漂う塵のような存在でかまわない、彼はそう考えていた。
自分自身の存在など、自分自身にしかわからない。他人が見ているのは“私”の外側でしかない。そんなものはその場に合わせて見繕った“私”の仄かな影のようなもので、自分が知ってる“私”の一部とすら言い難い。むしろ、そんなどうでもいいものの寄せ集めで自分のことを知ったかのように振る舞われるのが堪らない。自分のことが理解できるのはせいぜい自分だけだ。実際にはそれですらおぼつかないのだから、他人に理解など出来るわけがないし、理解されたいとも思わない。誰かから尊敬されなくてもかまわないし、ちやほやされたくもない。社会の中で自分がどんな役割だろうと、日常不自由せずに過ごしていけるなら、それで満足だ。この世に生を受けたことについては興味深く思っている。だが、それに意味があるなどとは欠片も思っていない。たまたま。偶然。偶然に意味も目的もない。ただ、今、ここにある。それ以上にも以下にも考えていない。もし、意味を感じるとしたら、それはただの幻想だ。私達の社会が作り出した集団的な妄想だ。もっとも、その妄想に付き合うのも吝かではない。
彼は、ただ、ここにあるだけのモノになったかのようだった。呼吸はなく、心臓も動かず、瞳孔も反応しない。但し、体温だけが保たれている。
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