XVI
ここは右に。
次は左に。
私は地図を使うのが苦手だ。実際の風景と平たい図が一致しない。頭の中ではわかっているし、地図が読めないというわけじゃない。地図を手がかりに目的地を見つけることは出来るけど、その場所はいつも嘘めいて、空々しく感じてしまう。地図なんてただの道具でしかないのに。
だけど、地図は好き。眺めているうちに、その中に入っていく。記された線や記号や色彩と戯れる。町の名前、交差点の名前、ランドマークの建物や施設を斜めに見ながら、私は地図の中を走り出す。意識だけが私の身体から切り離されて、地図の上を滑り出す。描かれた道筋を、まるでそこが現実であるかのように辿りながら、当て処もなく走る。
ここは真っ直ぐ。
ここは、行き止まり。
地図の上だから建物だって飛び越えていけるのだけど、なぜだかそうしてはいけない気がする。それに、試したことはないけれど、きっと出来ないんじゃないかと思う。いや、出来ない方がいいと私が望んでいるだけか。もしも建物を通り抜けてしまったら、地図の意味を壊してしまう。ただ、そんな気がするだけで、私は記された道だけをたどる。それがルールだ。私を平たい図表の中で思う存分走らせるためのルール。自分が勝手に決めた制限事項。くだらない制約だと自分ながら思う。現実の建物が通り抜けできないから、なんて安易な理由ではないと、自分では信じている。でも、地図の上にも現実が干渉してしまう。これは、私の想像力のつたなさだ。道具としての地図には違和感を覚えている。地図で示された場所の前で虚ろに思う。なのに、私は平面に印刷されたインクの図形に現実を持ち込んでしまう。
この先は右に。
次の角ももう一度右に。
地図の中では時間も距離も圧縮される。息をきらし、そんなに大きくもないストライドでせこせこ走っているのに、俯瞰した眼に映るのは、瞬く間にに10キロ、20キロと駆け抜ける私だ。重なることのないこっちの時間とあっちの時間の狭間で、私は今日を振り返り、明日を予見する。
行ってきます。
私はいつものように早朝の街に出る。薄くかかった朝靄に私は私の居場所を見失う。
タッタッタッタッ、と、足音に合わせて呼吸を整える。
ハッハッハッハッ、と、口から息を吐く。
そうか。それでも私はいつも通りだ。私はとっくに自分自身を見失っていた。ここが地図の中でも、現実の世界でも、きっと私はここにはいない。
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